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仏教は仏教のままだと衰退するのかも

仏教。
それは2500年前にインドの釈迦という人物にはじまり、
奈良時代、日本に伝えられ、日本精神の基盤ともなってきた。

そんな仏教であるが、
近年は「非常に衰退している」という事情がある。
「西洋化、近代化」などの大波に晒されながらこれを乗り越えることに難があるといったところ。その最大の原因の片面として「仏教教団側の劣化」ということが、よく一般の人々で言われることも多いが、ともかく、
仏教の衰退は一向に進むばかりである。

こうした問題に対して、わたしは「仏教を伝え直すことが必ず社会に必要である」こと、あるいは「それが実現できることを確信」して、よく考えるのであるが、その中でときどき「盲点ではないか?」と思うことを見つけるときがある。

通常、仏教の衰退という問題については
・西洋化、近代化の波が大きい
・宗教に対する矛盾感
・仏教教団側の劣化
などが大きな問題とされるのであるが、これはこれとして、
それ以外に案外このようなことが問題となっているのではないかということが幾らかあるのである。

そこで、今回はその一つを記すことにする。
(また今度は、別のものも記すことにしよう。)


仏教は仏教のままでは衰退するのかも

今回記してみようかと思うことは、
「仏教は仏教のままでは衰退するのかも」ということである。
「??」という感じになった読者も少なくはないであろうか。
仏教を伝えるというのに、仏教のままであるしかないのではないか。

ここが、盲点のひとつなのではないかということを以下に記す。
(一旦、列挙メモ)
・宗教は一つ。神道と融合して、よく理解・浸透されてきた。
・仏教は停止ばかりではなく、真反対の「運動」をも説く。
 それどころか、運動が最後までは主体なのではないか。

・仏教は人気でも、不人気でもある

仏教というものは古い時代から日本に浸透して、
日本文化にも深く刻まれてきたということもあるが、
そもそも日本人によく馴染みやすいものであって、
大切にされてきたという歴史があるのだろう。

そこで仏教というものはやはり長年大切にもされてきて、
今なお多くの人がすごい教えとして敬愛することが少なくない。
また観光としては寺院はいつまでも人気なままである。

またさらに一歩進んで、仏教の哲理や修行に深く価値を感じて、
これを深く学ぼうとする人も少なくはなく、
そうした「仏教本気勢のような人たち」も今なおそれなりに存在する。

人気である側面と、不人気である側面?

このように、仏教は今も「人気である側面」も多分にあるのであるが、
その一方では、「不人気な側面」というものも大きくあるだろうと私は感じる。
それは僧侶側の劣化などから辟易とするとかいう類の問題ではなく、
「単に仏教の伝えられている教えそのものへの不人気な側面」があると思うのである。

それはいくらか列挙すると以下の通りである。
・煩悩/欲の否定(停止)のようなイメージが強い、
 辛気くさい。興味が湧かない。
・神の宗教があることと分離しており、二つあって信じ難い。
 神の宗教は繁栄的側面を肯定していて、親しみやすい。

大きな二つの問題

ここには、大きく二つの問題がある。
・第一に、「停止的な側面が強く、親しみや喜びがもてない。」
・第二に、「神の宗教もあり、宗教がいくつもあって信じられない。」
という二つの問題があるのでないかと思うのである。

先に伝えるべきと知る結論を簡潔に記せば、
(1)仏教は、実は停止と繁栄の両方を説いたもの
仏教は、実は停止と繁栄の両方を説いたものであるが、
繁栄の方面が伝えきられず、停止の方面だけになってしまっている。
(2)宗教は一つであり、仏教と神の宗教は表裏一体
宗教は一つであり、仏教と神の宗教は表裏一体である。
これが一つ目のことと連動している。
繁栄の方面が神の宗教であり、停止の方面が仏教の究極であり、
実はこの神の宗教を仏教は内包して、共に説いている。
そこで宗教はいくつもなく、実はシンプルに一つなのだということである。

そこでこれをゆっくり説明していこう。 

1.停止的なイメージは偏っている、繁栄もまた道なり!

「停止と繁栄という両方のことを説いている」


仏教は、「停止的なイメージ」があまりに強くこびりついて伝わってしまっている。
ところが、これは実は伝えきれていないということであって、
仏教は「停止と繁栄という両方のことを説いている」ものなのである。
(→最も詳しくは別執筆(現在、下書きに保存中)に譲る)

仏教は最も簡潔にいえば「命を完成する」ことを説き明かしたものである。
そこで「停止と運動を共に磨くこと、その果てに最終は停止すること」を説いているものなのである。

(1)運動と停止を共に磨く

「テニス」を完成することで喩えてみよう。
「テニス」とは"停止か運動か"といえば、間違いなく「運動」である。
そこでテニスを究めるというと、運動を究めることだと思われる。
そこで実際、テニスが下手な人というのは、とにかく「運動」をしようとして、むやみに動き回ったりするものである。
ところが、実際に上手な人というのは、むしろ「真ん中でどっしり構える=停止する」ことをしっかりするものなのである。
真ん中で「停止」することがしっかりあって、コートを動き回るという「運動」がまたしっかり機能してくるのである。
このように「停止と運動を共に磨くこと」が=「完成する」こととなっているのである。

運動と停止を共に修することで完成する

このようなことは別にテニスに限ったことではない。
「歌を究める」ということにおいても、ずっと歌っているわけではなく、
力を出すことと、抜くことの両方を究めてこそ、歌は究まる。
その他あらゆることにおいて見られることである。
(→ここには実は根源的な原理があって必然的にこうなる、これもまた別執筆とする。)

これが、第一のポイントである。

(2)完成に二種あり、最終完成については停止である

第二のポイントは、「完成に二種あり、最終完成は停止である」ということである。
こうして「停止と運動を共に修することで物事が極まる」ということがなんとなくでも理解されたとして、
次の重要なことは「完成には二種ある」ということである。

歌の完成は「クライマックス」「最終停止」の二種類

ここで「歌」を完成するということを考えてみると、ある人は「曲が終わる」すなわち「停止」することをイメージするかもしれないし、「クライマックス」という「運動」の究極をイメージするかもしれない。
このように、完成というものには大きく二つあるのである。

それはつまり、運動側の完成と、停止側の完成ということである。
このいずれもが完成であり、これが表裏一体としてあるのである。
春が一周して冬となりまた春となったり、実が成長して花となるとまた実となるように。

「停止と運動を共に究める」ことによって「究まる」。
それをその「どちらにも使用することが出来る」のである。
歌を究めて、
・それを声を出す方に使用すれば運動の完成となり、
・反対に声を抜く、歌を美しく停止していくということにも使用されるのである。
このように、完成には二種あるのだ。

そして、最終完成は停止側にある。
歌の完成が「クライマックス」か「最終停止」かと言えば、「最終完成は最終停止にある」ということになる。運動の白熱した先に、停止してこそ、ものごとは完成するのである。花は実を結んで、ついに完成する。

仏教はこれを言っているのである。

まとめる

仏教は、簡潔には「命を完成すること」を説き明かしている。

(1)のまとめ
そこで「運動」ばかりになりがちである段階にたいして、「停止と運動を共に修することで完成する」ということを明かしているのである。
「停止」だけが大切であるとは決して説いていないのだ。

実は仏というものは仏になっていくにあたっては、輪廻転生のなかで「出家」と「在家」を共に修していき、最後の最後に完全に「仏という最終停止」になると説いているのである。

仏は最終停止、それまでは在家と出家を共に修する

さらに言えば、「出家」という停止よりも、「在家」の方が多く生まれ変わるものだということである。「命=輪廻転生」というものは「運動」のものであって、「運動を主体とする在家」の方が基本形なのだ。「出家」というのは「停止に専念する」という特殊な練習の人生回というものなのである。

このように仏教は「運動と停止を共に説いている」のである。そればかりか、実は「運動の方が運動中は主体」として説いているのである。
ところが、「停止」を説いたことが斬新であったために、「停止」のイメージばかりが残ってしまい今日に繋がっているのである。

(2)のまとめ
そしてもう一つは、「完成には二種あり、最終完成については停止である」ということを明かしているのである。
「停止」だけが完成であるとは説いていないのだ。

完成は運動側にも、停止側にも使える(二種ある)

むしろ仏となるときには、「運動」の完成も果たしきるものであり、その結果「転輪聖王」と呼ばれる”「最高の王」ともなる素質を備える”ものであるとされ、また或いはその仏となる直前には「王家に生まれる=運動を究めた生まれをする」ということが説かれるのである。このように、「運動」の完成も果たすのだ。
ただ、「最終停止はなにか」ということにおいて「停止が最終完成である」ということを示したものというだけのことなのである。

ところが「最終完成」の方面のイメージが強すぎるあまりに、浅く理解されてそればかりが残ってしまい、「完成とは最終停止のみ」というイメージばかりが残ってしまって今日に繋がっているということなのである。

「万人に最終停止を提示するもの」ではない

このように、仏教というものは「停止ばかり」を説いたものではなく、実は「運動と停止を共に」説いたものなのである。

むやみに全員に「最終停止」を実現できるものとして説くようなものではない!

そもそも、悟りという最終完成に至るためには「膨大な輪廻転生を経ることが必要」であり、
・ほとんどの人には、これはまだ不可能であるから、それを最上のものとして説きはするものの、多くの人には「そこまでは不可能であってよい、運動主体、ただしそこで停止をも積むこと」を勧めるものであり、
↔むやみに全員に「最終停止」を実現できるものとして説くようなものではなかったのである。

それどころか「最終停止が最終完成ではあるが、運動を究める方面もよいことである」ということを説いていたものなのである。「功徳を積んで、王家に生まれる、大経営者に生まれる」といったことが説かれているのはこのためである。また、在家の生き方として結婚や政治についても説いているのである。
これが、偏った理解のみが残ってしまい、「万人に最終停止を提示するもの」「停止ばかりがよいもの」というイメージとして残ってしまったのである。

そこでこれを訂正した方がよいと思うのである。
これは全く誤りである。仏教はむしろ「運動、繁栄」の方面を説く、のである。

(第一問題の解決)運動を主体としてよい

そこで、第一の問題は解決される。
すなわち「停止的な側面が強く、親しみや喜びがもてない。」「煩悩/欲の否定(停止)のようなイメージが強い、辛気くさい。」といった問題は、
全くただ伝えきられていないという問題によるだけなのだ。

そこで、わたしは、この仏教の不人気理由として「停止ばかり」ということがあることについて、これを反転してしまうべきだ!と知るのである。
仏教はセンセーショナルな伝わり方がしてしまい「停止」「出家」ばかりのイメージがしみついてしまっているが、むしろ落ち着いて見直せば「運動の方が、輪廻転生の間は主体であり、在家の方が主体」と説いているものである。(そこにおいて「停止を共に修すること」「最終完成は停止であり、それを究極に目指すべきこと」ということを説いたものである。)

これが、第一の「仏教は(今までの)仏教のままでは衰退するのではないか」ということである。


2.神の宗教と表裏一体、宗教は一つである


もう一つの問題が、「神の宗教もあり、宗教がいくつもあって、信じられない。」といったことであった。
そう、確かに宗教には仏教だけではなく、日本には神道、西洋にはキリスト教など、多くの他の宗教と呼ばれるものがある。

仏教に、神道に、キリスト教に…

そこで仏教というものがあって、他に神道、キリスト教などが多く存在すると、「真実は一つであるはずであって、それらが真実か、あるいは全て昔の人の間違いではないか」と考える人が多いのではないかと思うのである。
というよりも、わたしも一般の方ならばこう思うだろう。

ところが、これがまた仏教の伝えきれず偏って伝わってきてしまった重大な点なのである。

結論としては、
・仏教は仏教として正しい。
・神道もキリスト教などもそれとして正しい。
・真実は一つであり、これらは実は全て同じものの別のすがたである。

ということが、二つ目の重大な話である。
そこで、これを説明する。

仏教は神を肯定している!

仏教というと、停止のイメージが強く、実際に究極的存在とされるもの「仏」は「最終完成した存在」ということである。生産もしない、生殖もしない、しないしないづくしで、おまけに男性器すら身体の中にたたみこまれて「中性」の存在ということまである。
実際には、「停止と運動を共に修すること、完成には二種あること」を説いているものであるが、"最終完成・目指すべき最終究極としては停止であるということは間違いない"、これは重要な点である。

そこで、仏教というものは、全く「(繁栄を推すようなところの)神の宗教」と関係のないものであって、全く異なる真実として「停止を説いたもの」として考えられがちである。経典を聞きかじって、「神を否定した」と理解しているものも多い。

仏教は神を否定しない、むしろ出現する

ところが、これは全くそうではない。
むしろ「神」を普通に肯定しており、むしろ共にある。
経典に、重大な存在として登場する。
さらに進んだ場合には、「神を仏の化身とする」という説まで存在するものなのである。
そこで、「仏教は神教と共にある、又は同一の別の姿である」ということなのである。

たしかに釈迦が「悟り」なるものに至り、最終完成した!という部分だけを切り出せば、釈迦は釈迦として完結していて、神なるものの登場の余地はないと思われるかもしれない

ところが実際にはそうではなく、釈迦が最終完成したときに、「神」が出現してこれを褒め讃えているのである。
それどころか、釈迦にそれを人々に説いてまわるように言ったのは(つまり仏教が発生したそのきっかけとなったのは)、「神」がこれを依頼したからなのである。

※「神を否定した」という受け取り方をすることも全く不可能ではないと思うが、素直に読めば「神」はむしろ肯定されており、もっといえば重大な存在である。

◆神と仏の関係をわかりやすく(監督の喩え)

そこで、神というものと仏というものの関係が、多くの一般の方にはわかりづらいのだろうと思うので、これを喩えながらわかりやすく説明しようと思う。

まずは神と仏の要点を示し、比較する。

・神と仏の要点

①神とは、この世界を創造した存在である。「生み出した」ものなのであるから、「生産、生殖」など「増加していくこと」=「繁栄=運動」の方面を推し進めるものである。神に祈りながら、衰退や停止を願うなどということはイメージ的にも有り得ないであろう。
人々はこの神の生み出した世界で、暮らしているということになる。

②一方で仏とは、最終停止した存在である。あれもこれも停止して、この世界に輪廻転生しつづけている状態をついに停止した存在であるとされる。「生産、生殖」を本質的項目として、これらを行わない。「停止の体現者」である。

この二つが、共にあるとか、もっと言えば一体であるという説まであるなどといっても、ここまで真逆であるから理解しづらいだろうと思うのである。

そこで、これを部活と監督に喩える。

・部活の監督で喩える:創成者と引退者

監督が全てを統括。運動の部活中と、引退者。

(1)監督
監督という存在が、
運動する部活を創設して、そこで運動の手本となって運動を指南し、生徒が運動を頑張ることになる。
そのようにして部活が栄えてあり続けていく。
(2)引退者
ところが、これをやりきると、
反対に停止し「引退」していく者が登場する。
最終完成者がでてくるのである。

喩えるならば、
・監督=神
この監督が、この世界を創り出した「神」である。
「運動を創り出し」、「運動を支えて指南している」。
・引退者=仏
そして引退者こそが、最終停止の「仏」である。
そこで神は、引退者の仏を褒め讃えるのである。

これこそが、神と仏の関係であり、
このことから、引退の教えが仏教であり、部活運動繁栄の教えが神教ということである。
故に、「仏教と神教は共にある」ということなのである。


監督=片面では運動の手本、片面では停止の手本

そしてさらに言えば、「神と仏は同じ存在の別の姿である」という理解まであるといったが、これはどういうことか。
まさにこの監督という存在は、「停止者としての側面」と、「運動者としての側面」を共にもち、それぞれを見せるものだということである。
すなわち監督という存在は、片面では部活運動推進者として運動の方面の見本としての姿もありながら、もう片面では実は「引退者」でもあり停止の方面の姿もあるということである。
自身はすでに引退している者が、(全てに先立つ存在として存在し、)運動の部活をも創成し、運動の見本をも示しているものである。

監督をしている一人の存在が、
・片面では運動の手本としての姿も示しながら、
・片面では停止の引退者のすがたをも示すのである。
(親が片面では親としての姿でもあり、片面では夫婦としての姿でもあったり、上司に対しては部下という姿であり、部下に対しては上司という姿でもあったりするように、一つの存在が複数のすがたを示すというのは常のことであり、矛盾しないのである。)

つまり、監督=創成者(=神)は⇔実は引退者(=仏)であり、「引退者(仏)が創成し、運動の手本のすがた(神としての化身)を見せている」ということである。
この理解が大乗経典の類には読み取ることができる。実は仏がこの世界を創造すること、神という化身を現すことが説かれているのである。

このように監督として理解すれば、非常にわかりやすくなったのではないだろうか。「一人の創造主があって、片面から見れば仏、片面から見れば神である」というだけのことなのである。

法華経には、釈迦が実は創造主であって、生身の釈迦は実際に教えるために生まれ出てきただけであることが説かれている。釈迦が最終停止を見せたときに褒め称えに出現した神は=釈迦の本体本人にすぎない。

・神=仏、神仏習合が真相⇒宗教は一つ

これを日本人は速やかに理解したため、日本においては「神仏習合」「本地垂迹(ほんじすいじゃく)といって、「仏の化身が神である」という理解をもって、仏教を速やかに受容し、神道と共に国家をあげて大切にしてきたのである。
例)東大寺の大仏は、その化身したものが天照であるなどとされる。

仏教からいえば、仏の教えと神の宗教は全く衝突しないのだ。
「監督=神がいて、引退者=仏がいる」だけのことである。
しかも大乗仏教からいえば、もはや実は監督は引退者であり=それが創造者でもあるだけであって、もっと明確に"仏教と神教とは表裏一体というだけ"のものなのである。

故に、神道とも衝突を起こさなかったし、
むしろ積極的に「仏と神は同一の別の側面」として理解され、神道と仏教がともに大切にされ、「繁栄の側面と停止の側面を、全く矛盾なく、共に修してきた」のである。

この仏教の立場からすれば、キリスト教などとも衝突しない。
神道と同じように見るだけのことである。
さらに、「神」が宗教によって異なって説かれているのは、創造主がそれぞれのクラスで異なる先生のすがたを見せているというだけのことであって、深くは"すべての神教自体がまた一つのものの別のすがたに過ぎないと説きうる"ものになっている。

このようにして、仏教は実は神教と共にある、もしくは同一のものであり、「宗教がいくつもあって、どれもが間違いなのでは」ということでは全くなく、「宗教は一つであるということを説き得るもの」なのである。そして実際にこれが真理である。

(第二問題の解決)仏教と神教は共にある

これが二つ目の、「(今までの伝えきれていない)仏教のままでは伝えられない」ということの内容である。
「仏教は神教と共にあり、実は同一である。宗教は一つである」ということで説いていかなくては(というより、それが真理)、「宗教はいくつもあって、どれもが間違いなのでは」といった誤った認識の前に沈んでいってしまうだけである。

そこで、わたしは、この仏教の不人気理由として「神教などいくつもあり、仏教は神教と反対のものとしてある」と説かれたり認識されたりすることがあることについて、これを反転してしまうべきだ!と知るのである。

仏教と神教は、共にあり又は同じ一つの別の側面にすぎない。
仏教は仏教、神教は神教などではなく、
仏教は、神教と共に説くべきだ。

3.まとめ 

以上、このように、私見では仏教はよく言われるような要因以外に、このようなことも重大なひっかかりとなっていて、これでは未来永劫わずかな者が親しむだけのものになるのではないかということである。
これが「仏教は仏教のままでは衰退するのかも」ということである。

仏教の説き方で、伝えきれずに残ってしまったものを改めることで、また伝わりうると確信する。
そこでこのように伝えるべきだということをまとめて提示する。

(1)「運動こそ主体」「明るく生きていけばよい!」

第一に仏教は、「停止ばかり」を説くものではなく、「運動と停止を共に修する」ことを説くものである。それどころか、最終停止までは「運動の方が主体」であって、「繁栄的生活が主体であってよい」ものなのである。そこにおいて「停止をすることで、さらに完成する」「最終は停止が究極としてある」ことを説明するものである。

仏教は繁栄の方面も説くものであり、両方を説いていくべきだ。
どんどん、繁栄の道も大切に、明るく生きていったらよい、ということを説くべきだ!

これを伝えることで、仏教が伝わり直しうると知るものである。

(2)「仏教と神教はひとつ」「宗教はひとつであり、矛盾しない」

第二に「仏と神とは共にありえる」もの、「さらには仏と神とは同一の存在の、別のすがたである」ということであり、「仏教と神教は共にあり、又は同一の別の側面である」ということである。

神教(日本では神道など)は繁栄の方面の教えとして大切にすればよいし、神教も片面としながら明るく生きていったらよいのだ。
宗教はいくつもあって間違っているなどということではなく、「宗教はひとつであって、ただ一つの道があるだけ」なのである。

仏教を神教と同時に伝えていった方が、異なるものが二つあるというわけではないことがわかり、かえって価値を理解できるはずである(仏教を仏教のまま伝えていては、いつまでもこの混乱を起こし、人々が離れていく)

仏教は仏教、神教は神教などではなく、
仏教は、神教と共に説くべきだ!

これを伝えることで、仏教が伝わり直しうると知るものである。

おわりに(まとめ)

これがそもそも真理であり、
これからはこのように伝え直すことでこそ、仏教が(また神教が)伝わり、
人々の精神の軸となって、社会のよい精神性の基盤となって、
その価値を発揮していく
のだと、
ここに記すものである。

仏教は明るい!神教とひとつ!
明るく、生きましょう!
人それぞれの因縁・分のまにまに。

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圓寂が、社会の精神性に寄与することを願って、さまざま深い思慮を発信し、活動することを楽しみにしながら…

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