不思議話(1章2) 疑い抜き、闘い抜いた日々
不思議話シリーズ、3ページ目。
今回は、導入その2を配信します。
1章:導入(続きから)
(1-1は前回。以下リンク先)
1-2.一転し、疑いへ
私は最初にも断ったように、「そうしたものをあまり信じられないで相当に疑うタイプであってきたが、また一方では後述するがどうしても疑いきれない理由もあって、その両面によって25歳頃までは過ごしていた」。
今説明したことが、その「どうしても疑いきれない理由」の方面であり、「私自身が過去世の感覚や一部の記憶と共にあったり、ときどき天啓のようなものを感じ受けてしまう子供」だった、という現代ではなかなか通じないような事情であるが、
そんな私が何故、そのような人間でありながら
「そうしたものをあまり信じられないで相当に疑うタイプであってきた」のかという方面を説明する。
幼稚園の門前にて、釈尊とキリスト。
ある日、転機が訪れた。
それまでは、今見たように過去世の自分と現在の自分が混然一体として、混濁して生きていたり、声なき声があったりしながら生きていたのが、突然、疑い強い気持ちへ変わる日が訪れたのである。
おそらく年長、5歳の頃だっただろうと思っているが、
幼稚園の帰り道、その門を出ようとしたとき、釈迦とキリストが突然現前した。

そんなことを言うと突拍子もないように聞こえるが、これは言いづらいことであるが、私の素直な幼少期の感覚では、何故かいつも釈尊がそばにいて仏法が傍にある心地がしていて、「お釈迦さまと共に生きていた」と普通に認識している有様であった。
また、母はクリスチャンではないが、キリスト教系の学校に小学校から短大まで通っていたこともあり、信仰ということでもなく自然に聖歌などをいつも口ずさんでいたりしたこともあって、キリストも、心においてそれほど遠くない存在であった。
そこで突然、思いもかけず釈尊とキリストが、生きておられた当時のお姿の様相で、すっと立って現れてこられ、概ね次のように、心中にて、お話になってこられたのである。
われらの説いていることは、一つである。
また同じように、正しい宗教については、それらも実は一つのものである。
次いでこの時代は科学が隆盛しているが、科学も実は一つのものである。
これらは全て統合して示すことができ、
その統合的視座の理屈の方面を示すのが、汝の使命であり、
汝がこの時代に生まれている意味である。
またこの時代は、宗教に対する反抗期の時代である。
人が急激に成長するころに、急激な成長によって、ベクトルが一時的に変わり、それまでお世話になっていた親を不要だと思ってしまう反抗期を迎えるように、人類が急速に発展したことで、反抗期を起こしている時代である。
故に、そのような衆生に納得せしめられるよう、
むしろ汝をこれから誰よりも疑う心に変じる。
自分自身と宗教的なものを誰よりも疑い抜いて、闘い抜いてこい。
そして、また信じるときに至るようにしてある。その先に、示せ。
宗教界を是正せよ。
※以降は記せないため省略するが少しだけ記すが、
そんな中でもかすかな光明を信じて歩めるよう、
〇〇…このようにしてあるから、それを実感して歩め。
と告げられてしまい、突然周囲の人たちが本当にそのような感覚を持ち合わせずに生きていることをようやくはっきり理解し、それと同時に、自分がおかしいのではないか?という、多くの人々の目線に切り替わり、本当に疑いの心に突然転じられてしまった。
1-3.疑い抜き闘い抜いた日々
その日以来、
誰よりも「自分自身と宗教的なものを疑い抜いて、闘い抜く」
という地獄のような日々が始まった。
過去世の私のことは、あまり考えなくなるようになり、
とはいえ、強く現われてくるので無視することも出来ず、
子供としての空間に入れられながら、半面では古老が何人も心にいて、古老と子供が二重螺旋のようになった人生を歩まされて、生きることとなった。
しかも、そのような自分を自分自身が疑いながら生きるのであるから、
心中は折り合いをつけるのがあまりに難しい人生であった。
《付記》
この人生の苦しみは、出会ってきた何人にも共有することが出来ず、心中に抱え続けて、こじれを大いに生み出していくこととなったが、今振り返ってみれば、これもまた絶妙に仕組まれた因縁であり、同時に私の過去世の罪障を祓わせていただいていたのだなという実感が、今になってあり、法や神仏の妙を実感し感激するのであるが、この文は、今の多くの読者から見ればよくわからないであろうと思うので、またいつか読み直されるようなときが来れば、理解の足しになるであろうなと思い、付しておくものである。
(1)18歳頃まで(前期の完結)
その後、僧侶となって、さらに疑いが消滅しはじめたところまでの経緯を参考までに記しておく。
その後、なんとか子供として生き抜き、盛大にこじれもしながら中学3年生となった頃(中高一貫)。色んな要因によって、非常に悩むようになっていた。高校1年生にあがって、進路を決める時期であったことも大きかった。
「ああ、人間として完成しなくてはならない。人々も完成しなくてはならない。人生(輪廻転生)には完成があり、道があり、最終的に至るものがある。これを明かしたい。進路を決めるにしてもその後にしたい。」と決心し、職員室に赴いて、その旨を説明した。
すると、教師はただ「それだけに集中したらよい」との回答であったので、本当にそれだけに集中する日々へと突入した。
これは実は、そうした過去世の自分の気持ちの爆発でもあり、これ以上、この時代と共に足並みを揃えて生きているわけにはいかない、この反抗期の時代に、そうしたことを伝える使命のために生きているのであるから、そろそろ、そのことをせねばならない、という叫びでもあったのであるが、これはあくまで深層の働きであり、わたしが上手く(?)封印していた裏の心情である。

そして結果的には、考えたこと・気付いたことを三年半ノートに5,000枚記し、最後の一年間は坐禅も加わって、ある日突然として、一旦完結。あっと驚くような最後であったが、同時に仏教の基礎と一致することを確信。このとき、久しぶりに輪廻転生を完全に認め直すことができ、自分の本来僧侶としての心地を一部のみ回復し、実に涼しい心地であった。
その後大急ぎで受験勉強をし、進学した大学の図書館に仏典が多く揃っていたので、片っ端から読み開いていき、一致を確認することとなった。
「一旦」と書いたが、ここで注意すべきは、ここで至ったものはあくまで、「仏教の最も基礎・入口」であり、全くそうした不思議なことを挟まない、物質的な領域だけでも成立するような理の部分のみであったということである。
この上にこそ、本題の神秘的な領域が乗っていて、この難しさはここまでとはケタ違いなのだということを感じていたものであり、決してそうした神秘的な領域まで取り戻したわけではなかった。
喩えるとすれば、その入口と言っているものは、遥かなる山のふもとの大地にすぎず、登山口に過ぎない地点であり、その上に遥かなる山があって、そこにそうした神秘的世界の理解があるということである。
その山を登ることがいかに難しいかを直感していたので、登り始めるのは数年後~十数年後にしておこう、と思い、以後四年間、安穏なこころで過ごしていたが、四年して大学を卒業するころ、やはりまた進路を決めるにあたって、ここから僧侶として頑張るしか許されていないと知り、僧侶として得度をすることとなると同時に、この神秘的領域の山道を登り始めてしまうこととなった。
それまでの安定した登山口の境地が、またたく間に壊れていき、幼虫がさなぎに一旦どろどろになるように、山を歩き始めれば安定ではなくなるように、この遥かなる難しい神秘的な領域の理解を歩み出すこととなってしまった。22歳秋のことであった。
(2)25歳頃まで徹底的に、疑い闘う日々
22歳からの日々は、それ以前にも増して地獄のような心地であった。
自分が僧侶として歩みながら、その自分自身・宗教的なもの自体を疑い続ける日々。しかも一旦味わった、絶対安穏な登山口ふもとの心地も遠く離れていき、引き返すこともままならないし、そもそも僧侶になった以上、許されていなかった。
何もかもが、再びわからなくなり、
仏教は疑いの対象であり、自分も疑いの対象であり、
何より、もはや知識もあるが故に、一般人が疑う以上に”綿密に””どの点に”矛盾が見られるかを膨大に認識してしまうのである。どこを読んでも、矛盾や無理に溢れている。信じる方が無理であるという感じである。
そんな中頼りであったのは、
やはりどこまでも幼稚園の門前での釈尊・キリストの姿であり、
その言葉の内容であった。
「すべての宗教と、科学は統合的視座が存在する」ということが、膨大に広がる真っ暗闇の中に、反対に無限の種であり、しかし種に過ぎないような、かすかな一点の光明として無限かつかすかに、心中を貫き続けていた。
わたしは、この光明を唯一の命綱として、ひたすらに疑い抜き、
こうなれば完全に疑い抜いて、問題点を全て洗い出した上で、これをどうにかするしかないと心をくくりもし、この矛盾・問題点、自分自身への疑いと闘い続けた。
(3)25歳頃からついに理屈が通りはじめ、不思議なことに出会い始める
その闘いはやがて、突然に実を結びはじめ、
次々に矛盾点が解れていくことになった。
しかし、それほど簡単なものでは決してなく、現代の僧侶として定められた日々を送る隙間を縫い続け、来る日も来る日も思案し、あるいは坐禅し、あるいは読経念仏を重ねて、起こってきたことであることは、過去の自分への慰めとして記しておく。
ある一つの矛盾点の解消の兆しがきっかけとなり、あたかも天動説から地動説へコペルニクス的展開をしたことで、すっきりあらゆる矛盾点が解消していった事例のように、次々に矛盾点が解けていく予感を見せ、次々に暫定的ではあるが解消を見せていった。

そして25歳秋、僧侶資格を得た一年目。
一旦概要が見えて、感動し始めていたころであった。
次章一節目の、不思議な出来事により、疑いがついに、信(信というよりはもはや認識である)に転じていくこととなる。
ここからが、ようやく本書が伝えようとすることの本題である。
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
