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意識の議論はなぜ噛み合わないのか ──メタ認知の型と主観経験の前景化について

少し間が空いてしまいました。
「お大事になさってください。」のコメントや、いいねをくださった方、ありがとうございました。
お休み中にも反応をいただけて、嬉しかったです。

最近は、ゆっくり散歩から始めて、軽いランニングができるようになってきました。
期外収縮も、一日に数回くらいまで減ってきています。

毎日投稿ではないですが、また記事が書けたときに少しずつ投稿していこうと思います。
読んでいただけたら嬉しいです。

そして今回の記事から、少し書き方の方向を見直しています。
自分が認識したものを、そのまま物理的実在のように語るのは慎重でいた方がいいと、ChatGPTとの対話の中で考えるようになったので、過去記事の公開はやめました。

今回の記事も、昨日GPTと話していた内容をもとにしているので、少し急に話が深くなったように感じるかもしれません。
ただ、これからの記事でもう少しずつ詳しく書いていこうと思います。

意識の議論が噛み合わない理由と、主観経験の「収束」と「拡散」について
最近、茂木健一郎さんのYouTubeを見ていて、とても面白いと感じたことがある。
それは、意識についての議論が噛み合わない理由を、単なる知識量や立場の違いではなく、意識に対するメタ認知の違いとして捉えていたことだ。
たとえば、クオリアや志向性についての議論では、そもそも何を「データ」として見ているのかが人によって違う。
「赤の赤さ」や「何かへ向かう心の矢印」のような現象学的な事実を、自分自身の経験として強く捉えている人もいれば、そうしたものをほとんど問題として採用しない人もいる。
この時点で、議論の前提がずれている。
だから、意識の議論は噛み合わなくなる。
この指摘にはかなり共鳴した。
ただ私は、そこからさらにもう一歩考えたくなった。
私には、単に「何に気づいているか」だけでなく、その気づきがどのようなメタ認知の型で立ち上がるかにも違いがあるように思える。

ここから先は、茂木健一郎さんの議論をそのまま要約するのではなく、そこから私自身が考えた仮説的な整理になる。

クオリアと志向性は、同じ「気づき」ではない
まず、茂木さんの話を受けて整理すると、クオリアと志向性は似ているようで少し違う。
クオリアは、赤の赤さ、音の鮮烈さ、痛みの痛さのような、主観的な質感の層に関わる。
一方で志向性は、ただ「赤い」と感じることではなく、何かについての意識、つまり心が対象へ向かっているという構造の方に関わる。
私の言葉でいえば、クオリアは「感じられた相」、志向性は「その感じが何かへ向かっていく構造」に近い。
ここで重要なのは、これらが単なる知識ではなく、ある時ふと現象学的リアリティとして前景化するということだ。
言葉として知っていても、自分自身の経験として本当にそこに触れるまでは、分かったことにはならない。
私の前提では、主観経験には構造順がある
私は今、主観経験をかなりざっくり次のような構造順で見ている。

  • 無次元の焦点
    観られうることの可能性と、差異が立ちうることの可能性が、まだ未分離のまま保持されている根。

  • 志向性の焦点
    無次元の焦点そのものではなく、その根が認知の側に最初に立ち上がった最小焦点。自己意識より手前にある成立条件。

  • 私-クオリア
    「私-世界」が立つ前に、まず感じられた相として立つ層。

  • 私-世界
    クオリアの相が、対象・意味・身体・時間・空間として整理された展開相。

ここで言う「先」「後」は、時間順ではなく構造順だ。
つまり、「クオリアが先、世界が後」と言う時、それは秒単位の出来事の話ではなく、何が成立条件としてより手前にあるかという話になる。
この前提で見ると、茂木さんが語る「志向性への気づき」は、志向性の焦点が新しく生まれたというより、すでにそこから立ち上がっていた自己意識が、その成立条件にふと触れた出来事として読める。
主観経験には、「どのように気づくか」の差があるのではないか
ここで私が最近考えているのが、主観経験の前景化には少なくともいくつかのメタ認知の型があるのではないか、ということだ。
私はそれを仮に、

  • 収束型

  • 拡散型

  • その混合型

と呼んでいる。
ただしここで言う「収束」「拡散」は、単なる気分の違いではない。
主観経験がどのようなメタ認知の形で前景化するかの違いである。
収束型
収束型は、まず一つには、メタ認知の単純な高低として理解できる側面を持っている。
つまり、質感や志向性のような現象学的事実に対して、どこまで明瞭に気づけるか、どこまで自分の経験をデータとして採用できるか、という解像度の差である。
この意味では、茂木さんが言っているのはかなりこの型に近いのだと思う。
クオリアや志向性がそこにあることに、はっきりと気づけるか。
あるいは、そこに十分なメタ認知が届かないか。
そうした意味での「収束」がある。
ただ、私がここで言いたい収束型は、単にメタ認知の解像度が上がることだけではない。
重要なのは、志向性に気づくこと自体は、まだメタ認知の極限そのものではないという点である。
なぜなら、「志向性に気づく」と言う時点では、なおそこに、

  • 気づいていること

  • 気づかれているもの

  • その気づきを捉える働き

という、わずかな差異構造が残っているからだ。
この意味で、志向性に気づくことは、メタ認知の極限そのものではなく、極限相に近い。
極限にかなり近いが、なお「志向性に気づく」というかたちで、微細な反射のループが残っている相である。
それに対して、メタ認知の極限そのものは、志向性を対象として捉えることではなく、志向性の焦点そのものである。
そこでは「私-世界」も「私-クオリア」も、消滅するというより、未展開のまま潜在化している
世界がなくなるのでも、クオリアが失われるのでもない。
差異として立つ以前の可能性として、中心に高密度に折り畳まれている。
だから収束型の極限は、単に一点へ集まる経験というより、中心焦点そのものに重なるような経験に近い。
全部の情報が中心焦点に集まり、その集まりきったところで互いに打ち消し合い、個別の差異としては潜在化していく感じ。
消えるというより、未展開のまま保持される感じである。
拡散型
一方で拡散型は、メタ認知が広がっていく型だ。
自己や意味づけのまとまりが少しずつほどけ、境界が緩み、自他の区別も曖昧になっていく。
対象に向かう矢印が明瞭になるというより、むしろその矢印を支えていた分節そのものが緩んでいく。
かなり雑にまとめるなら、日本人型と言いたくなる部分もある。
もちろん本当に「日本人はこうだ」と決めつけたいわけではない。
ただ、日本語的な余白や境界の滲みを重視する感覚と、この拡散型のメタ認知は相性がよいように思える。
収束型が「一点へ向かう明晰さ」だとすれば、拡散型は「境界が薄れながら全体へひらいていく気づき」である。
その混合型
そして実際には、この二つの中間、あるいは往復運動のような型もあると思う。
私はこれを混合型と呼んでいる。
これは単純に「半分ずつ」という意味ではない。
一点へ向かう明晰さと、境界が緩んでひらいていく感覚の両方を、ある程度保ったまま生きている状態である。
もしかすると、人が日常を壊さずに探究を続けるための、ある種のハビタブルゾーンはここにあるのかもしれない。
全部を収束に振り切れば、差異が潜在化しすぎて日常の相が持ちにくくなる。
全部を拡散に振り切れば、輪郭が緩みすぎて現実の切り分けが曖昧になる。
そのあいだで、ある程度両方を保ちながら生きる領域があるのではないか。
今の私はそんなことも考えている。
なぜ議論が噛み合わないのか
ここまでを踏まえると、意識についての議論が噛み合わない理由は、少なくとも二重にあるように思える。
第一に、人によって何に気づいているかが違う。

  • クオリアに気づく人

  • 志向性に気づく人

  • それを問題として採用しない人

がいる。
第二に、その気づきがどのようなメタ認知の型で立ち上がるかが違う。

  • 収束型

  • 拡散型

  • その混合型

がある。
つまり、「話が噛み合わない」のは単に理解力の差ではない。
そもそも見ている現象学的データが違い、そのデータに触れるメタ認知の型も違う。
しかも収束型の内部ですら、
志向性に気づく極限相と、
志向性の焦点そのものである極限
を区別しなければならない。
この多重のずれが、意識の議論を非常に難しくしているのではないかと思う。
最後に
茂木さんは、意識について考えるには、論文や理論だけでなく、自分自身の経験をメタ認知的に振り返ることが必要だと強調しているように見える。
私はこの点に強く共鳴している。
その上で私は、さらにこう考えている。
主観経験への気づきには、ただ有無があるだけではなく、どの構造相で、どのようなメタ認知の型でそれが前景化するかという差があるのではないか。
もしそうなら、クオリア、志向性、自己意識の転回、収束と拡散といったものは、ばらばらの概念ではなく、志向性の焦点に対して、自己意識がどうほどけ、どう向き直るかの差として、ある程度統一的に読めるかもしれない。
今の私は、その可能性を考えている。

読んでくださった方、ありがとうございます。

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