見出し画像

世界を変えるのは、銃声ではなく、ひとつの呼吸だった。

神の呼吸。それは死にゆく兵士の“最期の一息”に宿る、愛と赦しのコード。

 少年兵カナメは、敵将の亡骸からこぼれた呼吸を、禁を破って吸ってしまう。
 その瞬間、敵の想いと記憶が心に流れ込み、カナメの世界は音もなく変わり始めた。
 味方を守ることと、敵を赦すことは、どうしてこんなにも遠いのか。

 やがてカナメは、孤児を守り、味方に裏切り者と呼ばれながらも、
 “愛だけは裏切らない”という選択をする。

 そして最期に遺した、彼自身の「神の呼吸」は――

 誰にも吸われることがなかった。
 それでも、その愛は確かに、風になって、未来に届いていた。




第1章:死んでも、生きろ

呼吸は、生きている証だと思っていた。
けれどこの戦場では、
「呼吸しているだけの死者」が、いくらでもいた。

そして、僕もその一人だった。

銃口を向けた瞬間、相手は人間ではなくなる。
名前も年齢も、瞳の色すら、ただの情報だ。
トリガーを引けば、それは「処理」になる。

殺すという動作に、もはや善悪はない。
ただ、“生き残る”ための手続きだ。

僕の指が、何十人を無に還したか、覚えていない。
でも、彼らの最期の息づかいは、
なぜか今も、耳にこびりついている。

ひと息で、何かが終わる。
ひと息で、誰かの世界が失われる。

それでも僕は、
この“息”で、生きている。

戦場で倒れた仲間が、最期に言った言葉がある。

「死んでも、生きろ」


意味なんてわからなかった。
それなのに、なぜか僕の中で、
その言葉は「呼吸」になった。

何度も、止めようと思った。
何度も、自分の息を殺そうとした。

でも――
“呼吸をやめる”という行為さえ、
この世界では、贅沢だった。

生きるとは何だ?
誰かを殺してなお、自分を赦すことか?
それとも、罪を抱えたまま、
それでも誰かに希望を渡すことか?

僕はまだ、生きている。
呼吸している。

それが、罪なら。
せめて――その罪で、世界を変えてみせる。





第2章:神の呼吸は嘘だ

「神の呼吸」なんてものは、存在しない。
それが僕の結論だった。

仲間たちは夜ごと話した。
死に際に放たれる一呼吸――
それを吸えば、未来が変わる、と。

戦友の死を無意味にしないための、
都合のいい伝説。
慰めのガス。
そして、死者への免罪符。

でも僕は知っていた。
息なんかに、力なんかない。
だって、何百の呼吸が戦場で消えていった?
あれだけの息があって、
この地獄の何が、変わった?

むしろ変わらなかったからこそ、
神なんてものを、人はでっち上げた。

僕はそう思っていた。
…あの日までは。


敵将ユウリの死体は、まだ温かかった。
彼が率いた部隊は、全滅。
僕らの勝利。
だから、これは「処理」の仕事のはずだった。

だが彼の唇が、かすかに動いた。
そこから、微かな吐息がこぼれた。

見えない何かが、空気の形をして、こちらへ滑ってきた。
気づけば僕は――
それを、吸っていた。

「……!」

胸の奥が爆ぜた。
何かが、刺さった。
自分の記憶じゃない映像が、脳を焼いた。

火の海。
泣き叫ぶ子ども。
兵士たちの、顔のない絶望。

その中心で、ユウリは静かに祈っていた。

「この戦争を、君は終わらせてくれ」

僕は、その祈りを吸った。
いや、“その祈りに選ばれた”のかもしれない。

嘘だと思っていた。
馬鹿にしていた。
だけど今、僕の中に誰かの想いが、
たしかに残っている。

――これは、なんだ?

この息は、
なぜ僕の胸を、こんなにも熱くする?

神の呼吸は嘘だ。
そう信じていた。
だけど、
その嘘の中にしか、
本当の命の意味がないとしたら――?


その夜、僕は初めて眠れなかった。
呼吸のたびに、
ユウリの最期の願いが、
僕の肺の奥で灯り続けていた。





第3章:敵将の最後の息

焼け落ちた村には、もはや人の声はなかった。
崩れた家屋、黒こげの果樹、血のにじんだ井戸。
それらすべてが、"正しい戦果"の証拠だった。

「カナメ、確認頼む」
上官の命令に、僕はただ頷いた。

瓦礫の下から這い出るように見つけたのは、
まだ息がかすかに残る敵将だった。

顔に土と血と、涙の跡。
肩口には味方の刃。
声はもう出ない。
だが、唇がわずかに震えた。

――また、か。

僕は一歩引いた。
何度も見てきた。
死にゆく者の錯乱。
空に向かって誰かの名を呼ぶような、意味を失った行動。

だが、そのとき。
将軍の口から、微かな白い息が流れ出た。
それは冷えた空気に溶けず、まるで“意志”のように漂った。

その息が、僕の顔に触れた瞬間――
心臓が止まるかと思った。

耳を塞いでも聞こえる。
目を閉じても焼きつく。


「殺さないで……誰か、終わらせてくれ……」


それは言葉ではなかった。
呼吸だった。
魂が削れて、最後に漏れた、想いの原型。
彼が命よりも残したかったもの。

僕は立ちすくんだ。
それは敵将の「最後のひと息」でありながら、
なぜか僕の“最初の呼吸”のように感じられた。

その瞬間から、
風の音が変わった。
銃声が、鼓動に聞こえた。
仲間の笑い声が、なぜか遠く感じられた。

僕の中に、“何か”が入り込んでいた。
それは理屈ではない。
戦争のルールにも、教範にも、載っていない。

けれど確かに、僕の呼吸は――
もう、誰かのためのものになっていた。


「敵将の死は確認済みです」
報告書には、そう書いた。
けれどその死は、僕の中で生きていた。

僕の未来を喰らいながら、
僕に“違う生き方”を要求していた。

それが何なのかは、まだ分からない。
ただひとつ確かなのは――
あのとき吸った一呼吸が、
この世界で一番、生きていたということだ。





第4章:僕の中に、他人がいる

眠れなかった。
闇は静かで、呼吸の音だけが部屋を支配していた。
自分のものとは思えない、その呼吸のリズム。
浅く、苦しげで、どこか懐かしい。

まるで――他人が、自分の胸で息をしているようだった。

「この戦争を、君が終わらせてくれ」

あの声が、消えない。
鼓膜ではなく、内側に響く。
意思ではなく、祈りだった。
敵将の最後の言葉。
生涯敵対してきたはずの、その男が、
死の間際に、僕を信じてくれたこと。

理解できなかった。
けれど、確かに何かが残っている。
まるで、彼の想いが、僕の中に住み着いたように。

僕は変わり始めていた。
目に映るものが変わった。
敵軍の旗を持った子どもに、引き金を引けなかった。
倒れた敵兵に、手を伸ばしてしまった。

「どうしたカナメ、手を抜いたのか?」
「お前、最近様子が変だぞ」

仲間たちは不信感を隠さなかった。
けれど僕は、否定も肯定もできなかった。
だって本当に、変わっていたからだ。

誰かの命の重さを、知ってしまったからだ。


夢を見た。
僕ではない誰かの記憶。
夕焼けの中を歩く小さな少女。
手を振る兵士の背中。
家族、故郷、そして…戦火に焼かれるその終わり。

目を覚ましたとき、涙が頬を濡らしていた。
けれど僕は、少女の名を知らない。
――いや、本当に知らないのか?

あの将軍が遺した「神の呼吸」。
それは、情報や映像ではなかった。
愛だった。
愛の最終形、命を超えて伝える唯一の言語。

そして僕は今、それを“翻訳できる”側になってしまった。


次の任務は、敵地の掃討だった。
だが目の前に現れたのは、武器を持たない孤児たち。

僕は撃てなかった。

かつてなら、撃てていた。
命令どおり、感情を殺して。
でも、今の僕の中には、もうひとつの視点がある。

彼らの中に、あの将軍が遺そうとした未来が見えた。
あの少女の眼差しの奥に、確かに「愛の残響」があった。


僕の中に、他人がいる。
その事実は恐ろしい。
けれど、息苦しいほどに美しい。

僕はもう、「自分ひとり」で生きていない。
僕の中には、命を託された者たちの"息遣い"がある。

それが重く、温かい。
誰かの愛が、自分の中で続いているという感覚。

そして僕は、ようやく気づいた。

戦争を終わらせるとは、
敵を倒すことじゃない。
敵を、自分の中に“生かすこと”だ。

それが、
「神の呼吸」の本当の意味なのかもしれない。





第5章:裏切り者の肺

銃声が止んだあと、
あたりには、子どもたちのすすり泣く声だけが残った。

カナメは、倒れた敵兵の盾となっていた。
その背後にいたのは、まだ七つか八つの子どもだった。
手には武器ではなく、割れたスープ皿。
戦意も敵意もなかった。

味方の兵士が叫ぶ。

「なぜ邪魔した、カナメ! あれは敵の血だぞ!」

カナメは、何も言い返せなかった。
ただ、子どもたちの前に立ち続けていた。
自分の肺が、守るべき命を選んでいた。


それからだ。
視線が変わったのは。

味方の仲間たちの間で、噂が流れた。

「カナメは、敵の女と通じてるらしい」
「いや、敵の将軍の亡霊に取り憑かれたって話もある」
「裏切り者だ。肺の奥まで毒されてるんだよ」

肺。
それはこの戦場で、呼吸=思想の器官とされていた。
息をどう吸い、どう吐くか。
それが「どちら側の命を選ぶか」を決めるのだ。

カナメの肺は、今や“敵の命”を選ぶ器と見なされていた。


司令部のテントに呼び出された。

「カナメ。貴様は、我が軍の“思想汚染者”と見なされている」
軍医が冷たく言う。
「肺スキャンを行う。呼吸履歴を解析し、“敵性記憶”があれば除去する」

それはつまり、“神の呼吸”を奪われるということ。
想いも、愛も、すべて“検閲”されるということだった。

だが、カナメは静かに答えた。

「その肺の中に、僕が守った命がいるなら――どうか、それだけは壊さないでください」

軍医は眉をひそめた。

「……カナメ。お前の中にいるのは、もうお前じゃないのか?」

カナメは目を伏せた。
その問いは、誰よりも自分自身に向けたものだった。


その夜。
テントを抜け出した。
敵地の孤児キャンプへ向かうためだった。

あの子たちの呼吸を、
誰にも消させないために。


人は、誰の想いを吸って生きるのか。
自分の肺が選んだものこそ、自分の正体なのだと、
カナメは初めて理解した。

彼の肺には、もう“戦うための空気”は残っていなかった。
あるのはただ――
他者を信じるために吸った、たった一息の愛だけだった。

それは、裏切りなのか。
それとも――進化なのか。

この問いが、やがて軍全体を揺るがすことになる。





第6章:愛を吸った少年

敵も味方も区別がつかなくなる――
それが「神の呼吸を吸った者」の末路だと噂されていた。

だが、カナメには分かっていた。
それは“混乱”ではない。
“愛”という、もっと根源的で静かな確信だった。


敵将の最期の息を吸った日から、カナメの中にあったもの。
それは血の記憶ではなかった。
憎しみでも、後悔でもなかった。

それは――赦しだった。

「君がこの戦争を終わらせてくれ」
その願いが、言葉ではなく、肺を通して心に届いていた。

まるで、誰かの呼吸が、彼の中で再び息をしていた。


自軍の兵士が孤児のキャンプに踏み込んだ日、
カナメは初めて、銃口を味方に向けた。

「引け、カナメ。これは命令だ」
「……これは、愛の選択だ」

カナメの指は震えたが、引かなかった。
敵とされてきた子どもたちの背後に立ち、彼は言った。

「俺は、もうどちらの兵士でもない。
愛を知った者の肺で、生きているだけだ」


捕えられ、拘束された夜、
仲間だった兵士が静かに言った。

「なあカナメ、お前……怖くなかったか? 吸ったとき。敵の想いが流れ込むのが」

カナメは目を閉じて答えた。

「怖かったよ。けど……温かかった。
初めて、誰かの“命”を丸ごと感じた。
敵とか味方とかじゃなく、
“人間”として――心が、呼吸した気がした」

兵士は言葉を失ったまま、煙草に火をつけた。
だがその吐く煙が、どこか優しく揺れていた。


カナメは、独房で呼吸する。
それはもはや、自分一人の呼吸ではない。

敵将の想い。
孤児の涙。
仲間の疑問。
それらすべてが、彼の肺に宿り、
音もなく――生きていた。


「神の呼吸を吸った者は、敵味方の区別がつかなくなる」

そう言われるたび、カナメは思う。

――もし、愛が区別を壊すなら、
僕はそれを歓迎する。
それは敗北じゃない。
それは、進化だ。

そして、カナメは静かに息を吸った。
未来を選ぶように。





第7章:逃げるな、届けろ

夜明け前。
爆撃の音が遠ざかり、死んだ空気が残る戦場のすき間に、カナメは身を潜めていた。

肺の奥に、まだ残っている。
あの敵将の、最期の呼吸が。
「君が、この戦争を終わらせてくれ」
あの声が、脈拍と一緒に、息と一緒に、カナメの体をめぐっていた。


仲間の兵士が、敵地で捕らえられたという報せが入った。
救出は不可能。
そう軍は即座に切り捨てた。
「犠牲を払ってまで、価値のある命ではない」
冷たく言われたとき、カナメはふと、自分の指が震えていることに気づいた。

心じゃない。肺が反応していた。

助けに行けば、自分も死ぬ。
わかってる。けれど――


「俺が吸った“呼吸”は、生きて届けるためにあった」

あれは遺言じゃない。命令でもない。
あれは、渡された種火だった。
「希望」という名の、誰かの最後の灯り。

それを無視して、何を吸って生きていると言える?


敵地の森をひとりで越え、カナメは倒れそうな肺で走った。
喉が焼けるたびに、かつて誰かが吸って吐いた命の重みを思い出した。
愛された記憶。
赦された痛み。
届けられなかった想い。

「俺が届ける。生きてるなら、それが仕事だ」


崩れかけた廃屋に仲間を見つけたとき、彼はすでに意識が朦朧としていた。
けれどカナメの声にだけ、反応があった。

「……お前、バカか……なんで来た」
「逃げるなって、誰かが言ったんだ」
「誰が……?」
「死んだ敵だ。――でも、愛してた人の声だった」

カナメはそう言って、仲間の肩を抱き寄せる。
小さく、ゆっくりと、呼吸が重なった。
生きてる。まだ繋がれる。


背後で銃声が響いた。
味方の追手だ。

だがカナメはもう、恐れていなかった。

肺が教えてくれていた。
「届けることが、生きることだ」と。

愛の呼吸は、敵から吸った。
けれど今、それを味方に返す番だった。

逃げるな。届けろ。
それが、俺の肺の中に残った“本当の使命”だ。

カナメは歩き出した。
過去の呼吸すべてを背負って。





第8章:呼吸のない戦場

塹壕の中は、まるで“生き埋め”だった。

濃密な土と血と火薬の臭い。
声を発すれば、位置が割れる。
咳をすれば、狙撃される。
泣くことすら――死を呼び込む。

ここでは、息をしていること自体が、罪だった。

カナメは泥まみれの壁に背を預けながら、自分の肺が鳴る音に怯えていた。
「息を殺す」ことは、戦場では技術ではなく、マナーだった。
だが、殺されていくたびに思った。
“誰のために、息を止めている?”


少年兵リュウが、隣で震えていた。
彼は十四歳。カナメより二つ下の新兵だ。
肺が細く、緊張で呼吸が速い。

「静かにしろ、バレるぞ」
誰かが小声で叱責した。
リュウは唇を噛み、肩を震わせながら、呼吸を止めようとした。

だがカナメは、その手をそっと掴んだ。

「吸っていい」
「……え?」
「死ぬために吸うんじゃない。生きるために吸うんだ。


その瞬間だった。
敵の迫撃砲が、数メートル先に着弾した。
爆風と土煙が、塹壕を飲み込む。
意識が飛ぶほどの衝撃のなか、カナメはただ一つのことを思い出していた。

あの敵将の最期の呼吸――
「この戦争を、君が終わらせてくれ」


数分後、意識を取り戻すと、周囲は壊滅していた。
だが、カナメの胸の上には、リュウの小さな体があった。

守られていた。
命を。呼吸を。

リュウは微かに息をしていた。
「カナメ先輩……生きて……ます?」

その声にカナメは頷き、空を見た。

瓦礫の間から、一筋の光が差し込んでいた。
空気が動いていた。風が、吹いていた。
まだ、この世界には呼吸がある。
なら、生きる選択肢は残っている。


彼は立ち上がった。
泥と血にまみれた肺で、空気を吸い込む。

「俺はもう、“死なないため”に息をするんじゃない。
“誰かを生かすため”に吸うんだ」

塹壕に残された仲間に向けて、彼は叫んだ。
「聞こえるか――お前たち!
今こそ、呼吸しろ!
俺たちは、生きていい!」


その声は遠くまで届かなかったかもしれない。
けれど、隣の少年兵は確かに深く呼吸をし、
もう一度、命を始めていた。





第9章:僕の中の神を殺せ

「なぜ、俺は撃てなかったんだ……」

焼け残った家屋の柱に背を預けながら、カナメは拳を握り締めた。
敵兵が目の前にいた。丸腰だった。ただ、それだけだった。
それでも引き金を引けなかったのは、
あのときの“呼吸”が、まだ胸の奥で生きていたからだ。

「……この甘さが、仲間を殺す」

そう思おうとしても、手が震える。
今や敵も味方も、どちらも「人間」だと知ってしまった。
心のどこかに巣くっていた“神”――
「正義」の名のもとに、引き金を正当化する存在。
それが、カナメの中で崩れ落ちようとしていた。


「なあ、カナメ。信じてるか? 神の呼吸ってやつを」

後輩のリュウが呟いた。
焦げた制服のまま、彼は空を見ていた。

「俺は、信じてる。だって……カナメ先輩が、最初に吸っただろ。
あのときから変わった。人殺しじゃない顔で、生きてるもん」


カナメは思った。

“敵”という言葉がある限り、呼吸は戦場の道具だ。
“神”という言葉がある限り、人は命令に従って生きるしかない。
けれど、あの敵将の最後の想いは違った。

「この戦争を、君が終わらせてくれ」――
あれは命令じゃない。願いだった。
願いには、応える自由がある。


カナメは拳銃を手に取り、空を仰いだ。

「――俺の中にいた“神”を、ここで殺す。
命令に従って動く兵士じゃなくて、願いに応える“人間”として、生きる」

銃口を天に向けて、一発。
誰にも当たらないその弾に、彼は“決別”を込めた。

その音は、空に吸い込まれた。
何も壊さず、ただ一人の“少年兵”を終わらせた。


その日から、彼は敵にも味方にも属さなかった。
ただ、“誰かの願いを繋ぐ者”として、戦場を歩く。

もはや、神も、敵も、味方もいらなかった。
あるのは、たった一つ――呼吸だけだった。
愛の残り香が、未来を変える証として。





第10章:誰かの愛で死ねるか

処刑まで、あと6時間。

カナメは、狭い独房に独り、静かに呼吸していた。
鉄格子の向こうでは、誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが何かを諦めている。

だがカナメの胸の中では、ひとつの音が、ずっと鳴り続けていた。
それは、あの日敵将から吸った最後の“ひと息”――
愛と赦しが混じった、熱く、透明な呼吸だった。


「カナメ。遺言を書け」

看守が低く言った。
カナメは首を振った。

「書くことなんかない。ただ、一つだけ頼みがある」

「……何だ」

「僕の“呼吸”を……処刑のあとで、誰かが吸えるようにしてほしい」
「……は?」

「こんなもの、信じちゃいないんだろ? けど僕は――
誰かの愛で死ねるなら、嬉しいと思う。
そして、僕の呼吸が誰かに届くなら……それが、愛だと証明してほしいんだ」


看守は黙った。
若く、汚れた顔。
それでもその目だけは、確かに何かを揺らしていた。

「お前は……馬鹿だな」

「うん。ずっとそうだったよ。
殺すために生きて、やっと、生きるために死ねるって思えたんだ」


その日、カナメは連行された。

銃殺刑。
誰もが、ただの裏切り者としか見ていない。
だが、彼の中では確かに“愛のコード”が書き換えられていた。


銃声が響いたあと、
ひとりの少年兵が、こっそりと近づいた。

リュウだった。
カナメの後輩――あの時から、ずっと見てきた少年。

カナメの亡骸に、静かに顔を寄せる。

「……ごめん、先輩。
でも、吸わせてもらうよ。
あなたの呼吸で、生き直してみる。
たとえ愛がバカみたいでも、それを信じてみたいから」


少年は、カナメの最後の“呼吸”を吸い込んだ。

その瞬間、視界が溶けた。
誰かを抱きしめた記憶。敵に手を伸ばした感触。
愛を知りながら、殺される痛み。
そして、それでも愛を手放さなかった“あの人”の想い。


リュウの瞳が濡れた。
けれど、もう迷わなかった。

「ありがとう。あなたの死で、俺はやっと生きられる」

そう言って、少年は歩き出した。
戦場の中で、ただ一人、“愛を吸った者”として。





第11章:世界が、一瞬だけ止まった

処刑台の上、少年兵リュウは立っていた。
手足は拘束されていない。
逃げる機会も、助けなども、ない。

それでも、彼の胸にはひとつの想いがあった。
「あの人のように、僕も誰かに愛を遺せるだろうか」


銃口が、彼に向けられた。
兵士たちの目に、怯えはない。ただの命令、ただの処理。

「――撃て」

号令が響いた、その瞬間だった。


風が、吹いた。

誰かが吸ったはずの呼吸が、
まるで世界の裏側から、この場所へ逆流するように――


リュウの口から、ひとすじの“白い息”が漏れた。
それはただの吐息ではなかった。
カナメの、敵将の、命を託された者たちの想い――
すべてを結晶化した“神の呼吸”だった。

その呼吸が、空気に溶け、風に乗っていく。

兵士たちの指が、引き金から離れる。
誰もが、その白い呼吸に包まれた瞬間――
“なぜ自分は殺すのか”という問いに、直面してしまった。


銃声は、鳴らなかった。

沈黙のなかで、リュウが静かに言う。

「今、あなたたちが吸っている空気には、
誰かの死と、誰かの愛が混ざってる。
それでも撃てるか? その愛を、もう一度、殺せるのか?」


その場にいた者たちは、誰ひとり言葉を発せなかった。

誰もが、たった数秒間――
戦争がなかった世界の“空気”を、吸ってしまったからだ。


風が止んだ。
空は曇天。何も変わってはいない。

だが、人々の“内側”には、たしかに異変があった。

銃を構えていた兵士の一人が、そっと銃を降ろす。
それに続くように、別の者も。
そして最後には、指揮官までもが呟いた。

「……撃てない。
これは、敵じゃない。これは、息をしてる者だ」


リュウは、涙が零れるのを拭おうともしなかった。
それは彼のものではなかった。
カナメの涙であり、敵将の涙であり、
この戦争で何かを失ったすべての人間の涙だった。


こうして、少年の呼吸が“戦争の空気”を止めた。

たった一瞬だった。
けれど、それが「神の呼吸=愛のコード理論」の力だった。

人は、愛の記憶を吸ってしまったら、
もう、元の殺し合いには戻れないのだ。





第12章:愛だけが、吸えなかった

戦争は、終わった。

誰が引き金を降ろしたのか。
誰が最初に銃を捨てたのか。
その記録は、曖昧なまま歴史の影に埋もれた。

だがひとつだけ、誰もが語るのをためらう話があった。

「リュウの神の呼吸は、誰にも吸えなかった」

あの処刑台で、彼が最期に吐いたひと息。
それは世界の空気を変えたと信じられているのに、
誰も、「それを吸った」とは口にしない。


ある者は言った――
「それは、愛が純粋すぎたからだ」

またある者は言った――
「世界が、それを受け取る準備ができていなかったのだ」

だが、もっとも恐ろしいのは、こういう説だった。

「僕たちは本当は、愛だけを避けたのかもしれない」


神の呼吸とは、戦場に遺された最後の“赦し”の信号。
そこには怒りも、復讐も、正義すらもない。

ただ、「それでも君を愛したい」という
人間の根源的な、何より脆いコードが刻まれている。

それを吸ってしまえば、自分の“正義”が崩れる。
“敵”が、ただの“人間”になる。
それは、あまりに痛い。

だから、誰も吸えなかったのだ。
リュウの呼吸に込められたものが、あまりにも“真っ直ぐすぎた”から。


戦後、彼の名前を記した石碑の前で、
かつての兵士たちが語る。

「アイツの遺した呼吸、いまもこの大地に染みついてる気がする」

そして、ひとりの子どもがつぶやく。

「ねえ、おじさん。神の呼吸って、どんなにおい?」

その問いに、大人たちは答えられなかった。


だけど、彼らは確かに感じていた。

風が吹いたとき、
ふと胸が熱くなる瞬間がある。
涙の理由がわからなくなることがある。
そのすべてが、“吸えなかった愛”の名残なのだと。


戦争は、終わった。
でも、リュウの呼吸は、まだ誰かの中で脈打っている。

吸えなかったのではない。
きっと――今も、吸っている途中なのだ。


だから彼の物語は、終わらない。

彼が託した“愛のコード”は、
誰かの涙腺を、誰かの行動を、
そして次の選択を、そっと変えていく。

一息ずつ。確かに。


#創作大賞2025 #コミックエッセイ部門

いいなと思ったら応援しよう!