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大和 ぶら探 「壬申の乱」ゆかりの地を巡る 第三回 「大和路」



はじめに

 「壬申の乱」ゆかりの地を巡る 第3回 を記述させていただくにあたり、改めてではありますが、おことわりさせていただきます。
 今回も、歴史的な事実等の解説につきましては、「なら記紀・万葉『名所図会』の解説に大きく依存させていただいています。
 「なら記紀・万葉プロジェクト」によるこの冊子が一般人にとりまして、いかに有用かということを、多くの方々と共有したいと思う一念に基づいております。
 かの司馬遼太郎氏は、著書「街道をゆく」などにおいて、「街道を歩くとは、歴史を身体で読むことだ」「古い街道というものは、歩いてみなければわからない。歩くという行為が、時間の扉をひらく。」つまり、歴史を「頭」でなく、「足」で読み解く」という姿勢を堅持されています。
 私も歴史等の専門家ではありませんので、難しいことは専門家にお任せし、季節の風や光を肌で感じながら(ボブ・ディランじゃないけれど)、現場に立ってみることに重きを置いています。写真はすべて自分で足を運び撮影したものであることに違いありません。
 加えて申しますと、その写真におきましては、文中にも述べましたが、故意に「名所図会」と同じものを撮ってみようとも試しています。これは、一つの楽しみであります。そうすることによって、プロの撮影との違いが浮き彫りになって、また、撮影手順を試行錯誤する楽しみが出てまいります。
 あえて、私のもう一つの趣味である、ブルースギターを弾くことに例えれば、「BBキングやクラプトンのソロの完コピに挑戦し、その絶妙なニュアンスのすばらしさに感動する喜び」に近いものがあるわけです。(意味不明かも、笑)
 さらには、今回も「壬申の乱」から脱線して、探索した史跡等から派生していってる話題や写真が並び、読んでいただく方々には、むしろ「鬱陶しい」構成になっているかもしれません。
 前置きが長くなりましたが、どうかご理解、ご了承の上、お付き合いいただければありがたいと存じ上げます。
 どうぞよろしくお願いいたします。

1.大和乱れる ~大海人皇子、大友皇子を破る~

ダイジェスト 「なら記紀・万葉『名所図会』 」から

・大海人皇子一行が吉野から東国に出発した6月下旬、近江に遷都後も両陣営には重要な飛鳥にいた大伴連吹負(おおとものむらじふけい)は大海人に加勢すべく戦の準備を進めた。
・6月29日、吹負は飛鳥寺の近くにあった近江朝廷側の軍営を占拠。
・7月1日、吹負の軍は北上を開始。稗田で河内方面から大友皇子軍が迫っているとの情報を得た吹負は別動隊を西に向かわせ撃破。
・7月3日、吹負は飛鳥宮の守りを固める
・7月4日、吹負は乃楽山(ならやま)で大野君果安率いる大友軍と戦うが惨敗し、敗走。逃走中、墨坂(宇陀市榛原)で置始連兎(おきそめのむらじうさぎ)率いる東国からの援軍と合流し、金綱井(かなづなのい、橿原市今井町あたり)で兵を立て直し、當麻(たぎま)の葦池(香芝市良福寺辺り)で壱岐史韓国(いきのふみからくに)率いる大友軍と戦い勝利する。
・一方、上ツ道の箸墓付近、中ツ道の村屋付近でも両軍が激突。三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)、置始連兎ら大海人軍は廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)を退け勝利し、大和での戦いは終結した。

・一方、大海人主力軍は直接近江に進攻した。
・7月7日、息長横河(おきながのよこかわ、滋賀県米原市)で勝利。
・鳥籠山(とこのやま、彦根市大堀町)、安河(やすかわ、野洲川)、栗太(くるもと、滋賀県栗東市を含む県南東部)と徐々に南下し、7月22日、瀬田(大津市瀬田)に到着。
・瀬田川の戦いで敗れた大友皇子は命からがら山前(やまさき、京都府乙訓郡大山崎町辺りか?)にたどり着いたが、自害した。ここに、日本古代史最大と言われる戦いは幕を閉じた。

 (奈良県外の壬申の乱ゆかりの地については、以後の回にてご報告させていただきます。)

2.大和戦線

1.飛鳥宮跡

壬申の乱以前、645年の「乙巳の変」の舞台となった皇極天皇の宮殿「板蓋宮跡」があったということです。昭和34年、初めて発掘調査のメスが入れられ、以来、橿原考古学研究所が継続して調査を進め、重層する宮殿遺構の存在が判明している様子です。上層遺構は、斉明天皇の後飛鳥岡本宮であり、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮として利用され、中層遺構が皇極朝の飛鳥板蓋宮跡、下層遺構が舒明朝の飛鳥岡本宮跡に相当するという見方が有力という話です。
 このような実態をふまえ、平成28年に史跡の指定名称が「飛鳥宮跡」と改められたらしいです。
 壬申の乱においては、この地、近江朝廷側の軍営を大伴連吹負が占領したとのことです。

飛鳥宮跡

 上の写真、中央奥に香久山、その左に耳成山が見えています。

飛鳥宮跡 説明板
史跡・名勝 飛鳥京跡苑池 1

 壬申の乱とは直接関係はありません。飛鳥宮跡のすぐ側、かつ甘樫の丘との中間点にあり、斉明朝の研究には極めて重要な史跡です。
 ご参考までに。

史跡・名勝 飛鳥京跡苑池 2

 写真正面上部の小高い丘に見えるところが、甘樫の丘です。

飛鳥京跡苑池 説明板

 宮廷庭園の遺跡です。苑池の造営時期は斉明朝頃とみられ、天武朝ころに改修されたとみられています。

管理棟 休憩室

 明日香散策には、夏も、冬も、このような資料室兼、休憩所が本当にありがたいです。

2.稗田(ひえだ)

「日本書紀」(現代語訳)「なら記紀・万葉『名所図会』 」から

 将軍吹負が乃楽(奈良市)に向かって稗田に到着した日に、ある人が言った「河内から軍がたくさん来ています」。すぐに坂本臣財(さかもとのおみたから)・長尾直真墨(ながおのあたいますみ)・倉墻直麻呂(くらかきのあたいまろ)・民直小鮪(たみのあたいおしび)・谷直根麻呂(たにのあたいねまろ)を派遣して300人の兵で龍田(竜田山)を塞がせた。
 また、佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ)に数百人を率いて、大坂(香芝市逢坂)に駐屯させ、鴨君蝦夷(かものきみえみし)に数百人を率いて、石手道を守らせた。

稗田環濠集落 1

 この環濠集落は有名なので、若い頃から、その存在は知っておりましたが、今回初めてゆっくり訪ねることができました。
 写真をご覧のとおり、奈良においては、とても不思議な風景と私には思えました。いや、綺麗な景色ですよ。でも、妙になぜか、不思議な感じに思えました。
 奈良には「環濠」と呼ばれる場所は他にもありますが、ここほど、見事に景観を残すところはないと思います。

稗田環濠集落 2

 環濠集落の北側。写真、遠くに見えるのが生駒山。

稗田勘合集落 3

 環濠集落の東側。写真左の生垣の内側は賣太(めた)神社境内。 

稗田環濠集落 4

環濠の内側、つまり、集落の中を歩いてみました。

稗田環濠集落 説明板

 この説明の通り、「古代中国の古城に一致している」とは。
 こういう、説明が、ますます、私に「さまよう時間」を過ごさせるのですよ。

稗田と下ツ道の位置関係
賣太神社のロケーション
賣太神社(めたじんじゃ)
賣太神社御由緒

 天武天皇の舎人、稗田阿礼を主斉神としています。
 天武天皇は阿礼が記憶力、理解力共に抜群で学芸諸術にも秀でていたのをお褒めになって、御自らご精選になった歴代天皇のご事績と建国以来の歴史・神話・伝説・歌謡を直接お授けになったとのことです。
 この誦習った事柄を30有余年後の元明天皇が太安万侶に記録させられた書物が古事記ということです。

賣太神社 拝殿

3.乃楽山の戦い

 平城宮跡大極殿付近から北に延びる歌姫街道沿いにある歌姫神社。
 大友皇子軍が飛鳥を攻めるため、この辺りを通ったとされ、飛鳥から北へ進軍してきた大伴連吹負軍と戦ったとのことです。
(「名所図会」から引用)

添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)
歌姫神社 1
歌姫神社 2
歌姫街道

 現在の写真です。この写真の手前で対向車を待ちます。
 昔の街道のままかと思ってしまいます。

4.八口(やぐち)

「日本書紀」(現代語訳)「なら記紀・万葉『名所図会』 」から

 7月4日、将軍吹負は近江の将軍大野君果安(おおののきみはたやす)と乃楽山で戦うも、果安に敗れて、兵士は敗走。吹負もなんとか脱出した。
 果安は追いかけて、八口(香久山の山麓周辺か)に到り、飛鳥宮を見ると、街ごとに盾が立ててあったため、伏兵があると疑い、引き返した。

八口

 ナビで「八口」を入れても特定できず、近くまで来て、ご自宅の前におられたおじさんに、「八口」を尋ねるも、70歳がらみの住民の方でもご存じなかったです。(もっとご高齢の方ならご存じだったかも知れませんが)
 「名所図会」の写真を頼り場所を探し、(こういう作業が実に楽しいのです)、同じアングルの場所に立つことができました。
 香久山を背に、飛鳥地域を眺めています。右手に甘樫丘、中央に「大官大寺跡」の石碑が見えます。

香久山

 前出の景色を撮影した場所から振り返ると、この香久山が見えます。

大官大寺跡
大官大寺跡 説明板

 大官大寺は後に、「大安寺」へと変遷したとのことです。
 南都七大寺とは?その覚え方は?
 薬師寺(や)、東大寺(とう)、大安寺(だい)、元興寺(が)、西大寺(さい)、興福寺(こう)、法隆寺(ほう)。
  「やっぱり東大が最高峰」と覚えるらしいです。
 奈良時代は鎮護国家思想のもとで大いに国家仏教が栄えた時代でもありました。奈良を、特に史跡を探索すると、「天皇制とはなにか」「宗教とはなにか」ということを常に考えさせられます。

5.高市社(たけちのやしろ)

 援軍を得た将軍吹負が金綱井に集結した際、高市神が高市縣主許梅という人物に神憑り(かみがかり)し、「我は高市社にいる事代主神である」、加えて、「西の道から軍勢がやってくる。用心せよ」とのお告げを授けた。
 言葉通りに従うと、河内方面から壱岐韓国軍が侵攻してきた。
(「名所図会」から引用)

高市御縣坐鴨事代主神社(たけちのみあがたにますかもことしろぬしじんじゃ)
河俣神社1
畝傍山

 河俣神社の境内から、この距離感で畝傍山を望みます。

河俣神社2

 畝傍山と反対側つまり西側は曽我川が流れます。春の桜の景色が楽しみです。

6.當麻(たぎま)

「日本書紀」(現代語訳)「なら記紀・万葉『名所図会』 」から

 近江軍(大友軍)が大坂道から来ると聞いて、将軍吹負は軍を率いて向かった。當麻の衢(ちまた)(葛城市當麻・香芝市良福寺あたり)に到り、壱岐史韓国(いきのふひとからくに)の軍と葦池のほとりで戦った。

二上山 朝

 香芝市良福寺近くの「千股池」越しに二上山を望みます。
 2025年9月27日、朝、6時51分に撮影しました。

千股池から二上山に落ちる夕日を撮影
2025年9月22日、17時8分撮影(秋分の日の前日)

 春分、秋分の日前後には雄岳と雌岳の間(鞍掛)に夕日が沈む写真を千股池から撮影できます。以前は、奈良県の景観資産の案内標があったのですが、今年は見られませんでした。
 上の写真は、横着して、「マルチ測光」で撮ってしまい、「測光」の重要性を痛感しました。この日は風が少しあり、リフレクションが綺麗に撮れていません。日没後の夕焼けも不発でした。(残念)

秋分の日前日の千股池のマニア

 翌日(秋分の日)の天気が悪そうなので、皆さんは連日、通ってこられていました。大阪、神戸など遠方からも来られていました。
 隣の先輩は首からラジオをぶら下げて大相撲中継を聴きながらの撮影でした。とにかく、皆さんお元気で、その会話がとても面白いです。
 「今日来てない〇〇さんは、膀胱癌の手術をしたけど、まだ『ダダ洩れ』らしいわ」とか、「朝から白菜の種を撒いてきたから今日はもうしんどい」とか。
 でも、玄人はだしの講釈がとても参考になることもたくさんあります。

7.箸墓(はしはか)

「日本書紀」(現代語訳)「なら記紀・万葉『名所図会』 」から

 この日、三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)・置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)は、上ツ道の箸墓陵で戦い、近江軍(大友軍)に大勝した。
 勝利に乗じて廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の後続を絶ち、鯨の軍は壊滅、多くの兵が殺された。

箸墓古墳1

 この写真も、「名所図会」と同じアングルで撮りたかったわけです。
 「名所図会」によると、「『盟主的古墳』で、全長278m、後円部の高さ約30mに及ぶ大型の前方後円墳。前方後円墳としては『最高級の代表例』」
と解説、表現されています。まったく同感です。

箸墓古墳2

 宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女・倭迹々日百襲姫命(やまとととひもそひめのみこと)の墓として、治定、管理されています。

8.村屋の戦い(むらやのたたかい)

 大友軍が攻め寄せる中、中ツ道の防衛にあたった将軍吹負に「自分の社の中ツ道から軍勢がやってくるので、社の中道を防げ」との村屋神の宣託が授けられた。
 実際、近江の将軍の犬養連五十君(いぬかいのむらじいきみ)が村屋にとどまり、別将の廬井造鯨を派遣して吹負将軍の陣営を突いた。吹負の兵は少なく、防ぐことはできなかった。

村屋坐弥富津比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)
村屋神社1
村屋神社2
村屋神社3 拝殿
村屋神社 御由緒
三輪さんだけでは「片詣り」

 「三輪さんだけでは『片詣り』」という言い伝えを初めて知りました。

主祭神、三穂津姫命(みほつひめのみこと)とは
「村屋神」とは
物部守屋
イチイガシ
村屋神社の社叢

 恥ずかしながら、神社やお寺の境内や周辺を囲む樹林・森のことを「社叢」という言葉を、このシリーズ第1回で〇〇を取り上げたときにはじめて知りました。
 植物や昆虫を観察することは好きなのですが、まず、①ヘビが出ないか心配。②やぶ蚊が嫌い。③スズメバチが心配。ですので、中々、探索できないのです。

村屋神社 ロケーション

 さすがに、このような案内板で気配りされています。
 地図中の向かって右下4分の1に見える、「村屋神社」から「浄福寺」へ大和川を越える橋近辺から、3-6中ツ道・・・の写真を撮りました。

キクヤファーム

 この古代米の栽培研究圃場を運営されている「A.Iさん」に偶然、話せることになりました。
 まずは、「中ツ道」の正確な道筋を丁寧に詳細に教えていただき(栽培作業を中断し歩いて中ツ道筋現場まで行って)、さらには「古代米」の研究に関し、とっても詳細に、情熱的に教えていただけました。
 村屋神社のある田原本町蔵堂辺りが古代から、稲作の発祥の地とされているらしく、全国の神社の「神饌田」と協働しながら古代米を現在約40種くらい研究栽培し、収穫した稲穂を神様に御供え、お飾りとしてお届けしている様子でした。
 橿原考古学研究所をはじめ、あらゆる方面の学者、研究者と共同のプロジェクトをすすめているとのお話でした。
 お話を1時間半くらい聴かせていただいているうちに、西の空に夕日が沈み、まことに神々しい景色を観ることができました。

古代米1
古代米2
古代米圃場からの夕日

 田原本町蔵堂、村屋神社辺りからは、秋分の日の頃には、写真中央左遠方に二上山と、夕日をこの角度で望みます。

3.激戦地となった大和の古道

1.龍田道(たつたみち)

 「日本書紀」によると、大伴連吹負が乃楽に向かって稗田に着いた時、河内方面から軍勢が押し寄せてきているとの報告を受ける。吹負はすぐさま龍田道を塞がせた。
 龍田道は河内と大和を結ぶ道で、時代や目的によって数本の道に分かれており、それらを総称して「龍田古道」と呼ぶ。聖徳太子が整備し、奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路として天皇や貴族が行き交ったとされる。
(「名所図会」から引用)

龍田古道 説明板

2.龍田大社(たつたたいしゃ)

 天御柱大神(あまのみはしらのおおかみ)別名、志那都比古神(しなつひこのかみ)、国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)別名、志那都比売神(しなつひめのかみ)を祀り、天と地の間即ち大気・生気・風力を司る神様。風神としてお祀りしています。
 聖徳太子が法隆寺を建立するにあたり、竣工の安全を祈り、日参されたようです。建立後に、法隆寺の守り神として御分霊をお祀りしたのが、斑鳩町の龍田神社のはじまりだそうです。

龍田大社1
龍田大社2
龍田大社 拝殿

3.三室山(みむろやま)

 現在の龍田大社の祭礼地である「御座峯(ござみね)」が龍田山の伝承地となっており、東の龍田大社に下る端山を「三室山」、御座峯から三室山・龍田大社へ至る道を地元では「神下りの風道」と呼ぶらしいです。

龍田山 説明板
龍田道

 三室山展望台近くの道です。登り口から、この後下山するまでの間、誰にもすれ違うことはありませんでした。奈良の低山を歩くのは本当に気を付けないと危ないと思われます。

三室山 展望台

 各案内板には三室山展望台からの眺めは素晴らしい、と書かれていましたが、ご覧のように樹木が生い茂り、何も見えませんでした。

展望台から少し離れたところからの眺望1

 写真中央部奥側の小高い山が明神山。
眼下、大和川が左(奈良)から右(大阪)へと流れています。
 中央部、奈良盆地。山辺の道の後方の山々から三輪山方面辺りまで見渡せています。

展望台から少し離れたところからの眺望2

 奈良盆地の南部から、右奥の山々は桜井方面、音羽三山と思われます。
 中央遠方に霞んで見えるのが吉野方面の山々です。

大和川と石川(衛我河)の合流点

 ここは大阪府柏原市です。(と言っても、奈良県北葛城郡王寺町から車で約15分の距離です。)柏原市役所前から撮影しました。
 7月4日、坂本臣財(さかもとのおみたから)の軍は高安城を大阪方面に下り、難波から攻めてきた壱岐史韓国(いきのふひとからくに)を大将とする近江軍と衛我河(現在の石川)で戦いました。しかし、味方の兵が少なく、敗れてしまいました。そのため、坂本臣財の軍は飛鳥に撤退しました。

4.竹内街道(たけのうちかいどう)

 大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る。
 「日本書紀」には坂本臣財らが早朝に西の方を見ると、近江方の将軍・壱岐史韓国率いる軍勢が大津・丹比(たじひ)の二つの道から攻めてきた。財たちは高安城(たかやすき)から降りて戦うも多勢に無勢で防ぐことができなかったと記されている。(衛我河の戦い)
(「名所図会」から引用)

竹内街道1
竹内街道2
長尾神社
長尾神社2
長尾神社 御由緒
長尾神社 説明板
石園坐多久蟲玉神社(いそのにいますたくむしたまじんじゃ)
龍王宮1
龍王宮2
龍王宮 説明板
静御前ゆかりの地

5.上ツ道(かみつみち)


上ツ道

 桜井市纏向方面から三輪方面を撮影しています。左の道が「上ツ道」。
 正面の森は、箸墓古墳です。
 上ツ道は大和を南北に走る上・中・下ツ道のうち最も山麓側に位置します。壬申の乱では、三輪君高市麻呂と置始連菟が上ツ道防衛に当たり、箸墓で近江軍を撃破しました。

桜井市周辺図

6.中ツ道(なかつみち)

 橿原市の香久山北麓から奈良市に至る直線道。

中ツ道

 写真の上方が大和川(初瀬川)上流になり、桜井から長谷寺方面に上っていきます。
 この道路が「中ツ道」で、反射鏡を斜め右方向に繋がり、その右手が「村屋神社」です。

大和川(初瀬川)

 下流に向かって撮影しています。下流で大和川と佐保川の合流点があり、佐保川を遡って、「平城京」へ向かうことになります。
 右側の土手は、「中ツ道」です。

万葉集 巻一の七十九

 前出の村屋神社内に建てられた、「万葉集 巻一の七十九」の石碑の解説板です。 「壬申の乱」とは歌の内容は直接関係はありません。
 まず、巻一の七十八に次の歌があります。
 「飛ぶ鳥の 明日香の里を置きて去(い)なば 君があたりは 見えずかもあらむ」、元明天皇の作です。
 (明日香の里を置いて、奈良の都に行ってしまえば、あなたが住んでいるところはもう見えないのでしょうね)
 和銅3年(710年)に藤原宮から奈良の都に遷都する時に神輿を長屋の原(現在の天理市西井戸堂町付近か)に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされています。
 次に、上掲画像の歌があります。詳細は添付下段の「万葉百科」を読んでみてください。
 この歌も、「平城京への遷都」の時の歌です。
 「記紀万葉歌の大和川」(松本武夫著 青垣出版)、というまた、素晴らしい本があります。「大和平野の水」とはつまり、「大和川」でありまして、まるでひげ根植物の根のように大和平野に放射線状に張り巡り、王寺町で一本に集まり大阪平野に流れ出ます。初瀬川、倉橋川(寺川)、飛鳥川、葛城川、布留川、佐保川、富雄川、平群(竜田)川。これら、大和川の支流が「王権」の平野をはぐくみました。(編集長、靏井忠義氏による)
 この、大和川と中ツ道は重要な水陸路でありました。

7.下ツ道(しもつみち)

 藤原京から奈良盆地の中央を北上し、平城京の朱雀大路となります。
 壬申の乱では、飛鳥を制圧した吹負が乃楽山に向かうにあたり使ったとされているそうです。

下ツ道跡の石碑

編集後記

・「なら記紀・万葉『名所図会』」の構成・区切りに従ったためでもあると言い訳するのもいかがなものかと思われますが、今回も一段と長い投稿になってしまいました。
・本来、「拡散」を目的に投稿していませんが、もう少しは読んでくださる方にメリットがあるように考えないといけないのではと、今回も反省しております。
・しかし、書いた本人は、いたって満足しております。
・今回も新しい発見がとてもたくさんありました。派生、展開して行ってみたい場所や、書いてみたい話がどんどん湧いてくるのですよ。
・「壬申の乱」ゆかりの地、シリーズ。あと2回、頑張りたいと思います。
・最後まで、お読みいただいた方には、ほんとうに、心から感謝いたします。ありがとうございました。

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