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大和 ぶら探 「壬申の乱」ゆかりの地を巡る  第一回 「吉野」 


1.「なら記紀・万葉『名所図会』ー壬申の乱編ー」

 次に見ていただく、素晴らしい冊子があります。
 これは、企画・編集・発行が「奈良県」であり、「なら記紀・万葉プロジェクト」により、作成されたものであります。
 かねてから「壬申の乱」のゆかりの地を歩いてみたいと思っていまして、以前に「吉野歴史資料館」を訪れた時、手に取った微かな記憶のあるこの冊子のことを、吉野町産業観光課に電話で尋ねました。
 電話に出ていただいたI氏がめちゃくちゃ親切な方で、事情を話すとわざわざ「奈良県」からこの冊子を取り寄せていただき、私の手元まで郵送していただきました。
 この冊子の中には次のように記載されています。
 「本書では、『日本書紀』を現代語に訳し、あらすじをわかりやすく解説しています。また壬申の乱のゆかりの地も紹介していますので、本書を手に現地を訪れ、体感してください。」
 まず、奈良県のHPにアクセスし、「なら記紀・万葉 名所図会 壬申の乱編」を検索し、問い合わせ先「世界遺産室」に電話を入れると、担当の方につないでいただけました。
 わざわざ、「私が書きました」という方が電話に出てくださったので、「note」にこの冊子を一部転載可能かということをお尋ねし、「著作権は奈良県にあるものの、『記事の出所を明確に記載』すれば差支えないと思われます」とのお話でした。
 ということで、まず、この冊子を紹介の上、今回、現地探訪にとりかかることにいたしました。

なら記紀・万葉 名所図会ー壬申の乱編ー

2.「壬申の乱」とは?

 天智天皇の次の天皇を、天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の子の大友皇子が争った戦争です。
 聖徳太子没後50年、672年に起こっています。この年の干支が「壬申(みずえのさる)」だったことから「壬申の乱」と呼ばれているそうです。
 「日本書紀」は720年に完成した全30巻の歴史書です。そのうち、巻28は「壬申紀」と呼ばれ、「壬申の乱」について詳しく書かれている様子です。
 「壬申の乱」は、日本史上唯一、古代で記録が詳細に残る、本格的な「内戦」とされています。

3.「壬申の乱」を彩る登場人物

「奈良記紀・万葉 『名所図会』(壬申の乱編)」から転載させていただきます。

なら記紀・万葉 名所図会ー壬申の乱編ーから転載

4.「虎に翼を着けて放つ」~壬申の乱開戦前夜~ 

ダイジェスト 「なら記紀・万葉『名所図会』」から

・中臣鎌足とともに「大化の改新」を成し遂げた中大兄皇子は、斉明天皇の崩御後も即位しないまま、政権執行をつづけた。
・663年、「白村江の戦い」に参戦するも、唐・新羅連合軍に惨敗し、参戦していた地方豪族の反感を集めた。
・中大兄は唐に攻め込まれる可能性が高まる中、667年3月19日、都を近江に遷都するも、人民は遷都を喜ばず、そんな中、668年、即位し、天智天皇となった。
・671年、天智天皇は、自身の死期を悟り、子供の大友皇子を政府最高位の太政大臣に任命。その周囲も自身の側近で固め、豪族らは一層の反発へ。
・671年10月17日、天智天皇に呼び寄せられた大海人皇子は蘇我臣安麻呂の助言に従い、自身の命が危ないことを察し、発言を慎み、自分が後継者になることを固辞し、恭順を示し僧になり、19日には近江を離れ吉野を目指した。
・生まれた頃から容姿、武勇に優れた大海人皇子が近江を離れ吉野に向かう姿を見て、人は、「虎に翼を着けて放つようなものだ」と呟いた。 

5.大海人皇子の伝承が残る「吉野」

1.芋峠

 明日香村稲渕と吉野町千股を結ぶ古道にある峠。大海人皇子は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)らと共に近江から明日香嶋宮を経てこの道を通って吉野入りしたとのことです。
 「壬申の乱」に勝利後、天武天皇として即位するも686年に没後、皇后であった鸕野讃良皇女が持統天皇となり、在位中、31回も「吉野離宮」に行幸した際も藤原京を発ち、稲渕、栢森を経てこの峠を越えたと考えられています。

芋峠1

 標高556m。ここで、今年初めて、「ミンミンゼミ」の鳴き声を聞きました。

芋峠2
芋峠3

 吉野町、大淀町、高市郡明日香村、高取町、この4つの自治体の町村境が接続しているようです。

2.金福寺

 このお寺に残る縁起によりますと、「お寺が立つ前にには小さな庵に老女が住んでいて、そこに大友皇子に追われた大海人皇子がやってきて、老女が大海人皇子を匿った」とのことです。

金福寺1

 ナビに頼ってたどり着いたものの、「金福寺」と特定するまで少し考え込みました。ネットで検索し、他の方の投稿写真と照らし合わせてようやく分かりました。

金福寺2

3.大名持神社(おおなもちじんじゃ)

 今は、すでにないという「大海寺」(現・大名持神社境内)にも大海人皇子が潜んだという伝説があるらしいです。

吉野川

 大名持神社前の交差点付近から吉野川を観ています。

大名持神社・妹山樹叢(じゅそう)

 吉野川側から眺めています。少し分かりづらい画像ですが、神社が「妹山」の麓にあります。
 この辺りは、旧伊勢街道と東熊野街道の分岐点であり、「妹山」は標高249mの山で、全山照葉樹の原生林に覆われ、この樹叢は天然記念物に指定されています。この樹叢はあらためて探訪してみたいものです。

大名持神社2
大名持神社3

鳥居をくぐり石段を登ってみますと、とても立派な神社だと驚かされます。

4.櫻本坊(さくらもとぼう)

 「壬申の乱の前年の671年、吉野宮にいた大海人皇子は満開の桜の夢を見る。目覚めて前方の山を見上げると、冬にもかかわらず1本の桜が美しく咲いていた。役行者の高弟角乗が『桜は花の王であり、これは皇子が天皇になるという吉夢だ』と進言し、見事壬申の乱に勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位した。その後、桜の木の場所に寺を建立し「櫻本坊」と名付けたとされる。(櫻本坊縁起)」~名所図会より抜粋

櫻本坊1 正面
「夢見の桜」1
「夢見の桜」2

 満開の美しさは想像に難くないですね。

夏水仙
大講堂1
大講堂2
大講堂からの眺望

 春には手前に桜が綺麗に観れることでしょう。
 「正面に見える、一段高い山は何山ですか?」と帰り間際に拝観受付におられた外国人修行僧にお尋ねしました。流暢な日本語で、「龍門岳ですね。あの山も修行のお山で『登龍門』という言葉の語源と言われています。」と教えていただきました。私も、2024年5月26日に登っています。

役行者座像が祀られています

 座像はHPでご覧ください。
 ご宝号:南無神変大菩薩(役行者にすべておまかせし帰依いたします)
 ご真言:オンギャクギャクエンノウバソクアランキャソワカ

寺宝 天武天皇象が祀られています

5.勝手神社(袖振山)

 大海人皇子がこの神社で琴を奏でていると、背後の「袖振山」から天女が現れ、5度袖を振りながら舞ったとされているらしいです。

勝手神社1
勝手神社 解説
再建中の説明
勝手神社2
舞塚

 壬申の乱から510年後、雪の吉野山で源義経と別れた静御前は、追っ手に捕らえられ、勝手神社の社殿で舞を披露します。すると、居並ぶ荒法師たちは感嘆したそうです。

6.国栖地域(くずちいき)

 吉野の伝承によりますと、大海人皇子は国栖地域でも匿われていたとのことです。
 高見川と吉野川が合流する場所に、「ジジ河原」「ババ河原」と呼ばれる河原が広がっており、この地は、国栖の翁が大海人皇子を大友皇子の追っ手から匿った場所と伝わっています。
 また、大海人皇子が村人から献上された鮎を片側だけ食べ、川に放すと鮎は勢いよく泳いだため、これに戦勝を予見したといい、この地を「片腹淵」と呼ぶようになったとのことです。(「なら記紀・万葉 名所図会」より)

国栖地域

 今回の吉野探訪で観た景色の中で、最も感動した景色です。

天武天皇と紙漉の里
「耳ヶ嶺」の説明
耳ヶ嶺

 画像右上4分の1に見える山が「耳が嶺」。「耳が嶺」の解説を読んで、改めて角度を変えて撮影しました。同じような写真を連ねて恐縮ですが、それほど、この風景が気に入りましたのでご容赦ください。

7.林泉寺

 大海人皇子が60日にわたり、籠ったと言われてるお寺です。

急坂を登って、お寺の裏口にたどり着きました

 車では登って来にくい坂道を猛暑の中を登って来ました。果たして、これがお寺なのか、一瞬ためらいました。

どこが入口か、わからず、裏山の墓地に廻りこみました
人の気配はありませんでした
確かに、「林泉寺」です

8.宮滝

 吉野川の上流にあり、巨岩奇岩が両岸に迫り、瀬と淵が交錯する景勝地。

柴橋からの展望
展望解説板

9.宮滝遺跡

 遺跡の範囲は宮滝の集落の大部分に及ぶようです。これまでの調査で、縄文時代早期から江戸時代にかけての遺構や遺物が出土しているようです。
 特に注目されるのは、飛鳥から奈良時代にかけての遺構のようです。この時代の建物群の遺構は「古事記」や「日本書紀」などに記録されている離宮・吉野宮の跡と考えられているようです。
 吉野宮は「壬申の乱」が起こったり、「万葉集」に載る歌が多く読まれたりした場所だということです。

宮滝遺跡 石碑1

 後方に広がる草むらには、発掘調査の跡が観て取れます。

宮滝遺跡 石碑2 説明板

 この石碑の後方は「吉野宮滝野外学校」です。元は「中荘小学校」だったそうです。

宮滝遺跡 案内板

 できましたら、この画像を拡大してお読みください。とても興味深い内容になっています。

吉野離宮顕彰碑(2022年撮影)

 後の11.吉野歴史資料館の中の、「宮滝遺跡周辺図」をご参考にしていただきながらご覧ください。

10.桜木神社

 次の解説板にも書かれているように、壬申の乱のとき、吉野宮にいた大海人皇子が大友皇子方の追っ手に襲われそうになったところ、桜木神社の桜の根元に隠れて難を逃れたということです。

桜木神社 解説板
桜木神社1

 「象(きさ)の小川」に架かる屋根付きの「こぬれ橋」が参道の役割を果たしています。「象の小川」は万葉集にも詠まれた歴史ある小川です。

象(きさ)の小川(2022年撮影)

万葉集
 大伴旅人 
 昔見し 象の小河を 今見れば いよいよ清けく なりにけるかも
 山部赤人
 み吉野の 象山の際の 木末には ここだもさわぐ 鳥の声かも

桜木神社2
桜木神社3
御神木大杉

11.吉野歴史資料館

 今年、6月5日に川上村の入之波(しおのは)温泉・山鳩湯で一風呂浴びようと日帰りドライブした帰り道、「壬申の乱」に関する冊子があるやなしや、お尋ねしようと、この資料館に久しぶりに寄ってみました。
 ところが、「土日のみ開館」とのことで、その日は平日でしたので閉館していました。それゆえ、冒頭に記述しましたように、吉野町産業観光課にお尋ねした次第です。
 そして、今回、貴重な冊子を手に出かけようと確認したところ、何と、今度は、現在は電気関係の不都合で「当分、休館中」とのことです。

吉野歴史資料館1

 どなたが設計されたか調べてもネット上では確認できませんが、なかなか、おしゃれな建物です。軽井沢あたりのプチホテルのような感じですよね。

吉野歴史資料館2

 ここが、今回の最終探訪地なので、もう陽が西に傾いています。

資料館内1(2022年撮影)

 いつも思いますが、地域の歴史資料館や博物館は、自治体の方々の「愛」を感じます。なかなか、「愛」だけでは食っていけないのでしょうか?
 しかし、皆さん、ほんとうに素晴らしいです。頑張ってほしいですね。

資料館内2(2022年撮影)
宮滝遺跡周辺図1

 資料館の前庭にある説明板

宮滝遺跡周辺図2

 同じく、資料館の前庭にある説明板。こちらは柴橋の横に「中荘小学校」と描かれているので少々古いと思われます。前述のように、現在は、「吉野宮滝野外学校」です。
 ただ、この説明板から吉野宮跡、吉野離宮跡をイメージしやすいと思われます。

6.編集後記

・奈良の平野部に比べ、多少涼しいとはいえ、やはり暑かったです。
 途中、勝手神社前のCafeで休憩しました。

葛餅

 そりゃ、吉野に来たらこれでしょ。
 「葛の御菓子 TUJIMURA 『Café kiton』」

・最初に、「宮滝遺跡」・「吉野歴史資料館」を訪ねたのは2022年8月28日でした。当時、JR奈良駅に「宮滝」の大きなポスターが貼られているのを見たのがきっかけでした。このポスターは以下のリンクからご覧いただけます。

・何度も繰り返しますが、「なら記紀・万葉『名所図会』壬申の乱編」なる素晴らしい出来栄えの冊子に大変お世話になりました。いや、まだこれからこの続きがありますので、これからもお世話になります。
・このたびは、「壬申の乱」のゆかり地探訪ということですので、それぞれの場所の、異なる時代の歴史の話題や関連する事柄にはほとんど触れていません。
・吉野山・桜本坊界隈には「桜」はもちろんのこと、南北朝時代、後醍醐天皇をはじめ、山岳仏教・密教等々、話題に事欠きません。今後、いろんな観点から探訪したいと思います。
・芋峠で「ミンミンゼミ」、桜木神社では「ツクツクボウシ」、「ヒグラシ」の声を聞けました。奈良の平野部は猛暑で、まだ、「クマゼミ」ですから、温度差を感じることもできました。(私が長年住んでいた練馬区石神井公園辺りは、夏の頭から「ミンミンゼミ」「ヒグラシ」で、逆に「クマゼミ」の声はなかったです。やはり、大阪は「暑苦しくて」東京は「涼し気」なのでしょうか?初めて「ミンミンゼミ」を意識したのは、日曜夕方のアニメ「サザエさん」でした。こんなわざとらしく鳴く蝉がいるのか?と思いました。その後、東京に転勤したら、「ミンミンゼミ」が本当に鳴いていて、感動した記憶があります。私の子供の頃は「ニーニーゼミ」しか捕まえられなかったものですから。)
・「吉野」はほんとうに観光資源、奥深く、これから発展の伸びしろが大きいと思われました。「こだわりオタク」の皆様、「あるべき資質をお持ちの本来の政治家」にご期待いたします。
・1日中駆けずり回り、帰宅後の風呂上り、「国栖地域」の景色に乾杯

もはや、「秋味」。NARA  BREWING CO.のグラスを正倉院展グッズのコースターにのせて
(ミュージアムグッズ、無駄遣い「ミーハー男」です)

・今回も、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。



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