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大和 ぶら探「壬申の乱」奈良県外ゆかりの地を巡る 第四回「伊勢・美濃・近江」

タイトル画像:伊吹山山頂から「不破の関」(関ケ原)を望む


はじめに

 「『壬申の乱』ゆかりの地を巡るシリーズ」の第三回「大和路」を投稿させていただいたのは、2025年9月29日でありました。本来、すぐにでも第四回にとりかかりたかったのですが、このシリーズは特に、難しい話や知識を並べる事より、歴史に思いを馳せ、「現地に立つ」ことに最も意味を置いているにもかかわらず、中々、現地に行けなかったので、文章にすることができませんでした。
 年末、年始の用事やお天気、特に、「関ケ原」辺りは、真冬は雪で、新幹線が立ち往生したり、物流輸送が滞ったりする地域です。そんなことで「伊吹山ドライブウェイ(冬季閉鎖)」が目覚める4月を待っていたというわけであります。
 今回も、下手な文章で読みづらい点が多くなると思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
 よろしくお願いします。

1.壬申の乱・戦いの地

なら記紀・万葉「名所図会」から転載

 まず、この上の地図は、「なら記紀・万葉『名所図会』壬申の乱編」(以後、「名所図会」と省略)の話の展開を表現する、そのものであります。今回はこの地図上の大海人皇子の戦いの軌跡(赤いライン)を追うことを目指しました。

1.壬申の乱の(大海人皇子)行程

 ①672年6月22日
 ②6月24日・・・莵田に至る
          隠郡に至る
          横河付近に至る
          伊賀郡に至る
 ③6月25日・・・積殖の山口に至る
          鈴鹿郡家に至る
          三重郡家に至る
 ④6月26日・・・朝明郡の迹太川
          朝明郡家に至る
          桑名郡家に至る
 ⑤6月27日・・・不破郡家、野上行宮に至る
 ⑥7月22日・・・瀬田橋の戦い
 ⑦7月23日・・・大友皇子が山前で自害             

「くるべ古代歴史館」の資料から転載

 上の地図は、「くるべ古代歴史館」の解説パネルのものです。672年に始まった「壬申の乱」における大海人皇子の進路(緑のライン)と740年の聖武天皇の「東国行幸」の行程が黄色のラインで示されています。
 いずれにしても、三重県四日市が運営する資料館のものなので、奈良の「名所図会」には書かれていない地名などが表記されています。

 聖武天皇の東国行幸につきましては、3.伊勢 1.久留倍官衙遺跡公園のところで、記述させていただきます。

「紀行地図」

 次にお示ししますのは、私が今回、探訪した経路であります。
 立ち寄った順に番号をつけました。
 ①不破関資料館
 ②伊吹山(ドライブウェイから)
 ③大海人皇子野上行宮跡
 ④コンフォートホテル四日市(泊)
 ⑤久留倍官衙遺跡公園
 ⑥御在所ロープウェイ
 ⑦瀬田唐橋(建部大社から)
 ⑧葬り塚
 ⑨近江大津宮 錦織遺跡
 ⑩大津市歴史博物館

 一泊二日の日程の時間的な問題、その日のお天気の予報、宿泊地の選定等を考えて、このような順路にいたしました。
 したがいまして、ここから先は、この訪問順序に従いご案内させていただきます。なお、「壬申の乱」と少し観点がずれるところにつきましては、最後に「コラム」「編集後記」にて簡単にご案内させていただきます。

2.美濃

伊吹山山頂から「不破関(関ケ原)」を望む 

 この写真は今回の「ぶら探」の中で、もっともお気に入りの1枚です。
 ですので、タイトル画像にも使いましたが、あらためて、この段で取り上げました。ここに至る2、3日前から天気予報を気にしながら、探訪順序を検討した甲斐がありました。当日、黄砂に関する予報が出ていたのですがこれだけ見渡すことができてとてもうれしく思えました。

不破関資料館 位置関係

 一つ前の伊吹山山頂からの実際の画像は、上の地図の②から①③④方面を眺めています。

 ①不破関資料館
 ②伊吹山
 ③大海人皇子野上行宮跡
 ④南宮山
 ⑤養老山地
 ⑥鈴鹿山脈
 ⑦御在所岳

1.不破関資料館

 大海人皇子がまだ吉野にいた頃、村国連男依(むらくにのむらじおより)ら3人の使者を送り、閉鎖を命じた不破道そばにある資料館。
 不破道を塞ぐことで大友皇子が東国からの徴兵ができなくなったことは、大海人皇子の先見の明の凄さを感じさせるエピソードであるようです。(「名所図会」より)

不破関資料館
資料館 パンフ1
資料館 パンフ2(裏面)
不破関付近の壬申の乱に纏わる史跡マップ
史跡説明

 考えてみれば当然のことですが、このパンフレットに記載されているように、周辺には多くの史跡、見どころがあります。
 できる事なら、いつか再び訪れて深堀したいと思います。

不破関 説明板

 次のサイトにアクセスしてみてください。「三関」を地図上で説明していて分かりやすいです。

不破関資料館南側敷地内から藤古川方向を眺める
上段は私の実際の撮影
下段は説明板を撮影

 関ケ原を北西から南東へと二分するように藤古川が流れます。伊吹山麓に端を発し、不破関の側を流れることから、「関の藤川」とも呼ばれるらしいです。壬申の乱において大海人・大友両軍がこの川を挟んで激戦を繰り広げたと伝えられています。

 「壬申の乱」とはまったく関係ないですが、上の説明板の左上に関ケ原の合戦時に東軍に寝返ったことで有名な「小早川秀秋」が陣取った「松尾山」をご覧いただけます。
 この辺りを探索される観光客は、おそらく、戦国時代の関ケ原の戦いの史跡の方に興味をお持ちの方が多いのではないでしょうか。

2.大海人皇子野上行宮跡

 伊吹山から下山し、国道21号線から少し入ったら、もうそのあたりは草むらと杉の林が迫ってました。自動車一台が辛うじて通れるくらいの狭い道に入っていくと、幟が立っていたおかげで「野上行宮跡」と認識できました。
 帰り間際に、軽トラが狭い道に入ってきて少し距離を置いて停まり、お爺さんが降りてきたので、「何かまずいことでもやらかしたかな?一般車が乗り入れたらまずかったのかな?」と思っていました。対向できないし。すると、お爺さんが「歴史研究かい?」と微笑みながら話しかけてきました。地元の方で、この辺りの話を楽しそうに聴かせていただけました。
 この頃、私の髪も白くなってきたので、皆さんがよく気軽に声をかけていただくようになってしまいました。ありがたいことです。
 「家族に乾杯!」状態です。

野上行宮跡

 壬申の乱の際、大海人皇子が本営を置いた場所とされています。「続日本紀」に、尾張連大隅(おわりのむらじおおすみ)の領地でこれを大海人皇子に提供したとされています。また、軍資金も援助したとされ、後に宿祢の姓が与えられたということです。桑名郡家(くわなのこおりのみやけ)から野上に入った大海人皇子は、壬申の乱が終わるまでこの地を離れなかったということです。

 近くには標高104mの「桃配山(ももくばりやま)」があり(ここは時間を割いても行くべきでした。)、関ケ原の合戦の際に徳川家康が布陣した山として有名ですが、その名前は大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話に由来するとされています。(「名所図会」より)

野上行宮跡 説明板

3.伊勢

1.久留倍官衙遺跡公園

 「官衙(かんが)」とは役所のことで、久留倍という場所にあった古代の「役所跡」のことです。
飛鳥時代、奈良時代(8世紀中頃から後半)、奈良時代末から平安時代前期の3期で異なる建物が建てられていたとされています。

久留倍官衙遺跡 説明板

 上の解説板の右側のイラストをご覧ください。グレーの道路(国道1号線バイパス)が見て取れます。このバイパスを建設するために事前調査をし、平成11年から始まった発掘調査で、1300年以上前の、全国でもめずらしい東向きの役所(普通は南向き)が見つかりました。 
 平成18年には、古代「伊勢国朝明郡(いせのくにあさけぐん)」の郡衙(ぐんが)跡である可能性が高いとして国の史跡に指定されました。

くるべ古代歴史館

 遺跡の変遷をはじめ壬申の乱や聖武天皇の東国行幸、万葉集との関わりをイラストや出土遺物、建物の模型や映像などで解説されています。
 また、木簡づくりや、古代衣装体験などもできます。
 スタッフの方々はご丁寧で、大変親切でした。

ボランティアの方から説明をいただく

 このボランティアの方、「ただ者」ではない様子でした。近ごろ、たまにお会いする、ちょっと残念な「定年後のにわか解説者」、「なんちゃって歴史通」ではなく、めちゃくちゃ詳しい方でした。
 別のところで「歴史博物館?」を私財で永年、運営されていたそうです。
 お世話になりました。帰り間際には、思わず最敬礼させていただきました。

聖武天皇 東国行幸

 壬申の乱以後の史実です。
 天平12年(740年)、藤原広嗣(ひろつぐ)が政府への不満から大宰府にて挙兵しました。混乱の中、聖武天皇は「朕意うところ有るに縁りて、今月の末に暫く関東に往かむ」として行幸を企てます。
 同年10月29日に出発、伊賀から伊勢に入ります。この間に広嗣が斬罪に処せられたとの報告を受けますが、行幸は続けられ天武の進軍ルートをトレースするように、伊勢から美濃に向かいます。

出土物など

 上の写真、左側は「役所」であったことを裏付ける、硯や木簡です。
 私がボランティアの方の説明で驚いたのは、右側の写真、上段左の深緑の器です。「唾壺(だこ)」。平たく言えば、「痰壺」。このようなものが出土するのは、高貴な方がおられた証だそうです。しかし、この器を観て、最初に「唾壺」だとどのように判断したのでしょうか?

久留倍官衙遺跡(公園)

 このようなアングルで撮影しているのは、写真上部分の草が影になっているので判るように、上にバイパスが走っているからです。

八脚門・塀(Ⅰ期)
八脚門・奥は正殿(Ⅰ期)

 八脚門などの政庁部が「東向き」に配置されている理由は、672年の「壬申の乱」と天武天皇(大海人皇子)の強烈な太陽(天照大神)信仰にあると思われます。

 大原則である「南向き」を覆した背景には、主に以下の三つの要因が挙げられます。

 第一に歴史的記憶です。挙兵した大海人皇子は旧暦6月26日(現在の7月29日頃)の早朝、朝明郡の迹太川辺から東の海より昇る朝陽(天照太神)を望拝し、戦勝を祈願しました。

 「日本書紀」において、大海人皇子が天照大神を遥拝した場面が記されているのは、巻第二十八(天武天皇上)の「壬申の乱」のくだりです。
 乙丑、自朝明郡迹太川辺、望拜天照大神
 《現代語訳》:672年6月26日、大海人皇子は朝明郡の迹太川のほとりより、天照大神を遥拝された。

 伊勢神宮のある方向を向いて拝んだのではなく(伊勢神宮は久留倍官衙遺跡からほぼ真南の方位です)、東から昇る『太陽そのもの(天照大神)』を拝んだのだと思われます。(それが結果として東向きの八脚門につながる)

 そして、この後の奇跡的な勝利の記憶が、地元の聖地化へとつながります。

 第二に方位の合致です。発掘調査により、八脚門は真東から北へ10度傾いた「方位角80度」を向いていることが判明しています。これは知多半島の地形を考慮した7月29日の実際の日の出方位(約68.5度)とわずか11.5度差であり、夏の激しい朝陽をほぼ正面から迎え入れる設計でした。

 第三に権威の誇示です。高台から東の伊勢湾を広く見渡す構造は、海や陸路から訪れる民衆に対し、国家の最高神である太陽神の加護を受けた天武権力の正当性と威厳をダイナミックに視覚化する意図があったと考えられています。

正殿(あずまや)(Ⅰ期)

 正殿は、政庁の中心的な建物です。正殿の前の広場では、役人などが集まって儀式や宴といったまつりごとが行われたとのことです。

上段 長大な建物2(Ⅱ期)
下段左 長大な建物1(Ⅱ期)
下段右 正倉院の堀(Ⅲ期)

 長大な建物2は、税として納められた稲穂が置かれていたと思われます。
 長大な建物1は、聖武天皇の東国行幸に関わる建物の可能性があります。
 正倉院は税として穀物が納められ、そこには堀があったとのことです。

4.近江

近江のゆかりの地

 ①瀬田唐橋
 ②建部大社
 ③葬り塚
 ④近江大津宮 錦織遺跡
 ⑤大津市歴史博物館 

1.瀬田の唐橋

現在の瀬田唐橋

 壬申の乱における大海人皇子軍と大友皇子軍の最後の決戦の場です。
 672年7月22日、大海人皇子軍は瀬田に到着します。大友皇子軍はすでに橋の西側に陣をしいており、後ろが見えないほどだったと言われています。続けざまに矢が放たれて雨のように降り注ぎました。大友軍は橋の途中を切り取って長板を置き、板を踏んで渡ろうとする者がいれば板を引いて川に落とそうとしたため大海人軍は進めずにいました。
 そこで、大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)が矢を受けながらも単身で突入しました。大友軍は逃げ散りました。大友皇子をはじめ左右大臣らも逃走しました。(「名所図会」より)

説明板

 瀬田橋は歴史の中の重要な場所でした。

百足退治伝承の地 顕彰碑

 今回の壬申の乱とは異なる時代の伝説です。

百足退治伝承の地

2.葬り塚(茶臼山古墳)

 茶臼山公園内にある秋葉神社背後にあります。壬申の乱で敗れた大友皇子の遺骸を埋葬した場所との伝承があり(諸説あり)、同地には大友皇子の塚とその皇子の与多王(よたのおおきみ)および殉死した6人の武将の塚が並んでいます。

葬り塚
説明板
上段 5つの小さな塚が古墳後円部にある
下段 大友皇子の塚
壬申の乱史跡顕彰碑

 昭和47年に建立。表面には天文年間に室町時代の公卿・三條西三光院實枝(さんじょうにしさんこういんさねき)が参拝して詠んだ歌が彫られています。

 紅葉葉にかかる時雨は茶臼山 むかしを偲ぶ涙なり

 裏面には由緒が記してあり、「法傳寺古記によれば、大友皇子軍瀬田に敗れ、粟津岡南小高山前に崩御、側近ご遺体を大津宮を望む粟津岡上に葬りて殉死す。然るに賊軍の汚名を受け公然と皇子を祀ることができず、皇子の御子與太王が僧となり密かに父を弔い遺言して父の廟側に葬られる」とあります。(「名所図会」より)

3.近江大津宮 錦織遺跡

第1地点

 中大兄皇子(天智天皇)が飛鳥から遷宮したという大津宮跡とされています。壬申の乱で大友皇子が大海人皇子に敗れたため、5年余りで使われなくなりました。巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40Cmから50Cmほどの柱跡が7つ、門跡、柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。(「名所図会」より)
 写真は、「名所図会」に掲載された地点とおなじ「第1地点」。近所の子供たちがボール遊びをしていました。

錦織遺跡の県有地点(第9地点の説明板から拡大)

 上の画像は第9地点の説明板にある図の拡大図です。見ての通り、「遺跡の上に住宅街ができた」という現実を物語っているように思えます。

  説明板によると、滋賀県や県教育委員会は1974年(昭和49年)の発掘調査以降、ここが大津宮の跡地であるとの推論に至ったそうです。柿本人麻呂が荒れ果てた大津宮を詠んでから、調査までどれほど長い歳月が流れたのでしょう。

  遺跡の保存と開発の葛藤といえば、奈良の平城宮跡も同様でした。1920年代には当時の私鉄の線路が中央を貫通し、昭和初期には紡績工場の建設計画まで持ち上がりました。このとき危機感を抱き、私財を投げうった棚田嘉十郎氏らの遺志を継いで立ち上がったのは、国ではなく地元の民間有志たち(平城宮跡保存会など)だったと言われています。

 ちなみに、現在もその線路(近鉄奈良線)は現役です。以前、平城宮跡のボランティアガイドの方に「線路が通っている現状をどう思うか」と半ばジョーク交じりに尋ねたところ、「それも平城宮跡の歴史の一コマと考えてください」という、深く面白い答えが返ってきたのが印象的でした。

 滋賀には、地域社会への貢献を重んじる近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」という精神があります(昭和後期に研究者が提唱した造語とも言われますが)。歴史的な遺産を守る「世間よし」の視点が、当時の滋賀県政、ひいては日本全体において、経済的・文化的な余裕のなさから抜け落ちていたのではないか――そんな寂しさを禁じ得ません。

近江大津宮錦織遺跡 滋賀県による説明板
第1地点 滋賀県教育委員会による説明板
第2地点 滋賀県教育委員会による説明板
第7地点
上段 当日撮影の現場
下段 滋賀県教育委員会による説明板
錦織 地名解説
柿本人麻呂の歌
柿本人麻呂の歌 解説板

4.大津市歴史博物館

 大津の文化財や歴史資料を収集、保管、調査研究し、公開しています。館内常設展示では、テーマ展示と年表展示に分け、大津宮、堅田・坂本・大津百町・膳所の街並み模型の他、文化・産業に至るまで幅広く実物資料とともに紹介しています。

大津歴史博物館 玄関 (上段写真)
玄関前からの景色 (下段写真)
「近江大津宮」コーナー
近江大津宮の復元 説明展示
瀬田橋 復元模型
瀬田橋 説明板

 上の説明にありますように、現在の瀬田の唐橋は昭和54年に架け替えられたものであり、壬申の乱の舞台となった橋の遺構が唐橋遺跡の発掘調査で発見されました。7世紀中頃と考えられる第1橋は、現在の瀬田唐橋の南約80m地点で発見され、橋の構造は組み立て式の重厚な造りであったらしいです。

5.コラム ① 「伊吹山」

 標高1377m。日本百名山の一つ。
 新幹線にたびたび乗っていた(好むと好まざるにかかわらず)時代には車窓から見上げた山です。新幹線は、冬場は、彦根、米原辺りを過ぎて関ケ原に差し掛かる頃は徐行運転になってしまうこともよくあり、そのような時は、伊吹山は雪やガスで見えなくなってしまいます。
 山頂方面は風雪激しい難所で、ヤマトタケルが苦難したのもよくわかります。
 今回、天候に恵まれ、不破関(関ケ原)を中心に歴史の舞台を上から眺められたのはとてもラッキーでした。

伊吹山ドライブウェイから仰ぐ
左 ヤマザクラ 右 アオダモ
長浜・米原・彦根方面を望む
北陸方面を望む

 目の前、荷物運搬用のトロッコのレールがあり、その向こうの下方に山頂駐車場が見えます。前方約170㎞先に「立山」が見えることがあるらしいです。

山頂付近全景
日本武尊(ヤマトタケル)像

 ヤマトタケル(日本武尊・倭建命)は第12代景行天皇の皇子で、西国の熊襲や東国の蝦夷征伐に奔走した、記紀に登場する英雄です。
 彼は、東征帰路の途中、伊吹山に荒ぶる神が居ることを知り、その征伐に向かいます。そこで神の怒りに触れたヤマトタケルは病に冒されてしまいます。その後は大和に戻ることなく、伊勢の能褒野で命を落としました。陵に葬られたヤマトタケルは白鳥となって飛び立ったとされています。

琵琶湖 竹生島を望む
伊吹山 花暦 案内板
この日に見れた草花(一部)
左列上から ショウジョウバカマ、シラユキゲシ?、ヤネコノメソウ
右列上から ハルザキヤマガラシ、アマナ、キジムシロ?

 Googleで調べましたが、確信は持てません。

6.コラム ② 「建部大社」

 訪問する予定ではありませんでした。
 瀬田の唐橋を訪ねるにあたり、適当な駐車場が見当たらず、都合よく、「建部大社」にお参りして駐車することにしました。

 近江国の一之宮。景行天皇46年(116年)、日本武尊のご神霊をお祀りしたのが始まりらしいです。

 平家に捕らえられた源頼朝が、流罪にて伊豆へと向かう途中、当大社に立ち寄り源氏再興を祈願した物語は有名です。

建部大社 説明板より地図を拡大
神門
拝殿
建部大社 説明板
建部大社 
ヤマトタケルと伊吹山の神
建部大社
ヤマトタケルと白鳥伝説

 倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるはし

編集後記

四日市で一泊

 ①「コンフォートホテル四日市」②店のマスターに薦めてもらった「宮崎本店」の日本酒 ③早い時刻なのに人通りのない商店街 ④再開発中の「近鉄四日市」駅前

・大抵、宿泊予約サイトを使って、ホテル等を予約します。今回も、贅沢をするつもりもないので、適当に「コンフォートホテル四日市」を予約していました。とても、清潔だし、コスパが良くて良かったです。
・夜は、「ディープな居酒屋」を探しに街に出ました。水曜日でしたが休んでいるところが多く、まだこれからの時刻なのに、繁華街の人通りは予想以上に閑散としていました。
・「日本酒飲み放題」の立て看板につられて入りました。店のマスターが愛想が良くて良かったです。地元の居酒屋さんで、地元の人にいろいろ教えてもらえるのが良いですね。呑兵衛としては、恥ずかしながら、「キンミヤ焼酎」が「宮崎本店」という醸造元の四日市の焼酎だと初めて知りました。さらにはその「宮崎本店」が日本酒を出していることなんぞ、全く初めて知りました。「キンミヤ」は昔、「赤羽一番街」あたりの巷で「ホッピ-」で割って何も考えずに呑んで、ただただ酔っぱらってたような記憶しかなくて。
・桑名で泊まることも考えたのですが諸条件を考慮し、今回は四日市になっていました。ただ、「その手は桑名の焼き蛤」にはいずれ挑みたいと思います。
・翌朝、ホテルの朝食バイキングに外国人が多いのには驚きました。あと、平日なので、ビジネスマンも多かったです。

御在所岳(1212m) 御在所ロープウェイ Mont-bell

・大津方面に向かう途中に、御在所ロープウェイの乗り場付近にあるという、「Mont-bell御在所店」に寄りました。ご当地Tシャツを買うだけのために。 ロープウェイの先が御在所岳です。
・お土産店でワンカップの地酒を買いました。帰宅後、振り返りながら一杯やるために。

・たびたび、同じことを書いて恐縮ですが、私にとっては「とにかく、歴史を刻まれた場所に立ってみたい」ということが第一にあります。これは、何も「歴史」に関することだけではありません。たとえば、音楽にしてもしかり、スポーツにしてもしかりです。「立ってみて(やってみて、あるいは食ってみて)」五感で感じる。これほど楽しいことはありませんね。
・「関ケ原」なんて場所は、いつも新幹線で素通りするだけで、今回初めて足を地面に着けました。そりゃまあ、戦国時代の合戦の方がはるかにポピュラーでしょうし、実際、訪ねてみると、ここをそういう観点から探索しようものならどれくらい時間がかかるのだろうかと、気が遠くなる思いをしました。
・一泊二日、とても楽しい「ぶら探」でした。
・なら記紀・万葉「名所図会」-壬申の乱編-を発行された、奈良県「なら記紀・万葉プロジェクト」の皆様に感謝申し上げます。
・「『壬申の乱』ゆかりの地を巡るシリーズ」第5回(最終回)をできるだけ早く投稿させていただきたいと思います。
・今回も、長々と、最後までお読みいただきまして、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。


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