突然ですが、40代はなんでもない友達が欲しい
40歳になった今、友達が欲しい。
友達がいないわけではない。けれども、何の肩書きも持たず、利害関係もない、ただただ時間を一緒に過ごす友達がほしい。
東京在住のフォトグラファー、1歳の娘を絶賛子育て中の私は、人生後半戦に突入しつつも、腰を据えるどころか、毎日忙しない日々が続いている。
キャリアや家族を手に入れた30代、ともに切磋琢磨した戦友、同じ子どもを持つママ友、創作に向き合う良きライバルたち、私の周りには仲間がいた。けれど、私の友人関係はみんな肩書きを背負ったものばかりだ。頼りになるし、励みにもなる。困ったことがあれば助け合うし、励まし合うこともできる。それでも、自分の役割があるゆえに、人と繋がれば繋がるほど、本当の素の自分が隠れていくような、奇妙な寂しさがあった。
仕事で悩んだとき、夫と喧嘩したとき、なにか楽しいことがあったとき、遠慮せずに声を掛けることができて、ただ一緒にいてくれるだけでいい。東京の街中を一人で歩いているときに、ふと思ってしまうのだ。居心地のいい、時間を気にせずになんでも語れる友人がいてくれれば。40代に突入するいま、急に友達が欲しいなんて小っ恥ずかしいけれど。
去年の夏、爽やかさを通り越して猛烈な真夏日が続くある日、私は見つけてしまった。
炭酸の弾けるような刺激的で煌びやかな関係に憧れたり、つい否定や嫉妬してしまったりする若い頃の友人関係ではない、今の私ならそれぞれが育んできた人生をじっくり面白がって、尊重して、讃え合うことができる、人と人との結びつきを。
世界はそれを「友達」と呼ぶのかもしれない。私が気づかなかっただけで。
私はある仕事のお客様と出会った。ほぼ同年代の女性で、地方からの上京組。私とはジャンルは違えど写真の仕事をしていて、同じく女の子を育てていた。話を聞けば聞くほど、まったく違う人生を歩んでいて、彼女の人生には、私とは異なるキラリと光るものがあった。そのことがたまらなく面白く、私は彼女という人間にとても興味が湧いた。
彼女と一緒に時間を過ごしたら、私たちの間にはどんな違いや共感が生まれるのだろう。仲良くなりたかった。ずばり、友達になりたいのだ!
少しずつ会う機会を増やして、時間をかけて距離を縮めることで、友達という関係が自然と生まれるのだろうか。いや、でも仕事も子育てもてんやわんやの私にはそんな悠長な時間はない。数ヶ月に1度会えれば御の字。そんな関係を「友達」と言えず、「知り合い」止まりになってばかりいる。
そうこうしているうちに、あっという間に冬の季節になってしまった。冷たい空気が私の鼻先をツンと刺激して、少しだけ孤独が身に染みる。40代の時間はとてつもないスピードで過ぎていく。もうこうなったら効率重視だ!タイパだ!このご時世の勢いに任せて、でも恐るおそる「友達になりませんか」とメッセージを送ってみた。うわあ、言っちゃったよ。スマホに残る「友達」という文字に目を覆いたくなる。保育園の幼児が交わす会話かとツッコみたくなる。もしくはどこかの国民的アニメで「友達になろうなんて言うのは、本当の友達なんかじゃない」と怒られそう。それでも私は友達が作りたい。彼女とお互いに大切にしているモノの違いを楽しんだり、興味をもったものを一緒に眺めてみたかったのだ。
彼女は晴れやかにあっさり快く「嬉しい!友達になろう!」と返事をしてくれた。え、いいの?もうちょっと考えてもいいんだよ?「友達」だよ?慎重にご検討くださいよ、と思いつつも、彼女のアンサーに心がぶわっと揺れて、両手をグーにして何度も縦に振っていた。既読スルーされなくて良かった、ほんとに。
先日、春が過ぎて街が緑豊かになってきた頃、彼女と用事があり初めて二人きりで会った。ランチを食べながら、「友達なんだから」と気兼ねなく、仕事のこと、創作のこと、子供のこと、好きなもの、そして最近の世情について話をした。共通点が多いとつい比較してしまいがちだけれど、不思議なことに嫉妬を感じなかった。自分とは違う部分も否定的に捉えることもなく、新しい視点として私の好奇心をくすぐらせた。同じように思っていたことは、ずっと閉じていた宝箱を一緒に開けたようなワクワクと安心感を感じ、一気にお互いの思いの丈を共有した。食べていた料理の器はすでに空になっていても話題は次々と移り変わり、気づいたら2時間もおしゃべりをしていたのだ。
彼女と駅で別れて一人電車のホームで今日の会話を振り返ってみる。「友達になろう」と声を掛けてから数ヶ月が過ぎ、電車のホームには初夏を感じさせる眩しい日差しが差し込む。待っていた電車が到着すると、爽やかな風が吹いて私の髪がなびく。
そうだ、これだよこれ!歳を重ねた私はこんな友達が欲しかったのだ。20代の頃に感じた、友達への嫉妬や憧れが渦巻いたなんだかヒリヒリした気持ち。未来の希望や不安を一緒に分かち合う一体感。ときには相手を否定する関係とは違う。
これまでの経験や蓄えてきた価値観を詰めた「人生の箱」を抱えて、個々の人生を尊重し合いながら、心をオープンにして、隣で居心地よく語り合えるような間柄。若い頃の私には味わえない、今にも溶けそうなアイスクリームと弾ける炭酸がまばゆい甘くて刺激的な結露が輝く冷え冷えのクリームソーダではなく、ティーポットでじっくりと淹れたお茶のような、茶葉の年月を感じる味わい深さや、ふと感じる新鮮な香り、白い湯気のほっとする安心感が、人生をなんとか生き抜いてきた40代にならないと得られない友達の形だ。
純粋な気持ちで接することができる「なんでもない友達」の前では、ただの私に戻れる。ずっと隠していた本当の素の自分を曝け出したような、大きな解放感があった。電車の扉が開くのと同時に心がパッと花が咲いたような高揚感が増して、私の足取りはスキップするように軽やかだった。
お互いの持つ「人生の箱」の中に、一緒に経験したことを入れられる存在になりたい。同じものに触れても、それぞれの人生を過ごしてきた我々はまったく違うものが入るはず。それでいいのだ。
40歳を過ぎて、「なんでもない友達」を私は見つけてしまった。きっと、彼女一人だけじゃないはず。電車の窓から流れ行く街並みを見ながら、きっとまだ近くにいるかもしれないと思った。見つけてみたい。どこかにいて欲しい。
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