静寂の縁#50 John doeの手記
人は、苦しみを理解してから
世界の構造に気付くことがある。
理不尽であっても背負わなければならないこと。
逃げることも、乗り越えることも、
結局は自分の選択として残ること。
この詩は、苦しみを否定するのではなく
その重さの中で生まれる理解を静かに見つめている。
迷走も苦悶も不安も抱える苦しみを引きずり歩くと
解るようになる事が幾つかある
それは理不尽で一個人の非でなくとも
背負わねばならぬのがその人そのものでしかない
環境も社会も他者も含めて
大小、質、そういった差異はあれど同じである事
上手く方便とし、空へ舞い上がるか
それとも、言い訳とし、地上で骸となるのを待つか
その様にも変わってしまう気付きである
事象とは起こり得た時から対応を迫ってくる
適応し、獲得していく事でしか解消はされない
目に見える傷も目に見えぬ傷も
方法論は同じなんだよ
不可視の事象を捉え可視化したら狼狽える事を
忘れていく。
精神や心を軽く捉える事が愚かしく
そして、嘆かわしいと思うんだ

だが、それをどう扱うかは選べる。
人の苦しみは、
単純に「誰が悪いか」で整理できるものではありません。
環境、社会、偶然、他者。
それらが絡み合った結果として
人は何かを背負うことになる。
それでも、出来ることは限られています。
逃げるか、受け止めるか。
あるいは、理解して自分の力に変えていくか。
この詩は、苦しみそのものを美化しているのではなく、
それを軽く扱う態度への違和感を描いています。
見える傷も、見えない傷も、
本来は同じだけの重さを持っている。
それを忘れないことこそが、
人が人であるための最低限の姿勢なのかもしれません。
