組織の常識が、人の思考を奪うとき
■|はじめに
「なんでだろう」
気がつけば、
子どもの頃から私の頭の中には、
いつもその問いがあった。
「どうしてこの子は、
そんな言い方をするんだろう」
「どうして先生によって、
言うことがこんなに違うんだろう」
「どうしてあの子は、まだ授業も始まって
いないのに機嫌が悪そうなんだろう」
幼少期の私は、
そんなことばかり考えていた。
今思えば、少し変わった
子どもだったのかもしれない。
普通なら、「嫌だった」「嬉しかった」で
終わるような小さな出来事も、
私はその先が気になって仕方がなかった。
この人は、
何を見ていたのだろう。
何を感じて、
そんな言葉を選んだのだろう。
目の前に起きた出来事よりも、
その奥にある理由を知りたかった。
でも、その頃の私は、
それが特別なことだとは思っていなかった。
子どもは、
自分以外の人の頭の中を
見る機会がほとんどない。
だから私は、人はみんな、
同じように考えながら
生きているものだとずっと信じていた。
大人になれば、
その力はもっと磨かれていく。
社会人になれば、
みんなもっと深く考えながら
仕事をしている。
私は、そんな未来を
当たり前のように想像していた。
けれど社会人になって、
一か月も経たないうちに、
その思い込みは静かに崩れていった。
当時の私は、まだ知らなかった。
組織には、人の「なんでだろう」を、
少しずつ飲み込ませてしまう文化があることを。
■|社会人は、みんな考えて仕事をしていると思っていた
社会人になっても、
私の幼少期からの思考の癖は
何一つ変わらなかった。
仕事を始めると、私の頭の中には
またいろいろな「なんでだろう」が
次々と浮かび始めた。
「なんでこのルールなんだろう」
「なんでこの順番で仕事をするんだろう」
「もっとわかりやすい方法はないのかな」
私は、それを考えることも
仕事の一部なのだと思っていた。
仕事とは、目の前にある作業を
ただこなすことではない。
今のやり方を理解し、
より良い方法を考え、
組織を少しずつ良くしていくこと。
それが仕事であり、
仕事の面白さなのだと信じていた。
だから新人だった私は、
上司の忙しさを気にしながらも、
浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。
きっとそれが、
目の前にいる上司のためにも、
組織のためにもなる。
当時の私は、
そう固く信じていたからだ。
■|私は、「考えること」を歓迎されなかった
「これって、
どうしてこのやり方なんですか?」
「マニュアルはありますか?」
「こうした方がわかりやすい気がします。
先輩の視点から見て、どうでしょうか?」
当時の私は、仕事に文句を
言いたかったわけではなかった。
今のやり方を
否定したかったわけでもない。
ただ、知りたかった。
もっと良くなる方法を考えるために、
なぜ今のやり方になっているのか、
その背景が必要だった。
目の前の上司が
少しでも楽になればいい。
組織が少しでも良くなればいい。
そうやって人の役に立つことが、
自分の社会人人生を
豊かにしてくれるのだと思っていた。
二十三歳の私の中にあったのは、
そんな素朴な気持ちだけだった。
けれど、上司から返ってきた反応は、
私が想像していたものとは大きく違っていた。
「忙しいから、自分で考えて」
「前からこうだから」
「そこまで考える必要はないと思うけど」
「そう思うなら、自分でやって」
今の私なら、
上司がそう言いたくなった理由も
少しはわかる。
当時の現場はとても忙しかった。
私が入社した企業は成長途中にあり、
新人一人の疑問に、
その都度立ち止まって説明する余裕など
当時はなかったのだと思う。
上司にも、きっと悪気はなかった。
ただ、私のことが
相当面倒だったのだろうとは思う。
けれど、何の経験もなかった当時の私には、
そこまで想像することができなかった。
私は、上司とのやり取りを、
ただこう受け取った。
「ここでは、考えることは歓迎されないんだ」
■|私は、「考える自分」を隠すようになった
「歓迎されない」と感じたからといって、
人はすぐに考えることをやめるわけではない。
考えたことを、外に出さなくなる。
私もそうだった。
頭の中では、相変わらず
「どうしてなんだろう」と考えていた。
でも、その問いを口に出さなくなった。
問いを口にしても、歓迎されない。
提案をしても、面倒な人だと思われる。
そう学習した私は、
自然と質問を減らしていった。
言われたことを、そのままやる。
どうしても工夫したくなったときは、
誰にも迷惑をかけず、自分の中だけで
完結できる範囲にとどめる。
何も言わない方が、仕事は早く進む。
その方が怒られない。
その方が、周りとうまくやっていける。
私はそうやって、
目の前にある組織文化を、
自分の中に取り込もうとしていた。
周りを見れば、上司の言葉に
素直に頷く同期がいた。
その同期は余計な質問をせず、
上司に反論もしなかった。
仕事中も、飲み会でも、
いつも上司たちに気に入られていた。
私はその姿を見て、
次第に思うようになった。
「ああ、こういう人が、仕事ができる人なんだ」
だから私も、
少しずつ変わろうとした。
けれど、私には考えることを
やめることだけはできなかった。
私の頭は、止めようとしても
勝手に考えてしまう。
だから私は、
考えることをやめたのではない。
考える自分を隠すことを覚えた。
気づけば私は、周りから
「何を考えているのかわからない人」に
見えるようになっていた。
今思えば、あれが私にとって、
社会人になって最初の「適応」だった。
組織に適応したのではない。
「考える自分を見せないこと」に、
私は適応したのである。
■|「前からそうだから」は、本当に理由なのだろうか
そんなふうに働く中で、
私は組織の中にある
一つの常識を知っていった。
「前からそうだから」
「あの人がそう言ったから」
「今までこれでやってきたから」
そうした言葉は、組織の中で、
まるで正解のように扱われていた。
しかも、それを口にするのは、
私よりも社会人経験が長く、
役職のついた大人たちばかりだった。
だから私は、
強い違和感を覚えながらも、
心の中で自分に言い聞かせていた。
きっと、
私が知らない理由があるのだろう。
新人の私には、
まだわからないだけなのだろう。
今のやり方になった経緯が、
どこかにあるのだろう。
人は、同じ言葉を何度も聞いていると、
それを少しずつ
「当たり前」だと思うようになる。
私もそうだった。
自分でそれらしい理由を補いながら、
心に浮かんだ問いを
静かに閉じるようになっていった。
「でも、それって
本当に理由になっているんだろうか」
そう思っても、口にはしない。
問い続ける人ではなく、
空気を読めない人。
面倒な人。
「やばいやつ」
そんなレッテルを貼られないために、
私は自分の問いを飲み込んだ。
あの頃の私が手放したのは、
考える力ではなかった。
「なんでだろう」と感じたことを、
そのまま問い続けることだったのだと思う。
■|なぜ「前からそうだから」は、組織で機能するのか
今になって、
もう一つわかることがある。
当時の私は、
「前からそうだから」という言葉を、
思考を止めるための言葉だと思っていた。
でも、本当はそれだけではなかった。
あの言葉は、
考えなくても組織を動かせる、
とても便利な言葉でもあった。
組織には、効率が必要である。
毎回すべての仕事を一から
考え直していたら、仕事は前に進まない。
一人ひとりが違う方法で仕事をしていたら、
品質も安定しない。
だから前例が生まれる。
ルールが生まれる。
マニュアルが生まれる。
共通認識が生まれる。
そして、その先に
「前からそうだから」
という言葉が生まれていく。
それ自体は、
決して悪いことではない。
むしろ、多くの人が同じ方向を向き、
迷わず働くためには必要な仕組みなのだろう。
忙しい現場では、
一つひとつの理由を説明するよりも、
「前からそうだから」と
伝えた方が早い場面も多くある。
私自身、人を育てる立場になってから、
その言葉を使いたくなったことは
一度や二度ではない。
目の前の仕事を、
とにかく早く進めなければならない。
相手の疑問に立ち止まる時間がない。
今は理由を説明するよりも、
まず動いてほしい。
そんな場面は、確かにある。
むしろ、毎日ある。
だから私はもう、
「前からそうだから」という言葉を、
すべて悪だとは思わない。
あの言葉は、
組織を同じ方向へ動かすためには、
とても優れた言葉だったのだと思う。
すべての背景を説明しなくても、
人を動かせる。
一から考え直さなくても、
仕事を前へ進められる。
ある意味、
組織を効率よく動かすための、
魔法のような言葉だった。
けれど、だからこそ考える。
私は今、
組織を動かそうとしているのだろうか。
それとも、
人を育てようとしているのだろうか。
組織に根付いた常識は、
組織を動かすためには、
とても便利な言葉だった。
でも、人を育てるためにも、
それは本当に十分な言葉なのだろうか。
■|便利な言葉には、副作用がある
便利なものには、副作用がある。
私はそう思っている。
「前からそうだから」
その言葉を聞く回数が増えるほど、
人は少しずつ、
考えなくてもいいことを覚えていく。
「ここでは質問しない方がいい」
「ここでは空気を読んだ方がいい」
「ここでは前例に従った方が早い」
誰かから直接そう教えられなくても、
人は周囲の反応を見ながら学習していく。
質問したときに、面倒そうな顔をされた。
提案したときに、場の空気が止まった。
疑問を口にしたときに、
「そこまで考える必要はない」と言われた。
そうした小さな経験が積み重なると、
人は問いを持たなくなるのではない。
問いを外へ出さなくなる。
「なんでだろう」という問いが浮かんでも、
口にする前に、自分の中で消すようになる。
どうせ聞いても、答えてもらえない。
どうせ理解してもらえない。
どうせ最後は、「前からそうだから」で終わる。
そう思えば、人は自然と口を閉じる。
そして、問いを飲み込むことに慣れていくと、
やがて違和感まで見ないようになる。
「この会議は、本当に必要なのだろうか」
「この書類は、いったい誰が読んでいるのだろう」
「もっとわかりやすい方法があるのではないか」
そんな小さな引っかかりが浮かんでも、
「そういうものだから」と、
自分の中で終わらせるようになる。
けれど、
違和感は本来、考える入口だった。
目の前で起きていることと、
自分の中にある何かが、
うまく一致していない。
だから人は立ち止まり、
「なんでだろう」と考えはじめる。
その問いの先に、仮説が生まれる。
別の見方が生まれる。
改善の可能性が生まれる。
けれど、その入口を自分で
閉じることに慣れてしまえば、
その先にある問いも、
仮説も、改善も生まれなくなる。
今思えば、
私が組織の中で失ったのは、
違和感そのものではなかった。
違和感を大切にしなくても
生きていけることを、
学習してしまったのだと思う。
■|組織が奪っていたもの
私は長い間、
「組織は、人から考える力を奪う場所なのだ」
と思っていた。
けれど、それは少し違った。
人は、そんなに簡単に
考えなくなる生き物ではない。
頭の中では、誰もが何かを感じ、
何かを考え続けている。
私もそうだった。
「なんでだろう」
その問いは、
私の中から一度も消えなかった。
消えたのは、
その問いを口にする意味だった。
どうせ伝わらない。
どうせ理解されない。
どうせ「前からそうだから」で終わる。
そう思えば、人は自然と口を閉じる。
だから、組織が奪っていたのは、
考える力ではなかったのかもしれない。
「なんでだろう」と感じたことを、
そのまま問い続けてもいいと
思える感覚だったのだと思う。
組織は、人から思考を奪おうと
しているわけではないのだろう。
ただ、効率を求めた結果として、
「考えなくても動ける仕組み」を
自然につくっている。
その仕組みがあるからこそ、
品質は安定する。
仕事も早く進む。
新人も迷わず動ける。
だから、それは組織にとって
必要な仕組みでもある。
すべての人が、
毎回すべての仕事に疑問を持ち、
一から考えていたら、
組織はきっと成り立たない。
決められた手順に沿って動くことも、
前例を頼りに判断することも、
仕事をする上では必要である。
けれど、その一方で、
私は一つだけ問いを持っている。
その組織は、
「考えなくても動ける人」は育てている。
では、「なんでだろう」と問い続けられる人は、
育てられているのだろうかと。
■|人を育てるとは、問いを守ることなのかもしれない
決められた手順を正確に守れる人を
育てることと、
目の前の手順そのものを疑い、
考え直せる人を育てることは、
きっと同じではない。
答えを覚えることと、
問いを持てることも、同じではない。
組織が順調に動いているときには、
「考えなくても動ける人」がいれば、
仕事は進んでいく。
けれど、これまでのやり方が
通用しなくなったとき。
誰も答えを持っていない問題が起きたとき。
前例そのものを
見直さなければならなくなったとき。
そこで必要になるのは、
「前からそうだから」と動ける人ではない。
「なぜ、今もこのやり方なのだろう」と、
立ち止まって考えられる人なのだと思う。
私は、人が育つ瞬間は、
答えを教えられたときだけに
生まれるのではないと思っている。
自分の中に浮かんだ
「なんでだろう」という問いを、
誰かに否定されずに持ち続けられたとき。
その問いを手がかりに、
自分なりに考え、試し、
また考えられたとき。
そこに、人が自分の頭で
考え始める瞬間があるのではないだろうか。
だから私は今でも、
組織の中で誰かが小さく
「なんでですか」と口にしたとき、
その問いをできるだけ大切にしたいと思う。
その問いは、仕事を止めたいから
生まれたものではないのかもしれない。
誰かを困らせたいからでも
ないのかもしれない。
目の前の仕事を、本当に理解したい。
もっと良くしたい。
そんな気持ちの表れなのかもしれない。
問いを口にする人は、
ときに面倒な人に見える。
空気を読まない人に見える。
仕事を前へ進めない人に見えることさえある。
けれど、その問いの中には、
まだ誰も気づいていない問題や、
これまでとは違う可能性が
隠れているのかもしれない。
だから私は、その問いを
消さない大人でありたいと思う。
あの日の私が、
どうしても守りきれなかったものだから。
■|読んでくれたあなたへ──小さな問いを、ひとつ。
この記事を書きながら、
私はずっと、新人だった頃の
自分を思い出していた。
あの頃の私は、
「なんでだろう」という問いを、
毎日のように口にしていた。
けれど気づけば、
その問いを飲み込むことが
自然と増えていった。
組織に馴染んだから。
仕事を覚えたから。
空気を読めるようになったから。
理由はいくつもあるのだろう。
けれど今は思う。
あの頃の私が失ったのは、
「考える力」ではなかった。
「なんでだろう」を、
そのまま口にしてもいいと思える感覚
だったのかもしれない。
考えることは、
結局やめられなかった。
今でも私は、
人を見れば「なんでだろう」と
思ってしまう。
組織を見ても、社会を見ても、
この記事を書いていても、
それは何も変わらない。
だから私は、この場所で、
正解を教える文章ではなく、
誰かの中にある小さな問いを、
一緒に大切にできる文章を書いていきたい。
答えを渡す場所ではなく、
問いを持ち帰れる場所でありたい。
最後に、一つだけ問いを置いて、
この文章を終わりたいと思う。
あなたは最近、誰かの
「なんでだろう」を受け止めただろうか。
あるいは、
自分自身の「なんでだろう」を、
「考えすぎだ」と片づけて
しまわなかっただろうか。
人は、「なんでだろう」を失ったときに、
思考を止めるのではない。
「なんでだろう」を口に
できなくなったときに、
少しずつ思考を閉じていくのかもしれない。
もしそうだとしたら、
人を育てるということは、
答えを教えることだけではない。
その人の中に浮かんだ「なんでだろう」を、
安心して口にできる場所を
育てることなのかもしれない。
■|参考文献
・細谷 功『「具体⇄抽象」トレーニング 思考力が飛躍的にアップする29問』PHPビジネス新書(2019)
・細谷 功『思考力の地図――論理とひらめきを使いこなせる頭のつくり方』KADOKAWA(2025)
・細谷 功『考える練習帳――あなたの眠れる思考回路を起動させる45のレッスン』ダイヤモンド社(2025)
・エイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織――「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』野津智子訳、英治出版(2021)
