“推し”という言葉を使うことは、対象を“消費している”ことになるのか
『「推しを生け贄にはしたくない」ファンがアイドルを消費しないために考えたいこと 【社会学者・ハン・トンヒョン×小島慶子①】』という記事を読んで思ったことを綴ります。
「“推し”って言葉、なんか便利すぎない?」
SNSでもリアルな会話の中でも、当たり前のように使われているこの言葉。
自分の好きなアイドル、俳優、キャラクター、作品──
なんでも「推し」と呼べば伝わる。話が早い。だから、私もこれまで何度となく使ってきたし、これからも使いたいと思っている。
なんなら、下記のようなマガジンすらつくっているのだから。
でも、だからこそ、気になることがあった。
今日、小島慶子さんとハン・トンヒョンさんの対談記事を読んだとき、強い違和感を抱いた。
小島慶子さんは、記事の対談の中で下記のように語っていました。
やはり自分は“沼落ち”しているのかなという自覚はあるんですよ。でも、なぜか“推し”という言葉にはどうしても馴染めないというか、抵抗を覚えてしまうんですよね。
「“推し”という言葉に抵抗がある」といいます。
そして、下記のようにも述べています。
他の人が使うのはなんとも思わないのですが、自分が使うとなると、推しという言葉には、どうしても対象の所有者としての意識を感じてしまうんです。
それに対して、ハン・トンヒョンさんは下記のように返しています。
“沼落ち”は受動的というか自己完結している印象ですが、“推し”は、対象をリコメンドして他者を巻き込む行為って印象があるのかもしれません。つまりリコメンドって、いったい何の資格があって? その対象を所有でもしているのか? という……。小島さんはそこに違和感を覚えるということなんですね。
“沼落ち”は自己完結的な感情だけれど、“推し”は他者を巻き込み、リコメンドする行為。
そう語る文脈の中で、“推し=ファンが所有しているような立場”というニュアンスが、さらりと語られていた。
そして私は思った。
「──え、いつからそんな意味が「推し」に乗ってしまったんだろう?」と。
私にとって“推す”ことは、もっと自由で、もっと個人的な“好き”の形だった。
誰かに誇示したいからでも、先に見つけたかったからでもない。
ただ、心が動いたから、その感情に名前をつけたかっただけ。
それなのに、好きなアーティストを「推し」と呼ぶことが、誰かを“消費”したり“所有”したりしていることになるなんて──
その定義には、どうしても首をかしげてしまう。
もちろん、そういう意見の人もいる、ということはわかった上での話。
それでも、強い違和感を感じざるを得なかった。
この記事では、「推し」という言葉がなぜ“消費”や“所有”と結びつけられて語られるのか、そしてそれが本当に正しい見方なのかを、社会的な視点も交えながら、私なりに考えてみようと思います。
同時に、私が感じた“違和感”の正体、そしてその違和感がどこから来たのか──
「推し」という言葉の本来の意味を、もう一度見つめ直していきます。
01.推す=所有?消費?それって本当に正しいの?

「“推す”という言葉には、対象を所有している感覚がある」
「“推す”ことは、リコメンド=他者を巻き込む行為だ」
そんなふうに語られてしまうと、本当はそこまで思っていなくても、“同調”してしまう人はいるはずだ。
だからこそ、ちょっと待ってほしい。
誰かの魅力に惹かれて、その存在を大切に思う気持ち。
その感情を“推す”と表現することって、本当に“所有”や“消費”と同じなのでしょうか?
私は、違うと思っています。
だからこそ、改めて“推し”という言葉の意味を、きちんとまとめてみたいんです。
01-01.「推し」の意味
「推し(おし)」は、元々「イチオシ(=いちばんおすすめ)」という言葉の略語・俗語。
「自分が特に応援している・支持している人物やキャラクター」を指します。
動詞の「推す(おす)」から派生し、ファンが「この人(この作品)を“推している”」という言い回しで使うようになったのが由来です。
01-02.「推し」の現代的な使われ方・ニュアンス
「推し」という言葉は、単に“好き”という感情以上に、“日常的に応援していたり、精神的な支えになっていたりする存在”を意味することが多いです。
また、「私の推しは〇〇!」という会話が日常的に交わされるように、共感や話題共有のツールとしての側面も持っています。
01-03.「推し」という言葉そのものに“所有”の意味は含まれるのか
「推し」は本来、“応援している”とか、“好きである”というファン側の姿勢を示す言葉であり、
“自分のもの”という意味(=所有)を内包しているわけではありません。
ただし、現代のメディア・アイドル産業では、グッズ購入やチケット争奪、投票による順位決定など、ファン活動がお金を介した“応援=消費”に繋がる構造が存在します。
そのため、実質的に“推す=消費する”と見なされる場面も増えており、“推し文化”全体に対して批判や疑問の声が上がる背景にもなっています。
01-04.「推し」という言葉に“リコメンド”や“他者巻き込み”の意味は含まれるのか
もともとは自己完結的な“好き・応援”というニュアンスでしたが、
SNSの普及により、以下のような流れが一般化しました。
「この子めっちゃかわいい!推して!」
「布教したいからみんなにも知ってほしい」
「推しのためにバズらせたい」
このように、“推し=リコメンド対象”として広まり、他者を巻き込む応援行動(=布教)が“含意される”ようになりました。
つまり現在では、“推す”という行為が個人的な感情に留まらず、発信・共有・拡散といった他者との接点を持つ行為へと変化してきています。
グッズを買う。CDを買う。投票や課金をする──
こうした側面から見れば、たしかにアイドルやアーティストの活動は、経済とは切り離せない。
そして、そういった行動が“消費”に見えるのも、ある意味では仕方のないことかもしれません。
でも、そうした“行動”だけを切り取って、“感情”まで“消費”と括ってしまうのは、少し乱暴なんじゃないかと思うんです。
「推す」という言葉には、もっといろんな形の“好き”や“応援”が詰まっているはず。
その純粋な気持ちさえ押し殺してしまうように、「推し」という言葉に“消費”というラベルを貼るのは、私はやっぱり、違うと思う。
02. 社会学的視点から見る「推し」文化

“推し=消費”と語られてしまう背景には、ファン活動そのものが“経済と密接に関わっている”という現実があります。
たとえばCDを何十枚も買って投票権を集めたり、グッズを揃えたり、現場に通うために遠征したり──
そうした行動が“消費行為”に見えてしまうのは、ある意味では当然かもしれない。
でも、その構造の中にいるファン自身は、必ずしも“消費している”という感覚で推しているわけではない。
むしろ、「応援したい」「見届けたい」「この存在が生きる力になる」
──そういう気持ちから動いている人のほうが多いのではないかと思います。
02-01.幸福感や心の支えとしての「推し」
明星大学の研究によれば、“推しを持っている人”は、そうでない人に比べて楽しさや幸福感を感じやすく、不安やストレスへの対処法としても機能していることが示されています。
つまり、「推し」はただの“対象”ではなく、自分の感情を調整し、日々を前向きに生きていくための“心の居場所”になっているということになります。
だからこそ、それを“消費”と一括りにしてしまうのは、あまりにも乱暴なんじゃないかと思うんです。
02-02.心理的所有感とファン心理の揺らぎ
一方で、成蹊大学 経営学部 教授の研究では“心理的所有感”──つまり「この人は自分の推しだ」「他人に取られたくない」といった気持ちが、ファンの行動や感情に影響を与えることも指摘されています。
けれどそれは、“モノ”としての所有とはまったく違う。
大切に思うからこそ、心のなかで特別な場所をつくる。
それは所有ではなく、“愛着”に近い感覚なのではないかと思う。
02-03.経済構造の中にある「推し活」
東京都立大学 経済経営学部 教授の研究によれば、“セレブリティ・ウォーシップ傾向(著名人への没入)”は、購買意欲の高まりや熱量の高さと比例する一方で、経済的負担や依存リスクも生むことがあるといいます。
たしかに、「応援しているつもりが、消費させられていた」と気づいて苦しくなる人もいる。
まさに、“サイン会やその他イベントのために、何枚もCDを積まなければいけない”という推し活あるあるが、それに当たるのではないでしょうか。
だからこそ私たちは、“仕組みとしての消費構造”と、“自分の感情”を切り離して考える視点も必要なんだと思っています。
このように、ファン活動が社会や経済とつながっているのは事実。
でも、“推しを消費しているかどうか”を決めるのは、そういった仕組みではなく、その人がどんな気持ちで“推しているか”──それに尽きるのではないでしょうか。
私が“消費”という言葉に違和感を覚えるのは、
“消費”という言葉には、推しのことをお金で測る存在・広告やマーケティングに利用される存在としてだけ捉えられてしまう側面があるから。
さらには、ファンの理想像を押しつけ、それに当てはまらなかったときにバッシングしてしまうような──
人間を“都合のいい存在”として扱う視点が、そこにあるように思えてならないからです。
だから私は、
本来の「推し」という言葉の意味にある、
単に“好き”であるという感情、そして“日常的に応援していたり、精神的な支えになっていたりする存在”に対して、“消費”の定義を安易に重ねることに、やっぱり抵抗があるんです。
03. “沼落ち”と“推し”の違いを考える

“沼落ち”は受動的というか自己完結している印象ですが、“推し”は、対象をリコメンドして他者を巻き込む行為って印象があるのかもしれません。
──ハン・トンヒョンさんの言葉に、少し引っかかりを覚えたんです。
私自身、「推し」と「沼落ち」って、感情の質も温度もまったく違うと思っています。
たとえば、「推し」は、日常の中にすっと溶け込むような、穏やかで安定した“好き”の気持ち。
一緒に日々を歩んでいくような感覚があります。
“日常にちょっとした楽しみを与えてくれる存在”、あるいは“幸せをつくってくれるような存在”で、ポジティブな意味が込められていると思っています。
一方で「沼落ち」は、もっと急激で、深くて、抜け出せないような感情の渦。
ある日突然、その人の存在が頭から離れなくなって、気づけば四六時中そのことばかり考えているような──いわば“感情の落下”に近い状態。
それこそ、「リアコ(リアルに恋している)」や「ガチ恋」という言葉に近いような、“どっぷりと深くハマって抜け出せなくなっている”ような状態を言うのではないかと思っています。
しかもこの“沼落ち”、自分ではどうにもできない感情に突き動かされるようなところがあるように思えて、ある意味で“怖い”とか“危うい”と感じることもあったり。
これは、オタク気質でハマりやすく、小学生の頃から好きなもの(今で言うと“推し”)があって、自身も体験してきたからこそわかることでもあります。
だからこそ私は、「推し」は“共にあるもの”、“沼落ち”は“飲み込まれるもの・抜け出せなくなるもの”という印象を持っています。
もちろん、この2つの言葉の境界は人それぞれで、明確な定義があるわけではありません。
でも、それぞれの言葉に込められたニュアンスの違いをちゃんと意識することは、言葉を丁寧に使っていくうえで、とても大切なことだと思うんです。
だからこそ、“推し=リコメンド(他者を巻き込む) / 所有 / 消費”といった一面的な捉え方では、語りきれないと思っています。
“推す”という行為、そして“推し”という言葉と存在には、もっと穏やかで個人的な物語があるんじゃないか──私はそう思っています。
04. “推すこと”に宿る、もっとやわらかな感情

「“推し”って、消費の対象なんですか?」
そんな問いに、あなたならどう答えますか?
たしかに、推し活にはお金がかかることが多い。
CDやグッズを買う、ライブに行く、遠征する──。
そういう意味で「消費してるじゃん」と言われるのは、ある程度仕方がないことなのかもしれません。
でも、「本当にそれだけで語ってしまっていいのかな?」と思うんです。
私がこれまで“推し”と向き合ってきたなかで感じてきたのは、“応援したい”とか“見届けたい”という、もっと人間的で、あたたかな感情でした。
笑顔が見たい。
努力を知っているから、報われてほしい。
そんな気持ちを込めて、“今日も推している”。
そして何よりも、つらい日々も、あなたの存在に救われた──
“推す”って、ただお金や時間を費やすだけの行動じゃない。
言葉にしにくいけれど、確かにそこにある“感情”そのものなんです。
だから私は、「推し=消費」と決めつけられてしまうことに、どうしても抵抗を感じてしまう。
おわりに|“推す”という言葉を、これからも大切に使いたい

「推し」という言葉は、どんどん広がって、さまざまな文脈で使われるようになりました。
ときには“所有”や“消費”といった、本来の意味とは違う、少し重たい意味が付与されることもあります。
でも、本来の意味も含め、私にとって“推す”ということは、「応援したい」「存在が支えになっている」「生きる力をもらっている」といった大事な感情のかたまりです。
──そんなふうに、誰かを想う気持ちに名前をつけたくて、「推し」という言葉を使っている。
本来の意味だって、そうだったはずです。
ただ、今回取り上げたように、著名人や有識者の発言によって、「推し=所有」「推し=消費」「推し=リコメンド」などという、ある種一面的な定義が“当たり前”のように広まっていく場面を見かけることもあります。
それは、影響力があるからこそ仕方のない面もあるけれど、“本来の意味”や“さまざまなファンの在り方”を尊重せずに発信されることには、どうしても違和感があります。
言い切っていないにしても、「著名人が言っていたから」という理由で、つい「そうだよね」と納得してしまうことだってある。
だからこそ、著名人や有識者の発言の影響力はときに、とても大きなものになる。
たとえば、小島慶子さんはこう語っていました。
他の人が使うのはなんとも思わないのですが、自分が使うとなると、推しという言葉には、どうしても対象の所有者としての意識を感じてしまうんです。
この言葉を読んだとき、私は思わず立ち止まりました。
「そんなふうに思ってる人の前で“推し”なんて言葉を使ったら、“対象の所有者”だとか思われるんだろうか」
──そんなふうに、“推し”という言葉を口にすること自体、ちょっと怖くなってしまうような感覚になりました。
小島慶子さんは、秋元康さんのアイドルビジネスに対する批判として、
ファンはアイドルを純粋に応援していると言いつつ、少女たちの命運を握る支配欲を満たすことができる。
と語っていました。
言いたいことは、もちろんわかります。
そうした現実や視点も、たしかに存在しているから。
でも私は、だからこそ言いたいんです。
“好き”を大切にするために、
「推し」という言葉は、本来の意味のまま、使われ続けていってほしい。
そして、その“好き”が、誰かにとっても優しいものであり続けてほしいと、心から思っています。
📚 マガジンはこちらから!
この記事は、“推し活”というマガジンの中の記事です。
他にも“推し活”に関する記事をたくさんアップしていますので、気になるという方はぜひ、下記マガジンをチェックしていただけると嬉しいです◎
📮 WEBライター、Eum(うむ)へのお仕事依頼、お待ちしてます!
この記事を見て「いいな」と思ってくださった方へ。
頑張れない日も、静かに寄り添える言葉を。
嫌なニュースやノイズが多い時代だからこそ、忙しない日常に“心地よい余白”を生むような、あたたかい記事をお届けします。
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