暁どきを撮る。
いつも書いていることですが、自分が写真のためだけに時間を使えるのは基本的に休日の朝方だけです。時折、遠出させてもらえることもありますが、毎回そんなことをしていたら、子供たちに存在をぞんざいに扱われることになるでしょう。
そういうわけで、いつしか、平日も触りたい、撮りたいとなれば、休日だけでなく、ちょっと早起きをして平日の朝に散歩に出かけたりするわけです。



睡眠時間を削ることになるので、それはちょっと辛いのですが、最近は例えば10時に床に就いたなら午前3時には目覚めてしまうようになったので、逆に5時に起きれたらちょうどいいのに、と思うくらいです。







平日、出勤前ですから、遠いところへは行けません。季節となれば、車で数分の史跡に咲いてる桜や、ひまわり、コスモスを撮ったりもしますが、基本は家の周囲を適当にパシャっとするだけです。そんな生活をもう3年くらい続けているわけですから、撮りたい対象なんかはすでに撮っているということになっています。正直、飽きています。飽きているけれど、どのみちここは東京ではありません。山手線30駅を毎日1駅ごとに撮り歩いて1か月かかる、それを順繰りめぐっていく、なんてことはそもそもできないわけです。



ですから、カメラを替えたり、レンズを替えたり、ルートを変えたりするのですが、それでも飽きていることはどうしようもありません。毎回同じものを撮る。
子供のころに読んだ、歴史教育漫画「卑弥呼」で、弥生人が夕食時、「また松茸か~」「贅沢言うんじゃありません」というやり取りをしているくだりがありましたが、僕は「なんて贅沢なんだ」と思ったものでした。描き手もそういう狙いで描いたのでしょうけれど、「また松茸」「贅沢言うんじゃない」というこのやり取りに、高価なものが手に入っても、そればかりだったら飽きるんだな、と思ったのでした。もちろん、弥生人にとっては、松茸「なんか」程度のものでしかなかったという設定なのでしょうが……。

毎日歩けば、たしかに小さな変化に気づいたりもします。そういう発見は楽しいものです。とはいえ、さすがにそれも新鮮な気分にはさせてくれなくなってきました。それから冬の季節はとても寒い。いや、寒さはいいのです。寒いのは外に出るまでの決心を鈍らせますが、外に出てしまえば、歩いていくうちに慣れていきます。それよりも、まだまだ暗いというのが問題で、さして明るい繁華街があるわけでもないこの町だと、撮るものがよけいに限られてきてしまうのです。そうですね、3月~5月、9月~11月あたりが最も撮りやすい気候、明るさになるでしょうか。

そうして、これだけは変わらない感覚なのですが、この時間だと、外を歩いている人が少ないので、まるでこの世界を独り占めしたような気分にさせてくれるのです。これはなかなかいい気分です。今はその気分に浸りたいがゆえに朝外に出ているのだ、とすら思っています。

ずっと同じところをぐるぐるするだけのスナップ。まるで苦行です。苦行ではありますが、それでもそれをやめないのは、朝の静かな空気を味わいたいから、に移行してきました。だから撮影そのものが楽しい、とはなりにくくなった。そのなかで、それでも見慣れた景色に目を向けてシャッターを切る。平凡なものしか撮ることはできませんけれど、そういう繰り返しが、自分にいろんな視点を獲得させ、いろんなアングルを考えさせてくれている点で、いい修行ではあるのかな、と思うようにはしています。

そうしてそういう日常の繰り返しがあるからこそ、ときに遠くへ行ったり、祭りがあったりするときの気分が上がるのだと思えば、このあまりに慣れ切った朝のスナップも、意義のあることだと言い聞かせることができそうです。





こうして歩いていると、見知らぬ隣人に出会うことも。そういえば、コロナ禍のときには、住宅街の遊歩道で鹿に出会ったこともありました。猛ダッシュで僕の隣を駆け抜けていった。足音で馬でも走っているのかと思った(それでも異常だが)のですが、振り返ると鹿でした。立派な角でした。写真に撮れる間もありませんでした。
だから、まあ、飽きたと思っていても、思わぬ出会いはまだまだあるように思います。だからこれからも、だらだらと朝の散歩は続けていきたいものです。



