短編小説「月曜日の海辺」
それはちょっとした冒険だった。私は会社に向かう電車のホームの反対側のホームに立っていた。
朝起きて支度をし、家を出てから、何かが囁いていた。駅の階段を上って、改札口を通り抜けた瞬間、その何かが弾けた。足は上りホームではなく、下りホームの階段に向かっていた。
海が見たかった。ただそれだけの理由だった。
「太陽が眩しいからという理由で人を殺すより、理解されるかな?」と私は独りごち。周りには人はいなかった。
下りの電車もそれなりに混んでいた。しばらくして、学生たちが降りて、急に車内は静かになった。
終点の駅は海岸まですぐだった。観光客も平日の午前中なのでほとんどいなかった。
砂浜に降りると、潮の香りが鼻をくすぐった。波は穏やかで、空は高かった。ベンチに腰掛けている老人がいた。私は少し離れた場所に立ち、海を眺めた。
「今日は会社は?」と、老人が声をかけてきた。
「さぼりました」と私は答えた。
「それはいいね」と老人。
「いいですか?」と私。
「とてもいい」と老人は笑った。
しばらく沈黙が続いた。波の音が会話の代わりをしていた。
「昔、私もよくさぼったよ。海が見たくてね。理由なんて、いつもそれだけだった」
「怒られませんでしたか?」
「怒られたよ。でも、怒られることと、間違ってることは違う。海を見たくなるのは、間違いじゃない」
私はベンチの端に腰を下ろした。老人はポケットから飴を取り出し、ひとつ私に差し出した。レモン味だった。
「海は、何も言わないけど、全部わかってる気がするんだよな」と老人。
私は頷いた。波が寄せては返す。そのリズムに、心が少しずつほどけていくのを感じた。
「またさぼりたくなったら、ここに来るといい。私は毎週月曜に来てる。月曜は、さぼるのにちょうどいい」
「じゃあ、また月曜に」
「うん、また月曜に」
老人は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。私はしばらくその背中を見送った。海は変わらず、静かだった。
それから一時間ほど、私は一人で海を眺めた。レモン飴の酸っぱさが口の中に残っていて、それが不思議と心地よかった。遠くを行く船が小さな点のように見えた。
やがて、帰らなければならない時間がやってきた。明日の朝、上司に何と言おうか考えながら駅に向かった。でも、それほど心配ではなかった。老人の言葉が頭の中でこだましていた。「怒られることと、間違ってることは違う」
電車に乗りながら、私は窓に映る自分の顔を見た。朝の自分とは少し違って見えた。何かが軽くなっていた。
次の月曜日、私はまた下りホームにいた。今度は迷わなかった。海が呼んでいるのが聞こえたから。
老人はいつものベンチにいた。まるで私を待っていたかのように。
「また来たね」と老人は微笑んだ。
「はい。約束でしたから」
「そうだったね。今日は何味の飴にしようか?」
老人は今度はミント味の飴をくれた。二人で海を眺めながら、特に話すこともなく、ただ時間が過ぎていった。
三回目に来たとき、老人は私に古い写真を見せた。若い頃の老人が、同じ海辺に立っている写真だった。
「これは五十年前だよ。その頃から、私はここに来てる。最初は恋人と一緒だった。それから家族と。今は一人だけど、海は変わらない」
「寂しくないですか?」
「寂しいよ。でもね、寂しいから海が必要なんだ。海は寂しさを受け止めてくれる。消してくれるわけじゃないけど、受け止めてくれる」
私たちはそれから毎週月曜日に会った。老人は毎回違う味の飴を持ってきた。イチゴ、メロン、ぶどう。そして毎回、少しずつ自分の人生を語ってくれた。
ある月曜日、老人は来なかった。次の週も、その次の週も。
三週間後、私は老人の息子だという男性に出会った。父親が入院したと教えてくれた。
「父は、月曜日に海で会う友達のことをよく話していました。きっとあなたですね」
私は病院を訪れた。老人は小さくなって見えた。でも、私を見つけると嬉しそうに笑った。
「月曜日、海はどうだった?」と老人が聞いた。
「静かでした。でも、なんだか物足りなくて」
「そうか。それなら、私がいなくても、海に会いに行ってくれるかな?」
私は頷いた。
老人は枕元の引き出しから、小さな袋を取り出した。中には色々な味の飴が入っていた。
「これは君のものだ。一人で海を見るときに、食べてくれ。そうすれば、きっと私もそこにいる」
それから数ヶ月後、老人は静かに息を引き取った。私は葬儀に参列し、老人の家族に月曜日の海での話をした。
今でも私は月曜日に海に行く。会社をさぼって。最初の頃は罪悪感があったけれど、今はもうない。老人が教えてくれたから。間違っていないことを。
ベンチに座って海を眺めながら、色々な味の飴を舐める。風が頬を撫でるたび、老人の声が聞こえる気がする。
「海は、何も言わないけど、全部わかってる」
ある月曜日、若いサラリーマンがふらふらと砂浜にやってきた。スーツ姿で、途方に暮れた表情をしていた。
私はポケットから飴を取り出し、彼に差し出した。レモン味だった。
「今日は会社は?」と私が声をかけると、
「さぼりました」と彼は答えた。
「それはいいね」と私は笑った。
波の音が、新しい物語の始まりを告げているようだった。
