推しは人生を動かす:EP01
[DOC: story]
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=以下本編=
EP01:推しが終わった夜、海が始まった
ライブハウスを出たとき、夜の空気が少し冷たかった。
さっきまでの歓声が、まだ耳の奥に残っている。
でも、建物から少し離れると、それもすぐに消えていった。
ひかるは立ち止まる。
手には、最後に買ったグッズの袋。
中にはペンライトと、今日のライブの限定Tシャツ。
ペンライトの光はもう消えている。
長年推してきたアイドルグループの解散ライブ。
そして、その中心にいた“推し”も、今日で芸能界を引退すると宣言した。
ステージの最後の言葉が頭に残っている。
「今までありがとうございました」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
ひかるはスマートフォンを取り出す。
SNSには、すでにライブの感想が流れている。
「最高だった」
「泣いた」
「一生の思い出」
どれも正しい。
でも、ひかるは書き込まない。
彼はそういうタイプのオタクではない。
観測するタイプだった。
ライブも、イベントも、SNSも。
自分の中にデータのように積み上げていく。
だから、終わりも静かだった。
ひかるは駅へ向かって歩き出す。
夜の街。
ライブ帰りの人たち。
興奮して話している人。
写真を見せ合っている人。
でもひかるは、誰とも話さない。
細身で長身の体。
長袖のシャツ。
リュック。
人混みの中でも、少し浮く。
電車に乗る。
窓の外の街が流れていく。
さっきまでの光が、少しずつ遠くなる。
ライブは終わった。
推しも引退した。
つまり、ひとつの観測対象が消えた。
それだけのことだ。
ひかるは自分にそう言い聞かせる。
家に着く。
玄関を開ける。
部屋の電気をつける。
いつもの空間。
机。
モニター。
PC。
キーボード。
そして棚には、今まで集めてきたグッズ。
アクリルスタンド。
CD。
ライブパンフレット。
ひかるはそれを少し眺める。
それから椅子に座る。
PCを起動する。
モニターが光る。
特にやることはない。
ただ、なんとなく動画サイトを開く。
おすすめ動画が並ぶ。
ライブ映像。
ゲーム配信。
レビュー動画。
スクロールする。
その中に、ひとつだけ見慣れないものがあった。
「ジュニアサーフィン大会」
海のサムネイル。
波。
そして、ボードに乗った女の子。
ひかるは少しだけ考える。
それからクリックした。
動画が再生される。
青い海。
白い波。
アナウンサーの声。
その中で、一人の少女が波に乗る。
小さな体。
でも動きは軽い。
波の上を、跳ぶように滑る。
ターン。
スプレー。
観客の歓声。
ひかるは動画を止める。
少し巻き戻す。
もう一度見る。
もう一度。
もう一度。
「……」
小さくつぶやく。
「すごいな」
それが、ひなたとの出会いだった。
動画を見終わったあとも、ひかるはしばらく画面を見ていた。
海の映像はもう止まっている。
再生バーは最後まで進んでいる。
それでも、頭の中ではさっきの動きが何度も繰り返されていた。
波に合わせて体を傾ける。
ボードの角度が変わる。
そして水しぶきが弧を描く。
ひかるは少しだけ考える。
それから動画の説明欄を開いた。
大会名。
場所。
そして開催日。
「……」
スクロールする。
まだ大会は終わっていない。
残りのヒートが週末にある。
ひかるはその日付を見て、カレンダーを開く。
予定はない。
というより、最近はほとんど入れていない。
推しの活動がなくなったからだ。
「行けるな」
誰に言うでもなく、ひかるはつぶやいた。
それが、ひなたの大会を見に行く理由になった。
週末。
海の匂いがした。
ひかるは少しだけ目を細める。
普段来る場所ではない。
砂浜。
ボードを抱えた人たち。
日焼けした肌。
キャップ。
サングラス。
どこを見ても、海の人たちだった。
その中で、ひかるは明らかに浮いていた。
長袖のシャツ。
色白の肌。
PCリュック。
観光客とも少し違う。
本人もそれは分かっていた。
でも、別に気にしていない。
彼は観測するタイプの人間だからだ。
観客エリアの端に立つ。
海を見る。
遠くでサーファーが波を待っている。
アナウンスが流れる。
「次のヒート、準備してください」
名前が呼ばれる。
その中にあった。
ひなた。
ひかるは少し前に出る。
視線は自然と海に向かう。
波が来る。
一人のサーファーが立つ。
小柄な体。
動画で見たのと同じ動き。
ボードが波の斜面を滑る。
ターン。
水しぶき。
ひかるは黙ってそれを見る。
周りでは歓声が上がっている。
でも彼は静かだった。
ただ観測している。
波の高さ。
スピード。
体の重心。
頭の中で整理されていく。
「……なるほど」
小さくつぶやく。
そのときだった。
「ねぇ」
声がした。
ひかるは振り向く。
そこに立っていたのは、さっき波に乗っていた少女だった。
ひなた。
濡れた髪。
ボードを抱えている。
ひかるは一瞬、思考が止まった。
「えっと」
言葉が出ない。
ひなたは少し笑う。
「観に来たの?」
ひかるはうなずく。
「はい」
「動画で見て」
言葉が少し詰まる。
ひなたはその様子を見て、少し面白そうな顔をする。
周りを見渡す。
そしてひかるを見る。
「ここ、初めて?」
「はい」
「だよね」
ひなたは笑った。
「めっちゃ浮いてる」
ひかるは少し考える。
それから答える。
「そうですね」
否定はしない。
その答えが、ひなたには少し面白かった。
少しだけ沈黙。
海の音。
ひなたはふと思い出したように言う。
「SNSやってる?」
ひかるは少し困った顔をする。
「画像中心のは、やっていません」
「テキストの方なら」
ひなたは首をかしげる。
「テキスト?」
「はい」
少し考える。
「じゃあそれでいいや」
ひなたはスマートフォンを取り出す。
ひかるも取り出す。
二人はアカウントを交換する。
ほんの数秒のことだった。
でもそれが、二人の関係の始まりだった。
夜。
ひなたはベッドに寝転びながらスマートフォンを見ていた。
今日の大会の写真。
チームのメンバー。
海。
波。
SNSの通知もいくつか来ている。
「おめでとう!」
「次のヒートも頑張って!」
ひなたはそれを一つずつ見ていく。
ふと、思い出した。
「あ」
昼間交換したアカウント。
あの、妙に色白で長袖の人。
確か名前は――
ひかる。
ひなたはフォロー一覧を開く。
すぐに見つかった。
アイコンは、機械の写真だった。
「?」
ひなたはタップする。
プロフィールが開く。
投稿は多くない。
でも、見慣れない言葉が並んでいた。
GPU。
GitHub。
ブロックチェーン。
ノード。
「……?」
ひなたは画面を少し離して見直す。
もう一度読む。
やっぱり分からない。
「なにこれ」
写真を開く。
黒い箱の写真。
その横に数字。
メモのような文章。
“性能比較”
「機械?」
次の投稿。
PCの内部。
グラフィックボード。
さらに専門用語。
ひなたは少し笑う。
「変な人」
でも、嫌な感じではない。
むしろ少し面白い。
海の人たちとは全然違う世界。
ひなたはメッセージ画面を開く。
少しだけ考える。
それから、打つ。
「これ何?」
送信。
数秒。
既読。
すぐに返信が来た。
「GPUです」
ひなたは目を細める。
「……ジーピーユー?」
さらにメッセージが続く。
「コンピュータの演算装置です」
「主に画像処理などに使います」
ひなたはしばらく画面を見る。
そして打つ。
「なんでそんなの持ってるの?」
すぐに返信。
「必要だったので」
ひなたは笑う。
「必要?」
「はい」
「研究用です」
研究。
ひなたはその言葉を頭の中で転がす。
海の世界ではあまり聞かない言葉だ。
ひなたはさらに打つ。
「何の研究?」
返信。
「いろいろです」
「データを見たり」
「分析したり」
ひなたは少しだけ考える。
昼間のことを思い出す。
観客の中で浮いていた人。
でも、波を見ていた。
すごく真剣に。
ひなたはもう一度メッセージを打つ。
「サーフィンも研究するの?」
少し間。
返信。
「観測はします」
ひなたは吹き出した。
「観測って」
でも、その言葉は妙にしっくりきた。
海を見る。
波を見る。
人を見る。
それも確かに、観測だ。
ひなたはスマートフォンを持ったまま天井を見る。
それからまた画面を見る。
メッセージを打つ。
「面白いね」
送信。
すぐに既読がつく。
返信。
「ありがとうございます」
短い文章。
でも、それで十分だった。
その日から。
二人のやり取りが始まった。
それから、メッセージのやり取りは少しずつ増えていった。
最初は短い質問。
「今日波どうだった?」
「良かったです」
「風は?」
「少し強かったです」
ひなたは海の話をする。
波。
風。
大会。
ボード。
ひかるはそれを読む。
そして時々、質問を返す。
「波の高さはどれくらいですか」
「だいたい胸くらい」
「なるほど」
ひなたは少し考える。
「胸ってどれくらい?」
ひかるは一瞬止まる。
それから返信する。
「人の胸の高さですか」
「そう!」
「了解しました」
ひなたは少し笑う。
この人、やっぱり少し変だ。
でも嫌ではない。
むしろ面白い。
ある日。
ひなたがメッセージを送る。
「今日、すごい波だった!」
「写真ある?」
すぐに写真が届く。
海。
大きな波。
ひかるは画面を見つめる。
しばらくして返信する。
「いい波ですね」
「でしょ!」
ひなたは嬉しそうに返す。
ひかるはその写真を少し眺める。
それから、ふと思う。
動画で見たときと同じだ。
あの動き。
あの感覚。
ひなたは海のことを話す。
ひかるは技術のことを話す。
海の世界。
データの世界。
普通なら交わらない。
でも、この会話は続いている。
ひなたが言う。
「それ、どうやって調べてるの?」
ひかるは答える。
「観測です」
ひなたは少し笑う。
「観測好きだね」
「はい」
短い返事。
でも、それでいい。
ひなたはスマートフォンを持ったまま、海を見ている。
ひかるはモニターの前に座っている。
場所は違う。
でも、同じ時間。
少しだけ沈黙がある。
ひかるはモニターを見る。
画面の端に、小さな動画のサムネイルがある。
サーフィン大会。
ひなたのライディング。
彼はそれをクリックする。
動画が再生される。
波。
ボード。
ターン。
水しぶき。
ひかるは小さくつぶやく。
「すごいな」
そして、少しだけ笑う。
観測対象は消えたと思っていた。
でも違った。
ただ、次の対象が見つかっていなかっただけだ。
今はある。
海の上を滑る少女。
ひなた。
ひかるはモニターを見ながら、静かに思う。
「推しですね」
それが、新しい観測の始まりだった。

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