かわいいは、つくれる!_第10話
第10話:この恋は、可愛すぎて困る
――文化祭当日、午前9時。
秋晴れの空に、校内の喧騒が高らかに響く。
模擬店の準備をするクラスメイトの声、流れるBGM、そして次々と訪れる来場者の足音。いつもより少し浮かれた空気が、学園全体を包んでいた。
2年B組の教室――いや、“カジノ・ソラリス”と名付けられたその空間は、すでに異様な熱気を放っていた。
黒とゴールドの布で飾られた天井。LEDライトが柔らかな陰影を生み、赤い絨毯が客を奥へと誘うように敷かれている。テーブルごとに設置されたミニゲームは、AIによって客の属性を分析し、その場に最適な演出と難易度を自動調整するシステムが組み込まれていた。
受付に立つ直哉は、その精密に仕上げられた空間を見渡しながら思わず息を呑む。
「……マジで、完成してるんだな、これ」
照明に照らされた案内看板には、堂々たる文字でこう記されていた。
“ようこそ──カジノ・ソラリスへ”
その言葉にふさわしい存在が、教室の奥からゆっくりと現れる。
智華だった。
白と紫を基調にした、ミニスカ丈のホスト風制服。
金の刺繍が入ったベストと、絶妙に身体にフィットしたシャツ。なにより、スカートの裾から伸びる脚が、まるで計算された芸術のように美しかった。いつものふんわりした雰囲気はそのままに、今日は“姫”というより“艶やかな支配者”に見える。
「いらっしゃいませ、お客様……ふふ、ちょっとそれっぽくない?」
冗談めかしてウィンクを飛ばしてきた智華に、直哉はまともに目を合わせられず、ぎこちなく視線を逸らす。
「似合いすぎるだろ……それ。反則」
「ありがと♪ ナオヤくんのその反応、100点!」
智華はくるりと回ってポーズを決めると、すぐさま別の来場者のもとへ向かっていった。
その後ろ姿に、直哉はただ呆然と立ち尽くす。
(やっぱ、俺……)
そんな思考を打ち砕くように、今度はピシッと靴音が鳴った。
「お客様、お迎えに上がります」
ドライな口調。冷えた紅茶のような気品をまとい、現れたのは妃華だった。
漆黒のディーラー服。ウエストのくびれが際立つシルエット。チェストポーチに丁寧に収められたカードが、彼女の“武器”であることを示していた。
その完璧な姿を見た一部の男子生徒が、控えめにため息を漏らすのも無理はない。
だが、妃華はそんな周囲の視線など一切気にせず、まっすぐに直哉の元へと歩み寄ってきた。
「……今日のあなた、ちょっとかっこいいわね」
「は?」
不意打ちに、直哉は一瞬フリーズする。
「この空間の動線、リスクヘッジ、トークン管理。あなたがいなければ、どれもうまく回っていなかった。侮れない“相棒”よ」
「お、おう……ありがと……?」
まるでスパコンのように言葉を積み上げていく妃華に、直哉は気圧されながらも、どこか嬉しさを覚えていた。
(智華と妃華……並び立ってるって感じがするな、今日の2人は)
そのままカジノ・ソラリスは怒涛の勢いで来場者を迎え続ける。
中学生の来訪者は「これ、本当に高校の企画!?」と目を丸くし、保護者たちは「このAIの演出……企業の研修でも使えそう」と感嘆の声を漏らした。
直哉は、受付からその光景を眺めていた。
ときおり、智華が誰かの頭をなでたり、妃華がキメ顔で札を配る仕草に、来場者たちは歓声を上げる。
(……すごいよ、2人とも。俺もちゃんと、その隣に並びたいって思う)
自分にできることは何か。
この空間で、2人の隣で、“ただの観客”じゃなくなるためには――
そう考えながら、彼はトークンモニターのレートを確認しつつ、受付にやってきた次の客に向かって笑顔で告げた。
「ようこそ、カジノ・ソラリスへ。トークンはどの種類をご利用になりますか?」
次のステージが、静かに動き出していた。
文化祭の活気がピークを迎える昼休憩。
模擬店の甘い匂いと、人波のざわめきが交錯する校内。
直哉は、喧騒から少し離れた中庭のベンチに腰を下ろしていた。
カジノ・ソラリスの受付からほとんど離れていなかった午前中。来場者の波、トークンのやり取り、演出の調整、そして二人の“ヒロイン”に挟まれて受ける視線と刺激。肉体的にも精神的にも、予想以上に体力を使っていた。
「ふぅ……なんつー濃度だよ、今日……」
額の汗をぬぐって、上着のボタンを外す。
乾いた風がネクタイの隙間を抜け、ほっと息をついたときだった。
「……ナオヤくん、いた♪」
声がした方を向くと、木漏れ日の中に立っていたのは智華だった。
ミニスカ丈のホスト衣装は、そのまま。
胸元に少し汗をにじませ、頬はうっすらと赤く染まっている。けれどそれは疲労よりも、たぶん、直哉を見つけた安堵と照れのせいだった。
「お疲れさま。……ねえ、ボク、ちゃんと言ってなかったよね」
智華はそう言って、ベンチの隣に腰を下ろす。
「今日のナオヤくん……本当に頼りになるなって思ったよ」
その言葉は、不意打ちのように直哉の胸を突いた。
「えっ……あ、いや、そんな……俺はその、受付やってただけだし……」
「だけ、じゃないよ」
智華の声が、いつになく真っ直ぐだった。
「人前に立って、状況見て、適切に動いて……あれって、すごく難しいことなんだよ。ボク、ちゃんと見てた」
そう言って微笑む彼女の目元には、誇らしげな光があった。
直哉は言葉を失った。
いつも軽やかに笑って、自信たっぷりで、誰よりも強く見える智華。
だけど今は――
「智華……」
気づけば、手を伸ばしていた。
そっと、智華の手を握る。
華奢で白くて、ほんの少し汗ばんだその手から、体温が伝わってくる。
智華は驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。
「……ありがと」
風が、彼女のウェーブのかかった髪を揺らす。
「ナオヤくんが、いてくれて嬉しい。……本当に、そう思ってる」
照れて、少し俯いたままの直哉。
だけど胸の内では、ずっと小さな鐘のような音が鳴り続けていた。
(ああ、もう……好きだって、認めざるを得ないだろ、こんなの)
そのとき。
ふいに、視線を感じた。
直哉がちらりと校舎の方を見上げると――
3階の窓の奥、誰かがカーテンの陰からこちらを見下ろしているのがわかった。
ガラス越しに、はっきりとした表情までは見えなかったが、あのストレートな黒髪と、静かな雰囲気。
――妃華だった。
窓際に立ち、まるで中庭の芝居を観劇するかのように、じっと2人を見つめていた。
その目に、怒りも羨望も浮かんではいなかった。ただ、じんわりとした、冷たい静けさ――いや、違う。
それは、嫉妬ではなく、“理解”に近いものだったかもしれない。
(……見てたんだ)
直哉の胸に、ほんのわずかの罪悪感が灯る。
彼はまだ、はっきり答えを出したわけじゃない。
けれど、心のどこかで“もう決まってる”と知っている自分がいる。
「……ねえ、ナオヤくん」
手を繋いだまま、智華が言う。
「今日は、もうちょっとだけ、甘えてもいい?」
「うん。……むしろ、ずっと甘えてくれていい」
答える直哉の声は、自然と優しくなっていた。
そして遠く、校舎の窓の向こう。
妃華はその様子を見届けると、ふっと目を閉じて、背を向けた。
視線の代わりに、静かなつぶやきだけが、教室に落ちた。
「……いいのよ。だって、まだ終わってないもの」
その目に、まだ火は灯っていた。
文化祭の熱気が夕暮れに溶け込む頃、校舎の影は長く伸びていた。
空は茜色に染まり、遠くからは吹奏楽部の演奏リハーサルが風に乗って流れてくる。
直哉は、1通のメッセージを頼りに、誰もいない旧館の空き教室に向かっていた。
「来てくれると嬉しいわ。ちょっとだけ、話したいことがあるの」
送り主は、木町妃華。
文化祭での喧騒からはまるで隔離された静けさの中、軋むドアをそっと開けると、教室の奥で夕日を背に立つひとりの少女がいた。
「来てくれて、ありがとう」
椅子に腰掛けていた妃華が、静かに立ち上がる。
制服姿に戻っていたが、整った襟元とまっすぐ伸びた背筋、なによりその眼差しは、あの勝気で、強く、美しいディーラーのままだった。
「ごめんなさいね。ちょっとだけ時間をもらうわ」
「うん……別にいいけど。文化祭の手伝い、大丈夫なのか?」
「あと数分は大丈夫。AIがちゃんと回してくれてるから」
微笑んだその顔は、どこか緊張を孕んでいた。普段の妃華とは少し違う。
直哉が言葉を探していると、妃華は一歩前に出て、すっと視線を合わせてきた。
「ひとつだけ……ちゃんと伝えておきたくて、呼んだの」
一拍の間。
彼女は言葉を慎重に選ぶようにして、続けた。
「私ね、ナオヤくんのこと……どうやら、好きになってしまったみたい」
空気が、ふっと止まった気がした。
夕陽のオレンジが彼女の頬に淡くかかり、長い睫毛の影がその横顔を際立たせる。
直哉は言葉を失った。さっきまで智華と手を取り合っていた時間が頭をよぎる。でも、それとは違う、別の色の感情が、今目の前にあった。
妃華は少しだけ目を伏せ、そして苦笑いを浮かべた。
「……我ながら、こういうのは柄じゃないんだけど。でも、ちゃんと伝えておかないと、後悔すると思ったの」
「妃華……」
「答えを今ほしいなんて、思ってないわ。だけどね」
妃華は静かに近づき、直哉の胸元に手を添える。
「この勝負、ちゃんと競わせてほしい。私は“勝ち”たいの。好きな人の隣にいるっていう、“恋のゲーム”で」
囁くような声だったが、はっきりと胸に響く強さがあった。
直哉の喉が、乾いてごくりと音を立てた。
彼女は続けなかった。ただ、それだけを伝えて、くるりと踵を返す。
ドアの前で一度立ち止まり、もう一度だけ、こちらを見て言った。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るわ。“カジノ・ソラリス”のフィナーレを飾らなくちゃね」
パタン――
閉じたドアの音が、静かな教室に残響する。
一人残された直哉は、動けなかった。
智華の笑顔。
智華が言ってくれた「嬉しい」の言葉。
その手の温もり。
けれど妃華の告白は、それとは別の火を灯した。
強さと美しさを持ちながら、誠実に、真正面から自分の感情を伝えてくれたあの姿――。
(なんだよ、これ……)
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
これは“好かれて嬉しい”だけじゃない。
自分の中にも、彼女に対して何かを感じているから、こんなに混乱するんだ。
だけど、すぐにひとつの記憶が浮かぶ。
あの中庭で、手を繋いだときの智華の体温。
「……キミがいてくれて、嬉しい」と言ってくれた、あの笑顔。
それは、間違いなく――本物だった。
「……行かなきゃ」
胸を叩いて、直哉は立ち上がった。
文化祭のクライマックスが始まる。
そのステージの中心に立つのは、“あの子たち”だ。
心はまだ揺れている。けれど、それでもいい。
揺れることを、恐れたくない。
その先に、自分が本当に“隣にいてほしい”人が見えるなら。
直哉は駆け出す。
教室を出て、夕焼けの廊下を走り抜ける。
まもなく――
舞台の幕が上がる。
文化祭のフィナーレが始まろうとしていた。
日も傾き、校舎に差し込む光が、赤く色づいた夕焼けを映している。
グラウンドでは後夜祭の準備が進み、教室の片付けも少しずつ始まっていた。
そんな喧騒から少し離れた中庭のベンチに、直哉はぽつんと座っていた。
妃華からの告白を受けたばかりの心は、まだ熱を帯びていた。
だが、それと同時に――あの時、手を握ってくれた“姫”の顔が、何度も思い浮かぶ。
「……ナオヤくん?」
声をかけてきたのは、その“姫”だった。
夕日を背にした智華が、制服のまま、そっと歩み寄ってくる。
文化祭中はあれだけ華やかな衣装を着こなしていたのに、いま目の前の彼はどこか、普段よりも“素”に見えた。
「ここにいるかなって思って。やっぱりね」
智華は隣に腰を下ろし、しばらく沈黙のまま、空を見上げた。
オレンジと薄紫が混ざる空色。風が、ふたりの髪をそっと揺らす。
「……妃華、キミに告白したでしょ?」
不意に言われ、直哉は思わず肩を跳ねさせる。
動揺を隠しきれずに目を見開いた。
「な、なんで……」
「わかるよ。あの子、目がまっすぐだったもん。あの目は、ちゃんと“好き”って言った目だよ」
智華の言葉は、柔らかかった。
怒りも、責めもなくて、ただ――静かに、胸に染みるようだった。
「ボクさ、妃華みたいに完璧じゃない。頭もよくないし、計画も苦手。かわいさだって“頑張って”作ってるだけ」
夕焼けの光の中で、智華は少しだけ笑った。
「それでも、キミが“見ててくれた”って思えたから――ボクは、変われたんだ」
その声に、直哉の心がぎゅっと締めつけられる。
嘘のない言葉。
飾らない想い。
その全部が、まっすぐに刺さった。
「……智華」
「ううん、いいの。答えを聞きに来たわけじゃないから」
言いながら、智華はそっと顔を伏せた。
それは、どこか照れ隠しのようでもあり、怖さから逃げるようでもあった。
「ただ、ボクはボクなりに、全力でこの文化祭を楽しんだ。……ナオヤくんと、いっしょにね」
直哉はうつむいたまま、智華の横顔を見つめた。
ふわりと風が吹いて、髪が揺れ、その香りがかすかに届く。
――あの手を握った時の感触。
――病室で交わした“また稽古付き合ってね”の約束。
――額に触れた、あのキス。
どれも全部、心に残ってる。
それが、全部“作られた可愛さ”じゃなかったことも、今のこの瞬間で、よくわかる。
智華の“可愛さ”は、ただ見た目だけじゃない。
その裏にある不安も、迷いも、強がりも――
全部ひっくるめて、彼自身の“魅力”なんだ。
「……俺さ」
直哉が口を開く。
「……ちょっと、迷ってる」
正直に、ありのままの気持ちだった。
「妃華も、すげー綺麗で強くて、かっこよくて。ああいう子に好かれるなんて、正直、俺にはもったいないって思うくらい」
智華は笑わなかった。ただ、静かに聞いていた。
「でも……でもさ、今日のこの文化祭の中で、ずっと目で追ってたのは、智華だった」
直哉の言葉に、智華の指がピクリと動く。
「準備の時も、本番も、ミニスカで接客してるときも……俺、ずっと、目が離せなかったんだ」
言い終えた瞬間、智華はそっと顔を上げ、目が合った。
その瞳には――驚きと、嬉しさと、少しだけ涙の光。
「……ナオヤくん」
智華は言葉を詰まらせた後、笑った。
今まででいちばん、自然な笑顔だった。
「ボク、やっぱりナオヤくんのこと、好きでよかった」
それは、告白じゃなかった。
でも、確かに“答え”だった。
二人の間に、何も言葉はいらなかった。
ただ、少しだけ手が触れて――また、静かに日が沈んでいった。
夕陽はすでに校舎の向こうに沈み、文化祭の熱狂を包み込んでいた。
打ち上げの歓声が体育館の方から微かに届く。けれど――この教室には、静寂が降りていた。
「……ここ、まだ片付いてなかったのね」
妃華が、カーテン越しの淡い明かりに照らされながら、教室の奥に足を踏み入れる。
その奥には、座り込んで紙くずを集めていた智華の姿。
「……妃華さん? どうしてここに」
「探してたの。ナオヤくんを――じゃなくて、あなたを」
その言い方に、少しだけ自分でも照れたように笑う妃華。
智華は立ち上がり、わずかに視線を伏せる。
「もうすぐ、終わっちゃうね。この文化祭」
「そうね。……でも、その前に、ひとつだけ言っておきたいことがあるの」
妃華が一歩近づく。智華の目の前に立ち、静かに、まっすぐに言う。
「勝つのは、私」
智華は驚いたように一瞬だけ目を見開く――けれど、すぐに優しく微笑んだ。
「でも、勝ち負けじゃないよね。ナオヤくんが、どう思うかだけだもん」
その穏やかさが、むしろ妃華の心に刺さる。
「そうやって……ずるいわよ」
「え?」
「何も責めないで、正しさで返して。……そういうとこが、ナオヤくんを惹きつけてるのよ」
その時――
「……いたのか」
ドアが開いて、直哉が入ってきた。
三人の視線が交差する。けれど、どこかお互いに言葉を選ぶような、緊張した空気が流れる。
「……二人とも、まだ残ってたんだな」
言いながら、直哉はスリッパのまま中に入り、使い終わった装飾パネルを抱えていた。
文化祭の残り香と、夜の気配をまとって。
その静けさの中、妃華が口を開いた。
「さあ、どうするの? ナオヤくん」
「……え?」
「選んでよ。……今じゃなくてもいい。でも、いつかはきっと、誰かの心を、手に取らなくちゃいけない」
強く言っているようで、その声には揺れがあった。
それを感じたのか、智華がそっと、視線を下げる。
「ボクからは……選んでって、言わない」
淡く、でも確かな意志がその一言に込められていた。
「え……?」
直哉は言葉を詰まらせる。
どうしてだろう、目の前に二人の“可愛い”があるのに――心の奥に浮かぶのは、たったひとつの笑顔だった。
ふわっとした髪と、悪戯っぽい笑み。
病室で「また稽古付き合ってね?」と微笑んだあの時の、素直な目。
暑い教室で、額に浮かんだ汗を気にもせず、「ありがと」って言ってくれたあの時の声。
妃華の理知と美学も、すべてが直哉を魅了した。
だけど、それでも――どうしても、最後に浮かぶのは“霧島智華”という存在だった。
「……俺……」
言いかけて、直哉はそのまま言葉を閉じる。
今はまだ、答えを出してはいけない気がした。
この空気、この距離、この三角形。
すぐに壊すには、どれも尊すぎた。
「……時間、かけてもいいか?」
その問いに、智華も妃華も、静かに頷いた。
誰も泣かない。誰も怒らない。
ただ、それぞれの“好き”が、この場所に存在していた。
文化祭の灯が、静かに落ちていく。
廊下から聞こえてくる最後の打ち上げ花火。
その音が、まるでこの物語の幕間を飾る鐘のように響いていた。
夜の学園は、静まり返っていた。
昼間あれほどの熱気と喧騒に包まれていたとは思えないほど、今はひっそりと、夜の帳に包まれている。
校舎の影に隠れるように設置された“カジノ・ソラリス”のネオンも、今はその灯を落とし、淡く余韻だけを残していた。
直哉と智華は、並んで校門へと向かって歩いていた。
制服の上から羽織ったパーカーのフードが、微かに風に揺れる。
智華のミニスカホスト風衣装はすでに着替えていたものの、どこか今日の“華やかさ”の名残がまだ感じられる。
しかし――言葉はない。
歩幅も、間も、呼吸さえも合っているはずなのに、
何かを言い出せない沈黙が、二人の間に漂っていた。
――言わなきゃいけないことがある。
そう思うのに、喉の奥に引っかかったまま、言葉にならない。
石畳を踏む足音だけが、やけに鮮明に響く。
やがて校門を抜け、学園の外灯の下。
その時――直哉が、ふと立ち止まった。
「……智華」
智華も、ぴたりと歩みを止める。
振り返るその横顔に、いつもの笑顔はなかった。けれど、それは悲しみの顔でもない。
どこか、覚悟を含んだ静かな表情だった。
「俺……やっぱり――」
言いかけた瞬間。
「……まだ、言わなくていいよ」
智華がそっと遮った。
けれどその声には、優しさが宿っていた。
「ねえ、ナオヤくん。今日、ボクね……ずっと楽しかったんだ」
「……うん」
「いっぱいの人が来て、カジノもうまくいって、妃華ともちゃんと勝負して……」
そう言いながら、智華は少し空を見上げる。
「でも、一番楽しかったのは、やっぱり――キミと、ずっと並んでいられたこと」
柔らかく笑うその横顔に、直哉は心を打たれる。
「ボク、強がりだし、ちょっとわがままだし……可愛いって言ってほしいくせに、自分からは言えないしさ」
「そんなこと……ないよ」
「ふふっ、ありがと。でもね――」
そこで智華は、くるりと身体を向けて、真正面から直哉の目を見つめた。
「キミがどんな答えを出しても、ずっと好きでいるから」
その言葉は、まるで風のように軽やかで、でもどこまでもまっすぐだった。
胸の奥に深く刺さって、離れない。
直哉は、その言葉を全身で受け止める。
まだ答えは出せない。けれど――
“答え”がある未来を、怖がらずに進もうと思えた。
「……ありがとう、智華」
その言葉だけは、心からだった。
ふたりの間に、再び静けさが戻る。
けれど、それはもう“気まずい沈黙”ではなかった。
お互いの気持ちを確認した後の、温かい余韻のような、やさしい時間。
少し遠くで、自販機の音がコトリと鳴った。
夜風が吹き抜け、ふたりの髪をそっと揺らす。
そのとき――学園の奥、かすかに見える教室の窓の向こうで、
“カジノ・ソラリス”のネオンがゆっくりと、静かに消えていった。
まるで、今日という一日を閉じ込めるかのように。
その光を最後に見送って、智華がまた笑った。
「さて、帰ろっか」
「うん」
ふたりは並んで歩き出す。
“選ぶ”ということは、簡単じゃない。
でも、“選ばれる”ことを信じて待つことも、同じくらい、勇気がいる。
そして、そのどちらにも――
“好き”という気持ちが、確かに宿っていた。
