かわいいは、つくれる!_第3話
第3話:付き合っちゃえば、いいんじゃない?
鏡の前に立つ朝は、いつも決まって“少し眠そうな自分”が映っていた。
けど――今日の鏡の中の俺は、ちょっとだけ違って見えた。
「……なんか、肌の色が……整ってね?」
洗面所のライトの下、昨夜の“智華プロデュース・第一夜”のスキンケアを思い出す。
――クレンジングしてから泡立てて、優しく円を描いて洗って、
――化粧水は手の温度で押し込むように、
――最後は保湿ジェルで蓋をして終了。
「うわ、ちゃんと覚えてんのが悔しい……」
一人で苦笑しながら、制服のネクタイを締める。
きのう智華に言われた「ネクタイは少し緩めが“抜け感”出て良き」ってやつ、意外と悪くないかもしれない。
その瞬間、スマホが震えた。
📩《おはよー! 今日もボクの隣、お願いねっ》
名前を見なくても、誰からかは分かった。
胸の奥がじわっと温かくなるのを感じる。
「……ったく、朝から人のテンション上げやがって……」
ポケットにスマホを押し込んで、俺は家を出た。
*
坂を下った先――いつもの交差点。
そこには、ピンク色の髪が朝日を弾いてキラキラと輝いている、まさに“朝の光景に馴染んでる非日常”が立っていた。
「ナオヤくん、おはよ!」
その声を聞くだけで、胸がふわっと浮くような気がする。
「お、おはよ」
昨日よりも自然に、声が出た自分に驚く。
それに、智華の笑顔がちょっと嬉しそうに見えた気がして、さらに焦る。
「今日、ちょっと肌つやいいじゃん。やる〜!」
「う、うるせぇ……。言われたとおりやっただけだし」
「ふふ。ボク、褒め上手だからね」
隣で歩き出した智華の横顔をちらっと見る。
風になびく髪がサラリと肩を撫で、香りが一瞬流れ込んできた。
柔らかい甘さと、少しスパイシーなミント。
……なんで、そんなとこまで意識しちまうんだ俺。
通学路。
周囲の生徒たちの目線が、自分たちの方に集まっていることに気づくのに、時間はかからなかった。
「……うわ、なんか視線、増えてね?」
「うん。姫と手をつないで歩いた男、って噂になってるらしいよ」
「いやいやいや! 手はつないでねぇだろ!」
「背中に抱きついたのは、カウント外?」
「くっ……やめて……」
ニヤリと笑う智華の横顔は、いつもどおり“からかう顔”なのに、妙に距離が近く感じた。
そして――ふいに、智華が言った。
「でもね、その視線、ナオヤくんに向いてるんじゃなくて……
ナオヤくん“を見てるボク”に向いてるのかも、って思うんだ」
「……は?」
その言葉の意味を咀嚼する前に、もう次の言葉が来る。
「ボク、誰を見てるかで、“自分の価値”測られること、多かったからさ」
「……」
「だから最近は、“誰を選ぶか”って、けっこう大事にしてるよ」
言い終えると同時に、また軽く笑って前を向いた智華。
俺は何も言えずに、その後ろ姿を見ていた。
“誰を見てるか”。
“誰の隣にいるか”。
そんなの、ただの偶然だった。はずだった。
けど――その一言を境に、胸の奥で何かが変わった気がした。
学校の門が見えてくる。
その瞬間、周囲の空気がすっと変わったのを感じた。
背中に、鋭い視線が突き刺さる。
「……ん?」
振り返ると、三人組の男子がこちらを見ている。
そのうちの一人は、昨日、購買で見かけた奴だ。
“姫にちょっかいかけるな”って、誰かが呟いた気がした。
智華は気づいているのかいないのか、何も言わず、ただ静かに歩いている。
その姿は、背筋が伸びて、気高く、どこか孤独で――
「……ナオヤくん、大丈夫だよ」
その声は、俺の不安を読んだように届いた。
「何があっても、ボクがいるから」
それが、冗談でも強がりでもなく、心からの言葉に聞こえた。
俺は、思わず口元を引き結んで、隣に並ぶ。
「――うん」
それだけ、なんとか返した。
この“少しだけ変わった朝”が、
この先の“もっと変わる昼”を、まだ知らないまま。
教室に入った瞬間――空気が、微妙だった。
なんていうか、“温度がない”。
昨日までの教室は、ただ騒がしいだけの雑な空間だった。
けど今日は、妙に張り詰めてる。
みんな表向きはスマホをいじったり、あくびしたりしてるけど、目だけが――やたらと俺を追ってる。
「……なんだよ、これ……」
心の中で呟いたその瞬間、後ろの席のやつが小声で誰かに囁くのが聞こえた。
「あいつ、姫に色目使ってんじゃねーの?」
ビシリと背筋に冷たいものが走る。
隣に智華はいない。今日は朝、ちょっと別の先生に呼ばれてたらしい。
「マジで付き合ってんのかね、あの二人」
「姫の好みって、もっと細身のやつじゃなかったっけ?」
俺の耳にだけ届くような音量。けど、確実に“届かせるつもり”で発せられた声。
笑い声が混ざってないのが逆に怖い。
明確な敵意。
智華と一緒にいることで、“視線”が“監視”に変わったのがわかった。
昼休みも、なんとなく教室に居づらくて屋上でパンを食った。
一緒に食べるはずだった智華からは「職員室で引き止められた、ごめんね!」とメッセージ。
あの元気な絵文字入りの文章だけが、やけに遠い世界のものに見えた。
午後の授業も、なぜかずっと緊張していて集中できなかった。
誰の目が、いつ自分の後頭部に突き刺さってるか分からなくて、背中が痛かった。
そして、放課後。
教室の掃除を終えて、鞄を持って下駄箱へ向かうと――
空気がまた、変わった。
足音が、背後で三つ。
「……やっぱり一人だと弱いな、ナオヤくんは」
誰かが、吐き捨てるように言った。
振り向くと、赤髪の男と、左右に連れを従えた三人組の不良が、壁際に立っていた。
「最近さ、姫と一緒にいるの、よく見るよ。アイツ、気に入ったのか?」
「……別に、そんなんじゃ」
「そんなんじゃ、何? あ? 女みてーな顔しやがって、色気使ってんじゃねーの?」
「は……?」
「てめぇみたいな転校生が姫の横にいるとさ、周りが勘違いすんだよ。“あれって公式なん?”ってな」
語尾に毒と皮肉を混ぜた口調で、赤髪の男が一歩前に出てくる。
俺は無意識に一歩下がった。
――こいつら、殴る気はない。けど、“囲んで脅す”ぐらいの気は、十分ある。
教室の一部、階段の陰。下駄箱の横の、この“ちょうどいい死角”で、俺は完全に孤立していた。
鞄の紐を握る手に力が入る。声も出ない。
怖い――けど、悔しい。
こんな理由で囲まれて、詰められて、言葉で切られて。
それでも何もできない自分が、腹立たしい。
「てめぇ、姫が自分に惚れてるとでも思ってんの?」
「調子乗ってんじゃねーぞ」
「“彼氏ごっこ”なんて、長くは続かねぇよ?」
“ごっこ”――
その言葉に、心が揺れた。
昨日の、智華とのあの言葉がフラッシュバックする。
――“恋人ごっこってことでいいんじゃない?”
確かに、冗談半分だったかもしれない。
けど俺は、それを少しずつ信じてしまっていた。
その気持ちを、あっさり“ごっこ”って言葉で踏みにじられた気がして――
「……違うよ」
ついに出た、俺の声は、情けないくらい小さかった。
「なんだよ、聞こえねーぞ」
「違うって言ったんだよ……!」
少し強く言い返した。
でも、その一瞬の反抗が、逆に火をつけた。
赤髪が、一歩踏み出して、俺の胸倉を掴んだ。
「てめぇ、調子に乗って――」
その瞬間だった。
「――やめて」
低く、でもはっきりとした声が、風のように割り込んできた。
俺の背中に、すっと誰かの体温が触れる。
「ナオヤくんは、ボクの彼氏だよ?」
後ろから、柔らかなぬくもりと、さわやかな香りが俺を包んだ。
智華だった。
「“姫”……!」
不良たちが固まる。俺も動けない。
智華の腕が、俺の腰の後ろで、しっかりと絡まっていた。
「ボクの彼氏に、何か用?」
その言葉と同時に、智華が俺の背中に“ぎゅっ”と抱きついた。
制服越しに伝わる体温。柔らかさ。
背中に沿う輪郭。
そのすべてが、俺の思考を奪っていく。
何も、考えられない。
目の前で、赤髪の男が口を開けて言葉を探しているけど、何も出てこない。
周囲の空気が、一気に冷えた。
「……ちっ、行くぞ」
「マジかよ、あれガチだったのか……」
「姫、自分で“彼氏”って……」
ごそごそと文句を言いながら、不良たちは退いていった。
振り返ることもなく、ただ智華の存在に押されるようにして。
静寂。
俺と、俺を抱く智華。
「……今の、マジで……?」
俺がようやく声を出せた時には、智華はもう一歩下がっていた。
「ナオヤくん、顔真っ赤。かわいい」
「かわいいじゃねーよ、なに今の!」
「付き合っちゃえば、守ってあげられるじゃん? ね?」
あっけらかんと、でもどこか本気みたいなトーンで、智華は笑った。
その笑顔に、俺の心臓はまた、勝手に音を立て始めた。
制服越しに、背中を包む柔らかな感触。
鼓膜の奥で、**“ドクン”**と音が跳ねた。
腕の中――正確には、俺の背中にぴたりと密着するこの存在が、
“男”であるはずの霧島智華だという事実を、脳はすぐには受け入れられなかった。
それよりもまず感じたのは、あたたかさだった。
思った以上に体温が高い。
香りは甘く、どこか石鹸と花の中間のような清潔感。
肩甲骨のあたりに軽く沿う、しなやかな腕。
「ボクの彼氏に手出しするなんて、センスないね」
その言葉に、空気が一変した。
「……は?」
赤髪の男の口が、きゅっとすぼまる。
ざわつきが、半径5メートルに広がっていく。
見ていた周囲の生徒たちが、一様に息を飲んだのがわかった。
「彼氏、って……マジで……?」
「姫、また冗談でやってんのか?」
「いや……姫があそこまで言ったこと、今までなかったぞ」
冷たい視線が、混乱に変わる瞬間を、俺は確かに目撃した。
けれど――それより先に、自分の思考が凍りついていた。
頭の中が真っ白になるって、こういうことを言うのかもしれない。
背中に感じる鼓動。自分のよりも少しだけ速いリズムで、それは確かに智華のものだった。
「ちょ、ちょっと待てって……」
俺の声はかすれていた。何を言えばいいのかわからなかった。
「え、なに?」
智華は、背中越しに問い返してきた。
その声は驚くほど自然で――あまりにも、日常のように馴染んでいた。
「“付き合っちゃえば”、ナオヤくんのこと守ってあげられるでしょ?」
その言葉は、まるで朝の挨拶のような軽やかさで放たれた。
「……お前、なに言ってんだ……!」
「いや、だって、実際さ。ボクと一緒にいたら、誰もナオヤくんに手出しできないじゃん?」
「そりゃ、そうかもしれないけど……!」
「でしょ?」
智華はくすりと笑った。
その笑みは、ふざけているようで――どこか、“本音”に見えた。
見えてしまった。
俺の胸が、じわっと熱くなる。
「お前、からかってんのか……?」
「さあ、どうかな?」
腕の力が、ふわりと解けた。
背中から離れていくあたたかさに、ほんの一瞬、**“寂しい”**と感じた自分に、俺は驚いた。
気がつけば、不良たちはどこかへ散っていた。
その場に残ったのは、俺と智華、そして通りすがりの生徒たちのざわめきだけ。
「ナオヤくん、立ってるだけで頑張ったね」
「いや……俺、なにもしてねぇよ……」
「ううん。逃げなかっただけで、十分」
智華は前を向いたまま言った。
風が吹いた。制服の裾が揺れて、髪がふわっと宙に舞った。
それが、“舞台のカーテンコール”みたいに見えた。
「……さっきの、“彼氏”ってやつ、あれは……」
「どう思った?」
不意に、真っ直ぐな瞳がこちらを覗き込んでくる。
俺は、言葉を選べなかった。
「わかんねぇよ。お前、冗談で言ってんのか、本気で言ってんのか、さっぱりだ」
「ふふ……ナオヤくんって、可愛い」
「やめろって、その“可愛い”っての……」
「なんで?」
「ドキドキすんだよ、こっちは……!」
思わず、口から飛び出したその一言。
智華が、驚いたように目を丸くした。
そして――すぐに、にっこりと笑った。
「それ、ちょっと嬉しいかも」
「……!」
その返答に、俺の心臓がまた跳ねた。
智華の言葉って、いちいち心臓に刺さるんだよな。
柔らかく、でも絶対に“自分の言葉”として放ってくるから。
冗談めいてるくせに、本気で人を変える力がある。
「付き合ってなくてもさ、守れるけど――
“付き合ってる”って言っちゃえば、もっと楽になるんじゃない?」
「……それ、勝手に“付き合ってる”ってことにしていいって意味か?」
「違うよ。“そういうのが平気なら”、ボクがそうしてもいい、って意味」
「……お前、マジでややこしいな」
「それが“ボク”だから」
智華は小さく舌を出して笑った。
まるで、“ややこしい”を自分の勲章のように見せつけてくる。
その瞬間、俺は――なぜか、無性に目を逸らせなくなっていた。
通り過ぎる生徒たちの視線。
誰かが囁いた。「やっぱ、あれ本物かもな……」
もう関係ないと思った。
少なくとも、この笑ってる智華の隣にいる今だけは、誰の評価も気にしなくていい気がした。
そのくらい、この空気が、胸にしっくり来ていた。
人気の少ない中庭のベンチ。
春先の光が、葉の隙間からまだ冷たい風とともに舞い降りる。
「……ねぇ、ナオヤくん、こっちで少し休もっか?」
そう言って俺を誘ったのは、下駄箱前での“抱きつき事件”から数分後のことだった。
智華はあれからずっと、いつもと変わらない口調で話していた。
けれど、俺の頭の中は、まだ整理がついてなかった。
足元の土を見つめて、少し乾いた靴底の音を聞きながら、ベンチに座る。
隣には智華。
俺のすぐ横。距離は、10センチもない。
この数日間で、すっかり“隣にいるのが当たり前”になってしまった人。
「……なぁ」
口を開くと、思ったよりも声がかすれていた。
智華は少し首をかしげて、こっちを見た。
「さっきの……“彼氏”ってやつ。あれってさ、冗談だよな?」
沈黙。風が、ふっと吹き抜けた。
「あー……どうだろうね?」
その曖昧な言葉と同時に、智華は軽く背もたれに体を預けた。
「ボク、さ。前に言ったよね。“冗談と本気の境目、よくわかんない”って」
「……言ってたな」
「冗談のつもりだったことが、相手にとっては本気に聞こえたり。
逆に本気で言ったことが、笑って流されたり。
……そんなこと、いっぱいあったから」
智華の声が、少しだけ遠くを見ていた。
まっすぐじゃない、けどどこか投げやりでもない。
むしろ、肩の力を抜いたような、自然な言い方だった。
「じゃあ、さっきのも……?」
「……“あの瞬間”は、たぶん本気だったと思う」
「“あの瞬間は”? 今は違うってこと?」
「うん。今は、ちょっと冷静になってる」
「ふざけんなよ……」
そう言いかけた口元が、わずかに緩む。
なんだよ、それ。
でも――それが智華なんだって、たぶん俺はもう、分かってしまってる。
「……あのさ、智華。お前、さっき俺のこと守るって言っただろ」
「言ったね」
「その時、俺――背中にお前がくっついてたの、ちゃんと分かったんだ。
体温とか、香りとか、声とか……全部、ちゃんと覚えてる」
「そっか」
「それって、なんなんだろうな……。
ただの“男友達”とか、そういう括りで処理できないぐらいに、俺……ドキドキしてた」
智華は、ふっと小さく笑った。
「それって、つまり――“恋の予感”じゃない?」
「……また、それかよ」
「だって、ナオヤくん、否定しないんだもん」
否定できなかった。
むしろ、否定しようとするたびに、**“じゃあこの感情はなんだ”**って問い返されているような気分になる。
「たとえばさ」
智華が、小さく指を立てて言った。
「ボクが、女の子だったら――今、ナオヤくんは何を考えてたと思う?」
「……もっとわかりやすく混乱してたかもな」
「でしょ?」
「でも……お前、男だろ」
「うん。戸籍も、中身も、いちおう」
「それでも、こんなに……近くにいると、なんか……ぐらつくんだよ」
視線を合わせないまま、俺は正直に言った。
そのとき、風がまた吹いた。
春なのに少し冷たい風が、頬を撫でる。
「ナオヤくんのそういうとこ、ボクは好きだよ」
「……また、“かわいい”とか言うんじゃないだろうな」
「言ってないよ。“好き”って言ったの」
「…………ッ!」
一瞬、息が止まった気がした。
「うわ、反応よすぎ」
「お前、ほんと性格悪いだろ」
「うん、よく言われる。でもナオヤくんは、それが“嫌いじゃない”んでしょ?」
「……うるせぇ……」
視線を逸らして、ベンチの下の地面を見つめる。
風に揺れる葉っぱ。砂ぼこり。小さな石。
それら全部が、さっきまでとは違う“色”に見えた。
「……あの時、抱きつかれてなかったら、俺、たぶん何もできなかった」
「だから、抱きついた」
「……お前、どこまで計算してんだよ」
「うーん、“本能”と“経験”の合わせ技?」
「どっちも怖ぇよ……」
でも、口調とは裏腹に、胸の中では確かな“安心”が広がっていた。
その感情が、“恋”かどうかは、まだ分からない。
けど――
「……あの時感じた体温が、まだ背中に残ってる気がするんだよな」
ぽつりと、呟くように言った言葉。
智華は驚きもせず、ただ微笑んで頷いた。
「それ、忘れられない感覚になるよ。きっと」
「……マジで、どうしたらいいんだよ、俺……」
「さぁ? ボクと付き合っちゃえば?」
冗談に聞こえるけど、冗談じゃない。
嘘に聞こえるけど、嘘じゃない。
その“曖昧な笑顔”が、今の俺を一番揺さぶる。
どこかで、“一線を越える”ことへの怖さがあって、
同時に、“その一歩の先に何かある”ことを直感している。
ぐらぐらする。
でも、それが――心が動いてる証拠なんだって、分かってしまった。
翌朝、教室のドアを開けた瞬間。
空気が、昨日よりさらに“ざわついている”のが分かった。
正確には、俺が教室に入った“その時点”で――数人の目が、一斉にこちらに向けられた。
「おい、来たぞ……」
「例の“彼氏”だ」
「マジで手つないでたって……マジ?」
聞こえるか聞こえないかの絶妙なボリューム。
けど、それが誰に向けられているかなんて、わかりきっていた。
俺のことだ。
いや、“俺と、霧島智華の距離”のことだ。
「ナオヤくーん、ここー!」
智華の声が教室の奥から響いた。
すでに席に座っていた彼が、俺に向かって手をひらひらと振っている。
――隣の席、空いてる。
昨日、移動してきたのは“なんとなく”かと思っていたが、これはもう確信犯だ。
「おはよ……」
そう言って席に座ると、智華は満面の笑みを浮かべて、頬杖をついた。
「ナオヤくん、昨日より顔色いいじゃん。スキンケアの効果、出てきた?」
「いや、なんか……寝てただけだし」
「うーん、ボク的には“恋のホルモン効果”だと思うな」
「ちょ、おまっ、やめろって!」
周囲の耳が確実にこちらを盗み聞きしてる中、そんな爆弾みたいなセリフを平然と投下してくる。
「……ほんと、やりづらい……」
「でも、居心地悪くはないでしょ?」
「……まあ、慣れてきたというか……」
「ナオヤくんって素直だよね。かわいい」
「またそれかよ……!」
顔が熱い。
反射的に視線を逸らしたが、視線の端に――頬杖をついてじっと俺を見てる智華の横顔が見えて。
……見られてる。
ずっと、俺のことを“見る目”で、見ている。
その目は、男同士って前提を超えて、誰かに対して“ちゃんと好意を向けてる”目だった。
「……なあ、お前さ」
「ん?」
「俺のこと、ほんとに……」
そこまで言いかけて、喉が詰まった。
智華は、笑ったまま言った。
「ナオヤくん、ボクの隣って――ちょっと特等席でしょ?」
俺は思わず、聞き返した。
「特等席、って……何の?」
「“ボクが見てる景色”を、いちばん近くで見られる席だよ?」
教室のざわつき。
他人の視線。
空気の流れ。
それら全部を、智華は“舞台”のように歩いてる。
そして俺は――そのすぐ横にいる。
「……たぶん」
「うん?」
「いま日本で一番怖くて、一番嬉しい席だな、ここ……」
言った後、自分でも恥ずかしくなった。
けど智華は、笑うでも茶化すでもなく、ただ静かに頷いた。
「ありがと」
その言葉に、俺は不思議な安心を覚えた。
今まで、“自分が誰かの隣にいる意味”なんて、考えたことなかった。
けど今は、はっきりしてる。
この場所は――確かに俺が、自分で選んで、手に入れた“特等席”だ。
怖くて、ドキドキして、どうしようもなくて。
でも、嬉しくて、もう少しだけここにいたいって、思ってしまう。
この感情をなんと呼ぶかは、まだ分からないけれど。
下校時刻。
校門を抜けた空は、いつの間にかオレンジ色に染まり始めていた。
傾いた太陽が、道路の端を金色に染め、俺たちの影を真横に長く伸ばしている。
「ナオヤくん、今日もお疲れさま」
智華が、スキップのような軽い足取りで並んで歩いてくる。
いつもどおりのテンション。
けれど、今日はなぜかその声が、少しだけ――あたたかく聞こえた。
「なぁ……」
「うん?」
「……今日、ほんと色々あったな」
「うん、付き合っちゃえば守れるって言ったしね?」
「マジでさ、あれ何だったんだよ……」
「“恋人ごっこ”だよ」
智華は、さらりと言った。
「えっ」
「いや、だってほら。ちゃんと付き合ってるって言ったわけじゃないし。
でも、周りから見たらそんな風に見えるし。だったら、“ごっこ”でいいかなって」
「お前な……その“ごっこ”って言葉、軽く言うけど、結構刺さるぞ……」
俺は半ば呆れたように、でも少し笑って言い返した。
智華は立ち止まり、振り返る。
風が、彼のピンク色の髪をふわっと撫でた。
その瞬間、オレンジ色の空と重なって、まるで“誰かの物語のヒロイン”のように見えた。
「ねぇ、ナオヤくん。“恋人ごっこ”ってことでいいんじゃない?」
「…………」
「本気かどうかは、ナオヤくん次第で」
言葉が、風と一緒に流れていく。
何気ない一言に聞こえたけど、その目は真っ直ぐだった。
からかいでも、戯れでもない。
ふざけてるようで、どこか誠実な響きがあった。
俺は、その場で小さく息を吐いた。
「……じゃあ、俺が本気になったら?」
静かに、尋ねる。
智華は一瞬だけ目を見開き――そして、笑った。
それは、今まで見た中で一番優しい笑顔だった。
「そしたら……ちゃんと、考える」
言葉の裏にある“揺らぎ”が、どこかくすぐったい。
ふざけてるようで、本当は考えてる。
本気じゃないふりして、本気で向き合ってる。
「ったく、ずるいな……」
「え、何が?」
「全部、こっちに委ねるようで、実は主導権握ってんの、お前じゃん」
「だってボク、最初からそういうキャラだよ?」
肩をすくめながら、智華が先を歩き出す。
その背中を見つめながら、ふと、自分の中のある感情に気づいた。
“守りたい”――
そう、思っていた。
可愛いから? ドキドキするから? 頼りがいがあるくせに、どこか危ういから?
理由なんて、うまく説明できない。
ただ、背中を追いかけながら、自然と歩幅を合わせるその感覚が、すごく心地よかった。
信号が赤に変わる。
横断歩道の前で立ち止まり、二人並んで信号待ち。
ふと見下ろすと、アスファルトに落ちる自分たちの影が、肩のあたりでぴたりと重なっていた。
無意識のうちに、智華も同じものを見ていたのか、つぶやくように言った。
「ナオヤくんって、意外と影が濃いんだね」
「影? いや、普通じゃね?」
「ボクの隣にいると、ちゃんと映るよ。そういうの、ちょっと嬉しい」
それが何を意味しているかは、たぶん言葉にしない。
でも確かに、俺たちの“関係”は、もう以前とは違っていた。
名前をつけるとしたら、“恋人ごっこ”。
だけど、そこに“嘘”はなかった。
たぶん、きっと――
信号が青に変わる。
横断歩道を渡るその一歩目で、俺はそっと呟いた。
「……俺、もう逃げられねぇかもな」
「え?」
「なんでもない」
智華は不思議そうな顔で笑い、隣に並ぶ。
伸びた影が、夕日の中でゆっくりと交差し、まるでひとつの影のように溶け合っていた。
