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バニー on ICE

少女は、バニーガールの格好をしていた。
黒いリボンのついたウサ耳が頭に揺れ、白いタイツの上にふわりとした衣装が重なっている。年齢に似つかわしくないほど完成された衣装だったが、彼女自身はそれを特別なものだとは思っていなかった。今日はたまたま、こういう格好で外に出ただけだ。

腕の中には、もう一人の兎がいる。
ただの兎ではない。人の姿をしていて、長い耳と丸い目を持つ、獣の少女だった。

足元には、白く冷たい地面が広がっている。
それは雪ではなく、氷でもなく、正確にはバニラアイスだった。見渡す限り、なめらかで淡い乳白色の世界が続いている。ところどころにスプーンですくったような跡があり、凍りついた波のような起伏が連なっていた。

少女は、腕に兎を抱えたまま、その上を滑っていた。
靴の裏がつるりと動き、身体が自然に前へと流れていく。怖さはない。ただ、少し冷たいだけだ。

「ここ、寒いね」

少女が言うと、兎は肩をすくめた。

「そりゃそうでしょ。アイスの上だもの」

風は吹いていない。それなのに、空から白い粉がひらひらと舞い降りてくる。

「雪?」

少女は空を見上げた。

「いえいえ、粉砂糖です」

兎は即座に否定した。

「甘そう」

「見た目はね。でも吸い込みすぎると、たんぱくが糖化して焼けるの」

少女は首を傾げた。

「焼ける?」

「べっこう飴みたいな色になるってこと」

兎は自分の耳を指でつまみながら説明した。

「だから、吸いすぎ注意」

「じゃあ、傘がいるね」

少女はそう言って、背中の小さなリュックから一本の傘を取り出した。
透明なビニール傘だった。

傘を開くと、粉砂糖はパラパラとその表面に落ち、白い点となって広がっていく。

少女は傘を見上げて言った。

「ただのビニール傘」

兎は少し間を置いてから答えた。

「それ、言うまでもないよね」

二人はそのまま、バニラアイスの大地を滑り続けた。
しかし、冷たさは徐々に増していく。

「このままだと凍えそう」

少女が言うと、兎は地面を見回した。

「下に何か敷けばいいんじゃない」

少女は考え込み、そしてリュックの中から大きな丸いものを取り出した。

「パンケーキ」

ふわふわの焼き色がついたそれを、少女は足元に敷いた。
すると、不思議なことに、冷たさがやわらいだ。

「なんでパンケーキなの」

兎が聞く。

「かわいいから」

「理由、軽いね」

「この世界に重い理由、必要?」

兎は少し考えてから、うなずいた。

「いらないかも」

パンケーキの上を、二人はすいすいと滑っていく。
粉砂糖の雪が傘に当たり、白い線を描く。

「うさぎってさ」

兎が急に言い出した。

「パンケーキが好きって、あれ作り話だから」

少女は無言で、何かを差し出した。
それは、黄色くて少し湾曲した果物のようなものだった。

「つばなな」

兎は目を輝かせて、それにかぶりついた。

「はむ。おいち」

少女は呆れたように言う。

「それはいいんだぁ」

兎は口をもぐもぐさせながら答えた。

「味覚は別枠だから」

パンケーキの端がふわりと浮いた。
まるでメレンゲのように、軽く空気を含んでいる。

「浮いてる」

「甘味重力、弱めだからね」

少女はそのまま滑り続ける。

「ニンジンも好きっていうのも嘘だからね」

兎は念押しするように言った。

少女は今度は、ニンジンの葉っぱの部分だけを差し出した。

兎は迷わずそれを食べた。

「うまうま」

「思いっきり好きじゃん!」

兎は少しだけ胸を張る。

「葉っぱの方ね。オレンジのところはいらないから」

そう言って、根の部分を少女に渡した。

「ありがと」

「いいエコシステムね」

粉砂糖の雪は止まらず、透明な傘の上に白い膜を作り始めた。

「見えにくくなってきた」

少女が言うと、兎は傘をくるっと回した。

砂糖は渦を描いて流れ落ち、小さな白い山になった。

「シュガートルネード」

「言い方が大げさ」

遠くのほうに、地面が大きく裂けている場所が見えた。
白いバニラアイスの大地が、深い青色の裂け目に吸い込まれていく。

「大きなクレバス?」

少女が指をさす。

「ものは言いようね」

兎は肩をすくめた。

「オケアノス?」

「いちいち夢を込めないの」

二人は、その裂け目の手前まで滑ってきて、パンケーキの上で止まった。

裂け目の向こうには、淡い光に包まれた何かが見える。

「ねえ」

少女がぽつりと言った。

「でも、私たち、なんでこんなところにいるのかしら?」

兎は少しだけ視線を逸らしてから、答えた。

「世界の気まぐれ、と言いたいところだけれど」

兎は少女を見つめる。

「貴女、卵わったでしょ?」

「割ったけど。ホットケーキ作るのに必要だったから」

兎は静かに言った。

「あれ、世界の元の卵」

少女は目を見開いた。

「うそ」

「ほんと」

兎は続ける。

「たまたま、貴女が用意した材料に紛れ込んでいたみたいね」

少女はパンケーキの表面を見下ろした。

「じゃあ、この世界って」

「焼き菓子」

「バニラアイスの大地も?」

「溶けた部分」

「粉砂糖の雪は?」

「飾り付け」

少女は少し考えてから言った。

「世界、コース料理だったんだ」

兎は満足そうにうなずいた。

「フルコースね」


パンケーキの上で止まっていたはずの二人は、気づかないうちにまた滑り始めていた。
自分たちで踏み出したわけではない。世界そのものが、静かに流れているようだった。

少女は、透明な傘越しに空を見上げる。
粉砂糖は相変わらず降り続いているが、さっきより粒が細かくなっている気がした。

「さっきより、甘さが薄くなってない?」

兎は耳を少し揺らしながら答えた。

「飾りの層を越えたんじゃない?」

「層?」

「世界はだいたい重なってできてるの。味もね」

少女は傘を閉じ、腕に抱えていた兎を一度地面に降ろした。
兎はパンケーキの上に軽く着地し、足元を確かめるようにぴょんと跳ねる。

「このパンケーキ、さ」

少女が言う。

「最初より、少し固くなってない?」

兎はしゃがみ込み、表面を指で押した。

「焼きが進んでる」

「進むんだ」

「時間があるからね」

少女は眉をひそめた。

「時間、あるの?」

兎は立ち上がり、周囲を見渡した。

「ある世界には、ある」

「ない世界も?」

「ある」

少女は少しだけ黙った。
キッチンの時計の音が、頭の奥で小さく鳴った気がした。

「ねえ」

少女は、パンケーキの縁を見つめながら言った。

「ここって、ずっといられるの?」

兎は即答しなかった。
耳が一度だけ、風もないのに揺れた。

「甘味の世界はね」

兎はゆっくり言葉を選ぶ。

「長居する場所じゃないの」

「どうして?」

「溶けるから」

少女は思わず足元を見下ろした。
バニラアイスの大地は、確かにところどころ艶を帯びている。

「溶けたら、どうなるの?」

「混ざる」

「何と?」

「現実と」

少女は、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。
さっきまで寒さはあったが、それとは違う感覚だった。

粉砂糖の雪が、一瞬だけ止んだ。
空が晴れたわけではない。ただ、間ができただけだった。

その隙間に、遠くの景色がはっきりと見えた。
裂け目の向こう側。
青く、深く、甘味の色をしていない空間。

「オケアノス」

少女が、思わず口に出す。

兎は小さくため息をついた。

「だから、名前つけないで」

「だって、あれ」

「割れ目」

兎はきっぱりと言った。

「世界が冷えて、固まって、ひびが入ったところ」

少女はその言葉を反芻した。

「冷えて、固まって」

「アイスだもの」

兎は耳を指で押さえる。

「でもね、全部が割れるわけじゃない」

「じゃあ、何が割れるの?」

兎は少女を見上げた。

「境目」

少女はその視線を受け止めたまま、しばらく黙っていた。

「ねえ」

少女はゆっくり言った。

「もし、戻れなかったらどうなるの?」

兎は少し考えたあと、肩をすくめた。

「明日の予定が消える」

「それ、困る」

「でしょう」

「学校もあるし」

兎は少女の靴を見た。

「その靴、上履きじゃない」

「違うよ」

「でしょうね」

少女は笑いかけたが、すぐに表情を戻した。

「私、普通に明日、テストなんだけど」

兎は首をかしげる。

「甘味の世界では、点数は測れない」

「そういう問題じゃないよ」

少女は、傘の柄をぎゅっと握った。

「帰らないと、困る人がいるの」

兎は少しだけ、目を細めた。

「困る人、ね」

「うん」

兎は、パンケーキの端を蹴った。
少しだけ欠けて、ふわりと空中に舞う。

「世界の外には」

兎は言った。

「役割がある」

少女は頷いた。

「あるよ」

「ここには?」

「かわいいものがある」

兎は笑った。

「正解」

粉砂糖が、再び降り始める。
今度は、少しだけ重たい。

「さっきより、粒が大きい」

少女が言う。

「戻りたい気持ちが混ざってきたから」

兎は平然と答えた。

「気持ちも、降るんだ」

「この世界ではね」

兎はパンケーキをくるりと一周見回した。

「そろそろ、準備しないと」

「何の?」

兎は裂け目のほうを指差した。

「帰る準備」

少女の心臓が、少し早く打った。

「本当に、あそこに行くの?」

「行かないと」

「怖い」

兎は少女に近づいた。

「甘味の世界は優しいけど」

兎は静かに言った。

「優しいだけじゃ、出口にならない」

少女は唇を噛みしめる。

「じゃあ、あなたは?」

兎は一瞬だけ、言葉に詰まったように見えた。

「私は」

兎は、パンケーキの上に座り込む。

「ここにいるもの」

「一緒に来ないの?」

兎は首を横に振った。

「法則は、移動しない」

少女はその言葉を、すぐには理解できなかった。

「法則?」

兎は答えない。
代わりに、パンケーキの上に落ちた粉砂糖を指で集め、小さな円を描いた。

「割ったでしょ」

少女ははっとする。

「卵」

「そう」

兎は円の中心を指でなぞる。

「割れたものは、元に戻らない」

「でも」

少女は言いかけて、止まった。

「戻る方法はある」

兎が言った。

「完全じゃないけど」

少女は、裂け目を見つめた。
青い深さが、さっきより近く感じられる。

「ねえ」

少女は兎を見る。

「あなた、普通の兎じゃないでしょ」

兎は、少しだけ口角を上げた。

「やっと気づいた?」

少女は深く息を吸った。

「だったら、ちゃんと教えて」

兎は、ゆっくりと立ち上がった。

「いいわ」

兎は言う。

「仕方ないから」

粉砂糖の雪が、また一段と強くなる。
透明な傘に、白い膜が広がる。

世界は、静かに、終わりと始まりの境目へと滑っていった。


粉砂糖の降り方が変わった。
さっきまではふわりと舞うだけだったそれが、今は重さを持って傘に当たっている。
透明なビニール傘の表面は、白く曇り、向こうの景色がぼんやりとしか見えなくなっていた。

少女は傘の柄を握りしめ、裂け目のほうへと視線を向けた。
青い深さは、まるで底のない海のように広がっている。

「ねえ」

少女は、少し声を落として言った。

「本当に、あそこに飛び込めばいいの?」

兎はパンケーキの縁に立ち、耳を揺らした。

「そう言ったでしょ」

「でも、落ちたらどうなるの?」

「戻る」

「それだけ?」

兎は振り返って、少女を見つめた。

「それ以上、何を期待してるの」

少女は言葉に詰まった。
心の中では、いくつもの不安が渦巻いている。
冷たい大地。
溶ける世界。
割れ目。
そして、明日の学校。

「だって」

少女はゆっくり言う。

「ここ、ちょっと楽しいんだもん」

兎は一瞬だけ目を細めた。

「楽しい場所ほど、長くはいられない」

「それ、決まりなの?」

「法則」

兎は短く答えた。

粉砂糖が、また一段と強く降り始めた。
傘の上に積もった白い層が、ずしりと重くなる。

「傘、折れそう」

少女が言うと、兎はあっさり答えた。

「甘味は、重いの」

「軽そうなのに」

「見た目と中身は違う」

少女は傘を少し傾け、砂糖を落とした。
白い粒が、バニラアイスの地面に溶け込んでいく。

「ねえ」

少女は、ふと思い出したように言った。

「さっき言ってたよね」

「何を」

「世界の元の卵」

兎は動きを止めた。

「……覚えてたの」

「忘れられないよ。そんなの」

少女は兎を見つめる。

「私、本当にそんな大事なもの、割っちゃったの?」

兎は少しだけ視線を逸らした。

「大事かどうかは、後から決まる」

「じゃあ、あの卵は」

「材料」

少女は目を丸くした。

「材料?」

「ホットケーキのね」

少女は、パンケーキの焼き色を見下ろした。

「じゃあ、この世界って」

「焼きすぎた結果」

兎は淡々と言った。

「割って、混ぜて、焼いて、冷やした」

「冷やした?」

「バニラアイスで」

少女は小さく笑った。

「レシピみたい」

「創世神話は、だいたいレシピ」

兎は耳を揺らす。

「ただ、あなたのは甘味寄りだっただけ」

少女は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

「じゃあさ」

少女は恐る恐る言った。

「この世界、元に戻せないの?」

兎は静かに首を振った。

「割ったものは、戻らない」

「じゃあ、私、ずっと責任者?」

「責任ってほどじゃない」

兎はパンケーキの端に座り込む。

「世界は、誰かのうっかりでできてる」

「ひどい言い方」

「優しい言い方よ」

少女はしばらく考えたあと、ふっと息を吐いた。

「じゃあ、私がここに来たのも」

「うっかり」

「帰るのも?」

「流れ」

少女は裂け目を見つめた。
青い深さは、さっきよりも近く、はっきりしている。

「ねえ」

少女は、声を少しだけ強くした。

「あなた、何者なの?」

兎は耳を立てた。

「どういう意味」

「さっきから、知りすぎてる」

兎は少しだけ笑った。

「兎は、知るもの」

「普通の兎じゃないでしょ」

兎は少女の前に立った。

「普通の兎って、何」

「ニンジン食べて、穴掘って」

「葉っぱは食べた」

「そういう話じゃない」

少女は一歩近づいた。

「あなた、この世界のこと、全部わかってるでしょ」

兎はしばらく黙ったまま、粉砂糖が落ちる音を聞いていた。

「……全部じゃない」

兎はようやく口を開いた。

「でも、割れ目のことは知ってる」

「どうして」

「私が、それだから」

少女は首を傾げる。

「それって?」

兎は裂け目のほうを指さした。

「境目」

「境目?」

「始まりと終わりの」

少女はその言葉を噛みしめた。

「じゃあ、あなたは」

兎はゆっくりと答えた。

「この世界の、割れ方」

少女は思わず笑ってしまった。

「なにそれ」

「法則」

兎は淡々と続ける。

「割った卵が、世界を作った」

「焼いたパンケーキが、大地になった」

「溶けたアイスが、冷たさを残した」

「そして、割れ目が、出口になる」

少女は、はっとした。

「出口」

「そう」

兎は頷く。

「割れた場所から、戻る」

「じゃあ、オケアノスって」

「言い直すわよ」

兎は軽く咳払いをした。

「割れ目」

少女は肩をすくめた。

「夢がないね」

「現実寄り」

粉砂糖の雪が、また一段と強くなる。
傘の白い曇りが、ほとんど視界を覆った。

「もう、あんまり見えない」

少女が言う。

「見えなくていい」

兎は答えた。

「落ちるときは」

「落ちるって言わないで」

「飛び込む、ね」

兎は言い換えた。

少女は深呼吸をした。

「ねえ、最後に聞いていい?」

「何」

「あなた、一緒に来ないの?」

兎は静かに首を振った。

「私は、ここにいるもの」

「どうして」

「法則は、外に出ない」

少女は胸の奥が少しだけ痛くなった。

「でも、あなたがいないと」

「甘味は残る」

兎はパンケーキの上に、つばななを置いた。

「味覚は、あなたの中にある」

少女は、その黄色い果物を見つめた。

「それ、励まし?」

「事実」

兎は笑った。

「さあ」

兎は裂け目のほうへ歩き出す。

「そろそろよ」

少女は、震える足で一歩踏み出した。

裂け目の縁に立つと、冷たい空気が頬を撫でる。

「怖い」

少女が小さく言う。

兎は振り返った。

「怖いのは、ちゃんと戻る証拠」

「変な理屈」

「世界の理屈」

少女は、兎をまっすぐ見つめた。

「ありがとう」

兎は耳を揺らした。

「どういたしまして」

粉砂糖の雪が、一瞬だけ止んだ。
世界が、静かに息を止めたように感じられる。

兎は、はっきりと告げた。

「さっきのクレバス」

「オケアノス?」

「だから、名前つけないの」

「はーい」

兎は指差した。

「あそこに飛び込めばいいわ」

少女は目を見開いた。

「えぇー!」

兎は淡々と続ける。

「あそこが、世界の割れ目になっているから」

「それで戻れるでしょ?」

少女は、裂け目と兎を交互に見た。

「か、かしこい。あなた」

兎は少しだけ胸を張った。

「普通の兎ではないわね」

兎は、はっきりと答えた。

「そうよ」

兎は、粉砂糖に覆われた世界を見渡す。

「だって、私は」

兎は静かに言った。

「この世界の法則そのものだから」

裂け目の奥が、淡く光った。

少女は、覚悟を決めるように、足を踏み出した。


裂け目の縁に立った少女は、もう一度だけ振り返った。
粉砂糖の雪に包まれた世界は、相変わらず甘く、やわらかく、どこか現実味がなかった。

「本当に、行くよ」

少女が言うと、兎は小さくうなずいた。

「それが、流れ」

少女は、透明な傘をたたみ、そっと地面に置いた。
粉砂糖が積もった傘は、まるで白い飾り物のように見えた。

「これ、置いていくね」

兎は耳を揺らした。

「甘味の記念品」

「あなたは?」

兎は少女を見上げる。

「私は、ここ」

「ずっと?」

「法則は、動かない」

少女は、少しだけ唇を噛んだ。

「じゃあ、さ」

少女は、腕に抱えていたつばななを兎に差し出した。

「最後のおやつ」

兎はそれを受け取り、小さくかじった。

「おいち」

少女は思わず笑った。

「そこは変わらないんだ」

「味覚は、世界を超える」

粉砂糖の雪が、またふわりと舞った。
裂け目の奥から、冷たい空気が流れ出してくる。

「落ちたら」

少女は小さく言った。

「もう、戻ってこない?」

兎は静かに答えた。

「戻るのは、あなた」

「あなたは?」

「残る」

少女は深く息を吸った。

「じゃあ」

少女は兎に向かって、しっかりと言った。

「ありがとう」

兎は少しだけ照れたように耳を伏せた。

「どういたしまして」

少女は、裂け目の縁に立つ。
足元のパンケーキは、もうほとんど形を失い、やわらかく溶けかけていた。

「世界、焼きすぎだったね」

「でも、おいしかった」

少女は小さく笑った。

「じゃあ、行くよ」

兎は最後に一言だけ告げた。

「割れたものは、形を変えて残る」

「卵みたいに?」

「そう」

少女は、もう一度だけ兎を見てから、前に踏み出した。

裂け目の中は、青く、深く、そして静かだった。
落ちていく感覚はなかった。ただ、体がすっと軽くなる。

甘い匂いが、遠ざかっていく。

そして。


目を開けると、天井があった。
見慣れたキッチンの天井だった。

少女は、椅子に座ったまま、ぼんやりと瞬きをした。
目の前には、ボウルと泡立て器。
粉の袋。
そして、割れた卵の殻。

「……あれ」

少女は、そっと立ち上がった。

床は冷たくない。
バニラアイスでもない。
パンケーキも敷かれていない。

ただの、いつものキッチンだった。

「夢?」

少女は自分の手を見た。
バニーガールの衣装は着ていない。
学校の制服が、ちゃんとそこにあった。

「やっぱり」

少女は、少しだけ安心したように息を吐いた。

「明日、学校あるし」

ふと、テーブルの上に視線を移す。

そこには、小さな卵が置かれていた。
ただの卵ではない。
カラフルに装飾された、イースターエッグだった。

「……え」

少女は、ゆっくりとそれに近づいた。

卵の殻には、細かい模様が描かれている。
花のような形。
波のような線。
そして、どこか見覚えのある、長い耳のシルエット。

「兎」

少女は、そっとつぶやいた。

イースターエッグを持ち上げると、軽い。
中身は入っていないはずなのに、不思議と温かかった。

「割れたものは、形を変えて残る」

兎の言葉が、頭の中に浮かんだ。

少女は、エッグをそっとテーブルに戻した。

「法則、ここにいたんだ」

窓の外を見ると、空はいつも通りの色をしている。
粉砂糖の雪は降っていない。
でも、どこか甘い匂いが残っている気がした。

少女は、ボウルの中の生地を見下ろした。

「ホットケーキ、焼こ」

フライパンを火にかける。
バターが溶ける音が、じゅっと静かに広がる。

生地を流し込むと、丸い形ができた。

「世界の残り香」

少女は小さく笑った。

焼き色がついたホットケーキを皿に乗せ、
その上に、バニラアイスを少しだけのせる。

「甘味、継続中」

フォークで一口切り取って、口に運ぶ。

「おいしい」

誰もいないキッチンで、少女はそう言った。

イースターエッグは、静かにテーブルの上に置かれたまま、
何も語らない。

でも、そこにある。

割れた卵の、別の形として。

少女は制服の袖を整え、時計を見る。

「間に合う」

ランドセルを手に取る前に、
もう一度だけ、イースターエッグを振り返った。

「またね」

答えは返ってこない。
それでも、少女は軽い足取りで家を出た。

キッチンには、甘い匂いだけが残った。


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written not to own,
but to be consumed by thought.

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