かわいいは、つくれる!_第8話
第8話:発熱しても、君のそばに
――朝のHRは、いつもより妙にざわついていた。
「なぁ、“姫”今日いなくね?」
「珍しいよな、あいつが休むなんて」
「体調崩したんじゃね? 昨日、ちょっとヤバそうだったし」
クラスメイトたちの会話が、耳に入ってきた。
霧島智華――あの男の娘が、今日、欠席している。
直哉は、無意識に窓際の席を見やった。
智華の姿は、当然ながら、そこにはない。
ふわっとしたピンクの髪も、いつも隣で距離感ゼロの笑顔も。
「……マジかよ」
つい口に出してしまいそうになって、咳払いで誤魔化す。
直哉自身、昨日の出来事をまだ引きずっていた。
竹刀を握って、不良の前に立ち、智華を守った。
そして――額に、キスされた。
体温が伝わるほどの距離で、あの笑顔を向けられた。
あれが夢じゃないのは、今でも額の奥に残ってる熱でわかる。
「……でも、何してんだろ、俺」
自分の頬が、ほんのり熱い。
恋とか、そういうのはまだ信じきれないけれど、確実に、何かが変わった。
「気になるなら、行ってくれば?」
隣の席に座っていた妃華が、まるで見透かしたように言った。
「え?」
「顔に出てるわ。心配してるって。……放課後、時間あるんでしょ?」
妃華はスマートに髪を耳にかけ、クスリと笑った。
名門女子校・白楊女学院からやってきた“お嬢”は、やっぱり底が知れない。
「行って……いいのかな」
「本人は絶対、“来なくていい”って言うわよ。でも、そんなの気にしないで。……あの子、甘え下手だから」
その一言が、なぜか背中を押した。
昼休み、直哉はひとりで購買のパンをかじりながら、スマホで「霧島 智華 自宅」と検索していた。
もちろん、そんな情報が出てくるはずもない。
だが、智華の家は“少し山の方”にあるらしい、という噂は聞いたことがあった。
「たしか……前に話してた駅の近くだっけ」
放課後のチャイムが鳴ると同時に、直哉は誰よりも早く教室を出た。
地図アプリを開きながら、最寄りの駅を目指す。
普段なら寄り道もせず帰るだけの道のり。
でも今日は、心臓が落ち着かない。
鼓動が早い。まるで竹刀を握っていた昨日の延長戦みたいに。
「なんでこんなに緊張してんだよ、俺……」
坂道を登っていくにつれ、空気が少しずつ変わる。
住宅街を抜けた先、静かな並木道。
その先に、霧島家があるという。
でも、どう見ても普通の家は見当たらない。
代わりに、山のふもとに佇む、一軒の和風屋敷が目に入った。
塀が高く、竹垣で囲われたその家は、まるで忍者屋敷のように見えた。
「……まさか、ここ?」
まさか、じゃなかった。
インターホンを押す前に、門の影から人影が現れる。
「直哉くん、ですね」
眼鏡をかけた長女――智華の姉が、スッと現れて、無表情で告げた。
「お、お邪魔して……すみません!」
「今日は、“弟くん”に用件ですか? それともBL設定のネタ探し……いえ、失礼」
明らかに圧を感じつつも、直哉は勇気を出してうなずいた。
「智華のことが、心配で……少しだけ、顔を見せてもらえませんか」
長女は無言でジロリと見つめたあと、ふっと微笑んだ。
「どうぞ。あなたなら、きっと歓迎されると思いますよ」
門がゆっくり開く。
その奥には――まだ知らない、智華の“家”と“素顔”が待っていた。
「どうぞ、お入りください」
そう言って門を開けたのは、智華の長女の姉――理知的な雰囲気を纏う眼鏡女子だった。スラリとした体型に、きっちりと結い上げられた黒髪。
まるで剣のように凛とした視線を向けてくる彼女に、直哉は無言で深く頭を下げた。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
木の香りが漂う玄関。畳敷きの廊下。音ひとつ立たぬ空間。
静謐(せいひつ)という言葉がぴったりだ。――だが、それは錯覚だった。
「っ!? うわっ!」
廊下の脇の襖が“すうっ”と音もなく開いたかと思うと、真っ黒な影が天井から降ってきた。
瞬間的に身を引いた直哉の目の前に、くノ一装束の女性が膝をついた形で着地する。
「ふむ。そこそこの反応速度。だが、それで我が娘に手を出すとは片腹痛いわね」
――母、登場。
長女の冷気とは違う、圧倒的な“殺気”。
ぴっちりと体に沿った黒装束、ベルトに差された手裏剣型のクッキー型(!?)、そして鋭すぎる目。
「か、手を出すって、違っ……!」
「ならば何の用だ。“病に伏せる姫”の元に、男ひとりで忍び入る理由、三つ以上述べよ」
まるで尋問。いや、尋問だこれ。
「え、えっと……! 智華が心配で、元気か顔を見たくて、それに……!」
「それに?」
「……俺が会いたかったんです。智華に」
沈黙。空気がぴん、と張りつめる。
その瞬間だった。玄関の奥――靴箱の陰から、長女とはまた違う、快活なオーラを放つ女子が現れた。
スポーツウェアにジャージを羽織り、肩にバレーボールバッグ。すらりと長身。表情は明るく、それでいて少し警戒気味だ。
「ママ、あんまり追い詰めると逆効果だって。直哉くんだっけ? 智華のクラスメイト」
「あ、はい。霧島直哉です」
「私は次女。霧島桐子。バレー部主将で、姉バカ。で、あの子の彼氏候補ってことでいい?」
「か、彼氏! いや、そ、それは……!」
「ふふーん。動揺、よし。汗の量、よし。目線の揺れ……あ、これはガチだね」
笑顔のまま、ジャージの胸元から何かを取り出す。――スマホだ。
カメラアプリが立ち上がっている。
「ちょ、なんで撮るんですか!?」
「いやいや、“初対面で彼氏認定された直哉くんのリアクション”とか、最高に資料になるし。個人使用だからセーフ」
「そっちもかよ!?」
横からスッと声が割って入る。
長女――霧島雪那が、微かに眉を寄せて首を傾げた。
「私は記録資料用に、すでに数十冊書き溜めていますけど?」
「どっちも同人かよ!!」
直哉は思わず叫びそうになった。が、叫べない。
なぜなら、目の前にいる女性陣すべてが“霧島家”の人間であり、そして――智華の家族なのだから。
圧がすごい。
でも、逃げちゃいけない。
智華を心配する、その一心でここに来た。
だから、ここで怯んだら意味がない。
深呼吸して、頭を下げた。
「俺……本当に、智華のことが大切なんです。会わせてください。話したいことが、たくさんあります」
その言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
そして――
「ふふっ、通してあげなよ。これだけ言えるなら、合格でしょ」
軽やかな声とともに、次女の桐子が肩をすくめる。
母も、目を細めて頷いた。
「よかろう。だが、その想いが口先だけなら、許さぬぞ」
「覚悟はできてます」
直哉は自分でも驚くくらい、しっかりとした声でそう答えていた。
雪那が階段を指し示す。
「智華の部屋は二階の一番奥。ノックしてから入りなさい。あと、手は出すなよ?」
「出さねぇよ!!」
満場一致でボケとツッコミが炸裂したあと、ようやく直哉は、智華のもとへと足を踏み出す。
その胸の内は――さっきより、ずっとあたたかかった。
廊下を歩くたびに、床の軋む音がやけに大きく響いて聞こえた。
直哉の手の中には、ぬるくなりかけたスポーツドリンクのボトル。コンビニで迷いに迷って選んだやつだ。智華は何味が好きなんだろう、とか、炭酸は大丈夫かな、とか。思えば、そんなことでさえ悩んだのはこれが初めてだったかもしれない。
階段を上がり、言われたとおり二階の一番奥の部屋へ向かう。
静かな廊下に、小さく“ピッ”という電子音が響いた。体温計のアラームか、加湿器の通知音か、そんな些細な音がこんなにも緊張を高めてくるなんて。
部屋の前で、深く息を吸う。
ノックしようとしたそのとき、中から弱々しい咳が聞こえて、心臓が跳ねた。
――智華、やっぱり具合悪いんだ。
軽くノックし、「霧島です、直哉です」と声をかける。
返事はないが、代わりに小さな「カチャ」とドアが内側から開く音。どうやら鍵はかかっていなかったらしい。
恐る恐る扉を押し開けると、やさしい木の香りと、薬と体温の混ざった空気が流れ出てきた。
そこにあったのは、いつもとまるで違う智華の姿だった。
薄手のルームウェアにくるまれて、布団の中にすっぽりと収まった姿。
ふわふわの前髪が額に張り付き、頬はほんのり赤く染まっている。汗ばんだ肌と、浅く上下する呼吸。
まぶたは閉じたままだが、その寝顔はどこか苦しそうで、それでもどこか安心しているようにも見えた。
直哉は、そっと足音を忍ばせてベッド脇の椅子に腰を下ろした。
そして、テーブルに持ってきたスポーツドリンクと、カバンから出した濡れタオルをそっと置く。
そのときだった。
「……ナオヤくん?」
ぼんやりとした声。まぶたがゆっくりと開かれ、その奥の、熱に潤んだ瞳が直哉を捉える。
「来てくれたんだ……」
その声だけで、胸が詰まった。
「お、おう。いや、その……顔、見に来た。元気かなって思って」
声が少し裏返るのをごまかしながら、スポーツドリンクの蓋を開け、ストローを差して手渡す。
智華はベッドからゆっくりと体を起こすと、唇にストローをくわえ、ちゅっと小さく吸った。
「ぶどう味……これ、好き」
「よ、よかった……めっちゃ迷ってさ。炭酸あるやつとか、ゼリーのやつとか、色々見て……」
「うん、ナオヤくんらしい」
ふふっと笑う声。掠れてはいるけど、しっかりと智華の声だった。
熱に浮かされているはずなのに、なぜかその笑顔はいつもより柔らかく見えた。
「……今日、来てくれるってちょっとだけ期待してたんだよ?」
そう言って智華は、まるで恥ずかしさを隠すように顔を横にそらした。
「いや、べつに、来なかったら来なかったでいいんだけどさ……でも、ほら、昨日……その……ナイスだったから。あれ、すごく、嬉しかったから」
直哉の頭の中で、記憶がよみがえる。
不良に囲まれた放課後。智華の体調はすでに限界だったのに、それでも気丈に笑ってた。
それを見て、自分はようやく立ち上がれた。
あのときの竹刀の重さ。あの一撃の鼓動。
それらが今、目の前の彼女の“ありがとう”になって返ってきている。
「俺さ、まだ全然頼りないけど……」
言いながら、膝の上で手を握った。
「それでも、守りたいって思ったんだ。お前のこと」
その一言に、智華の肩がぴくりと動いた。
頬の赤みは熱のせいだけじゃない。彼女の耳までほんのりと染まっている。
「……バカ」
でも、その言葉にとげはなかった。
「ボク、病人なんだけどな。泣きそうになっちゃった」
そのつぶやきが、やけに胸にしみた。
それから二人は、静かにいくつかの言葉を交わした。
直哉は、最近の学校での出来事をぽつぽつと話し、智華はうつらうつらしながら相槌を打つ。
その間、時計の針の音すら優しく響くような、不思議な時間だった。
窓の外でカラスが鳴く頃、智華は少しだけ体を起こし、ゆっくりと直哉の肩にもたれかかる。
「ねえ……ナオヤくん」
「ん?」
「治ったらさ、デートしてくれる?」
「っ……!」
「……制服じゃないボク、見たいでしょ?」
その一言が、直哉の中で“決定打”になった。
完全に――落ちた。もう誤魔化す理由がひとつもないくらいに。
智華の部屋の時計が、秒針をカチリと鳴らした。
熱で火照った頬が、直哉の肩にゆるやかに触れている。体温が高いのに、なぜか心地よい。
窓の外はすっかり暮れていて、遠くから鳥の声すら届かないほど、世界が静まりかえっている気がした。
「……なんで、そんなに優しいの?」
唐突に、智華がぽつりとつぶやいた。
直哉は、返答に詰まる。
たしかに、自分は優しい方じゃない。というか、そんな風に生きてこなかった。
それでも――なぜか、智華のことになると、無意識に動いてしまう。
「いや……俺、自分でもよくわかんねぇんだけど」
正直に、言葉を探しながら話し始める。
「智華がさ、ちょっとでも元気なかったり、調子悪そうだったりすると……なんか、ムズムズしてくるんだよ。俺が動かなきゃ、って」
「うん」
「それで……気づいたら、心配で。そばにいたくて。笑ってほしくて……」
言いながら、直哉の声がほんの少しだけ震える。
「……それって、さ。好きってことなのかな」
言った後で、部屋の空気がぴたりと止まった気がした。
智華は直哉の肩から顔を上げ、うつむいたまま、少しだけ目を細めていた。
その視線の先で、毛布の上に置かれたふたつの手が、ほんのりと震えている。
「ボクね」
小さな声だった。
「いつも明るくて、強くて、可愛くて……そういう“理想のボク”を演じてるところがあるんだ」
直哉は、黙って耳を傾けた。
「ほんとは、怖いときもあるし、泣きたいときもある。誰かに寄りかかりたい夜だってあるよ。でも、そういうのって、見せちゃいけない気がしてさ」
智華は、布団の上で指を組み、ほどいて、また組む。
「“男の娘”っていうだけで、ハードル高いじゃん。可愛くないといけない。強くないと、すぐ舐められる。でも、どれも一人で背負うには、ちょっと重たくてさ」
それは、彼が誰にも言えなかった弱音だった。
「だから、ナオヤくんがここに来てくれたとき……ちょっとだけ、甘えてもいいかなって思った」
直哉は、迷わず答える。
「いいよ」
「え?」
「甘えていい。っていうか、もっと甘えてくれよ。俺、強くなりたくて稽古もしてるけど、ほんとの強さって、誰かを受け止められることなんだろ?」
一瞬、智華の瞳が揺れた。
「だったら俺が、甘えさせる。お前が疲れたとき、誰にも見せられない顔を俺だけに見せてくれるなら――それ、すげぇ幸せだと思う」
静寂が満ちる。
部屋の空気が、さっきまでと違って、どこか柔らかくなった気がした。
「……ずるいな、ナオヤくん」
ぽつりと、智華が笑う。
「そういうこと、さらっと言えるようになってきてさ。……惚れちゃうじゃん、こんなの」
「もう惚れてんじゃないの?」
冗談めかして言った直哉の言葉に、智華の肩が震えた。
そしてそのまま、布団の上から直哉の手を、そっと握る。
細くて、しなやかで、でもちゃんと温かい手だった。
「……ありがとう。今日、来てくれて」
その一言が、直哉の胸をゆっくりと満たしていく。
智華がもたれかかるように体を預けると、毛布が小さく波打つ。
その下で、お互いの心臓がすぐ近くにあることを、ふたりとも黙って感じていた。
この瞬間だけは、何も語らなくてよかった。
見つめ合うわけでもなく、抱き合うわけでもないけれど、確かに通じ合っている気がした。
“強がり”と“本音”の間に生まれた、わずかな隙間。
そこに、直哉の“好き”が、そっと根を張った。
「……ねぇ、ナオヤくん」
智華の声は、まるで羽根のように軽く、しかし確かに鼓膜を揺らす。
ベッドの枕元に腰掛けていた直哉が、顔を向ける。
「ボク、ちゃんと治ったら――デートしてね」
あまりに自然な口調だった。まるで、明日の天気を聞くような、それほどの軽さで。
けれど、直哉の心臓は激しく跳ねた。
「……え?」
「ん?」
智華は小首を傾げる。顔色はまだ完全じゃないが、頬に浮かんだ紅がそれを補っていた。
熱のせい、だろうか――いや、そう思いたくなるほど、彼の言葉は柔らかだった。
「ボクさ、そういうの慣れてないんだけど……ううん、たぶん慣れてないからこそ、言いたくなったんだと思う」
智華の細い指先が、毛布の上をゆっくり撫でていた。
それがまるで、心の内を映すようで――不安と期待が綯い交ぜになった感情が、指の動きに宿っている。
「その、さ」
直哉は咳払いして、視線をそらす。
「デートって、つまり……その、二人で出かけたりとか……その……」
「ふふ、真っ赤になってるよ」
智華が笑う。
その笑顔には、少しだけ照れと、たしかな嬉しさが混じっていた。
「いいじゃん。ボクがお願いしてるんだし、断る理由ないでしょ?」
「……ない」
直哉は目をそらすのをやめて、真正面から見返した。
今まで言葉にできなかった感情が、ようやく喉まで上がってきている気がした。
「行こう。どこでも連れてってやるよ。遊園地でも、水族館でも……なんなら、二人で田舎の無人駅巡りとかでもさ」
「うわ、それちょっと楽しそうかも」
智華が声を上げて笑う。その笑い声は、薬でも栄養でも届かない場所に、まっすぐ届く。
「じゃあ、約束」
智華が右手の小指を、ふわりと差し出す。
直哉は、少しだけためらってから――そっと自分の小指を絡めた。
指切り。
それは子どもの約束の仕草だけど、いまこの瞬間、誰よりも真剣な誓いの形になった。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本――」
「飲まないよ」
「飲んでよ、嘘ついたら」
「……飲むかよ」
言い合いながらも、繋がれた小指はしっかりと結ばれたままだ。
外は、夕焼けが山の端に沈もうとしている。
窓のカーテンの隙間から、オレンジ色の光が射しこみ、室内を茜色に染める。
直哉はそのまま、静かに椅子に座り直した。
智華も、まどろみながら目を閉じ、頬に微かな笑みを浮かべている。
この静けさが、何にも代えがたい――そう思えるほど、優しい時間だった。
けれど、その一方で。
──
場所は変わって、あのゲーセン。
一台の筐体の前で、制服姿の少女がコントローラーを操っていた。
木町妃華。名門・白楊女学院の“対戦ジャンキー”。完璧なお嬢様。
彼女は、画面上でペアを組んだ男女キャラクターが、息の合った連携技を繰り出すのを見ていた。
ふたりの動きが重なる瞬間。演出として、キャラクター同士が目を合わせ、軽く頷く。
その演出に、妃華はわずかに口角を上げる。
「……また、差がついちゃった」
その呟きは、少しだけ切なく、でもどこか楽しげだった。
「私、手は抜いてないのに。ほんと、気を許した隙に……距離が近づいてる」
再びコントローラーを握り直す。
指先は迷いなく、的確にコンボを繋げていく。
彼女の目は、画面を見ているようで、別の何かを見ていた。
「……負けるの、嫌いなのに」
負けず嫌いの“お嬢様”は、まだ知らない。
このゲームが、勝ち負けだけじゃない“感情”を賭ける勝負になりつつあることを。
彼女の前髪が、揺れた。
次のコンボへ指を滑らせながら、妃華は小さく笑う。
「まぁ……追いつけばいいだけ、よね?」
──
そして、再び霧島家。
智華の寝息が、微かに聞こえてくる。
直哉は椅子の上で目を閉じ、心の中でひとつ深呼吸をした。
(“熱のせい”じゃないよな。……これが、好きって気持ちなんだ)
それは、疑いようもなかった。
夜の空気は、春の匂いをほんの少しだけ含んでいた。
街灯の下、まばらな歩行者の合間を縫うように、直哉はゆっくりと歩いていた。
智華の家を出てから、しばらくは何も考えられなかった。
まるで魂だけがどこか別の場所に置いてきぼりにされたような、そんな浮遊感。
だが、歩くたびにじわじわと、感情が湧き上がってくる。
(……俺、もう完全に――)
「智華のこと、好きなんだな」
誰にも聞かれないよう、小さな声で呟いてみた。
言葉にしたことで、ようやく実感が胸の奥に落ちてくる。
あの指切りも、病室の柔らかな光も、微熱混じりの笑顔も。
全部が、今の自分を形づくっていた。
ふと、自分の右手を見下ろす。
つい数時間前、あの小さな指と結ばれていた自分の小指。
手のひらをぎゅっと握ると、まだそこにぬくもりが残っているような気がした。
(好きって、こういうことなんだな……)
これまでも、異性に惹かれたことはあった。
けど、こんな風に誰かのことを“守りたい”と思ったのは初めてだった。
病気なのに強がって、笑って、でも本当は誰かに甘えたくて。
そんな智華の姿に、自分は胸を打たれていた。
「……かわいすぎんだろ、お前」
声に出してから、ちょっとだけ恥ずかしくなって、髪をかきあげる。
そして――玄関のドアを開け、靴を脱ぎ、廊下を抜けて、自室にたどり着いた。
カーテンを閉めずにそのまま布団に倒れこむ。
天井を見上げると、そこには何もないはずなのに、智華の笑顔が浮かんでくる気がした。
(……デート、か)
約束の言葉が、耳の奥で反響する。
『治ったら、デートしてね』
“治ったら”という条件が、逆に期待を引き上げてくる。
つまり、これは「待っててくれるってこと」だ。
期待してくれてるってこと。
不安もあった。
自分は、智華に釣り合うような存在なんだろうか。
今日、不良たちに立ち向かったのは、ほんの一瞬の勇気でしかなかった。
でも――。
(それでも、やっぱり守りたかったんだ。あいつのこと)
目を閉じる。
ベッドの中、微かにかすかに残るのは、昼間の緊張と、智華の体温。
彼女が額を預けてくれたあの瞬間の重みが、今も肩に乗っている気がした。
そして、スマホが一度だけ震える。
〈今日は来てくれて、ありがと〉
――差出人:智華
シンプルなメッセージだった。
けれど、そこには照れと、感謝と、そして……少しだけ、甘えの匂いが混ざっているように思えた。
直哉は思わず口元を緩め、布団に顔を半分うずめた。
頬が熱くなるのを感じながら、スマホに返信を打ちかける。
『こちらこそ、呼んでくれてありがとう。……ゆっくり休んで、早く元気になれよ』
打ちかけて、ふと指を止める。
もう少しだけ、なにか伝えたい。
けれど、言葉が出てこない。
それでも、指は自然と動いていた。
『……こちらこそだよ、姫』
送信ボタンを押す。
画面には、既読の表示。
そして数秒後、スタンプが一つ返ってきた。
――照れ笑いしているウサギのアイコン。
(……やべぇ、可愛い)
照明を落とし、暗くなった部屋の中で、直哉は少しだけ笑った。
こんなにも誰かに心を持っていかれるなんて、思ってもみなかった。
けれど、後悔なんて、ひとかけらもない。
窓の外には、ゆっくりと夜が深まっていく。
それでも、直哉の胸の中には、確かに小さな光がともっていた。
恋は、もう始まってた。
本人が気づくずっと前から、きっと。
