かわいいは、つくれる!_第7話
第7話:男の娘の棒
朝のホームルームが始まる数分前。教室に滑り込んだ智華は、いつものように笑っていた。
けれど――直哉の目には、すぐに“異常”が映った。
「……おはよう、ナオヤくん」
挨拶の声にいつもの軽やかさはある。でも、どこか掠れていた。
桃色の髪をなびかせて席に着いたその動きも、ほんのわずかだが重たい。
見慣れたふわっとした仕草に混じる、ひりついた違和感。
「お、おはよう……って、おい智華、顔色、めっちゃ悪くね?」
「えー、そう? そんなことないよ?」
そう言って笑う彼の顔は、肌の白さが普段よりも一段階青白く見える。
額に浮かんだ微かな汗も、体温の高さを物語っていた。
だが智華は、自分の体調不良をあくまで“なかったこと”にしようとしていた。
「ちょっと寝不足なだけ。夜遅くまで、妃華ちゃんと格ゲー研究しててね……ふふ、オタクの悪い癖ってやつ?」
「そういう問題じゃないだろ……」
直哉は小さく息を吐いた。
昨日の放課後、二人で帰ったときも少し声がかすれていたのを思い出す。
気温が急に下がったこの時期、無理もない。それでも、智華が学校を休む姿など想像できなかった。
そしてそれこそが、問題だった。
いつも“完璧に近い可愛さ”と“異常な戦闘力”を両立している彼が、そんな“普通の人間”らしい弱さを見せるのは、ある意味初めてのことだった。
それが、直哉の胸に、小さな焦燥を芽吹かせた。
――守られてばかりじゃ、ダメだ。
昨日までなら、そんなことを思う余地すらなかったかもしれない。
でも、自分も変わり始めている。稽古を重ね、竹刀を握るようになってから、智華の背中を“ただの憧れ”じゃなく、“並び立ちたい目標”として見るようになっていた。
「おい、無理すんなよ。保健室、行くか?」
「ダーメ。今日の授業、大事な発表あるし。……それに、ナオヤくんの隣に座ってたいから」
そんな冗談混じりの一言すら、今日はなぜかぎこちなく聞こえる。
直哉が智華の額に手を伸ばしかけたそのとき――
「おい、姫でも風邪ひくんだな」
くぐもった声が背後から飛んできた。振り返れば、何人かの男子がこちらを見てニヤニヤしている。
智華が不調であることが、既に“話題”になりつつあるのがわかった。
それがただの心配ではなく、“嗅ぎつけた餌”として認識されていることに、直哉は反射的に嫌悪を抱いた。
「……チッ」
まだ、何も起きてない。
でも、空気は確実に“前兆”を孕んでいた。
* * *
HR中。智華は机に肘をつき、こめかみに指を添えていた。
板書を取る手が、わずかに震えている。
先生は気づいていない。周囲も気にしていないように見える。
けれど直哉は――何度もその小さな震えに、視線を奪われていた。
昼休みになると、智華は「購買いこっかー」といつもどおり誘ってきたが、どう見ても無理してるのが丸わかりだった。
それでも直哉は、その提案に「じゃあ、あとで合流する」と言って、わざと時間をずらした。
自分だけで購買に行くようにして、智華を少しでも休ませたかった。
だが、それはそれで誤算だった。
(そうだよな……アイツ、ひとりでいても、目立つんだもんな)
放課後になっても、智華は「先に帰るね」と微笑んだ。
直哉はそれを引き止められなかった自分を、腹の底で呪った。
「――っ」
気がつけば、体育倉庫の前に立っていた。
誰もいない、夕焼けの匂いが漂う倉庫前。
戸の取っ手に手をかけたまま、直哉はしばらく動けなかった。
そのまま放っておけば、きっとまた、誰かに絡まれる。
調子に乗ったやつらが、タイミングを狙っているのは明らかだった。
そして、今日の智華は、戦える状態じゃない。
「強くなるって……こういう時のため、なんじゃねぇのかよ」
呟いた自分の声が、思ったよりも大きく響いた。
それが一種の合図のように、直哉の手は戸を引いていた。
中にあった、あの“竹刀”。
智華が初めて「まずは握ってみなよ」と言ってくれたときの感触が、まだ手に残っている。
「怖いけど……でも、それ以上に、守りてぇって思っちまったんだよ」
その瞬間、背筋がすうっと伸びた気がした。
あの時の稽古が、今の自分に意味を与えてくれる――
そう信じて、直哉は竹刀を鞘ごと背負い、教室とは逆の昇降口へと走り出した。
彼が駆け出す、その背中に夕日が差していた。
放課後の昇降口は、どこか沈んだ夕陽の色に染まっていた。
智華はその空気の中、ゆっくりと上履きを脱ぎ、通学用のローファーに履き替えていた。
体調は、はっきり言って最悪だった。
足元はおぼつかず、息をするだけで喉が熱い。視界の隅が霞んでいる。
でも、顔には笑みを貼りつけたままだ。
いつもと同じように、いつもと変わらずに。
「……ふふっ、バレちゃいけないんだよ、こういうのって」
誰に言うでもなく呟くと、カバンの紐を肩に引っかけた。
だが、そのまま出入り口をくぐることはできなかった。
「よぉ、“姫”。今日も麗しいねぇ」
耳障りな声が、後ろから響いた。
振り返らずともわかる。
その声――数日前、直哉が初めて絡まれたときの奴らだった。
「ったく、最近マジで目障りなんだよな、お前」
「女でもねぇのに姫気取ってさ。しかも……病人か? 今日、顔青いぞ?」
智華はその場でゆっくりと振り返った。
視界には、四人。
制服をだらしなく着崩した男子たちが、下卑た笑みを浮かべて囲んでいた。
(……体、だる……)
喉の奥で咳が込み上げそうになるのを、どうにか押し殺す。
「なに? もしかして、心配してくれてるの? 優しいなぁ」
唇を吊り上げて笑う。
体が悲鳴をあげていても、心まで屈するつもりはなかった。
それが、“姫”を名乗る智華の――自分の信念だ。
「違ぇよ。ちょっと黙らせようかって話」
「なぁに? その口、しばらく動かせねぇようにしてやろうかってな」
「……怖いなあ」
笑顔は崩さずにいた。でも、指先は震えていた。
熱と、寒気と、何より――怒りと、恐怖。
彼らが本気で自分を傷つけようとしていることはわかる。
この街の“地雷校”と呼ばれる暁陽高校には、そういう輩がいて当然だった。
でも、いつだって退けてきた。
“自分”というキャラクターを守るために、“かわいい”という仮面を被って、戦ってきた。
けれど、今日は。
「――本調子じゃないんだよね」
心の中だけで呟いた。
一歩、前に出た不良の一人が、智華の前髪に指をかけてきた。
「化粧、ちゃんとしてんのか? それとも素顔?」
「剥がしてみてぇよな」
さわ、と髪が揺れる。
――このままだと、まずい。
それは明らかだった。
智華の中の“戦闘本能”が、鈍い鐘を鳴らしていた。
まともに動けない。投げ技も、受け身も、正確に取れる保証がない。
ここで無理に動けば、相手のペースになるだけ。
「でもさ」
静かに、声を発した。
「ボクのことを脅すってことは――ボクの“男”の部分しか見てないってことだよね?」
不良たちが一瞬、言葉を詰まらせた。
「“女の子”として可愛くいるのって、怖いことなんだよ。変に思われたり、キモがられたり、否定されたり。でもね――」
そのとき、ふっと笑った。
「それでも“好き”でいたいから、ボクはボクでいるの」
視線が揺れる。不良たちは困惑した顔を浮かべた。
そのすきに、智華は後退し、カバンをぎゅっと抱きしめる。
(ナオヤくん、来ちゃだめだよ……)
心の中でだけ、呼びかけた。
いつもなら来てくれると信じてる。でも――今日は、自分のために動かないでほしい。
風邪を引いてるボクのせいで、彼が危ない目に遭うなんて、絶対にイヤだ。
(それに、まだ……負けてないから)
踏みとどまろうとする足に、重力が増していく。
限界は近い。でも、崩れる前に――最低限の威厳だけは、守り抜く。
「さあ、どうするの? “姫”に手を出す覚悟、あるの?」
その瞬間、不良たちの背後から、バンッ、と何かが鳴った。
全員の視線が音の方へと向かう。
昇降口のガラス戸が開け放たれ、逆光の中から、一人の少年が飛び込んできた。
「……っ、ナオヤくん……?」
目を見張る智華。
その手には、見慣れた“棒”――体育倉庫の竹刀が握られていた。
直哉の姿が、斜陽に照らされて輪郭を焼いていた。
不良たちの笑い声が、一瞬、止まった。
「……誰?」
竹刀を握りしめた直哉が、昇降口の段差を越えて一歩、足を踏み入れる。
肩で息をしている。額にはうっすらと汗が滲み、手のひらは真っ赤だった。
それでも、目はまっすぐだった。
「……姫に、手ぇ出すなよ」
その声音に、空気がピリリと緊張する。
「は?」
最初に動いたのは、不良グループの中でも一番声の大きい、金髪の少年だった。
舌打ち交じりに肩をすくめながら、直哉に歩み寄る。
「おいおい、なんだよ。お前、あの時のヘタレじゃん。マジで竹刀持って来たの? なにそれウケるんだけど」
だが直哉は動じない。
両手で竹刀を構え、肩幅に足を開く。
構えは不格好だった。
昨日、智華から教わったばかりの初歩のフォーム――それでも、彼なりに真剣だった。
「笑っていいよ。でもな、俺は――」
瞬間、直哉の口から出た言葉は、火花のように真っ直ぐだった。
「“やられっぱなしの自分”に、戻りたくないだけだ」
竹刀を構えたまま、不良たちに向き直る。
「お前に何ができんだよ」と、別の一人が吐き捨てる。
「……知らねぇよ。けど、できるかどうかは――やってみなきゃ、わかんねぇだろ!」
叫びと同時に、直哉が踏み込んだ。
ズバッ――。
風を切る音と共に、竹刀がまっすぐ空を裂いた。
標的は、金髪の少年の肩口。
竹刀の一撃は寸前で止められたものの、ほんのわずかに掠めて制服の生地を揺らした。
「っ、てめぇ……!」
振り返った金髪の目が、明らかに狼狽していた。
「まさか……ほんとに、殴るとは思わなかったんだろ?」
直哉の声は静かだった。だが、その瞳は揺らいでいなかった。
「痛いの、怖いのは俺だって一緒だよ。けど、智華が倒れてるのに黙って見てる方が、よっぽど怖いわ」
「っざけんな……!」
怒りにまかせて突っ込んできた金髪の拳が、直哉の視界をかすめた。
しかし、直哉は後ろにさがりながら竹刀で払い――そのまま、足をすくうように振り上げた。
ガンッ!
金髪の少年がバランスを崩し、そのまま地面に尻餅をつく。
慌てて立ち上がろうとするが、直哉はすかさず竹刀の先端を、その鼻先に突きつけた。
「もう一回、来る?」
吐き捨てるように言ったその一言が、不良たちの意気を完全に削いだ。
沈黙が落ちる。
他の仲間たちが金髪を支えながら後退する。
「チッ……行くぞ」
彼らが踵を返し、昇降口の影へと消えていくまで、直哉は竹刀を下ろさなかった。
その背後で――
「……ナオヤ、くん……」
智華の声が、かすれて震えていた。
振り返ると、智華は壁にもたれかかるようにして立っていた。
顔は汗と熱で赤く、唇はかすかに震えている。
それでも――その目は、まっすぐに直哉を見ていた。
「ナオヤくん……ほんとに、来たんだね」
「……当たり前だろ」
直哉は照れくさそうに頭をかきながら、竹刀を肩に担いだ。
「だって、約束したろ。“強くなる”って。こういう時のためだって……俺、自分で決めたんだ」
「……バカだなぁ、ナオヤくん」
ふらり、と智華が一歩、直哉に近づいた。
そして――そのまま、額をぴたりとくっつける。
「熱、あるな……やっぱり」
「うん、たぶん……限界」
そう言って笑ったその顔に、直哉は――ぐらっと、心が揺れるのを感じた。
「……ナイス、だったよ」
ぽつりと囁くと、智華は小さく背伸びをして。
額に――キスをした。
一瞬、世界が止まったようだった。
風が吹いた。落ち葉がふわりと舞った。
空の色が夕闇に染まりかけていることにも、誰も気づかないほどの静けさが包む。
「……なお、や……?」
「……っ、え、あ、はい?」
声にならない声で応える直哉。
その顔は真っ赤だった。火を噴くように、心臓が暴れていた。
「……これ、仮の報酬ね。また守ってくれたら、次は――」
そこまで言って、智華は目を閉じる。
直哉が慌てて支えると、彼女――いや、“彼”は、熱で意識を軽く失っていた。
「まじかよ……ああもうっ、バカ」
苦笑しながら、直哉は智華の体をそっと背負う。
彼の中で、何かがはっきりと変わっていた。
これは“守られている側”の物語じゃない。
これからは――“守る側”として、戦うんだ。
「……てめぇ」
不良グループのリーダー格が、静かに前に出た。
額の生え際をピシリと払われた金髪の少年が舌打ちしながら退くと、代わりにこの男――筋張った腕と鋭い目つきを持つ、通称・根岸がにじり寄ってくる。
「ちょっと竹刀振ったくらいで、イキってんじゃねえぞ、坊や」
直哉はそれに答えず、竹刀を構え直す。
先ほどよりもずっと自然な形だった。重心を低く、前足に体重を乗せ、視線は相手の肩口へ。
「……おい、マジでやんのか? 竹刀なんて、ただの木の棒だぞ?」
「素手より、三倍強いんだよ」
静かに口にしたその一言は、まさしく――智華が教えてくれた言葉だった。
一瞬、脳裏に昨日の放課後がよぎる。
体育倉庫の薄暗い中で、ふざけるように笑いながらも、真剣に竹刀を握ってくれた智華の姿。
「この構え、覚えといてね」と指先で軽く触れてくれた手の温度。
それが、今も体に染みついている。
「……だったら、試してやるよ!」
根岸が踏み込んだ。
大股に一歩、拳を振りかぶり、真正面からぶつかってくる。
だが――
「っは!」
直哉の体が、反応した。
頭で考えるより先に、足が一歩滑り出し、肩が沈み、竹刀が鋭く突き出される。
バシュッ。
風を裂いた一撃が、根岸の右頬をかすめた。
「――っ!」
わずかに血が滲む。ほんの薄皮一枚。だが、その痛みは確かなものだった。
根岸が振り返る。目を見開き、舌打ちしながら後退した。
「おい、ナオヤ……今の、構えも踏み込みも……」
声にならない声が、智華の唇から漏れた。
その表情は、驚きと、どこか――誇らしさを滲ませていた。
「お前……」
根岸の声が低くなった。「ちょっとはマジでやってんだな、あの姫に習ったのか?」
直哉は無言で頷く。
「――チッ、マジで面倒くせぇ」
一言吐き捨て、根岸が後ろを振り向く。「帰るぞ」
「え、マジ? やっちまおうぜ……」
「バカ、怪我して教師呼ばれたら停学だっつの。ここは引き際だ」
そう言って、不良たちは踵を返した。
直哉は竹刀を下げて肩で息をしながら、ふらふらと智華のもとへ向かう。
その場に、ペタンと座り込んでいた智華。
顔は熱で赤く染まり、汗で髪が頬に張り付いている。
「ナオヤくん……すご……かった」
「いや……足ガクガクだし、腕震えてるし……」
へらりと笑いながら直哉はしゃがみこみ、智華の横に腰を下ろす。
思わず、そっと肩に手を添えた。
「大丈夫……か?」
「うん……でも、ちょっと、限界」
そのまま、智華は直哉の肩にもたれかかった。
体温が、直哉の背中にじんわりと伝わる。
そのぬくもりが――まるで「生きてる証拠」みたいに感じられて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「ごめんね……ナオヤくんに助けてもらってばっかり」
「バカ」
直哉は即座に返した。
「助けたのは……俺の意思だ。だから、謝るな。むしろ――ありがとな、俺に“強くなりたい”って思わせてくれて」
「……うん」
智華は小さく頷いて、さらに寄りかかる。
「次は、ちゃんと二人で勝とうね」
「おう」
放課後の昇降口前――
西日に照らされた影が、ひとつに重なった。
その時間が、きっと――誰かの運命を、少しだけ変えていく。
「……大丈夫か?」
直哉はそう言って、そっと肩に手を添えた。
智華はまだ膝を抱えるようにして座っていて、うつむいたその横顔は、普段見せる“姫”の面影とはまるで違っていた。
額には汗が滲み、まつ毛が濡れている。
息は浅く、細い肩が規則的に上下しているのが見えた。
それでも智華は、ゆっくりと顔を上げて――微笑んだ。
「……ボクが守る側なのに、情けないなぁ」
ふと、直哉の胸にあたたかいものが流れた。
その笑顔は弱っているはずなのに、優しかった。
悔しそうな顔でも、照れたような顔でもなく。
ただただ、静かに、直哉の強さを認めるような眼差しだった。
「でも……今日はちょっと、任せるね」
その言葉とともに、智華はぐっと体を起こし、額をそっと――直哉の肩口に預けてきた。
柔らかく、体重をかけるわけでもなく、まるで風のような動きで。
直哉はその場から動けなくなった。心臓の鼓動が、喉元で鳴る。
「……あのな、智華。お前、熱あるんだよな。そういう時は、ちゃんと……」
そう言いかけた時だった。
ふいに、唇の柔らかい感触が、額に落ちた。
「――え?」
直哉の脳が、一瞬止まった。
動けない。思考も、感覚も、全部がフリーズする。
額に、キス。
ほんの一瞬だった。
けれど、それは確かに、そこにあって。
「ナイスだったよ、ナオヤくん」
耳元で、囁かれた。
いつものふざけた調子ではなかった。
挑発的でも、おどけたものでもない。
素直で――照れくさそうで――
だけど、ちゃんと本音のこもった声だった。
「な……っ……」
喉の奥から言葉が出てこない。
直哉の中で、なにかが決壊した。
これまで、自分は「守られる側」で、
「強くなりたい」と思って練習して、
「かわいくなりたい」とさえ言われて戸惑って。
でも今――
自分の行動が、ちゃんと届いていたんだと思えた。
竹刀を振ったあの瞬間。怖くて足が震えても、
智華を守りたいという一心で突き出した、それが。
「……はは……なんだよそれ……ずるいだろ……」
情けなく笑う直哉の肩に、智華の頭がそっと寄りかかる。
「なんかね、こういうときは、ナオヤくんの匂い、安心するかも」
「匂い……!?」
「うん。なんか……竹刀と、洗剤と、ちょっと汗。青春男子って感じ?」
「例えが良いのか悪いのか分かんねえよ!」
でも、悪い気はしなかった。
むしろ、心がぽかぽかして、胸の奥がくすぐったいような、満たされた気持ちが広がっていた。
「なあ、智華」
「んー?」
「俺……たぶん、もう、誤魔化せねぇわ」
「誤魔化すって、なにを?」
直哉は息を吸い込み、少しだけ目を細める。
目の前にいるのは、“男の娘”で、“姫”で、“自分を鍛えてくれたヤツ”で、
今、こうして体調が悪くても、俺のことを笑って支えてくれる――
「……俺、たぶん、お前のこと、マジで好きになってる」
ぽつりと、落ちた言葉。
智華は、しばらく黙っていた。
ほんの数秒の静寂。でも、その間に、直哉の心拍は十倍になったんじゃないかと思うほど。
そして――
「……やっと自覚した?」
小さく笑う声。
耳元で、ちょっとくすぐったくなるような吐息混じりの声。
「う、うるせぇ……!」
顔を真っ赤にして俯く直哉に、智華がふわっと笑って寄りかかる。
「でも、ありがと。今日は、ナオヤくんが“王子様”だったよ」
その言葉は――
あの日、転校してきたばかりの直哉が夢見ていた、“モテる”というイメージとはまるで違っていて。
けれど。
それ以上に、確かで、胸の奥に響いた。
守られたんじゃなくて、守れた。
“女の子”じゃなく、“智華”に。
俺が、俺の意思で。
それって、つまり――
(これが、“本気”ってやつなんじゃないのか……?)
そんなことを考えながら、二人はその場にしばらく座り込み、誰もいない昇降口で、陽が傾くのをただ静かに見つめていた。
夕暮れの校舎は、どこか静かだった。
放課後の喧騒はもう影をひそめ、遠くで鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。
保健室からの帰り道、直哉は人気のない廊下を一人で歩いていた。
左手には、竹刀。
戦ったとは到底言えない、ただの一撃。
それでも――その一撃が、今日のすべてを変えた。
握りしめる手が、まだ震えていた。
(怖かった……)
脇腹の奥で、心臓がまだ跳ねている。
あの瞬間、不良たちを前にして、足はガクガクだった。
腰が引けそうになって、それでも前に出たのは。
「――それ以上に、守りたかったんだ」
ポツリと、自分に呟く。
その言葉が、なぜか心の奥まで沁みていく。
智華が、倒れかけていた。
無理して笑ってた。
あの姫が、誰にも助けを求めずに強がってた。
だから、自分が動かなきゃって――
そう思ったんだ。
「……ダッセぇな、俺。やっとかよ」
でも、誇らしいとも思った。
ふらふらの足取りで、昇降口を抜け、校門を出る。
空は深い群青に染まり始めていて、街の明かりがポツポツと灯っていた。
空気が冷たくて、額に触れた風が心地よい。
(……俺、変わってきてるのかな)
智華に出会って、世界が変わった。
“かわいい”に触れて、“強くなりたい”って初めて思って。
今日、その思いが形になった。
そう思ったら、胸の中がじんわり熱くなった。
――
夜。
自室の布団に入っても、まったく眠れなかった。
天井をぼーっと見上げては、あの瞬間がフラッシュバックする。
智華が倒れかけた時のこと。
竹刀を振った感触。
何より、あの――額のキス。
「……惚れてる。完全に」
認めざるを得なかった。
かわいいとか、綺麗とか、そんな次元じゃない。
生き方も、考え方も、全部がカッコよくて。
時々ズルいし、腹立つくらい自由だけど、それでも。
「……どうしようもなく、好きになっちまってるわ」
スマホが光る。
画面には、智華からのメッセージ。
『また、稽古付き合ってね?次は“飛び込み技”教えるから♪』
直哉は、スマホを胸に乗せて、目を閉じた。
頬が緩むのが止められない。
嬉しすぎて、心がふわふわする。
その隣、机の上には、今日使った竹刀が立てかけてある。
汗が滲んだグリップ。
初めて“戦った”証。
まるで、日常の中に突き刺さった非日常の剣。
「……また、ちゃんと振れるように、練習しねぇとな」
呟きながら、瞼を閉じる。
眠れない夜だった。
でも、不思議と心は穏やかで。
これはきっと、恋の始まり――
いや、もう“始まってた”気持ちを、自分がやっと認めた夜。
どこかで、風の音が鳴っていた。
