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かわいいは、つくれる!_第4話

第4話:まずは竹刀を握れ

春の朝は、少しだけ眠い。

とくに最近の俺は、心が妙にざわざわして、夜が短くなった気がする。
けど――それでも今朝は、少しだけ足取りが軽かった。

「ナオヤくん、おはよ」

その声が背後から聞こえた瞬間、やっぱり、俺はちょっと笑ってしまう。

「……おはよ、智華」

登校の途中、ふと振り返れば、いつものように笑顔の“姫”――霧島智華がそこにいた。
この数日で、彼と並んで歩くことは、もう日常になりつつある。
けれど、周囲の目は……相変わらず鋭い。

というか、昨日より明らかに増えている

「うわ、またあの二人……」

「マジで付き合ってんの?」

「つーか、ナオヤって誰だよ。転校してきたばっかだろ?」

耳元にささやかれる声が、まるで風のように通り過ぎていく。
だけど、その風は決して心地よくはない。

「……なあ、智華。気になんねぇの?」

俺がぽつりとそう尋ねると、智華は一度だけ瞬きをして、あっさりと首を振った。

「ううん。だってさ――言われたくない人に言われてるだけでしょ?」

「いや、強ぇな……お前」

「ナオヤくんが弱すぎなんだってば」

さらりと毒を吐かれる。
けれど、そこに悪意はない。いつもの、ちょっと口が悪い“智華語録”だ。

けど……俺は、心のどこかで、ずっと思っていた。

このままじゃ、ダメだ――って。

智華がどれだけ強くて、頼りになって、周囲にとっても一目置かれる存在だったとしても。

俺は、“守られる側”でいいのか?

今は“恋人ごっこ”って体だからこそ、周囲の目を跳ね除けられてる。
けれど、それに完全に甘えている自分は、本当に“かっこいい”のか?

教室で、俺は窓の外をぼんやりと眺めながら、自問していた。

智華は、変わらず俺の隣に座っていて、今はノートに小さなイラストを描いている。
たぶん、俺をモデルにした“似顔絵(と称する謎のアバター)”だ。

「ふふ、ナオヤくん、もうちょっと眉を柔らかくしたらかわいくなるのに〜」

「授業中だぞ……」

「小声だからセーフ」

……こいつ、マジで最強かよ。

そして昼休み。

購買に向かうタイミングで、智華が生徒会との打ち合わせで少し離れることに。

「ナオヤくん、パン買う? 好きなのあったら、メモしてくれれば――」

「いや、俺行ってくるよ。一人で平気だし」

「ほんと? わかった。じゃあ、あとで教室で会おうね」

そんなやり取りを経て、久しぶりの“ひとり購買”となった。

……まぁ、大丈夫だろ。パンくらい。

そんな甘い見通しを立てていた俺は、すぐにそれが“地雷”だったと気づく。

「おう、転校生くんよォ」

購買列に並んだ瞬間、横からぐいっと腕を組まれ、目の前に割り込まれる。
振り返ると、昨日も見かけた2年の不良グループの一人――額にバンダナ、制服の下はタンクトップ。

「姫の“お付き”って話、マジだったんだなぁ?」

「……いや、別に、そういうわけじゃ……」

「そぉ? でもよぉ、最近調子こいてんじゃん?」

周囲の視線が集まる。
購買の空気が、一気に“場外乱闘前”みたいな緊張感を帯びる。

逃げる――選択肢は、脳裏によぎった。
でも、ふと、ある記憶がよみがえった。

――「守れるようになりたいって思ったら、それだけで一歩だから」

昨日、夕焼けの中で聞いた智華の言葉。

……俺、今、逃げたら絶対後悔する。

「どいてくれ」

俺の口から、自然にそんな言葉が出ていた。

バンダナの男が、目を見開いた。

「は?」

「俺、別に喧嘩したいわけじゃない。でも、割り込むのは卑怯だろ」

言いながら、手のひらが少し汗ばんでいるのを自覚する。
心臓も、きゅうっと痛いくらい跳ねてる。

でも――踏みとどまった。俺は。

「……チッ、生意気になったなぁ、“姫の彼氏”」

「ちが……っ!」

「うっそ、冗談だって。おまえ、顔真っ赤。かわい〜」

完全にからかってる。
けれど、そのまま去っていったバンダナたちの背中に、“手出ししてこなかった”という結果が残る。

そしてその場に残った俺は、まだ鼓動の収まらない胸を抱えながら、パンの袋を握りしめていた。

たったこれだけのこと。
でも、俺にとっては――初めての、逃げなかった瞬間だった


午後の授業が終わり、チャイムが鳴り響いた。
直哉は教科書を閉じると同時に、ふうと大きく息を吐いた。

今日一日、気疲れがすごかった。
――でも、購買で逃げなかった自分を、ほんの少しだけ褒めてやりたい気分だった。

「ナオヤくん」

名前を呼ばれて顔を上げると、智華が教室の入り口から手招きをしている。

「ちょっとだけ、付き合って?」

その声は、いつもより少し低くて、少しだけ真剣だった。

 

連れてこられたのは、誰もいない体育倉庫だった。
夕方の光が鉄骨の隙間から射し込み、埃が舞っている。
空気は少しひんやりしているが、不思議と心はざわつかない。

「ここ、鍵かかってないんだよねー。まあ、ちゃんと掃除してるし、怒られないでしょ」

智華がそう言いながら、ラックの奥から何かを取り出した。

一本の――竹刀だった。

「……え、それ」

「うん、竹刀。ナオヤくんにプレゼント」

「は?」

「さっきの購買のとき、見てたよ。……言い返したでしょ、ちゃんと」

直哉は、びくりと肩を動かした。

「え、見てたのかよ……」

「うん。陰から。別に助けるつもりじゃなかったけど、もしナオヤくんが本当に怖気づいたら、止めに入ろうと思ってた」

「……で?」

「入らなかったってことは、進歩してるってことだよ。ナオヤくん自身の力で」

そう言って、智華は竹刀を差し出した。

「で、これが次のステップ。
“強くなりたい”って思ったんでしょ?」

直哉は、思わず目をそらした。

「……まあ、ちょっとは。守られてばっかってのも、情けねぇし」

「うんうん。それでいいの。最初は“ちょっと”でいいんだよ」

智華は優しく微笑みながら、もう一本の竹刀を取り出して自分の手に収めた。

「でさ、ナオヤくん、知ってた? 素手より、棒って“三倍強い”んだって」

「なんだそれ……」

「武器の原則だよ。相手より長くて、硬くて、速く振れる――
つまり、武器を持った時点で“勝つための距離”が変わるの」

竹刀を軽く振ってみせながら、智華はさらりとそう言った。

その構えは、どこか美しかった。

姿勢は自然で無駄がなく、足の位置と重心のバランスが完璧に整っていた。
竹刀がまるで自分の一部みたいに、すっと空気を切る。

「……なんでそんなに様になってんだよ。まさか、剣道部とか?」

「ううん」

くるりと竹刀を回して肩に担ぎ、智華は笑った。

「お母さんがね、忍者なの」

「……はい?」

「現代に生きる“リアル忍者”。ちゃんと収入もあるよ? 企業研修で忍耐力教えたり、護身術講座とかやってる。
ボク、小さいころからずっと“弟子”でさ。
本気で“かわいくなる”のに、強さは必要だったの」

「かわいくなるのに、強さ……?」

「そう。舐められないように。自分を守るために。
“かわいい”って、ただの見た目じゃない。“余裕”や“覚悟”のことでもあるんだよ?」

その言葉に、直哉は小さく息を呑んだ。

いつも冗談ばかり言っているように見える智華の目が、今だけは真っ直ぐだった。

「さ、構えてみて。ほら、こう。足を肩幅に、重心は前気味。
竹刀は両手で握って――違う違う、そんなにガチガチにしない!」

「あっ、わっ、ご、ごめん……!」

「力を入れすぎると、反応できなくなるよ。
あと、基本の足運び。“スッ、スッ”って音がしないように、すり足ね」

言われるままに動いてみるが、当然ながらうまくいかない。
手は震えるし、足はつまずくし、竹刀はすぐブレる。

「……俺、センスねぇな……」

「ないよ」

「即答すんなよ!」

「でも、“向いてる”かどうかと、“やるかどうか”は別問題でしょ?」

不貞腐れる直哉の隣で、智華が構え直す。

その背中は、可憐で、美しくて、でもどこか頼もしかった。

「……まずは、“竹刀を握る”ってところから始めようね、ナオヤくん」

智華のその一言に、直哉は静かに、でも確かに――心の中で、頷いた。


「じゃあ、いよいよ本番だよ、ナオヤくん」

体育倉庫の片隅、夕日が射し込むわずかな空間に、二人分の気配が立つ。
智華がふわりと竹刀を構え、直哉に向けて微笑む――その笑みには、ほんの少しだけ鬼の気配が混じっていた。

「……まずは、構えね。昨日の復習から」

「いや、昨日っていうか、さっき初めて握ったんだけど……」

「細かいこと気にしない!」

智華の声が、ぴしっと空気を割った。

直哉はごくりと唾を飲み込み、改めて竹刀を両手で握る。
けれど手の位置が高すぎるらしい。
すかさず智華の竹刀がシュッと空気を切り、直哉の手首に触れるギリギリで止まった。

「高すぎ。肘、もっと緩めて。重心は……うーん、左足に70%くらい。右足は“出すため”の足だからね」

「なにその細かい比率……」

「気にしないって言ったでしょ? 頭で考える前に体に覚えさせる!」

智華はひとつ呼吸を整え、直哉の正面に立つ。

「はい、打って」

「え、いきなり!?」

「はい!」

反射的に、直哉は竹刀を振る。

ぺちっという軽い音が鳴った。
それが何かを打った音じゃなく、自分の腕を叩いてしまった“自爆音”だと気づくのに一瞬かかった。

「……うん、わかってたけど、やっぱり壊滅的だね」

「うるせぇ……!」

悔しさに少しだけ拳を握りかけるが、すぐに緩める。
智華はそこで笑わなかった。ただ淡々と、次の指示を出す。

「じゃあ、足運びやろう。スリ足。左足から、“スッ、スッ”ね」

智華が手本を見せる。まるで床を滑っているかのような静かな動き。
美しい、というよりも、効率的な動きだった。無駄がない。止まらない。ブレない。

直哉はそれを真似しようとするが、床に引っかかり、小さくつまずいた。

「違う、違う。音を立てないの。猫になったつもりで」

「お前それ、真面目に言ってる……?」

「ボクはいつでも本気だよ?」

智華はさらっと言って、笑った。

だがその目には、ちゃんとした“教える者”のまなざしが宿っている。

「さあ、次は構えて……はい、打って。もっと速く!」

「お、おう!」

「違う、そうじゃない! 肩が力みすぎてる!」

「うぐっ……!」

「ナオヤくん、それ“振る”ってより“押してる”の!」

「わかってるよ、でも、体が……!」

「だからって休んでいいなんて言ってないよ?」

……スパルタだ。完全にスパルタだ。

鬼コーチ・霧島智華、爆誕だった。

けれど、その一挙手一投足には“ちゃんとした理由”があって、理にかなっているのが悔しい。

直哉の額から、じっとりと汗がにじむ。
竹刀を握る手は、だんだんと力が入らなくなってきた。

足もぷるぷる震え出す。
それでも――やめたくなかった。

(あの購買のとき、俺は……逃げなかった)

(でも、ただの偶然かもしれない。あんなの、“一歩踏み出しただけ”だ)

(どうせなら、もう一歩、前に出たい)

智華の声が飛ぶ。

「はい、構えて! ……打って!」

直哉は歯を食いしばりながら、竹刀を振る。

ガツン、と乾いた音。

気づけば、智華の竹刀と交錯していた。

「――お、今の、ちょっと良かったよ?」

不意に褒められて、直哉の中にひとつ火が灯った。

「……マジで?」

「うん、たぶん“3点”くらい」

「10点満点中かよ……!」

「100点満点中」

「下がったじゃねーか!」

口では文句を言いながらも、足は止まらない。
腕も、まだ竹刀を握っていた。

「……ナオヤくん」

智華の声が、ふとトーンを落とした。

「やめる?」

その問いに、直哉は答えなかった。

ただ、竹刀を握り直して、もう一度、構えを取った。

握りしめた拳に、言葉はいらなかった。

そして小さく、息を吸って。

「……やめない。やれるまで、やる」

その言葉に、智華は――小さく頷いた。

「……うん。じゃあ、続けよっか」


「じゃあ――今からちょっと、“実戦”やってみよっか」

智華が言った瞬間、直哉の背中にうっすら冷たい汗が流れた。

「え。いきなり? いや、俺まだまともに動ける気が……」

「大丈夫。力とか体格とか、関係ない範囲でやるから。
ただ、“反応できるか”を確かめたいだけ。怖がらなくていいよ」

そう言って、智華は一歩下がった。

直哉の目の前で、静かに構える。

その姿は、さっきまでのスパルタ教師とはまるで違った。
無駄な力を一切排した“構え”は美しく、静かで――それでいて、隙がなかった。

(こいつ、ホントに“ただの姫”じゃねぇよな……)

竹刀の先端がゆらりと揺れるたびに、息が詰まる。

直哉は自分の構えがどれだけガタガタかを、痛感していた。

「始めるよ?」

そう言った瞬間、智華がふっと前傾になった。

次の瞬間――

「ッ!」

風が、走った。

音もなく飛び込んできた智華の身体。
その竹刀は、ほとんど目の前にあった。

とっさに直哉は手を動かした。
それが“打つ”動作だったのか、“防ぐ”反応だったのか、自分でもわからない。

ただ本能だけが、竹刀を――智華の斬りかかる軌道に、滑り込ませた。

カン、と小さな衝撃音が鳴った。

交差した二本の竹刀が、空気を裂いて止まる。

沈黙。次の瞬間、智華の口元がふわっと綻んだ。

「今の、いい反応だったよ」

その言葉に、直哉の全身から力が抜けた。

足が、ふらりと一歩後ろに下がる。
手が、震えている。

「……マジで、疲れた……」

「でも、できたじゃん」

竹刀を軽く地面に置いて、智華が拍手する。
パチン、パチン。けれどその音は、どこか優しかった。

「さっきの動き、“教えた通り”じゃなかったけど……
でも、ボクの竹刀、ちゃんと止めたよ。
“守った”んだ、自分で」

その一言が、静かに胸の奥に届いた。

直哉は、竹刀を見つめた。

それは木でできた、ただの道具。
けれど今は――自分の手の中で、“確かに意味を持っていた”。

「……お前が、俺のこと信じてくれてるのは、分かってる。
でもな、それに甘えてばっかの自分が、だんだんムカついてきててさ」

「うん、知ってるよ」

「……だよな」

互いに目を合わせる。
智華の目には、怒りも呆れもなかった。ただ、どこか誇らしげな、まっすぐな光が宿っていた。

「……俺、強くなりたいよ」

「うん」

「別に誰かを殴りたいとかじゃない。勝ちたいとか、そういうのでもない。
でも、誰かを守りたいって思ったときに、“動ける自分”でいたい」

「……ナオヤくん」

「だから、今日できたこと。これ、小さいけど……“初めての勝ち”だったかもな」

直哉は、少しだけ照れたように笑う。

智華は、その笑顔をしばらく見つめてから――不意に、くすりと笑った。

「じゃあ、“小さな勝利記念”に、冷たい缶ジュースでも買いに行こっか。
今日は特別に、ボクのおごりで」

「は? いいのかよ?」

「うん。“ナオヤくんが、誰かのために動ける男になる”プロジェクト、第一歩記念だからね」

そう言って、竹刀を片づけ始める智華。
その横顔は、どこか満足げだった。

直哉は、ふとその背中を見ながら、竹刀を強く握った。

“もう、逃げない”

それは、声にならない誓いだった。


朝。
目覚まし時計のアラームが鳴るよりも少し前に、直哉は目を覚ました。
全身が重い。
腕を動かすたび、肩がぎくりと痛む。
脚の付け根、ふくらはぎ、背中――すべてが筋肉痛のオンパレードだ。

「うっ……いてて……マジかよ……」

昨晩、風呂で湯船に浸かっているときにすでに兆候はあったが、ここまでとは。
あれは“運動”というより“修行”だったんだなと、改めて思う。
けれど、布団の中でうなりながらも、どこか清々しい感覚があった。

(……まだ全然、形になってないけど。
でも――昨日の自分よりは、一歩だけ前に出た)

鏡の前で制服の襟を整えながら、少しだけ姿勢を正す。
そこには、いつものように眠たげな顔をした少年がいたが――
その目だけは、ほんの少しだけ、強さを帯びていた。

 

「おはようございます」

教室のドアを開けて、直哉が発した言葉に、一部の生徒がちらりと顔を向けた。
誰も返事をしない。スマホをいじる者、本を読んでいる者、眠っている者――
それは、いつもの“暁陽高校”の風景だった。

けれど、直哉はへこたれなかった。
昨日なら、たぶんぼそっと口ごもっていたその挨拶を、今日はちゃんと出せた。

その事実が、何より大きい。

席について、カバンを下ろす。
肩が痛い。竹刀の素振り、あんなに地味でキツい運動だったなんて思いもしなかった。

「おはよ、ナオヤくん」

いつもの位置から、いつもの声。
霧島智華が、にこにこと手を振りながら近づいてきた。

彼女――いや、“彼”は、今日も完璧な見た目だった。
ふわふわのピンクがかったウェーブ髪、自然なアイライン、整った眉、透明感ある肌。
制服も寸分違わず整えられていて、どこか宝塚の男役すら思わせる品の良さがある。

そんな存在に、今、自分は――隣に座っている。

「……おはよ」

返す直哉の声は、ちょっとだけしゃがれていた。
筋肉痛もあるが、心のどこかに湧いている“誇らしさ”が滲み出ていたのかもしれない。

「ねえ、ナオヤくん、昨日の練習で筋肉痛きてるでしょ?」

「……まぁ、うん。バレバレか」

「うん。歩き方が“赤ちゃんの鹿”みたいになってるから」

「やめろ、なんか屈辱的だから」

智華はくすくすと笑いながら、いつものように机を引き寄せる。
まるでそこに“自分の席”があるかのような、自然な動き。

でも今日は、それが不思議と嬉しかった。

教室の端から、ちらりちらりと視線を感じる。

(……なんだ?)

一人の男子が、スマホをいじる手を止め、直哉たちを横目で見る。
別の女子生徒(※“一応”男子校だが、見た目や自認が様々な生徒は多い)も、ひそひそと何かを話している。

けれど、昨日までのような“敵意”や“違和感”ではない。
言うならば――“観察”だ。

(……ちょっとだけ、変わったのかもな)

直哉がそう感じたとき、智華がふいに言った。

「ね、ナオヤくん。たった一歩踏み出すだけで、周りの景色って変わるでしょ?」

「……お前、やっぱエスパーじゃね?」

「んー、エスパーというか、観察眼?
ボクね、“人の変化”に気づくのが得意なの。ナオヤくん、今日の目線、ちょっとだけ上向いてたよ」

「……そっか。自分じゃ気づかねぇけど」

「うん。でも、それでいいの。
本人が気づかないくらい自然に、少しずつ変わっていけばいいんだよ」

直哉は、ほんの少しだけ微笑んだ。

「なぁ、智華。……ありがとうな」

「え、なに急に。気持ち悪っ」

「そういうとこだぞ」

「ふふっ、でも嬉しいよ」

智華の笑顔は、どこか照れていた。
その様子を見て、直哉の胸に小さな温かさが灯った。

(俺、昨日よりほんの少しだけ、強くなれたのかもしれない)

そう思えた朝だった。


夕焼けの光が、グラウンドの向こうに滲んでいた。
校舎の壁が朱に染まり、長く伸びた影が校庭に二人分。

「……今日も、やるか」

直哉が、息を吐いて言った。

その言葉に、智華が振り返る。
少しだけ驚いた顔をしたあと、ふわりと微笑んだ。

「うん。もちろん」

体育倉庫の前に立つ二人。
昨日と同じ場所。でも、昨日と違うのは――今日、ここに来ようと言い出したのが、直哉だったことだ。

「……まだ、全身バキバキだけどな」

「バキバキでも来たってことは、やる気ある証拠だね?」

「うっせ、ほっとけ。……ただ、なんか気持ち悪いんだよな」

「気持ち悪い?」

「うん……“やってない自分”が。
お前と会って、助けられて、練習して――
なんか少しずつ、逃げてた自分が見えてきてさ。
だったら、ちょっとずつでも殴ってやんねぇと」

「……ナオヤくん、それ、すっごくカッコいい言い方だと思う」

智華は、静かにそう言って、倉庫の扉を開いた。

軋む音とともに広がる、ほこりっぽい空間。
竹刀、ボール、マット、器具。あらゆるものがぎっしりと詰め込まれたその中で、ひとつだけ綺麗に立てかけられていた竹刀を、直哉が手に取る。

「今日は、何からだ?」

「じゃあ――“間合い”かな」

智華が答えながら、スカートの裾を軽く払って、竹刀を手にする。

「間合い?」

「うん。技が上手でも、距離感がズレてたら当たらないし、逆にやられちゃう。
“届く場所にいる”っていうのが、勝負の第一歩なんだよ」

「……なんか、それって剣道だけの話じゃない気がするな」

「そうだよ。人間関係も、恋愛も、ぜーんぶ間合いが大事。
近づきすぎてもダメ。離れすぎてもダメ。
ちょうどいい距離って、簡単そうで難しいんだよね」

直哉は、竹刀を握り直した。

昨日よりも、少しだけ手に馴染んだ気がした。
力を入れすぎず、でも逃がさず。
それが、今の自分にできる“構え”だった。

「ナオヤくん」

智華の声が静かに響く。

「強くなるっていうのは、誰かを殴るためじゃない。
“守りたいもの”のために、動ける自分になるってことだよ」

その言葉が、まっすぐに心に届いた。

誰かを守る――それは、強さの中でも最も優しい強さだ。
智華は、そういう“強さ”を持っている。
だからこそ、たとえ可愛くて華奢で、見た目が“姫”のようでも――
あいつは、誰より“ヒーロー”だった。

「……俺、強くなってやるよ。
少しずつでも。まだ形になってなくても」

「うん。ナオヤくんが“強くなりたい理由”を忘れなければ、絶対になれる」

智華の声は、冗談っぽさも照れもなく、真っ直ぐだった。

それが逆に、くすぐったくて――だけど嬉しくて、直哉はちょっとだけ視線をそらす。

 

日が、だいぶ傾いていた。
影が、倉庫の中まで伸びてきている。
冷たい風が頬を撫でていく中、二人は向かい合った。

「じゃあ、今日もよろしくな、コーチ」

「はいはい、スパルタ覚悟でね」

「勘弁してくれよ……」

言いながら、直哉が構える。
智華も構える。

そして、ぴたりと距離が合う。

“間合い”。

たしかに、その一瞬――二人の呼吸は、そろっていた。

 

夕焼けの空を背景に、竹刀が交わる。

カン、という乾いた音が響いた。

その音は、どこまでも静かで、どこまでも熱かった。

そして、何よりも優しかった。

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