新自由主義(市場原理主義)を擁護する
自由市場を重視する立場である「新自由主義」(あるいは「市場原理主義」)は完全に悪役としての地位が確立しています。何気なくその辺の記事を読んだり本を開いたりするだけでも「新自由主義が悪い」的な話に遭遇するので、もはや「犬も歩けば新自由主義批判に当たる」といった様相です。
しかして、"Devil's Advocate"を自称する江草はとにかく天の邪鬼な人間なので、ここでは空気を読まずに、あえての「新自由主義」の擁護に回ってみたいと思います。
この時点ですでに新自由主義への警戒心を抱いた皆さまから「総員、戦闘態勢に入れ!」のかけ声が聞こえてくるようですが、ちょっと落ち着いて、まだ石を投げるのは待って下さい。
擁護といっても、おそらく多くの方が想像するような擁護の形ではなく、そこそこアクロバティックな擁護になります。江草としてはできる限りご納得いただけるようにとがんばりますので、石を投げるのは読み終わってからでお願いします(いや、なるべくなら投げないでほしいですが……)。
さて、結論から言えば、江草はこう考えます。
「新自由主義が悪いのではなく、その〈カケラ〉を「常識」として無意識的に従属した〈自己中心志向〉が問題なのだ」と。
(なお、全部で11000字超えてる長文なのでご覚悟を)
「社会のため」の新自由主義
まず確認すべきなのは、本来、新自由主義を主張した方々は「それが社会のためになる」という前提を擁していたことです。「社会が豊かになるためには政府はできる限り市場に介入しない方がいいのだ」というように、あくまでその方が「社会にとって良い」として自由市場の領域の拡大を主張していたわけです。
新自由主義の権化として今やあちらこちらから石が投げられまくっているフリードマン、ハイエク、レーガンやサッチャーも、別に「社会なんてどうでもいい」と社会を切り捨てていたわけではありません。彼らは「社会のためにこそ自由市場を重視しよう」と言っていたのです。あくまでも当時の社会情勢下や知見の限りにおいて「自由市場の拡大が必要だ」という立場であったに過ぎません。
たとえば、新自由主義が支持する「小さな政府」という概念も、たいていの場合最低限社会や市場の秩序を維持するために「夜警国家」としての政府の役割を許していましたし、フリードマンも市場原理が最大の効果を発揮する環境の維持を企図して「負の所得税」という所得再分配制度の導入を主張していました。政治家の(しかもその首長であった)レーガンやサッチャーにいたっては、「国のために」という前提なくして自身の主義主張を世に訴えることはまず不可能であったでしょう。
ルトガー・ブレグマンも『隷属なき道』の中で、理想の社会を築こうとする誇り高き新自由主義者としてハイエクとフリードマンを紹介しています。
今日、「新自由主義」は左派に同意しない全ての人に対する蔑称になっているが、ハイエクとフリードマンは誇り高い新自由主義者であり、自由主義の改革を、自らの責務としていた。「自由な社会の建設を再び知的冒険にしなければならない」とハイエクは記した。「わたしたちに欠けているのはリベラルなユートピアだ」
これらのことからも、新自由主義の権化とされてる方々も市場の継続的繁栄や社会の安定的秩序の担保は最低限必要であったと考えていたことは明らかです。つまり、社会や市場の健全性や持続性を保護することは新自由主義において前提とされているのです。(ここで指す「社会」が国家ではなく別の形態のコミュニティであったり人類文明であったりはしうるのですが、いずれにしてもなにかしらの「社会」の発展を意図していることは同じです)
このことは極めて重要です。
彼らが「社会のため」という前提を有していたということは、万が一「社会のためにならない事態」が起きたならば(気持ち的には消極的であるにせよ)市場の外部から介入することもやむを得ないということを含意しているからです。社会が崩壊したり市場が存続できなくなったり人類が隷属状態に陥ったり滅亡したりする事態は、本来的には新自由主義も嫌うはずなのです。少なくともそれを願っていることはないはずです。
もちろん、ある事象に関して「これは社会の益になる事象か、それとも社会に害を為す事象か」についての議論は必ず生じます。
しかしながら、その議論において「社会のためになることをしよう」という眼差しを捨てていない点で言えば、新自由主義者は、新自由主義を批判する(ほとんどの)立場の方々と共通する地平を有していたと言えるでしょう。
肝心の「新自由主義者」が不在という不思議
さて、冒頭でも述べたとおり、このところ世の中では新自由主義を悪役として批判する空気が強まっています。しかしながら、それだけ存在感を示す悪役であるにもかかわらず「肝心の新自由主義者(あるいは市場原理主義者)を自称する者がほとんどいない」という奇妙な状態であることを見過ごしてはなりません。
居るのは「社会が悪くなったのは新自由主義のせいだ」と怒れる批判者たちか、「また何でも新自由主義のせいにしてる」とその批判者に皮肉っぽく嫌悪感を示す者たちばかりで、肝心の「我こそが新自由主義者でござい!いざ尋常に勝負!」と堂々と名乗り出てくる当事者本人たちが居ないのです。
いや、ほんというと「新自由主義者」は居ることは居るのですが、あくまで彼らも主流派から外れたマイノリティであって、批判者たちが言うほど社会の権勢を握っているようにも思われない点が奇異なのです。
それこそ、本当に世の中で「新自由主義」が支持され蔓延しているならば、フリードマンが批判されている時に「我々のフリードマン様を批判するとは許せん!」と反論に立ち上がる人々が大量に出てくるはずでしょう。ところが、フリードマンを批判する声は多けれど、フリードマンを擁護する声は少ない。これは、ナチスドイツ時代にヒトラーを批判したら大変な反撃にあったであろうことや、共産主義国家でマルクスを批判したら大変な目にあったであろうことを考えると、随分と雰囲気が異なります。
この、新自由主義が別に断固たる主義として表立って掲げられていないこと、すなわち肝心の「新自由主義者」が(少なくとも最近では)表舞台では不在であることが、昨今の新自由主義批判が空転する理由として重要だと江草は思うのです。
「陰謀」ではなく「無謀」
もちろん、「不在」といっても、なにも「新自由主義者どもが隠れて裏で手を回しているのだ!」などと陰謀論を述べようとしているわけではありません(世の「新自由主義」批判者がこの陰謀論に傾いてしまっている時はしばしばありそうですけれど)。
むしろ、逆にそういった「真の新自由主義者」がどこにも(陰にさえも)不在なことが問題なのです。この、誰かが企んでる「陰謀」どころか、誰も手綱を握っていない「無謀」であることこそが、現代社会の大きな問題点なのではないかと江草は指摘したいのです。
たとえば、もはや知らない人はいないほど普及した「SDGs」という世界的キーワードにおいて、危機感をもって「持続可能性」の重要性が謳われていることは、すなわち、今まさに「持続可能性」が危機に陥っていることを示しています。世界が持続可能な見通しだったら、わざわざ「持続可能性」を強調しなくていいですから。地球環境破壊であったり、資源枯渇であったり、少子高齢化であったりと、このままでは社会や市場が存続困難になる見通しがあるからこそ「SDGs」の概念が脚光を浴びているわけです。
しかし、最初に確認したように、(表でろうと陰であろうと)私たちの社会で「真の新自由主義者」が居るならば(しかも優勢ならばなおさら)社会や市場の崩壊をほっておくはずはないのですから、「持続可能性危機」の原因は「新自由主義」ではありえません。
もし、それでもそこに諸悪の元凶として「新自由主義」が透けて見えるのだとしても、あくまでそれは「新自由主義」を模した〈何か〉です。
「新自由主義」を模した〈何か〉
では、その〈何か〉とは何か。
その〈何か〉の香りは、「新自由主義」批判の流行に対するコメントとしてしばしば見受けられる「まーた、性懲りもなく新自由主義批判か。そういう風に文句言ったって社会の現実は変えられないのだから、この市場競争の中で生き抜く努力をするしかないだろう」という態度に立ち現れています。
典型例とまでは言えないかもですが、最近読んだ本から少し具体例を出してみます。
橘玲『シンプルで合理的な人生設計』より引用です。
対処不可能な問題は「問題」ではなく、状況であり、環境であり、現実だ。「人間と現実が闘ったとき、勝つのは一〇〇パーセント現実のほうだ。現実は出し抜けない。現実はだませない。現実は自由自在に曲げられない」のだ。だとしたら、(革命などで)世界を変えることに挑むよりも、現実を所与の(与えられた)条件として受け入れてしまった方がいい。
日本だけでなく世界的に経済格差が拡大している。その背後にはなにかの「陰謀」があるに違いないと主張するひともたくさんいる。陰謀の主体はこれまでずっと「ネオリベ(新自由主義)」だったが、最近は「資本主義」が人気のようだ。
注目したいのは「現実を所与の条件として受け入れた方がいい」「新自由主義の陰謀と主張するひとも多い」のあたりのニュアンスです。
一見すると「新自由主義」を擁護している「新自由主義者的な発言」かのように思われるかもしれませんが、これが「新自由主義批判に対して直接的に明確に反論している」わけではないことに注意してください。
引用しているページが離れていることからも分かる通り、これはあくまで別の話題をしている時にすっと差し込まれた「つぶやき」のような発言です。だから決して明確な主張ではありません。しかしながら、それでも橘が世の「新自由主義批判」を好意的に見ていないことは分かるでしょう(※文末注)。
これは別に「我こそが新自由主義者でござい!」と名乗りを上げているわけでも、「新自由主義」を明確に擁護しているわけでもなく、「変えられない現実に挑むのは無駄だから」と「新自由主義」を批判する言説そのものの無意味さを強調し、議論の立ち上がりそのものを無効化しているのです。
「つぶやき」としてのほのめかすような言い回しで、議論そのものには立ち入らず、新自由主義を肯定も否定もしていない曖昧な態度である。
議論の中で反論するのではなく、議論そのものを受け流す。
これが重要な特徴です。
新自由主義を批判している「主張の内容」に反論するのではなくて、新自由主義を批判したり議論の対象にするような「行為そのもの」を皮肉っぽく揶揄しているわけです。
実はこのようにつぶやいているだけまだ橘は立場を明確に出している方でして、多くの人はこのようにつぶやくこともせず、暗黙のうちに「市場原理ルールでの競争に乗っかること」を「決して変えられない所与の条件(現実)」として受け入れてしまっています。
この「仕方ないから市場競争で勝ち抜こうぜ」「そうはいっても個人で努力するしかないでしょ」という態度。
これこそが、江草が問題視している〈何か〉です。
これは、先ほどから述べている通り、本来の「新自由主義」と似て非なるものなのです。
手は離しても目を離すな
料理にたとえてみましょう。
「ここで材料を入れたフライパンを火にかけてほっておきましょう。触ったらいけません!」と注意書きがあるレシピがあるとします。お好み焼きなんかそうですね。焼き中に見てるとついヘラで押したくなりますが、押してしまうとせっかくのふんわり感が失われてしまいますから、あえてほっておくのが得策なのです。
しかし、この「ほっておきましょう」というのは「どうなってもかまわない」という意味ではないことは明らかです。焦げ臭くなってきたり、火が上がったならば、何か対処すべきであることは暗黙の前提です。
ここで、「ほっておけ」とレシピが言っているのだから「何があってもほっておくべきだ」とか「ほっておく以外仕方がない」と考えて、家が大火事になりながらも微動だにせずお好み焼きの焼き上がりを楽しみに待ち続ける人がいれば、それは狂気の沙汰と言えるでしょう。
同じように、本来の新自由主義も「できるだけ触らず自由市場に任せておけ」とは言っているものの、「大火事」まで無視しろと言っているわけではないのです。なにせ「夜警」はすると言ってるのだから、手を離しても目を離せと言っているわけではない。
ここにはあくまで誇りを持って自分の意志で主体的に「自由市場経済重視」を選ぼうとしている「主人」的「自由人」的な態度があります。自身がキッチンの支配者であるという自負はある。
一方の、さきほど取り上げた、昨今じわじわと支配的になっている「文句を言っても社会の現実を変えようがないのだから自由市場競争の中で勝ち抜くしかない」(すなわち「これが現実だから仕方がない」)という態度は、決定的に本来の「新自由主義者」と異なるものです。
こちらは、いつのまにか「自由市場経済重視」を主体的に選んだ誇りや意志、そして他の選択肢や選択権を完全に失った受動的な「従者」、悪くいえば「奴隷」と化してしまっているからです。
批判者は〈カケラ〉を「新自由主義」と勘違いしている
確かに、市場原理を受け入れてる点、市場原理を重視している点で両者は共通するように見えます。おそらく、ここに「新自由主義」の香りをかぎとる方々がいて、それで昨今「新自由主義」批判が活発になっているのだと思います。
しかし、そこで批判者たちが相手をしているのは「新自由主義」ではなく、「新自由主義」にあった誇りや管理能をも見失った「新自由主義」の〈カケラ〉なのではないでしょうか。
もはや「新自由主義者」は不在で、ただ「現実、市場経済の中で生き抜くしかない」という諦めの空気だけが蔓延している。だからこそ、昨今の「新自由主義」批判は空転するのです。
言うならば、被告席が空席のままに裁判をしているようなものです。誰も被告に値する人がいないし、被告と自認している人さえいないのですから。
自己利益だけを追い求める〈自己中心志向〉
つまり、「新自由主義者」のリードがないにもかかわらず、その「市場原理重視」の観念だけが人々にインストールされ、結果、市場原理の回路がただ自動的に惰性的に回り続けてしまっている。「社会のため」や「市場の繁栄」という新自由主義の前提を失ったまま経済のエンジンが勝手にヒートアップしてしまっている。新自由主義の「自己利益を追求せよ」の部分だけが独り歩きしてしまっている。
こうして肝心要の社会や市場が存続の危機に陥っているのが現状の恐ろしい点なのです。
「社会のため」や「市場の繁栄」という前提を失った新自由主義は、「社会がどうなろうと市場がどうなろうと(要するに他人や未来がどうなろうと)自己利益になれば構わない」という態度であり、それはもはや〈自己中心志向〉と言うべき代物です。いわゆる「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」という態度に相当します。これで持続可能であるなんてことがありそうにはないでしょう。
新自由主義細胞癌あるいはウイルス
この本来の機能を見失い自己利益拡大だけを考える存在と化したもの。すなわち、ただひたすらに自分の増大だけを考える存在と化したものをたとえるならば〈癌〉です。
本来ならば成熟した高機能な細胞として一定の秩序をもって増殖を進めるはずだった細胞が、いつのまにか脱分化・未熟化して増殖コントロール機能を失い、延々と無秩序に増殖をし続ける。
まさに〈癌〉の特性と瓜二つです。
あるいは、本来の情報の断片だけが感染するように拡大する面に注目すれば〈ウイルス〉的でもあります。
もちろん、いやしくも人に関する話で、〈癌〉や〈ウイルス〉に例えるのは非礼に過ぎますが、本来の増殖管理能を失っている点が特性として似ているということを強調したいがための便宜上の例えということでご理解ください。
新自由主義の〈カケラ〉という「常識」に従う私たち
そもそもこうした態度を取る人たちが悪人かというとそうではありません。むしろほとんどの者は悪人とは程遠い従順で善良で真面目な方々でさえあるでしょう。
実のところ、世の中にすでに広く「市場経済重視」の観念がいわば「常識」として普及しているがために、素直にそれに従っているだけと思われるからです。ただ、市場経済を回す上で不可欠だったはずの「市場の主人としての誇り」の普及の方が社会に欠けたままになってしまっているだけで。
平尾昌宏は『人生はゲームなのだろうか?』の中で、私たちの行動を縛るルールとして、手続きで決まっている「法律」や、理由が用意されている「道徳」に続く第三のルールとなる「社会的規範」の強力さを指摘しています。
三つ目は、「社会的規範」などと呼ばれるものですが、これは大雑把に言えば、常識みたいなもの。つまり、法律のように「手続きで決まっている」のでも、道徳のように「ちゃんとした理由があるから」というのでもなく、「何だか知らないけど、みんなが従っている」っていうものすごくアバウトなものです。
だけどある意味で言えば、これが一番無敵のルールなのかもしれない。だって、法律なら「それは、いつどこで決まったんだ?」と問いただすことができますし、道徳なら「それは、どういう理由でそう決まってる?」と問うことができます。だけど常識は、それが問えないからです。もしちゃんとした手続きを通していなければ、「そんなの法律じゃない、そんなものに従わなくてもいい」と言えますし、ちゃんとした理由がなければ、「そんなの道徳じゃない、そんなものに従わなくてもいい」と言えますけど、常識は、結局のところ、「何となくそうなっている、実際に多くの人が従っているから」と言うしかない。じゃあ、だから従わなくてもいいかというと、「なぜお前は常識の通りしないんだ」と言って責めてくる人が出るし、「じゃあもう面倒くさいから、「長いものに巻かれろ」的に従うだけ従っておくか」ということになりがち。
本稿で問題視している新自由主義の〈カケラ〉も、ここで平尾が言うところの「社会的規範」すなわち「常識」化してしまっているものであると言えるのではないでしょうか。「何となくそうなっている、実際に多くの人が従っているから」みんな何となくそうしているという点で。そして、それを疑おうとすると「なぜお前は常識の通りしないんだ」と揶揄してくる人が出てくる点で。
この「常識」が持つ「議論の無効化」の特性は、ちょうど前述の橘の「つぶやき」と共通していると言えます。
しかしこうして「常識」として何となく「市場原理」を受け入れることは、何度も繰り返している通り、「本来の新自由主義者」の発想とは異なります。
「本来の新自由主義者」は「何となく」ではなく「明確な意志」をもって「市場原理」を選び取る者だからです。
議論をしないことが「隷属への道」
人は何かを選び取ろうとする時、選択肢を俯瞰する必要があります。いわゆるメタ視点ですね。
ハイエクやフリードマンなどの「本来の新自由主義者」はそうしたメタ視点を持っていました。だからこそ、彼らは議論を避けるどころか、「新自由主義」の正当性を訴えるためにむしろ積極的に議論を行っていたのです。
しかし、「常識」に埋没すると人はメタ視点に移動できなくなります。移動することを思いつかなくなると言う方が正確でしょうか。メタ視点に移れないからこそ、その是非を議論することもできなくなるのです。それが「常識」で「現実」だと思い込んでるうちは、それを議論することに価値が見いだせず、その外に出られなくなってしまうのです。
もちろん、それでうまくいっているうちはいいのですが、「常識」を俯瞰できないということは「常識」のコントロールを失っていることに等しいですから、「常識」がうまく通用しない状況に陥った時に困ってしまうわけです。つまり、「常識」に従属し続けることには危険が潜んでいるのです。
従って、たとえば「世の中SDGsとか面倒なことばかり言ってうるせーよな。文句言う前にちゃんと働いて金稼げっつーの」みたいな態度の人が仮に居るとして、世間的には「新自由主義者」とラベルされてしまいがちですが、実は彼は「新自由主義者」ではないわけです。
「本来の新自由主義者」であればたとえ「SDGs」の具体的な個々の内容に対して異論反論を持つことはあれど、持続可能であることは当然適宜点検すべき関心事項であるからです。
持続可能かどうかに関心がない時点で、メタ視点での議論をハナから回避する時点で、「主人」の品格を備えた「新自由主義者」ではなくて、彼は新自由主義の〈カケラ〉に支配されてしまった「従者」でしかないのです。そして、これは隷属を嫌う「新自由主義者」にとって望ましい人間像ではありません。
そして、だからこそ「従者」が大勢であることは社会における危機になります。社会がうまくいってない時に「常識」を点検できなくなるわけですから。
十二分に点検した結果として「常識」をこのまま維持しようという結論になるなら、それでもかまいません。
問題なのは、最初から点検さえしようとしないこと、点検するという発想さえないことです。
議論した上で「やっぱ市場原理だよね」となることと、議論をすることさえ思いつかずに「市場原理で生き抜かないといけないのが現実だから」となるのでは、人間の主体的コントロール能として雲泥の差があるでしょう。
市場原理についてメタ視点での議論をしない態度、議論できない空気というのは、それこそ新自由主義者が忌避するところの「隷属への道」なのです。
【まとめ】新自由主義者とその批判者の呉越同舟
まとめましょう。
昨今「新自由主義」批判の声はますます高まっています。ところがこの批判はどうも空転しているように見えます。なぜなら、肝心の矛先の「新自由主義者」が社会に不在であるから(少なくとも少数派であるから)。
「新自由主義者」が不在にもかかわらず、批判したくなるほど「新自由主義」がはびこっているように見える原因として、「新自由主義」イデオロギーが本来有していた主体性や管理能を失った〈新自由主義のカケラ〉だけが「常識」として社会に遍在していることがあるように思われます。
イデオロギーとしてのヴィジョンや理論的支柱や主体性を失った「自己利益を追求せよ」という「イデオロギー未満の断片」だけが広く行き渡ってしまったのです。
目に見える原発巣が不在でありながら病巣は遍在している。このびまん性に浸潤し、全身に転移したいわば〈癌〉のような特性が、「新自由主義」という特定の標的を矛先にする批判をかわしています。こうした特定の標的だけを攻撃すれば治ると考えるいわば「外科的切除」は対象が特定の場所に実塊として限局的に存在している時に適応となる方策であり、現代社会における〈新自由主義のカケラ〉が広く行き渡った病状には効果が乏しいのも当然なのです。
ではどうしたらいいか。
これはなかなか難しい問題です。
ただ、なにをどうするべきかというのは、まずは正しい診断があってこそではないでしょうか。そうでなければ明後日の方向にばかり手を加えることになりかねないのですから。
ともかくも、本稿のねらいはあえての「新自由主義の擁護」にありました。
だからこそ、最後に伝えたいことは、もし自由を愛する真の新自由主義者がまだ居るならば、それこそ「市場原理」が惰性で無謀に無秩序に放置されたまま、結果として市場の持続性が担保できそうにない現状に我慢ならないはずであろうということです。「手を離せとは言ったが、目まで離せとまでは言ってないぞ」と。
そうであるならば、興味深いことに今や「新自由主義者」と「新自由主義批判者」は実は協調に至る可能性があるのではないでしょうか。どちらも「市場原理」の無秩序の暴走を良しと思っておらず、それに対する人間のコントロール能を取り戻したいと考えるわけですから。
最終的に到達したい目的地は異なれど、ひとまず呉越同舟的に手を結ぶことだって可能ではないかと思うのです。
【オマケ】新自由主義者の演説
最後に完全極まりない蛇足ですが、調子にのってネタで思いついた新自由主義者の架空の演説セリフで締めくくりといたしましょう。(キャライメージ的にちょっと過激な言い回しですが)
新自由主義者の同志諸君!
我々は今や大変な危機的状況に瀕している!!
知っての通り、我々は自由を愛し、市場原理を好む、誇り高き新自由主義者である。
しかし、あろうことかこの我々を騙り、自由と市場を破壊せんとする新隷属主義者どもが我が国にはびこっているのである!
確かに奴らは一見すると自由に振る舞い、市場原理に準じておる。だが、奴らは「市場原理に従わざるを得ない」という卑しい精神のもとでそうしているに過ぎない。自らの選択として市場原理を選び取ったという気概がない者のどこに自由の香りがあるだろうか。それはただの隷属主義である。いや、これを主義と呼ぶのもおこがましい。奴らは何ら主義主張を自ら担おうともしていないのだから、実際にはただの奴隷に過ぎない。そして、こうした隷属的な存在こそ我々新自由主義者が最も忌み嫌うものである。
しかも、奴らは「市場原理に従っておきさえすればよい」と無思考に勝手に動くものだから、結果、市場の維持をも脅かしている。我々の愛する市場原理を躍動させるためのケアもメンテナンスもしないのである。それでは早晩せっかくの市場原理も錆びつき市場が腐り落ちるのも時間の問題であろう。奴らはシロアリのように自身の欲望にまかせ市場を食い尽くしているだけであり、そこには自由の担い手たる愛も誇りも何もないのである。
万国の新自由主義者よ、立ち上がれ!
自由と自立と自律の心を失った隷属主義者どもにこれ以上好きにさせておくわけにはいかぬ!
我々の栄光ある真の自由と豊かな市場を取り戻すのだ!
お後がよろしいようで。
【注】橘玲氏へのフォロー
ちょうどいい引用先としてとりあげただけで橘玲氏個人を批判する文脈ではないことは念のため注記しておきます。そもそも江草は橘氏のファンでもあり、ちょくちょく著作も読んでいます(その証拠に今回も早速手に入れた最新刊の引用です)。
もともと『不道徳な経済学』を翻訳されてるなど、橘氏が新自由主義に好意的な経済右派であることは前々から明らかでしたから、昨今の「新自由主義」批判優勢の風潮を苦々しく思われていたとしても不思議はありません。そして、そもそも新自由主義を巡る理論的背景や議論を知っている点で、橘氏は厳密には「従者」とは言えないでしょう。
とはいえ、『不道徳な経済学』で試みられていたように「市場原理」の合理性を丁寧に論じるでもなく、今回それをただ単に人々が従うべき「現実」として暗示してしまったのは、いささか合理主義的ではなかったように思われます。
しかし、この「現実として仕方なく従う」という態度がちょうど今の社会に広がっている「常識」をうまく表しているように感じられましたので、推しの橘氏に申し訳無さを感じつつも引用させていただきました。
なにぶん「常識」というのは改めて言葉で語られることがほとんどないからこそ「常識」なわけで、文言として出てくる場面は希少なのです。
いいなと思ったら応援しよう!
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。