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「青春は用賀にあった “ただの住宅街”が、自分史の中心になった理由」

■ 三田から始まった東京の暮らし

自分が最初に住んでいたのは、港区三田綱町
高級住宅街のイメージが強い地域だが、当時の暮らしにそんな優雅な記憶はない。

徒歩圏内にあった麻布十番も、今のように観光客でごった返すことはなく、
古びた商店が立ち並ぶ、どこにでもある東京の下町のような雰囲気だった。

まだ小さかった自分は、「車が危ないから」と一人で外へ遊びに行かせてもらえず、
どこか閉塞感のある、物足りない幼少期を過ごしていた。

そんな自分の世界が大きく変わったのが、小学2年の時だった。


■ 用賀に移り住んだ日から、人生が“広がっていった”

小2の時に引っ越したのが、世田谷区用賀
ここから、自分の人生は少しずつ「動き出した」と思っている。

世田谷というと、オシャレなイメージを持たれるかもしれないが、
用賀は決して“流行の発信地”ではない。
むしろひたすら地味で、落ち着いた住宅街

渋谷のように騒がしくもないし、下北沢のように若者の文化が根付いているわけでもない。
だが、それがいい。
「わざわざ他の区から用賀に遊びに来る人は少ない」 その閉じられた感じが、逆に心地よかった。


■ 玉電跡地の“空き地”がくれた、のどかな時間

引っ越してきた当初、駅前にはまだ玉電(玉川線)の跡地が空き地として残っていた。
いま思えば、あの空き地があったからこそ、自分の中に「のどかな東京」が刷り込まれたのかもしれない。

その空き地は、特に何かがあるわけではない。
ただただ、空いている土地。
でも、子どもにとっては想像力をかき立てるフィールドだった。
鬼ごっこも、かくれんぼも、意味もなく走ることも、全部ここでできた。

20歳前後のころに、その跡地には道路が通り、駅前には高層ビルが建ち並ぶようになった
都市開発の波が、用賀にもやってきた瞬間だった。


■ それでも、用賀は“変わらない街”だった

駅前が再開発され、カフェやマンションが建っても、
用賀という街の空気はどこか変わらない。

広大な砧公園をはじめ、大きな緑地や公園が今も健在で、
土日には子ども連れの家族がのんびりと時間を過ごしている。
そんな“暮らしの余白”が、この街にはちゃんと残っている。

近年では「激安スーパーOK」が2店舗もできて、
ひとつは昔ながらの駅前の小型店舗、もうひとつは新しい大型店舗。
地元の人は、混雑必至の土日を避けて、平日にふらっと行くのが常識だ。

飲み屋も適度にあり、派手さはないけれど、ちゃんと“生活ができる街”。
そして、思うのだ。

「また住みたい」と。


■ でも、今はもう「気軽に住める街」じゃない

自分がいた頃と比べて、地価は大きく上がった。
それもそのはず、今や用賀は「静かな高級住宅街」として名前が挙がるほどになってしまった。

昔はなんでもなかった場所が、
気づけば“住めない憧れのエリア”になっている。

結婚し、用賀を離れてからは、品川区の戸越に数年住み、
今はもう横浜市に来て13年が経った。

色々と住んできたけれど、「一番よかった街はどこ?」と聞かれたら、即答で“用賀”だ

それは単に「暮らしやすかった」だけじゃない。
自分が一番、自分らしく生きていた時間を過ごせた街だからだ。


■ 思い出補正かもしれない。それでも

もちろん、「用賀が最高の街」なんて大声では言わない。
あくまで自分にとって、という話だ。

誰にでもあると思う。
“何もないように見えて、すべてがあった青春の場所”。

見慣れた道、日常の風景、匂い、音…。
思い出は、生活の一部だったその土地に、いつの間にか染み込んでいく。

「もう戻れない場所」だからこそ、
ふとした時に、その街が心のなかで鮮明に立ち上がってくる


■ 最後に 良い場所に住んできた、という奇跡

三田、用賀、戸越、横浜

今になって思うと、自分は東京近郊でもかなり“良い場所”ばかりに住んできた気がする。
それが偶然だったのか、あるいは引き寄せたのかはわからない。

だが、ひとつだけ確かなことがある。

「用賀で過ごした時間は、たぶん自分の人生の核だった」ということ。

また住める日は来ないかもしれない。
それでも、街はそこにあり続ける。

そしてきっと、いつまでも変わらないあの空気感が、
この先も自分の記憶の中に、そっと生き続けるのだ。

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