【短編】忘却
じわじわと蝉が鳴き、濡れた地面から振り終えた雨が揮発していく夏の暑い日に私は鳥居をくぐる。
夏は人ばかりが息苦しくて、そのほかの植物や動物は自分の生活を謳歌している。
この時期は人間以外のものの為の季節だと思う。
はは、そは、そうそはから伝え聞いた話をこの季節になると思い出す。
足元に日傘の影、一歩踏み出すとサンダルを履いた足の甲が白く照らされる。
光と影が同時に存在する事を、僅かに感じる。
「どうしたの?」
遠い日に少女だった彼女は、傷だらけの狐の少女を見つけてそう声をかけた。
狐の少女は内出血と涙の跡を湛えたまま、乾くことのない目を少女に向けて頷いた。
その様がひどく可哀想に見えたのだ、と少女は思った。
語ったのは少女だったそうそはか、その前のははかは不明だが、人の少女であるその子はそう思った。
「遊ぼう」
夕暮れで、もうすぐ家に帰らなければいけなかった。
けれど、その子を放っておくことが出来なかったそうだ。
人の少女は狐の少女と夕暮れが夜に変わるまで共に遊んだ。
何をするという遊びではない、草の中を駆けたり、虫を踏み潰したり、何日もそこで朽ちていたような錆だらけの缶を蹴ったりしたのだという。
また遊ぼうと約束して夜に家へ帰ると、少女はその母に大層叱られたという。
彼女は狐の少女について母に話すことはなかった。
夜に帰っただけでも叱られたのに、異形の者と遊んだなどと話せばどれほど叱られるかと恐れていた。
翌日か、その翌日か、また少女は狐の少女と出会った場所に赴いた。
狐の少女は膝を抱えて座っていた。頬に夕暮れ前の朱色が差していた。
人の少女が彼女に向かって駆けていくのを器用に耳で知ると、彼女は嬉しそうに立ち上がった。
両の手を大きく振る様から、彼女が喜んでくれていることを人の少女は悟った。
こういう心の交流は、相手が人か、人でないかはさておき嬉しいものだと晩年の彼女らは語っていた。
少女達の会合は何度か続いた。
狐の少女はいつも傷が耐えず、同じような仲間と居る姿を見せることもなかった。
少女達は無為な遊びの時間でお互いの事をぽつぽつと話し、少しずつ相手を知っていった。
狐の少女はいつも遊ぶ少女がニンゲンであると知っただろう。人間の少女は狐の少女が狐であって、友というものがあまり居ないのだと知った。
「われのははには悪癖がある、そうそはもそうじゃった」
いつか狐の少女はそう語った。 われというのは、どうやら私という意味だった。
「だからわれらは忌まれておる。人というものと戯れるも初めてのことじゃ」
狐の少女はそう言ってニッと笑った。
人の少女はその顔が単に表情だけの笑いだと分かりながら、それでも憐れみを見せるのは相手に酷かろうと思って笑い返した。
彼女らの時間は増えていった。このまま互いが互いのまま、好きに時間を過ごしていくのだと人の少女は思っていた。
少女達は時折こうして関わって、生の時間を僅かに共有しながら、それぞれ成長していった。
その時間は長くてもせいぜい五年か六年だったろうと晩年の彼女らは語ったが、その最中ではもっと長く長く共に過ごした感じがしたのだという。
ある時、人の少女は学生服のままで、普段通らない道を帰ったことがあった。
わざわざ人の通らない道を通ったのは、彼女の失恋故だった。
悲しみながら草木を足で踏み分け涙を流していると、ぎゃあぎゃあも騒がしい声がした。
ふと見ると、もう友となった狐の少女が誰かに縋りついて何かを言っている。
争っているようだったが、叫ぶ声には悲しいものがあった。
人の少女はとっさに身を隠した。
失恋の悲しみ故、一人になりたい思いを今しがた身に染みて知っていたから、友の語らないことを盗み見るのは幾ら偶然であっても悪い気がしたのだ。
「きさんもええ加減に観念せい、われらは皆こうなるんじゃ」
狐の少女はその声とともに振り払われ、尻もちをついた。
友の両手に、赤く血の色が滲んでいた。
狐の少女を振り払ったのはもっと大きな狐の女で、口元と胸元、その両手に見るも鮮やかな血を散らしていた。
「やめて、やめて」
狐の少女は地面に尻をつけたまま、両腕を交差させて顔を庇っていた。
「今更に、何をやめろというんじゃ」
狐の女は狐の少女の襟元を掴んで容易く引き寄せた。少女の方は無惨に泣きながら、引きずられて膝立ちになった。
それでも狐の女の大きな片手を両手で掴んで、僅かに抵抗しているのだった。
「何をやめろというんじゃ、きさんもわれの腹から生まれてきたんぞ。同じになるんじゃ」
「いやじゃ、やめて。やめて」
「皆同じじゃ。ははも、ははそはも、われも、きさんも同じように辿るんじゃ」
狐の女は少女の母のようであった。
母は娘の顔を容赦なくひっぱたいた。勢いで鮮血が散って、少女の枯葉色の耳に紅葉が咲いたようだった。
「われはそうはなりとうない」
狐の少女は哀れな声で言ったが、また頬を張られて母狐から手を離した。
すると母狐は娘の頬を片手で掴み、もう片手で娘の口に何かを押し込んでから両手でもって娘の顔を潰しでもするように押し倒した。
娘の狐は川で溺れてでもいるように手足をバタバタとしながら母狐に抗っていた。
最中、母狐は声高に笑いながら言った。
「同じじゃ、同じ。喰うてみれば旨かろう。同じ道を辿るんじゃ、われも昔はきさんと同じように思うてな、ははからこうされたものじゃ」
娘狐が何かを飲み込むと母狐は手を離した。
娘狐は嘔吐するような息をして、鮮血と体液に塗れた自分の顔を両手で覆い慟哭した。
母狐は笑っていた。
「いやじゃと言うのは簡単じゃ。何も知らぬ、分からぬきさんは昔のわれと同じじゃ。
今は分からぬその内分かる。絶えず繋がっている血には抗えぬ、われも望んだわけではない。ははも、ははそはも、望んだわけでない。」
蹲る娘の前に仁王立ちした母狐は、嗚咽する娘を大きく蹴り上げた。
娘狐は石ころのように蹴飛ばされ、松の木にしたたか身体をぶつけると今度は本当に嘔吐した。吐いたものは人の手の形をしていた。
「いやじゃ」
娘狐は死に体で母に抗っていた。
「ははも、やめようとできたはずじゃ。われは同じになりとうない、斯様な悪癖は止めるべきじゃ」
「小娘が、何度言うても分からんか」
母狐は嘔吐された人の手を取り上げてから、空いた片手で娘を殴った。
飛び散るものが赤色をしている。赤色をしているだけで、娘の胃液なのか、血なのか、涙なのかわからない。
「生意気を言いおって。われも望んだわけでないと言うのが分からんか」
娘を殴り、蹴りながら母狐はまた娘に喰わせようとした。
「いやじゃと言うなら止めてみせい。続く血を断って、背負うた因果も未来も、全て何もかも無くしてみせい」
それを聞いた途端、人の少女は恐ろしさを思い出した。
音を立てるのも構わず来た道を一心不乱に走って帰った。
自分の知った道なりが滲む瞳に表れて、心の中で少し安堵しながら、それでも走り続けていた。
止めどなく頬を伝うのは失恋の涙ではなかった。
這々の体で家に戻った娘を迎えたのは、いつもと変わらぬ彼女の母であった。
母は娘に駆け寄って、どうしたのとか、何があったのとか、何だかそんな事を言っていたようだが、晩年の彼女らは、母の言葉はよく覚えていないと語った。
人の娘は眼で見、耳で聞き、肌で感じた恐ろしさだけをずっと覚えていたという。
日傘からはみ出る私の足に朱の陽がさす。
ははも、そはも、もう鬼籍に入っている。
お参りをする、本殿を前にして両の手を合わせる時、私は遠くの誰かを思う。
名前を知っている見知った誰かではなく、もう遠く遠くなっている、顔も名前もわからない全ての先祖の安寧を想う。
私に至るまで絶えず続いてきた血の流れ、そは、そふ、はは、ちち、私、決して良いことばかりではなかった生を一生懸命に生きてくれた先祖という名の彼らと、私はこのときしばし繋がる。
私の家ではこの時期に、お墓参りではなくお狐様を祀る神社を詣でる習いがある。
いつの誰の頃からこうなっているのかは分からない。
親族は散り散りで、私はもう独りぼっちだが、この習いだけは毎年必ず続けている。
夕暮れが迫り、空には朱色が滲んでいた。
日傘からはみでる私の足も空を仰いだ頬も夕陽を受けて朱に染まる。
これらの話の後、人の娘はどうしたのか、狐の娘はどうしたのか、それは一切伝えられていない。
2026/04/30
