アーカイブ消失とSNS時代の情報密度の低下
子どもからお年寄りまで、インターネット環境が整っていることが当たり前となっている現代において、一見" わからないことは何でも調べられる世の中 "になっているように見えるが
実際には、日本の豊かな時代(昭和や平成)を記録した映像、過去のテレビ番組や雑誌の記録といったのは、インターネットの力でも遡る事は困難である。
と同時に、インターネット上にある有意義な情報資産は、日々様々なツールのサービス終了によって失われていっており、SNS全盛の時代に情報発信の形が変化したことで、ネット上のコンテンツの密度が薄れてきている部分もある。
今回は、考古学的な観点から現代の"アーカイブ消失問題"と"SNS時代の情報密度の低下"について語りたいと思う。
失われるテレビ・ラジオ番組の放送アーカイブ

誰しも「昔観たあの番組がもう一度観たい」なんて経験が少なからずあるのではないか?
近年ではAbemaやTVer、Rチャンネル、ラジオであればradikoやSpotifyなど、スマートフォン上でテレビ視聴&見逃し配信の視聴が可能になっていることもあり、令和以降のテレビ番組については、それなりにネット上にアーカイブが存在しやすくなってはいるものの、昭和や平成の番組というのは、基本的に遡って観る手段がないのが現状だ。
実は昭和から昭和後期(1980年代頃)までのテレビ番組には、現存しない映像が数多くある

理由の一つに、当時の録画テープの事情がある。
テレビ放送が始まった頃から1980年初頭まで、放送局で使われていた2インチVTRテープは1本100万円もする非常に高価なものであり、そのため古い番組の映像を保存する余裕はなく、テープを上書き再利用せざるを得なかったのだ。
この結果、黎明期のテレビ番組のほとんどが映像資料として残されていない状況になってしまった。
NHKでは1981年に1インチVTRの導入を機にようやく体系的な保存を始めたものの、実際には1980年代前半までの番組はNHKアーカイブスに残っていないものが非常に多く存在する。
総合テレビでは1983年度まで、教育テレビでは1990年頃までの番組で未保存のものが多数あるそうだ。
こうした過去の未保存映像を掘り起こすために、NHKは2013年に「NHK番組発掘プロジェクト」を立ち上げ、関係者や視聴者から自宅に眠る録画テープの提供を募る活動を行っている。
実際に、往年のアナウンサーが私蔵していた番組映像が寄贈され、「○○ライブラリー」としてNHKで保存された例もある。
NHK以外の民放各局でも、初期の番組フィルムを十分に保存していなかった例は少なくない。
例えば1973年放送の日本テレビ版『ドラえもん』は、後年の再放送中止やフィルム管理の問題もあり現存する映像がほとんど無いとされている(いわゆる「幻のドラえもん」)。

他にも昭和期の一部特撮作品やバラエティ番組の回など、ファンの間でロストメディアと呼ばれる失われた映像が存在する。
こうした中、公共の映像保存機関として神奈川県横浜市にある放送ライブラリー(放送番組センター)では、NHKや民放で過去に放送されたテレビ・ラジオ番組やCMを選定して収集・保存しており、現在、約4万8千本の番組をアーカイブ化し、そのうち3万8千本が横浜の館内で無料公開されている。

これは日本で唯一の放送番組専門アーカイブ施設であり、過去の名作番組を誰でも視聴できる貴重な場となっている。
しかし、4万8千本という数は日本の放送史全体から見ればほんのわずか一部に過ぎず、平成のバラエティ番組もごく一部に限られ、有名な番組(例えば"めちゃイケ")でも初回放送分、もしくはスペシャル特番しか保管されていない、なんて事がザラである。

1996年10月19日の初回放送のみ
フジテレビのバラエティ番組に関して言うなら
FODが平成のバラエティ番組(とくに「ワンナイR&R」や「はねるのトびら」や「ピカルの定義」といったコント番組)のアーカイブを配信しているが、それも権利問題などで一部のタイトルや放送回のみに限られ

人気番組「トリビアの泉」や「ココリコミラクルタイプ」など、毎回異なるゲストやVTRを扱う番組に関しては権利問題がクリアできず配信はお蔵入りになったままである。

その一方で、かつて放送されたドラマやバラエティ、音楽番組、CM映像、ラジオ音源などがネット上の動画共有サービスYouTube、Dailymotion、BiliBiliなどに時おりアップロードされていることもある

公式のアーカイブに収まらない映像や音楽の数々を、ファンや視聴者たちが非公式に保存・共有している例であり、これら非公式動画は、一種の市井のアーカイブとして文化記録の穴を埋めている側面がある。
しかし、いずれも権利者からの申し立てがあれば動画は削除されてしまう。
せっかく誰かがアップロードしても、ある日突然「利用規約違反」で消えてしまうリスクは常にあり、そもそも違法アップロードを推奨できない以上、公にはその存在を語りにくく、文化資源として日陰の扱いを受けてしまうのは否めない。

こうした状況は文化遺産の綱渡りとも言える。
非公式とはいえ何とかデジタル上に映像が残っているうちは良いが、プラットフォームの規約変更やサービス終了、権利者の一斉削除要請などがあれば、一挙に消えてしまう脆さを抱えている。
実際、かつて人気だった動画サイトがサービス終了して大量の動画が失われた例(例:VeohやパンドラTV等)もあった。
公式に保存されず、非公式にも見られなくなったコンテンツは、本当にこの世から消えることとなる。
便利なネット動画サービスで過去の映像を楽しめる反面、その足元で多くのコンテンツがひっそりと姿を消している現実があるのだ。
膨大な数の番組が日々生み出され消費されてきた中で、公式に保存・公開されているのはごく一握りであり、多くの映像が未だアーカイブに収まらず、個人の記憶や私的録画に頼っている現状だ。
雑誌アーカイブと国会図書館の現状
映像だけでなく、出版物の世界でも記録の欠落は存在する。

日本では出版物の納本制度により、発行された書籍や雑誌は国立国会図書館(NDL)に納められることになっているため、主要な雑誌の多くは国会図書館で閲覧・保存できるが、それでもすべての雑誌が網羅されているわけではない。

実際、国会図書館にも所蔵されておらず、現在では入手困難となっている雑誌・資料がいくつもある。
その理由は様々だが、多くは小規模な出版社が発行した雑誌が納本されずに見逃されたケースなどが挙げられる。
未収資料のリストアップを見ると、実に多彩なジャンルの雑誌や書籍が含まれており
文化・芸能雑誌、ファッション誌、小説誌、専門誌、ミニコミ誌まで、意外なものが公式のアーカイブから漏れていることに気付かされる。
国会図書館に探している雑誌が無かった場合
次の砦となるのが大宅壮一文庫である。

ここでは戦後以降の大量の雑誌(週刊誌・月刊誌・業界誌など)を収蔵し、記事見出しの検索サービスを提供している。(国会図書館で探せなかった資料の補填になる部分はあるが、それでもやはりここもアーカイブから漏れている雑誌は多い)

また、新聞や雑誌の記事索引データベースを活用して過去の記事を探すこともできるが、実際に本文を読むには図書館で現物やコピーを見る必要がある場合も多い。
つまりデジタル化やオンライン閲覧は十分に進んでいない側面もあり、特に著作権保護期間内の雑誌は国会図書館のデジタルコレクションでも館内限定公開に留まる。
結果として、「昔こんな記事があったはずだが、ネット上には情報が見当たらない」「図書館に行かないと読めない」といったことはもちろん「国会図書館に行っても過去の雑誌が収蔵されていない」ことすらある。
往時の雑誌記事や広告には、その時代の文化や空気感が凝縮されており、それらがアーカイブされていない場合、当時を追体験したり研究したりする手がかりが失われてしまうことになる。
雑誌アーカイブの不足は、映像の場合と同様に日本の文化記録を部分的に空白にしてしまう要因と言える。
個人サイトの衰退とSNS時代の情報密度低下
2000年代のインターネット黎明期から中盤にかけて、日本では個人ホームページやブログが文化的情報発信の主役であった。

筆者が小・中学生時代に見ていた
「太臓もて王サーガ」や
「ギャグ漫画日和」のファンサイト
アニメやマンガ、ゲームのファンサイト、趣味の研究ページ、日記や小説を載せたホームページなど、個人運営のサイトには濃密なコンテンツが詰まっていた。
手作り感あるデザインや、管理人同士の相互リンク、BBSでの交流など、今振り返るとノスタルジックな光景だが、当時は検索エンジンで興味のあるテーマを探すと、そうした個人サイトが多数ヒットし、マニアックな情報や独自の視点に出会えた。
この時期は「ネット=玉石混交だけど宝の山」という印象を持った人も多いであろう。
しかし2010年代以降、その風景は大きく変わる事となる。ブログサービスやSNSの普及によって、人々が情報発信する場が変化したのだ。
個人サイトを一から作るにはHTMLの知識やサーバ契約など手間がかかったが、ブログなら文章を書くだけ、SNSならアカウントを登録するだけで手軽に世界に発信できる。
この手軽さと即時性に多くの人が飛びつき、自然と「新しいことはブログやSNSでやろう」という流れになった。
後にTwitterやFacebook、InstagramといったSNSが一般化すると、わざわざ個人サイトはおろか、ブログも開設・維持する人は激減した。
「個人ホームページはオワコン」とまで揶揄されるようになり、かつて隆盛を誇った趣味サイトやファンページも次々と更新停止や閉鎖に至った。
個人サイトが消えていった理由は、SNS時代の便利さだけではない。
情報発信のスタイルの変化も大きな要因である。
かつては長文記事や詳細なコンテンツが歓迎されていたが、現代はタイムライン上で流れていく短い投稿や画像・動画中心のコンテンツが主流だ。
Twitterのように140字程度で要点を書く文化や、Instagramで写真一枚に短文を添える文化では、一つの話題について深く掘り下げるよりも、その瞬間の面白さや共感を重視する傾向がある。
結果として、一つひとつの投稿に含まれる情報の密度は薄くなりがちだ。
もちろん、SNS上にも知的で有益な情報発信をしている方々はいるが、それらもタイムラインに埋もれて流れていき、後から体系的に参照しにくいという構造上の問題を抱えている。
さらに、SNS時代には情報が消費されるスピードが飛躍的に上がった。
例えばブログ時代であれば"呟き"というより"日記"や"記録"として使用される事が多かったため、一つの記事に、ある程度の情報を詰め込む事が通例であったり、記事が書かれればそれについてコメントが付いて、その中で限定的なコミュニケーションが行われたり、月間、年間別に過去の記事を遡って見る機能もあった。

田中大地クンのアメーバブログ
しかしSNSでは、誰もが閲覧でき、繋がっている反面で、旬の話題に左右されたり、話題の賞味期限も極端に短く、数日もすれば次々新しい投稿に上書きされていき、バズったツイートも翌週には誰も覚えていない、ということが日常茶飯事だ。
Instagramならまだしも、Xにおいては消費スピードが早すぎて過去の投稿を遡って探し出す事も難しく、検索エンジンでSNSの過去投稿がヒットすることも限定的だ。

これは「今この瞬間」が重視される一方で、「記録として蓄積する」という意識が希薄になったことを意味しており、ネット上の情報文化の"密度"は相対的に低下したように感じる。
膨大な情報量自体は氾濫しているものの、一つひとつの粒は小さく断片化され、消費されては消えていく使い捨ての情報が増えてしまった。
かつて個人サイトで数万字にわたり考察されていたようなテーマも、いまは誰かの140字の呟きと10件のリプライで終わってしまうかもしれない。
それを物足りないと感じるかどうかは人それぞれだが、「じっくり読ませる長文」が表舞台から減ったことは確かだ。(今はnoteがこの役割を担っていると感じる)
上書きされる現代のインターネット
以上に見てきたように、現代のインターネットは「記録の場」から「消費と上書きの場」へと性格を変えつつある。
これは構造的な問題でもあり、プラットフォーム主導のSNSや動画サイトは、ユーザーに常に新しい投稿を促し、次々にフィードを更新させる設計になっている。
過去のコンテンツはアーカイブに整理されるより、タイムライン上で埋もれていく前提なのだ。
商業的にも「次々新しいコンテンツが消費される方がユーザーの滞在時間が伸びる」という考えがあるため、意図せずとも過去より現在・未来が重視される設計になっている。
このような構造では、「記録を保存し後世に伝える」という発想は生まれにくくなる。
たとえばSNSで何か有益な知見が共有されても、それを体系化して残そうという動きが起こらなければ、タイムラインの彼方に流れ去ってしまう。
Wikiのような仕組みであれば集合知が蓄積されるが、SNSは基本的に蓄積よりフロー(流れ)を重視するメディアだ。
結果として、ネットが人類の知の宝庫であるという理想像は揺らいできている。
「ネットに書いてあったあの知識、後で探そう」と思っても見つからない、それは単に情報量が多いから埋もれたのではなく、構造的に保存や索引づけがされないまま流れてしまったからかもしれない。
もう一つ現代ネットの問題は、コンテンツの寿命が短くなったことだ。
SNS投稿にしろ動画にしろ、流行の移り変わりが早く、一つの話題や作品が長期間語り継がれることが減った。
極端な言い方をすれば、「昨日の話題が今日はもう古い」というサイクルである。

これは文化の消費サイクルが早すぎて、熟成される前に風化してしまうとも言える。
ひと昔前のネット流行語やミームでさえ、数年経つと誰も覚えていなかったりする。
文化や記憶が上書きされ続けるこの状況は、刺激的である一方で、振り返りや省察を困難にしており、常にタイムラインの最新を見ることに追われ、過去ログを読み返す暇がないという点で、私たちはアーカイブを顧みる余裕を失いつつあるのかもしれない。
さらに、プラットフォーム依存のリスクも指摘すべきだ。
仮に、あるSNSがサービス終了したら、そこでの全データが失われる可能性がある。
実際に近年はレンタルサーバー(Yahoo!ジオシティーズ)やブログサービス(Yahoo!ブログ、LINE BLOG、CROOZ blog、Decooリアル)が終了してユーザーの個人ページが消滅したり

ageha読モで双子の吉川ちかさん(妹)
写真共有サイト(プリ画像by GMO)が閉鎖され大量の画像が削除された例もあった。

「メル画」「歌詞画像」「デコメ素材」などが
多数アーカイブされていた。
若者のタグ付け文化発祥の地ともされ
「ゆめかわいい」はこのサイトから誕生した。
ユーザー自身がバックアップしていなければ、大切な発信の蓄積が一夜で無に帰すのだ。
「インターネットに上げておけば安心」ではなく、「プラットフォームが消えれば一緒に消える」のが現実であり、これはネットを記録媒体として信用しすぎることへの警鐘でもある。
なぜ今この問題に注目すべきか
失われた映像や雑誌、そして希薄化するネット情報文化、これらは一見バラバラな現象に思えるが、根底では「私たちの文化的記憶をどう残すか」という共通の問いにつながっている。
今この問題に注目すべき理由は、まさにその文化的記憶が危機に瀕しているからだ。
かつてテレビで流れた名場面も、雑誌に載った名記事も、そして個人が紡いだ知恵や物語も、保存されなければやがて忘れ去られる。
私たちはデジタル技術の進歩によって簡単に情報発信・取得できるようになったが、その反面、情報を大切にアーカイブし蓄積する姿勢をどこかで置き去りにしてきたのではないか。
SNSで日々消費される情報の奔流は多くの人にとっては心地よいのかもしれない。
しかし、10年後20年後に「2020年代の文化を振り返ろう」と思ったとき、果たして何が残っているのかを想像してみてほしい。
下手をすると、SNSのログも閉鎖されたサイトのコンテンツもほとんど手元に残らず、「あの頃何が流行っていたっけ?」という記憶だけが頼り、なんてことにもなりかねない。
今この問題を知り、考えることは、未来の文化遺産を守ることにもつながる。
私たち一人一人が「これは残しておきたい」と思うものを適切に保存したり、公式のアーカイブ整備を支援したり、あるいはSNSの使い方を見直して記録に残る形でも情報発信してみたりと、できることは色々ある。
大事なのは、「今を楽しむ」ことと同時に「過去を残す」意識を取り戻すことだ。
ノスタルジーは単なる過去への憧憬ではなく、過去から学び未来に活かす力にもなり得る。
古い映像や雑誌の記事から私たちは多くを学ぶことができ、それらが残っているからこそ現在との比較も批判も可能になる。
批判的な視点で現状のSNS文化を捉えることも、過去の豊かなネット文化を知っていればこそだ。
学術的な見地からも、資料が無ければ研究ができない。
今失われつつある資料や情報密度をこのまま諦めてしまえば、将来振り返るべき歴史がスカスカになってしまうだろう。
映像も雑誌もウェブも、単なる娯楽や消耗品ではなく、未来への贈り物になり得る大切な記録だ。
もしも身の回りに古いビデオテープや雑誌が眠っているなら、それはもしかすると日本のどこにも残っていない貴重なピースかもしれない。
あるいは、あなたが今ブログに綴った一考察が、5年後の誰かにとってかけがえのない知見になるかもしれない。
文化は積み重ねられてゆくものだ。
しかし積み重ねるには、下の層を保存しなければならない。
デジタル時代という刹那的な風潮の中で、一度立ち止まって「記録すること」「残すこと」の意義を見つめ直す。
それが、今この瞬間に求められている姿勢ではないかと私は考える。
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