ネオ渋谷系ガールズ音楽カルチャーを振り返る〜平成ガーリーポップ回顧録〜
かつて、日本には"渋谷系"と呼ばれる東京カルチャーの最前線を象徴する音楽ジャンルのムーブメントが存在していた。
90年代のピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギター、コーネリアスに代表されるそれは
お洒落で、都会的で、どこか気取っていて、それでいてポップ。
しかし令和の現代、"渋谷系"という言葉はあまり語られなくなった。
私が渋谷系に触れたのは平成後期、2000年代中盤。
そこには90年代の渋谷系から派生した"ネオ渋谷系"とも呼ぶべきガールズミュージックカルチャーが存在していた。
今回はその文化の中で育った筆者の記憶を手繰り寄せ、登場順に主なアーティストとその魅力を解説しながら"ネオ渋谷系ガールズ音楽カルチャー"を深掘りしたいと思う。
森ガールが憧れた永遠のポップスター YUKI
ネオ渋谷系を紹介する前に
まずは少しだけJ-POPの話をさせてほしい。
(これには理由がある)
というのも、ここに私がJ-POP→ネオ渋谷系に踏み込んだルーツがあったからだ
キッカケはYUKIだった。
YUKIは90年代にJUDY AND MARYのボーカルとして絶大な人気を博し、2002年からソロ活動を開始したアーティストだ。
ソロ転向後のYUKIは、ポップスとロックを柔軟に行き来する音楽性と、絵本の主人公のように奔放で可愛らしい世界観とファッションで注目され
たちまち「森ガール」と呼ばれる原宿、青文字系女子から支持されるアイコンになった。
例えば、アニメ「ハチミツとクローバー」の主題歌である「ドラマチック」(2005年)や「ふがいないや」(2006年)のMV


「長い夢」(2005年)等での童話のようなファンタジックな世界観は、多くの女の子たちの心を掴み、YUKIを森ガールのアイコンとして象徴づける事になった。

私も当時、その世界観に子供ながらに影響され
私物を"クローバー"や"切り株"や"キノコ"といった森モチーフの雑貨で固めていた。
2006年はちょうどmixiで「森ガールコミュニティ」がはじめて開設された時期にあたる。

この年、YUKIはアルバム「Wave」をリリースし、その世界観全開なアートワーク・衣装などを一同に展示するイベント「YUKI WaveRoom」をラフォーレミュージアム原宿にて開催した。

その後、専門誌『森ガールpapier』が発行された際にも
読者達は好きなアーティストに揃ってYUKIの名前を挙げるなど
彼女は森ガール文化のミューズ的存在であった。

奇抜すぎず親しみやすい、ロマンティックでおとぎ話の世界観を彷彿とさせるYUKIのファッションやアートワークは当時のガーリースタイルの見本となった。
しかし、「JOY」(2005年)はYUKIの作品の中でも別格であり
ダフト・パンク調の焦らし系サウンドで
PVも「Around The World」を意識して作られたものとなっている。

この世界観は後に登場するPerfumeの「ポリリズム」やMEGの「PRECIOUS」とリンクする部分があり


これが、森ガールリスナー達を
YUKI(J-POP)→MEG(ネオ渋谷系)へとスライドさせていったキーポイントであると分析する。
エレクトロガーリーのファッションリーダー MEG
その翌年、2007年に新たな森ガールアイコンが話題となる。
それがアーティスト、モデル、ファッションデザイナーと、様々な顔を持つ原宿のカリスマ"MEG"である。

彼女はYUKIを支持するJ-POPリスナーを
たちまち"ネオ渋谷系"に取り込み、染め上げた。(筆者も、もちろん染められた1人だ)
MEGは2002年頃にインディーズデビューし、当初は渋谷系直系の洒落たポップスを歌っていたが、その後2006年以降に音楽性をエレクトロポップへと大胆にシフトし、中田ヤスタカのプロデュースにより「甘い贅沢」、「OK」、「MAGIC」、「 HEART」など
ヤスタカサウンドに自身の甘くてスイートな歌詞を綴り、テクノポップとガーリーの融合を極め
「BEAM」(2007年)や「STEP」(2008年)といったアルバムで新境地を開拓した。

また、彼女は「CAROLINA GLASER」(カロリナグレイサー)というファッションブランドをプロデュースし、森ガールNo.1ブランドとまで称され
その道のユーザーに親しまれるカリスマでありながら
自身の音楽活動ではセクシー路線で露出やパンチラを大胆に披露したスキャンダラスなアートワークで注目を集め
裏原宿をプロモーション用ポスターでジャックした際にはポスターの盗難が多発し
ジャック期間が終了する前に全て盗まれてしまうなどの事件が話題になった

それは今までYUKIの様な森の妖精っぽさや童話のような世界観を好む森ガール達への新たな刺激とアプローチになり、"ネオ渋谷系"というジャンルにグイグイと引き摺り込むキュートなパワーに満ち溢れていた。
渋谷系音楽雑誌『MARQUEE』では30ページにわたる大特集が組まれ、MARQUEEの彼女の特集だけを再録した別冊スタイルブック「MEG FILES」が発売されたりと

MEGはシーンのカリスマファッションリーダーに上り詰め、森ガール達をモードでカラフルでスパンコールなどをあしらった個性的なスタイリングに塗り替え
原宿界隈の女の子から圧倒的支持を集めつつ、音楽的には洗練されたエレクトロサウンドでクラブ好きからも一目置かれる存在になった。
当時中学生だった筆者も、MEGの信者としてそのガーリーテクノポップを布教するため
放送室にCDを持って直談判し、給食の時間に流してもらうなどをしていた。
アイドルからの華麗なる転身を遂げた鈴木亜美
MEGと同時期に同じ中田ヤスタカの手によってアイドルからテクノポップ路線に変貌を遂げたのが
かつて90年代後半に"小室ファミリー"の一員としてトップアイドルの座に君臨した鈴木亜美だ。

彼女もこのネオ渋谷系ガールズの流れに合流した一人である。
活動休止を経て2000年代半ばに再び復帰すると、2007年に発表した中田ヤスタカプロデュースのシングル「FREE FREE」で大胆なイメージチェンジを図ったその作品は「和製カイリー・ミノーグ」と称され

PVで見せたクラブ風の妖艶さと曲のクールなビートで、かつて憧れたアイドルが大人の女性へと変貌し、新しい音楽に挑戦する姿にファンも歓喜し、テクノポップブームの波を見事に乗りこなすカタチで新たなファンも獲得した。
鈴木亜美のこの時期の活動は、従来のアイドル像をアップデートし、ガーリーカルチャーとクラブカルチャーの融合を象徴する出来事であった。
Perfume亜種とは言わせない
テクノポップ第二世代の歌姫
Aira Mitsuki
2005年にPerfumeが近未来的なイメージを打ち出したエレクトロ路線にギアチェンジし
2007年の「ポリリズム」でブレイクするまでに
中田ヤスタカはCOLTEMONIKHAのプロデュースも手がけ、ネオ渋谷系のジャンルを構築していった。
その流れで音楽業界では「次はテクノポップが来る」と囁かれ、ブームの波に乗らんとするアイドルが続出した。
テクノポップ戦国時代の幕開けである。
そんな中、2007年に彗星のごとく登場したテクノポップ歌姫がAira Mitsuki(アイラミツキ)だ。

Perfume旋風が吹き荒れた直後、「次世代テクノポップアイドルを探せ」というコンテストでグランプリを獲得しデビューした彼女は、1stアルバム『COPY』(2008年)でその名の通り既存スタイルのコピーを逆手に取った個性を見せつけた。
キッチュな8ビットサウンドや高速ビートを取り入れた楽曲「チャイナ・ディスコティカ」や「GALAXY BOY」は、秋葉原的なテクノポップ文脈にありながらもファッション性が高く"渋谷系寄り"と評された。

Aira MitsukiはPerfumeに対する意識を公言しつつも「私は私の道を行く」というスタンスで、音楽的にはより攻めたエレクトロ(当時ヨーロッパで流行していたエレクトロクラッシュ系の音)やハウスミュージックを志向し、リリースを追うごとに時代を先取りした実験的なダンストラックを発表し続けダフト・パンク寄りのディスコティックな独自路線を突っ走り、彼女の存在は、テクノポップブームにおいて異彩を放っていた。

地下から煌めくエレポップの原石 Saori@destiny
Aira Mitsukiと同じ2008年前後に同じ事務所(D-topia)からデビューしたエレクトロポップ歌手に
Saori@destiny(サオリ・アット・デスティニー)がいる。

彼女はデビュー当初こそ秋葉原の路上でアイドル曲のカバーなどを歌う地下アイドルであったが
2008年のメジャーデビューから徐々にクラブシーン路線にチェンジし
次第に自ら作詞作曲も手掛けるなどアーティスト色を強めていった。
Saori@destinyの特筆すべき点は、その自らのアイドルイメージを覆し、アーティストになるべくライブでのサイリウム使用や観客のオタ芸を禁止する措置に出た事だ。
これにより初期のファン(いわゆるオタク)はドッと減ったらしいが
徹底的に"渋谷系オシャレ路線"へとかじを切った事で見事にクラブパフォーマーとしてのブランディングに成功する。

ビジュアル面でもSaoriはファッションブランド「galaxxxy」によるスタイリングでアートワークを飾り、シングルのジャケットやPVは原色ポップなデザインで統一していった。
最終的に彼女は2012年に一度音楽活動を止めてしまうが、その短い活動期間にもかかわらず残した作品は今なおクラブシーンで根強い支持を集めている。
デコかわテクノで彩った最後の煌き Mizca
Mizca(ミツカ)は2009年に登場した新世代ガーリー・エレクトロポップアーティストだ。

本名の光岡昌美名義でアイドル的な活動をしていた彼女は、レコード会社移籍を機にMizcaと改名し、ポップで遊び心溢れるエレクトロサウンドへと舵を切った。

デジタルシングル「Robotics」(2009年)は中毒性のある電子サウンドで話題を呼び
続く「キラキラ☆」(2010年)「ダメよ♡」(2010年)などキャッチーな楽曲を立て続けに発表する。
2010年7月にはテクノポップ路線での集大成となるアルバム『♡UFUFU♡』をリリースした。
彼女の評価は日本国内よりも海外からの支持が厚く、その反応はYouTubeに上がっている作品のコメント欄から窺う事ができる
Mizcaの魅力は何と言っても"デコ"に象徴される。
マイクやヘッドホンをスワロフスキーでデコるほど装飾に凝っており、"デコシンガー"なる愛称も生まれた。
テクノポップアイコンの中で唯一ギャルメイクを施し、派手でキャンディポップなカラーの衣装を身に纏うキャラクターを確立し
MVも近未来的な中に現代のスマートフォンや身近なモチーフを登場させ、独特の振り付けダンスを組み入れるなど
作品として楽しませる工夫を細部まで散りばめた。

彼女の華やかなデコ文化と電子音楽を結び付けたスタイルはテクノポップムーブメントの最後の煌めきと言える。
中田ヤスタカとPerfume/capsuleの存在—棲み分けと影響
ネオ渋谷系ガールズの台頭において、プロデューサー中田ヤスタカの存在は欠かせない。

彼は自身のユニットであるcapsuleで2000年代初頭から活動し、やがて女性テクノポップグループPerfumeを2003年以降一貫してプロデュースすることで時代の寵児となった。
中田ヤスタカが創り出した煌びやかなエレクトロサウンドは、このシーン全体の音を決定づけたと言っても過言ではない。
実際、前述のようにMEGや鈴木亜美は中田サウンドを取り入れることで新境地を開拓し、Perfumeの大ブレイクがなければAira MitsukiやSaori@destinyのデビューも違った形になっていただろう。
とはいえ、Perfumeやcapsuleとネオ渋谷系ガールズとの間には微妙な棲み分けが存在していた。

Perfumeは元々広島出身で秋葉原のアイドル的文脈からスタートしつつ、中田の手腕とメンバー自身の努力で国民的アイドルへと駆け上がったグループだ。
一方、MEGやAiraたちは渋谷・原宿のサブカルチャーシーンに軸足を置き、たとえ音楽的にPerfumeに近いものがあっても、よりニッチでオルタナティブな立ち位置を保っていた。
PerfumeがTV出演や大規模なタイアップでお茶の間にテクノポップを届けたのに対し、ネオ渋谷系ガールズは小規模なライブハウスやクラブイベント、ファッション誌とのコラボなどサブカル的な文脈でファンと繋がっていた印象だ。

capsuleに関して言えば、ボーカルのこしじまとしこを擁するユニットとはいえ中田ヤスタカ自身が前面に出る音楽プロジェクトであり、あくまで音そのものが主役だった。
それに対してテクノポップガールズたちは、音楽はもちろん本人のキャラクターやビジュアルも含めて発信する"総合的なアイコン"だった点が異なる。
また、Perfumeやcapsuleがメジャーシーンで成功を収めたことで、中田ヤスタカ・サウンドは大量生産的に広まるリスクも孕んでいた。

そんな中でAira MitsukiやSaori@destinyのようなインディーズ勢は、中田サウンドに影響を受けつつも敢えて差別化を図る動きを見せた。
前述の通りSaori@destinyの運営がアイドル色を排除したり、Aira MitsukiがPerfumeより尖った路線を目指したりしたのは、同じ土俵で消費されて終わらないための戦略でもあったと言えよう。
音楽とファッションの交差点
原宿カルチャーと雑誌が支えた舞台
ネオ渋谷系ガールズのムーブメントがユニークだったのは、音楽だけでなくファッション雑誌や原宿カルチャーと強く結び付いていた点である。
私も当時、音楽雑誌と一緒にファッション誌(ZipperやCUTiE やKERA)を読むことでシーンの全体像を追いかけていた。

まず音楽誌『MARQUEE』はこのシーンを積極的に特集し、Perfumeや中田ヤスタカの動向を追いつつ、MEGや鈴木亜美、Tommy february6などガーリーポップの旗手たちを大々的に紹介していた。

たとえばMARQUEE Vol.67(2008年)ではMEGが30ページにわたって特集され、中田ヤスタカとの対談記事まで掲載されたほどだ。
インディー音楽とファッションを横断するMARQUEEの誌面は、音楽ファンであると同時におしゃれにも敏感な読者に刺さり、私も毎号熟読していた。
また、COLTEMONIKHA(ファッションモデルの酒井景都と中田ヤスタカのコラボユニット)は、音楽とファッションの融合そのものを体現したプロジェクトであった。

COLTEMONIKHAのような試みも含め、当時のシーン全体が「音楽=ライフスタイル」の提案をしていたように思う。
MEGは自らのライブを"パーティー"と称し、必ずドレスコードを義務付けていたり
ファッションスナップ誌のカメラマンが入り込んで会場スナップを撮影し、それが誌面に載ることも頻繁にあった。

ドレスコードは「White」
ネオ渋谷系ガールズのライブに行くこと自体が一種のおしゃれなイベントであり、ファンも思い思いのコーディネートで参加して文化を創っていたのだ。
要するに、このムーブメントは音楽メディアとファッションメディアが連動し、渋谷・原宿の若者文化が総力を挙げて盛り上げたものであった。

音楽とファッションが交差する場所には常に人と人との出会いと刺激があり、ネオ渋谷系ガールズの世界はそうしたリアルな青春の熱気に満ちていたように思う。
消えゆくシーン、そして受け継がれるもの。
盛り上がりを見せたネオ渋谷系ガールズのムーブメントも、2010年代に入る頃から次第に陰りが見え始めた。
最後に、なぜこのカルチャーは消えていったのか、その要因を考えてみる。
ひとつには、ブームの収束と主役の交代がある。
2010年前後、Perfumeが完全に国民的スターとなり、テクノポップはもはやサブカルではなく誰もが知るところとなった。

同じ頃、中田ヤスタカは新たに原宿系モデルのきゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースし始め(2011年デビュー)、こちらも社会現象級のヒットを飛ばした。
きゃりーぱみゅぱみゅの出現は、ネオ渋谷系ガールズのエッセンスを受け継ぎつつさらにポップでカラフルに進化させたものだった。

彼女はまさに原宿ファッションと音楽の融合体であり、MEGやAiraが築いた土壌の上に、より若年層にも刺さる“KAWAII”を打ち出して世界的な人気を博した。
皮肉にも、そうした新星の登場がシーンの交代を促し、先駆者だったAira MitsukiやSaori@destiny、Mizcaたちは相次いで活動を休止していった。
もう一つは、メディア環境と文化の変容だ。
支えとなっていた雑誌メディアが軒並み苦境に立たされ、2010年代半ばには『KERA』『Zipper』といった雑誌が休刊・Web移行するなど、情報発信の形が大きく変わった。

雑誌主導でコミュニティを形成していたガーリー文化は、SNS全盛の時代になると拡散力で劣り、一体感を保つのが難しくなった。
また、音楽面でも「アキシブ系」と呼ばれる秋葉原系×渋谷系の融合ジャンルが出現し 、アニメソングや声優アイドルの世界に渋谷系テイストが取り入れられるようになる。
例えばROUND TABLE(渋谷系バンドの生き残り)が次々とアニメ主題歌を手がけたり、フランスのクラブ系アーティストが日本のアニメ音楽に参加したりと、秋葉原文化と渋谷文化のボーダーが溶け合っていった。
その結果、ネオ渋谷系ガールズが活躍していたフィールドがより広いポップカルチャーの中に吸収され、独立したシーンとしては認識されにくくなっていった。
私自身、2012年頃になると以前のように一つの雑誌やシーンを追うのではなく、YouTube上でお気に入りの曲をつまみ聴きするスタイルに変わっていった記憶がある。
それは便利である一方、「○○カルチャー」と皆で熱狂する感じは薄れていった。
そして決定的だったのは、キーパーソンたちの転機だ。
MEGは2010年以降拠点を海外に移し、日本のメジャーシーンから距離を置いた(フランスに渡ってフレンチポップのカバーアルバムを出すなど新境地を模索)。
鈴木亜美も中田ヤスタカ路線の後は結婚・出産を経て活動の場をクラブDJや育児メディアに移行。
Aira Mitsukiは2013年前後に事実上音楽シーンから退き、Saori@destinyは改名・復帰を経ながらも大きな表舞台には戻ってこなかった。
Mizcaも元の名義に戻り路線変更し、2014年には活動を終える。
こうして主要メンバーがそれぞれ別の道へ進んだことで、ムーブメントとしての幕引きがなされた。
2021年に私は久々に渋谷のgalaxxxyのショップ(本社)を訪れてみたが
看板は残っているものの、建物自体はもう使われておらず、空き家となっていて寂しさを感じたが、これも時代の流れなのだろう。

しかし、ネオ渋谷系ガールズの魂が完全に消えてしまったわけではない。
現代に受け継がれている要素も多々ある。
まず音楽的には、Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅを通じて培われたテクノポップの系譜が今なおJ-POPの一部として定着しており
ボーカロイド音楽や現代のネット発ポップスにもあの頃の“エレクトロ×kawaii”の精神が息づいていると感じる。
実際、初音ミクを用いた楽曲を発表したkz(livetune)などはネオ渋谷系と同時期に台頭し、その後のネット音楽シーンをリードした。

また、ファッションの面でも、当時原宿で流行したカラフルで個性的なスタイルや、森ガールのナチュラル志向は周期的にリバイバルしており
ここ数年はY2K(2000年代)ファッションブームが世界的に起こり、日本発のガーリーカルチャーが再評価されつつある。
ネオ渋谷系ガールズ音楽カルチャーは、一時代を築いた後静かにフェードアウトしていったが
その残像は今も私たちの心の中でキラキラと輝き続けている。
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