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「セミリンガル」という言葉への違和感と「バイリンガル」のこと


カナダに移住して最初の頃のことです。

子どもの学校登録の手続きをしていると、市の教育委員会から電話があってこんな質問がありました。

「家庭言語は何ですか?」

当然のように聞かれたこの質問に、少し驚き、これはなかなか興味深いと思いました。

私の子どもは現在、勉強熱心な家庭が多い地区の公立学校に通っているのですが、英語しか話せない子どもの方が少数派かもしれません。

公立高校の主要科目はレベル別になっています。英語のレベルが上のクラスは、家でも英語を話す子ども(英語だけを話すモノリンガル)が多いかと言うと、実はそんなことはなくて、バイリンガル、トライリンガルの子どもが多いようです。
必ずしも、家庭言語が英語の子どもが上級クラスにいるわけではないのが、興味深いなと思います。

これを日本に置き換えて考えてみた場合、日本人家庭ではない子どもの方が国語の成績が優秀だ、ということでもあり、家庭言語とアカデミック言語が必ずしもリンクするわけではないのだなあ、と気がつきました。


一方で、日本では「セミリンガル」という言葉をよく見かけます。英語も日本語も中途半端になるという意味です。

「不足している」という見方をするのは妥当なのだろうか、「中途半端」の基準は何なのでしょうか。

例えば、日本語と英語のバイリンガルの子どもの場合で考えてみます。
家庭内での深い会話は日本語の方が得意、でも物理の説明は英語の方が得意かもしれません。言語が使われる場面が違うだけで、不足とか中途半端と言うのとは違うように思います。

そもそも、一つの言語を完璧に使いこなしている人など、どこにいるのでしょうか。ここカナダでも、母語が英語であっても、高度な英語に触れることなく大人になる人はいます。それは日本でも同じことだと思います。


ところが私たちは、「バイリンガル」という言葉の響きから、どちらの言語も同じレベルに操れる人を理想的なバイリンガルとして思い描いてしまいます。

でも、両方の言語が完璧かどうかではなくて、違う言語を行き来することができること、異なる文化を生きること、多様な人々と協働する経験、こういったことが資産なのだと思います。

これからの時代は、「日本語も英語も完璧か」というよりも、「複数の言語と文化を使いながら、どのように世界とつながっているか」、そういうことなのだと思います。

つい先日行われた、国勢調査では「家庭で話している言語は何ですか?」と聞かれました。

もちろん、特別な事情としてではなく、ごく当たり前の項目としてです。
この質問に答えながら、家庭で学校とは違う言語を話す人がいることを、この社会が最初から当たり前のこととして設計されているのだと感じました。

私自身、英語しか話せない子どもが少ない教室の話や、家庭言語が英語ではない生徒たちが上位クラスで学ぶ姿を見て、「完璧ではない」「足りない」という見方そのものが変化してきたように思います。

もしかすると、大人の私たちが見るべきものは、「その子に何が足りないのか」ではなく、「その子がどんな資源を持っているのか」なのかもしれません。

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