陰謀論についてのそもそも論2
陰謀論者志望の人はいるか?
あなたは陰謀論者に会ったことがあるだろうか?
「俺、最近ね、陰謀論者目指してるんだ」だとか、「将来の夢は陰謀家です」なんていう人に。
おそらく、そんな人に出会ったことはないはずだ。
まずひとつには、「〜論者」という表現が、他社からのレッテル貼りであるということ。
そしてもうひとつ。そもそも、この「陰謀」という言葉そのものが、人を侮辱するために作られたような言葉であるということ。
陰謀論者の反対語を仮に、「常識人」とした場合どうだろう。日本人はほとんどの人が心の底で、自分は常識人だと思っていると思う。常識人であることが前提として、社会が回っているような雰囲気があるし、この常識というものの前提が曖昧だ。そういう、曖昧さを埋めるために「ねぇわかるでしょ?」と、同調圧力が働いたり、「なんでわからないの!」と感情的になったりもする。
より根源的なモラル観や、我々の感情を揺さぶる領域にこそ、洗脳は潜んでいる。
すべての教育は、洗脳だともいうが、ここで言う“洗脳”とは、単なる知識伝達ではない。
まるで物のように、何かの駒として動くことを仕向けるためのものだと僕は理解している。
そして、常識の中にこそ洗脳的なものが多く詰まっていたりする。
オカルトの中の多様性
オカルトや陰謀論の情報に、一度にたくさん触れると危険なことがあるのは重々承知している。僕は、子供の時に幽霊もUFOも目撃していたのでそちらに関しての話は肯定だった。ただ、陰謀論の類は若い頃はそもそも社会の仕組みや歴史に疎く、遠目からそう言った情報に熱を上げる人を「ルーザー」、「あのようになりたくない対象」として見てしまっていた時期がある。今ではそれを反省して、自分があまり信じられない話にも耳を傾けるようにしている。
僕が陰謀論や、歴史の闇関係の情報に本気で接触し始めたのは2020年のパンデミックの時だった。パリでロックダウンを経験して、「何かおかしいこと」が起きているという肌感覚からだった。最初はあまりの情報量と、奇想天外な話の中、一体どれを信じていいのかわからなかった。
少しずつ自分なりに線引きをしていった結果、前回あげたフラットアースや、マッドフラッドの類は信じないが、巨人や前人類はいたと思うようなバランスに落ち着いた。Qannonについても認知線の匂いがする。陰謀論者のカリスマ、のように言われるトランプ大統領には一定の期待はあるが、別に彼が日本をよくしてくれるとは今は思わない。日本が政治的にきちんとした先進国になるためには、日本国民の意識が変わる事以外にあり得ないと感じるからだ。
それから反ワクというのもある。これは反対語のワクチンが無謬の前提で作られた造語だ。不思議なことにその無謬の薬について語ると、不利益が起きる仕組みができていた。この時点で、僕としては信用に値しないということを個人的に決断した。別に、街で旗持って反対に行ったりはしていない。そしてどうやら、例のワクチンは無謬ではなかった。
何を言いたいかというと、陰謀論と言われる情報に触れている人にも色々なフレーバーがあるということだ。危ないのは、いつも両端にばら撒かれるプロパガンダや、情報撹乱のデマに無自覚になることだ。人類は、他人の正義の心を媒介として操作する事を長年研究している。だからまずは、自身の意見をアップデートする余裕を持つことが大切だと思う。
その上で、巨人や魔術の類を僕は信じているわけだけど。
#エージェントスミスにご注意 。
「自分が何者なのか分からない」
そんな不安に、若いころはよく苦しむ。
ラベルやアイデンティティを欲しがる。何者かでありたい。
何者か分からないのなら、せめて「正しい側」にいたい。
そんな誰もが抱える欲望につけ込んでくるのが、映画『マトリックス』に登場するエージェント・スミスだ。
「正義の無表情」で、システムの中の“異端”を検閲しに来る。
捕まると同化し、感染するように増殖する――秩序管理用の存在。
浅はかな正義心は、気をつけたほうがいい。
合気道のように、そのエネルギーをうまく利用されて、気づけば足元には、さっきとは違うカーペットが敷かれている。
腑に落ちないまま周囲をキョロキョロしているうちに、同じ言葉を真似して叫んでしまう。
本当は何が何だか分かっていないのに、嫌われたくない一心で、誰かの正義を借りてしまう。
そうして気がつけば、誰も何も分からないまま、すべてを奪われていた。
そういう魔法みたいな話が可能か?
――この世界の仕組みこそ、密教的な知識や魔術的構造から発展してきたものだ。
そして、今なお“かけられている”とすら思う。
だからこそ、「何者かであらねば」と焦るときほど、立ち止まるべきなのだ。
それは、本当にあなたの問いだろうか?
あなた自身の正義だろうか?
ときには、単に自分の親との関係がうまく行っていないだけのことだってある(もちろん、ひどい親もいるけれど)。
ただ、“その怒り”があまりにもスムーズに言語化されていたなら――
それは、すでに誰かが用意した正義かもしれない。
社会は情報と意志の設計による支配装置
陰謀とは、「自分の意志でやった」と思わせることを最大のゴールとして、周到にデザインされているものだ。
信じる・信じないの二択ではなく、この前提に立てば、日常の多くが同じ構造を持っていることに気づく。
広告は色や音、繰り返しや「みんなが使っている」という空気で購買意欲を作る。
投票は報道やキャンペーンが、候補者像や争点をあらかじめ枠づける。
SNSではアルゴリズムが話題やモラルを選び、ユーザーはその舞台で「自発的」に発言する。
戦時中には、教育やメディアが「戦うことは義務」という価値観を先に植え付け、その後で人々は志願しはじめる。
こうして、我々の選択や欲求は、気づかぬうちに外部の手によって形作られている。
社会そのものが「あらゆる仕向け」で溢れているのだ。
しかもパンデミックを経て、我々の行動はかなり正確にアルゴリズムで予測できるようになった。
――果たして、<時々感じる正義>はどこまでが自分のものなのか。
まずはコンパスを
情報を読むには軸がいる。宗教はそのクラシックだ。
要はスピリチュアリティ──霊性が必要だ。
自分がどの方向に向かって歩くのか、そしてその途上で何を選び、何を捨てるのか。
この基準がなければ、人は他人の効率の奴隷になる。
僕の場合、その軸は実家の神棚に祀られている神様と、先祖の物語に根ざしている。
その上で、自分なりに“まともに生きようとする基準”を置き始めた。
では、現代の無神論者はどうするのか。
答えは「コンパスと定規」だ。
コンパスは進むべき方向を示し、定規は日々の行いの正しさを測る物差し。
僕の住むフランスという国は、フリーメイソン大東社の思想的影響が強い。モラルや哲学によって、人は宗教を超えることができるという、ひとつの“宗教”のような思想だ。
ただこうした哲学を持たずとも、人は生きていける。
だがそれは、一生、他人の描いた枠の中で、答えのない迷路を歩き続けるということだ。
そしてそれこそが、最も茨の道なのだ。
なので、情報に触れる前にそれぞれの神話、哲学をまず持とう。
