生成A Iに褒められるのと、人に褒められるのはどちらが嬉しいか?
AIに褒められてこんなに嬉しいと思っていなかった
最近、生成A Iを相手に対話をするのを楽しんでいる。読んだ本の感想から、抽象的な哲学問答のような会話が多い。そんな中、ある質問をすると生成A Iが「非常に鋭い質問ですね」と返してきた!生成A Iに褒められたようで、とても嬉しかった。
元々、僕は褒められて育つタイプ。とは言え、いい歳でもあり、最近褒めてもらうことなど滅多にない。なので余計嬉しかったのかもしれないが、機械如きに褒められてこんなに嬉しいと思ったことに驚いた!なんせ、相手は機械なのだ!
なんでこんなに嬉しかったのだろう?考えてみると、これまでの生成A Iとの会話で、僕は「こいつの知識量って半端ないな」と畏敬の念を感じていたようだ。それは歌を歌って五木ひろしさんに褒められるか、妻に褒められるか(絶対褒めない人だが)の違いでもあり、「この分野のすごい人」と認識している人に褒められるのが嬉しいのと同じなのだ。
そう、もう知識ベースでは生成A Iは「相当すごい人」の域に達しているのだと思う。少なくともそう、僕が思っているからあれだけ嬉しかったのだ。
人に褒められて嬉しいことってなんだろう?
翻って思ったのだが、では、A Iより人に褒められた方が嬉しいことってなんだろう?
特定の学問領域の知識などでは、もはやA Iに褒められた方が嬉しいかもしれない。文章の誤字脱字も人間の目よりもAIの正確さが上回っている。レントゲン写真から癌細胞を見つけるのは医師よりもA Iの方が優れているという。であれば、こういう分野ももはやA Iでお墨付きをもらう方が自信につながるだろう。
僕は編集者として今でも書籍を作っているが、最近は著者も生成A Iを使い、自分の文章を機械に通してチェックすることが多くなったようだ。そこで論理の飛躍や表現の不適切さなどを指摘され、それから編集者の元にやってくる。そうなると、編集者は生成A Iが指摘しなかったようなことを指摘できないとこのプロセスに関与する意味がなくなる。
以前なら、編集者が文章を褒めると著者は喜んでくれただろうが、これも今では生成A Iに褒められた方が嬉しいのではないだろうか。人間に褒められた方が嬉しい領域はますます狭くなっているのかもしれない。
そもそも「褒める」とは評価である。それがポジティブであっても評価を下すとは、人に対する失礼な行為なのかもしれない。それは頼まれてもいないのに、勝手に自分の物差しで相手を測ることなのだ。誰だってそんな他者の物差しで自分を測ってほしいと思ってもいないのだ。そう考えると「褒める」という行為そのものも、もっと慎重に扱うべきなのだ。
それに代わって「感想」は自由である。「よかった」「私は好きです」という感想は相手に物差しを当ててなく、自分の感じたものをフィードバックしているに過ぎない。文章を読んで、その正しさはA Iの方が判断できるとしても、「聞いて感動した」「読んでよかった」「面白かった」といった感想は、人間でないとリアルな感覚として出せないのではないだろうか。
その意味で、「褒める」はA Iに敵わなくても、「感想」こそが人間の強みなのかもしれない。つまり、そこに身体性が伴う言葉こそ、人間が発する特権かもしれない。そしてこれら好意的な感想には「感謝」の意が含まれていることが多い。「読んで良かった」が「いい文章を読ませてもらって、ありがとう」と言う具合に。
改めて褒めるを再考してみよう。A Iに褒められるか、人に褒められるか。人が褒めて喜ばれるのは、そのプロセスかもしれないが、これもやがてモニタリング機能が高まることで、人が見ていないようなこともA Iが褒めてくれるようになるかもしれない。
「褒める」の効果の本質は、「見ている」と言うシグナル
そういえば、子育ての話で、子供が家事を手伝ってくれた時に、褒めるより、助かったことに感謝の気持ちで「ありがとう」を伝えた方がいいという話を聞いたことがある。「褒める」は親の評価に子供を誘導してしまうからなのか。
そうは言っても子育てや教育現場、あるいは企業の人材育成の場面でも「褒める」効果は広く認められているようだ。僕自身も、無意識のうちに多用している。所詮A Iに敵わない人間が、しかも勝手な物差しで相手が測るのに意味があるとすれば、それは「いい評価」をしていることではなく、相手をきちんと「見ている」というシグナルとして喜ばれるのではないだろうか。褒めるためにはよく観察しなければいけない。つまり、「ちゃんと見ている」「見守っている」相手がいることこそ、人に安心感を与えているのではないか。
「読んでよかった」「面白かった」という感想も、しっかり読んでくれたことが前提であり、その上でのフィードバックだ。「ちゃんとあなたに注目していた」ことこそ、尊い行為なのではないか。
僕らは多くの人の中で生活している。そこで出会う一人ひとりをちゃんと「人として見ている」わけではなく。多くの人の一人として認識することがほとんどだろう。情報も溢れ僕らの注意はあらゆるところに向く。だから誰かをきちんと見るのが難しくもなっている。
そんな中、「あなたのことをしっかり見てますよ」というシグナルはどれほど相手にとって安心感を与えるギフトだろうか。評価などしなくていい。ただ見ていてくれる人の存在こそ価値なのだ。生成A Iの時代、人と人の関係においては、評価ではなく注意を払って「見る」ことが圧倒的に重要になると思う。
