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0011a Winger【入門編】

 飛鳥は不慮の事故から両親を失い、そのショックから飛び降り自殺を試みるが、なぜか助かってしまう。そこに現れた翼は、ウインガーという、若者の飛び降り自殺を阻止する活動をしているらしい。そんな出会いの中で飛鳥は、親友の巧斗も受験に失敗して、自殺しようとしてることに気が付く。飛鳥は再び死を選ぶのか、生きる希望は見いだせるのか。


 勇気を出す。そして、一歩を踏み出す。その瞬間、視界が開ける。躊躇いがなかったわけではないが、予想以上に深く考えずに決断できた。風を強く感じる。いや、正確には風は吹いていなかったので、自分の身が空を切っているのをそう感じたのであろう。とはいえ、その感覚は自由をもたらしたかのように思わせてくれた。普段は身を切るような北風に凍えているが、今日はそれがなんだか心地いい。
 物理の授業で重力加速度の公式を習っていたので、到着までの時間は計算しようと思えば可能であったが、そこまでする必要もなかった。いずれにしても一瞬と呼べる程の時間であるだろう。きっと計算している間に、全てのことは片が付く。もしかしたら痛いかもしれない、そう思ったけれど今更であった。
 走馬灯は過らなかったけど、色々な事を考えてしまうものである。案外頭の中は冷静なように思えた。もうちょっとで、僕もそっちに行くからね。突然、体がフワッと軽くなる。ああ、終わったんだなと確信する。背中がなんだかムズ痒くなる。翼でも生えて、新しい世界へでも行けるのかと思った。

 「あれ」気が付いて目が覚めると、飛鳥は見覚えのある部屋にいた。毎晩の居場所であったベッドの上で横になっていた。右手で目を擦ってみても、その光景は変わらなかった。右手をグー・パーしてみるが、自分の意思に従う正真正銘自分の手であった。そしてなぜか、体のどこにも痛みの欠片すらない。
 「目、覚めた?」ちょうどその時ドアを開けて入ってきて聞いてきたのは飛鳥の祖母であった。祖母から自分がここにいる経緯を聞く。どうやら団地の傍らで倒れていたところを、通りがかった人が助けてくれたらしい。どういうことだろう。あんな高いところから飛び降りて、無傷なわけがない。
 「色々あって、疲れてたのね」色々、か。気を遣ってそう言ってくれているのだとはわかってはいるのだが、その一言でまとめられてしまうことに対して飛鳥はどこか納得がいかない部分があった。
 祖母は、夕飯が作ってある旨を付け加えてから部屋を出て、帰っていった。本当は優しい祖母であるが、でも今はこんなこともあって素っ気ない。よく言えば気を遣ってくれていて、悪く言えば腫物を扱うような感じである。
 ちなみに実家はここから歩いて10分もかからない距離にある。飛鳥も小学校の時くらいまではよく行ってたのだが、ここ数年において顔を合わせるのは年に数回というレベルであった。
 それが、あの忌々しい事件が起こってからは、ほぼ毎日のように様子を見に来てくれる。飛鳥が頼んだわけではなかったが、それはまだ子供という自分への対応として妥当なものではあったのだろうとは思う。色々と気にかけてくれる祖母に対して申し訳はないが、今はそんなことは正直に言ってどうでもよかった。今いるこの部屋も、物理的には自分に与えられた部屋だったが、ここは本当の意味での居場所ではなくなってしまっていた。
 さて、なぜ自分は無傷で済んだのか。もう一度、と考えてみたところで答えは出てこなかった。
 居間には、誰の姿もない。数日前まで飛鳥が感じることのできていた残像というか人の気配みたいなものも、既に完全に消滅してしまっていた。正真正銘の、独りだった。最早こうなると、どうやって生きていくかというより、どうやったら楽になれるかという方向にしか、思考が進まないのだ。

 飛鳥は再び団地の屋上へ出る。辺りはもう暗くなっていたが、団地の周りは街灯も多く、変に明るい感じさえする。夕暮れ前と同じ場所に立つと、その真下に位置する一角だけが街灯もなく深淵を覗くような感覚に陥る。さっきとは見える景色が全く違っていて、あれは夢だったのかもしれないと考えた。
 「夢なんかじゃないよ」飛鳥の上ってきた階段の屋根部分に、一人の男が座っていた。その人は重力を感じさせずにひらりと降りて近づいてくる。
 「ごめん。これ返し忘れててさ、日下飛鳥くん」その人はそう言って、スマホケースのカードポケットに入っていたはずの学生証を、飛鳥に手渡してきた。学生証には名前だけではなく、裏面に住所も書いてある。それで、この人が家まで届けてくれたのだと気づいた。
 「今日は助けていただきありがとうございました」一応礼を言い、飛鳥はもう必要ないとも思ったが、一応学生証を受け取った。
 「まだ、死にたいなんて思ってるの?もう助けられないよ」最初に声をかけられてた時にも薄々気が付いてはいたが、心が読まれていることを飛鳥は直感的に悟った。
 「もう助けられない、ってどういう意味ですか?」変なものの言い方をする人だと飛鳥は思って、その言葉の真意を聞いてみた。
 「俺らウィンガーにはいくつかの掟があるんだ。その一つが、一人に対しては一度きりしか助けられないというものなんだ。だから、一度救った君をもう助けることはできないんだ」何を言っているのか、よくわからなかった。これこそ夢なんじゃないかと飛鳥は思う。
 「一先ず、夜の飛び降りは怖いしおススメしないよ。今日は疲れただろうし、明日またゆっくり考えたらどうだい?急ぐ必要もないだろ」確かに、さっき見た景色は日中と違って、恐怖のようなものを飛鳥は感じていた。
 「一人が嫌なら、ウチに来るか?」その人は本当に避けたい事実まで理解しているかのように、先回りしてそう言った。特に返事はしなかったが、その人は飛鳥がついてくるのが当たり前かのように後ろを振り返りもせずに歩いていった。悪い人ではないと思っていたが、見ず知らずの人に付いていってしまう自分自身が不思議でもあった。

 飛鳥はその人の数歩後ろを歩く形で団地を何棟か通り過ぎ、すぐそばにあるアパートについた。その人は部屋の鍵を開ける。扉には大和と書いてある小さなプレートがかけられていた。
 「まだ名乗ってなかったね。俺、大和翼。よろしく」そう言って扉を開けて、飛鳥へ先に入るように促した。
 「お邪魔します」部屋は、物は多かったが整理整頓がされている印象だった。目立つのは大きな本棚で、その中には心理学などの専門書がぎっしり詰まっているのが飛鳥にも見てとれた。
 「ほら、これでも飲んで温まりな」その言葉を聞いて、飛鳥は改めて自分の体が芯まで冷え切っていることを感じた。今までどこか興奮していて、冬の寒さを忘れていたようだった。マグカップに入っていたのは暖かいポカリスエットであった。今までそんな飲み方をしたことがなかったので新鮮に感じた。
 「そっちの部屋のベッド、使っていいからね。不安なら、内側からカギもかけられるからさ」
 「逆に、開けたままでもいいですか?」
 「好きにするといいよ」その返答に、なんだか飛鳥は安心した。まだ少し早い時間ではあったが、さっき指摘された通り疲れている気もしたので、隣の部屋に入りベッドに潜った。
 目を閉じると、そこが暗闇であるのは当たり前だった。でも訪れた現実は、それよりも濃く深い闇であると感じていた。何気ない日常から色彩が失われたモノクロの世界。光はなく、影だけの世界。
 一言で言うなら、逃げ出したかった。そんなことをしたって、今まで通りの生活ができないことは飛鳥にもわかっていた。もう二度と一緒に生活することができない。だからこそ、自分の居場所が一瞬にして消失したこの世界から、自分自身も消え去ってしまいたかったのだ。
 死を覚悟して、怖いものなんてもうないと思ってた。でも、一人がやっぱり怖かった。考えるのは、死んだら結局一人なのかなということ。堂々巡りをして、頭の中は沸き立ちそうであった。

 目を開けると、隣の部屋から淡い光が差し込んでいた。カチカチと何かの音もする。静かにベッドから起き上がった飛鳥は立ち上がり、翼のいる方の部屋に足を踏み入れる。二人掛けソファーの中央に座り、膝の上にノートパソコンを置いた翼の姿があった。
 「ごめん、明るいの目障りだった?それとも音、気になった?」
 「いや、そうじゃなくて。単純に、なんだか寝られなくって」
 「少し、話すか」翼はパソコンを閉じて、着座位置をずらした。手でソファーの片方をポンポンと叩いて飛鳥を招いた。飛鳥はその指示通りに座った。
 「居場所、欲しいのか」質問というより、確認する感じの言い方だった。飛鳥はもう、心が読まれていることは驚きもせず、さも当たり前のこととして受け入れていた。でも、それに対しての明確な反応ができなかった。居場所が欲しいというのも間違いではなかったが、本当は単に今まで通りに戻りたいということでもあった。
 「子供のころはさ、居場所って与えられるっていうか、自然とあるものかもしれないけど…いずれ大人になったら自分で作らなきゃいけないものなんだよ。だから飛鳥も、ちょっと早いけれど、そう考えて前に進んでみるのはどうかな?俺、サポートするし」翼の言葉に、飛鳥は力強さを感じた。言っていることだって分かるし、それが正しいことだというのも理解できた。でも、頭で考えるのと心が受け入れるのは別の次元の話というか、乖離が大きかった。
 「親がいなくなった自分が、これから幸せになれるとも思えない」少し論点のズレた発言ではあったが、その言葉も根本の部分として飛鳥の本音ではあった。
 「親がいるからって、幸せになれるとは限らないんだぞ」そんなのただの詭弁だ、飛鳥は口には出さずもそう思った。もちろん、翼に伝わることは覚悟していた。
 「世の中には飛鳥が知らない現実がたくさんあるんだよ」翼はそう言って立ち上がり、背中を向けた。徐にシャツのボタンを外してそれを脱いだ。間接照明の光は強くなかったが、それでも飛鳥の目にはタンクトップから出た翼の左肩に爛れた跡がはっきりと見えた。
 「俺ね、昔、父親に虐待されてたの。これは、熱湯かけられてできた火傷の跡。まだ残ってる、というよりもう一生消えないんだよなー」神妙に話し始めていたが、最後は諦めを内包する空元気的な言い方だった。飛鳥は、息を飲んでしまった。
 「お前の知っている現実なんて、真実の一部に過ぎないんだよ」翼はそう言い放ってから、再びシャツを着てキッチンに向かった。その言葉は吐き捨てられたかのような粗っぽさが多少あったが、人を傷つけるためのものではないということは飛鳥にもわかっていた。
 キッチンから戻ってきた翼は、またマグカップに飲み物を用意してくれた。カップの中にはティーバッグが入ったままで、そのタグにはカミツレと書いてあった。普通の紅茶と違ってかなり黄色っぽく独特の香りがするそのお茶は、味にも若干の苦みのようなものがあった。それでも飲んでいるうちに慣れてきて、飛鳥は体の温まりとともに心地よさを感じた。

 「飛鳥、俺と一緒に、」そう言いかけて右を向くが、翼は口を閉じた。そこにはもう18歳とはいえまだ子供の寝顔があった。自殺するのにだって相当な体力を使うし、おまけに他人の暗い過去まで聞かせられて、そりゃ疲れるだろうなと一人納得する。
 翼は手元のカップに残ったカモミールティーを飲み干し、飛鳥を抱きかかえる。それは本日二度目のことであったが、どことなく今のほうが軽く感じた。そのまま隣の部屋にあるベッドまで運んだ。「おやすみ、飛鳥」

 「これ、二人で行ってきなよ」飛鳥は恥ずかしさからか、ちょっとぶっきらぼうな言い方になってしまたことをすぐに後悔した。両親に差し出したのは、温泉宿のパンフレットとその予約票であった。
 「どうしたの、コレ」最初に手に取った母が驚きを隠せずに聞いてきた。受験中、いやこれまでの18年間、お世話になってきた両親への感謝の気持ちのつもりだった。特に母には冬の間、受験勉強に集中できる環境を整えてくれたことに対して、飛鳥は感謝の気持ちを伝えたかったのである。まあ大学に進学しても実家から通うので、まだ少なくとも4年はこの家にお世話にはなるのだけど。
 「飛鳥、ありがとう。せっかくだから、母さんと二人で行かせてもらうよ」普段はあまり感情を表に出さない寡黙な父であったが、この時は柔らかい表情をしていた。飛鳥がこれまでに夏休みとかでバイトしてきて稼いだ分から用意したものだったので、宿も古い温泉旅館だし距離もそう遠くない箱根ということで、大した内容ではなかった。それでも、素直に喜んでくれる両親の様子を見て、飛鳥は自分まで嬉しかった。
 飛鳥が最後に二人の顔を見たのは、旅行に出発する時であった。その日の夜には、飛鳥は警察署の安置室にいた。顔は、見せられる状態じゃないと警察官に言われてしまった。
 突然家族が、いなくなった。その現実が、最初は受け止められなかった。でもそれ以上に、自分が旅行を提案しなければこんなことにはならなかったという、自戒の念に苛まれた。すべての事実から、逃げ出したかった。でも、現実には通夜・葬儀とそんなことを言っている暇はなかった。そしてその間、飛鳥だけが現実から過去に取り残されていった。

 目が覚める。そして、いつもと違う景色で一瞬頭が混乱するが、脳が次第に冴えてくると昨日のことを徐々に思い出して、状況を改めて認識した。飛鳥はベッドを降り、立ち上がって窓の前へ行きカーテンを開けた。そこには強い冬の日差しがあり、久しぶりに日の光が眩しいと感じる。こうやって朝と呼べる時間にちゃんと起きて、日の光をを浴びたのはいつぶりだろうか。
 それからすぐ、背後から勢いの良い水音が聞こえてくるのがわかった。リビングを覗き、翼がいなかったのでシャワーを浴びているのだろうと想像がついた。昨日は全然意識していなかったが、寝室にも大きな本棚が二つ並んでいて、どちらにも本が隙間なく並んでいた。
 その中から、一冊の本が目に留まる。タイトルは、ウインガー入門。昨日の翼が言った言葉を思い出す。ウインガー、そして掟。今の時代に掟というのは、なんとも異質な感じがして飛鳥の中で印象に強く残っていた。シャワーの音が止まったのがわかった。
 少しして、翼が飛鳥の目の前に姿を現した。上裸のまま、バスタオルとTシャツを手に持っていた。昨日は見えなかった脇腹の部分にまで火傷の跡が刻まれているのがわかった。やっぱり、昨日のことも全部夢じゃないんだ。
 「おはよ、飛鳥」翼は髪をバスタオルで拭きながら、ニコッとした。
 「おはようございます」飛鳥は火傷の跡が思ったよりも広範囲だったことへの驚きと、昨日聞いた翼の過去を思い出して、それに意識を取られてしまって返事をするのにワンテンポ遅れた。
 「シャワー浴びてく?」
 「いや、今日は帰ります」聞きたいことがあったのも事実であったが、既に若干キャパオーバーだったので、一度落ち着きたいと飛鳥は考えてのことだった。
 「わかった。また、待ってるからな」
 「え?」翼に心が読まれていることを忘れて、飛鳥は素のリアクションを取ってしまった。
 「聞きたいことがあるんだろ?俺も、飛鳥に話したいことあるし」なんだか上手く誘導されてしまっている気がしていた。でもなぜだか飛鳥は嫌な感じもせず、逆らいたいと思うこともなかった。

 歩いて数分、家に帰ってくる。まずはシャワーを浴びてすっきりしたかった。その後で、昨日祖母が作ってくれた夕食を冷蔵庫から取り出しレンジで温めてから朝食として食べた。それから自転車に乗って15分、飛鳥にとって久しぶりの学校だった。
 この時期、3年生は全てのカリキュラムが終了していて大学入学共通テスト以降は自由登校のような形になっていた。飛鳥はすでにAO入試で進学先が決まっていたので、この期間はたまに来て図書館で本を借りるくらいであった。
 早く決まったからこそ、あんな事故が起こってしまったのだ。自分の人生であっても、進学については親を喜ばせたくて頑張った部分も含まれていたので、飛鳥はまた複雑な気持ちを抱えた。
 あの日からずっと、色々なことが物理的に片付いてからも学校に来られずにいた。飛鳥にとって二週間ぶりの学校であった。特に用事があったわけでもないが、この日はなぜか引き寄せられるように足が向かったのである。
 飛鳥が自分の教室に入ると、そこにはクラスの三分の一にも満たない人数しかいなかった。もっと人数が多かったらみんなから囲まれたり心配の声をかけられただろうか。あるいは自由登校ではなく授業がある日常であったならば、みんなから様々な目で見られていただろうか。とにかく幸いにもそこにいるメンバーは真剣に学習を進めていたので、想像していた状況にはならなかった。鞄を机において、図書館へ向かった。
 ちょうど飛鳥が図書館に入って中を見回した時、反対側の出入り口から巧斗が入れ違いで出ていくのが見えた。飛鳥には行き先がわかっていたので走るわけでもなく、すぐに図書館を後にして巧斗の目的地であろう場所を目指した。扉を開けると、予想通りその存在を認めた。
 「巧斗」屋上には、いつもより少し風が強く吹いていると感じた。吹奏楽部に所属していた巧斗は、放課後いつもここでトランペットの練習をしていた。自称帰宅部の飛鳥は、その傍らで本を読んでいることが多かったのである。
 「飛鳥、」巧斗は振り返った時に一瞬だけ少し驚いた表情を見せてから、そう答えた。飛鳥にはその理由や配慮の姿勢が、透けるように見えた。
 「珍しいね、巧斗がトランペットを持たずにここにいるなんて」
 「飛鳥だって、今日は本持ってないじゃないか」言われてみれば、確かにそうだった。その受け答え自体はいつも通りな気がしたが、やはりトランペットを持っていない巧斗に対して飛鳥は違和感を覚えざるを得なかった。
 「そーだったわ」おどけて答えると、巧斗は笑った。それにつられて、飛鳥も笑った。いつぶりにちゃんと笑っただろうか、そんなことをふと考えた。
 「そんなことより飛鳥、もう…大丈夫なのか?」巧斗は言葉を選ぼうとして迷った結果、曖昧に濁したような言い方になってしまったのだと飛鳥は悟った。
 「まあ、な」そういう飛鳥も、非常に曖昧な返事をした。ただ改めて思い返すと、確実に昨日よりはどこか心が軽くなっていた気もしていた。
 話が、一度途切れる。沈黙がくっきりと浮かび上がるのを感じた。巧斗は柵に手をつきながら、遠くの空を見ていた。飛鳥はいつものように、とても綺麗とは言えない屋上の床にそのまま座った。それから、どれくらいの時間が経過しただろうか。風が強いのも関係あるのか定かではなかったが、その間にたくさんの雲が流れていった。
 「今日はもう、大丈夫だから帰るわ。飛鳥、会えてよかった」巧斗は振り返って言った。巧斗の背後にある、冬独特のコントラストの少し薄い青と白で描かれた空が、なんとも陰鬱な印象を飛鳥に残した。
 「おう」飛鳥には、それしか返事ができなかった。巧斗は飛鳥の横を通り過ぎ、扉から校内へ戻っていった。時間が経つにつれて、巧斗の発言にただならぬ影が差していたことに気が付く。でも、だからと言って何かできることがあるかと考えても、特段希望は見出せそうになかった。
 飛鳥はそのまま寝転び、空を見上げた。忙しなく流れる雲を見て、世界は日に日に変化していってるのだと無駄に壮大なスケールで物事を考え始めていた。自分にとっての当たり前や常識は誰かにとっての特別や非常識なのかもしれない。それがどこかで交錯して、自分に訪れてしまった結果が今なのだろうか。視界いっぱいに広がった空に、大きな鳥が一羽、スーッと横切っていくのが見えた。

 翼は校舎を見下ろしていた。やっぱり、自分の目に狂いはないと確信する。ただ、今はまだ諸刃の剣のような危うさを持ち合わせているようにも見えた。

 自転車をアパート横にあるこじんまりしたトタン屋根の駐輪場に置く。あれからしばらくして飛鳥は図書館に戻ったのだが、気になる本はそこにはなかった。いや、読みたい本は別の場所にあることも本当は理解してた。だから、気が付くと翼の住むアパートに来ていた。
 待ってる、そういわれた言葉がまるで魔法のように飛鳥の足を導いたとでもいうのかもしれない。そんなことを言い始めると、あの忌々しい出来事すら導きの序章であったのかもしれないとすら考えていた。
 大和と書かれた扉の前に立つ。その時、なんだか急に冷静さを取り戻したかのように体がフリーズした。導き、そんなものある訳がないと飛鳥はさっきと真逆のことを思っていた。そこまでして世界はこんな無力な高校生に一体何をさせようというんだ。こんな自殺志願者にできることなんかありやしない、そんな怒りまで湧いてきた。飛鳥は我に返ったかのように、振り返って来た道を戻ろうとした。背後で、扉の開く音がした。
 「自分の運命に向き合えるのは、自分だけなんだぞ。そしてお前にとってのそれは、今しかないかもしれないぞ」運命。そんな重い言葉は耳にするだけでも今の飛鳥には重く感じられたが、翼はそれに向き合えという。なんと残酷な提案だろう。そんなものと簡単に対峙できるような人間ならば、そもそもこんなことには陥っていないはずだった。運命、なんて便利な言葉だろう。それを捻じ曲げられてしまった身にもなってほしい、そんな意地のようなものを張りたくもなった。
 「とりあえず、ここまで来たんだから入りなよ。この本、読みたいんだろ?」さっきの強い口調ではなく、包み込むような優しい言い方だった。振り返ると、例の本を両手で差し出す翼の姿があった。
 その本を餌に懐柔されてしまったという程のことではなかったが、やはりまた引き込まれるように部屋に入ってしまった。まだそれでも足取りの重かった飛鳥に対して、翼は後ろから両肩をつかんでソファーまで誘導する。定番の流れになりつつあったが、翼がマグカップで飲み物を持ってきてくれた。
 その中身は甘酒であった。多分、アルコールが入っていない方のタイプ。微かにショウガが利いていて、体が温まるのを感じる。ここはなんだかある種のカフェのような気がしてきて、飛鳥は少しほっこりした。
 「さて、それじゃお勉強の時間にしますか」そういうと翼はパソコンでスライドを開いて説明を始めた。まずウインガーというのは飛び降り自殺しようとする学生を救う、そんなことを目的として活動している組織らしい。飛鳥は自分が置かれた立場のようなものを改めて実感した。
 「それで、掟っていうのは?」ウインガーがどういう存在なのかは理解できた。飛鳥はもう一つの気になっていたことを聞いた。
 「詳しくは、この本に載っているんだけど、」そう言って翼は、例の本を手に取りページをめくる。ウインガーとして活動していく上では、掟という名のルールがいくつか存在するらしい。その一つがまさに先日飛鳥が聞いた、一人に対しては一度しか助けられないというものであった。その他にも、ウインガーとして働けるのは個人差もあるが最長で29歳までとか、学業は並行して進めてもいいとかそんなことも一応決まっているらしい。
 「それとまあ他にも色々あるにはあるんだけど…今、重要なのはウインガーに助けられたものしかウインガーになることはできない、ってことかな」最後に言った掟を聞いて、飛鳥は翼の話したいことというのがなんであるかを察したのである。それと同時に、翼は飛鳥に向かってほほ笑んだ。驚きよりも、飛鳥は呆れのほうが大きく広がった。ここへ来てから、感情の起伏がジェットコースターのように激しい。
 「何かリアクションしてよ」翼は痺れを切らして反応を求めた。
 「そんな掟、可笑しいよ。自殺しようとしてた弱い存在に、助ける側になれだなんて…そんなの変だし、残酷すぎる。何より、そんなの無理に決まってるじゃん」飛鳥には自身もウインガーに助けられた身であるという負い目があったことは除いたとしても、活動内容については理解したつもりだった。でも、翼にそんな提案をさせる掟についてはどこか納得ができなかった。
 「もちろん、助けた全員にお願いするわけじゃないよ。ただ一つ確かに言えることは、自殺しようとした人間は人の弱さを知っている。だからこそ助けられる命もあるんだって、俺は思う」
 「そんなの、傷の舐め合いだよ。第一、自分の命を捨てようとする心の弱い人間にどうやって他人を救えっていうのさ」さっきは逃げ出したいような気持で飛鳥は言葉を紡いでいたが、今度の言葉は怒りから絞り出されたかのように語気を荒げてしまっていた。
 「じゃあ、心の弱い俺は、お前を救えなかったか?」そう聞かれて、飛鳥は思わずハッとする。そうか、さっき聞いた掟の通りであるならば翼も過去にウインガーに助けられているということになる。それはつまり、翼も飛鳥と同じように自殺をしようとしたことがあるということだ。理由は、考えるまでもなく分かった。
 「ごめんなさい。そういうことが言いたかったわけじゃなくて」翼の過去がどうであろうと、飛鳥に避難する権利は微塵もないように思われた。
 「そもそも、心の強い人間なんて本当にいるのかな?みんなどこかしらの部分で心の弱さを持っているから、他人に対して優しくもできるんじゃないかな?」翼の言っていることは、感覚的には飛鳥にも理解できた。でも、はっきりと言葉にして肯定することはできなかった。 
 「まあでも、それこそ一人に対して一回までしか助けられない掟があるから。その意味では、俺が飛鳥を本当に救えたのかどうかは、まだ完全な答えは出ていないんだけどな」その説明を改めて聞いて、飛鳥は少し複雑な気持ちになる。二度目は、いつ自分を飲み込もうとするかわからない。そしてその時は、再び手を差し伸べてくれる人はいない。
 翼に救われた命。どうせ死んでもいい…どうなってもいいと思っていた命なのだから、生かしてくれた翼に捧げるという選択も合理的なようにも思えた。でもそれ以上に、こんな自分に何ができるのか、本当に役に立てるのかという不安のほうが飛鳥の中で大きくなっていった。
 「ごめん、一気に話しすぎたな。今日はこのくらいにしておこう。この本、ちゃんと返してくれれば持って行っていいから」そう言って、入門書を手渡される。飛鳥も一度、落ち着いて考えたかった。もちろん、そうしたからと言って本当に答えが出るという予感のようなものなんて微塵もなかったのだけれど。本を片手に、翼に見届けられながら玄関を出た。
 「飛鳥、待ってるからな」その言葉には、いい返事を、という期待が込められているのを肌で感じた。さっきまで強いと感じていた風は、めっきり凪いでいたが、飛鳥を取り囲む街には相変わらずの冷たい空気が漂っていた。

 誰もいない家に帰って、あすかのへやと札のかかった部屋に入り本の表紙をめくった。ウインガー入門書。最初からすべて読もうと思っていたが、序章はウインガーの活動を管轄する通称3S (Stop Student Suicide) という団体の説明や沿革などが事細かに記載されていて、いきなり頭から湯気が出そうになる。今日は只でさえ、いや昨日もそんな感じであったので、正確に言えばここ連日はずっと色々ありすぎて頭はパンク寸前だった。なので飛鳥は、今日のところは一先ず気になったところだけ流し読みしようと思った。
・ウインガーになる条件を満たした候補生が現れた場合は、速やかに3Sに報告することが必要である。申告した時点で仮認定となり、その段階で申告者の監督下で能力の使用を許可する。
・ウインガーとしての能力を使用するのにあたっては、申告者からレクチャーを受けたうえで、実践に出る前に必ず相応の訓練を受けること。
・初めての救助を行った時点で本認定と同時に、ウインガー3級と定める。それから、要救助者のサイレンを察知できるようになることで2級、心の声を感知できるようになることで1級と認定する。
・ウインガーになることを受諾したものはその能力が枯渇するまで、原則として自ら辞すことは認められない。申告者はそのことを念頭において、責任を持って後継となるものを選ぶ必要がある。
 読んでいて、一つ一つの段階を踏んでいけるようにちゃんと制度設計がなされていることはわかったが、やっぱり責任の大きいことだと改めて感じる。翼に選ばれたのは素直にうれしい気もする反面、飛鳥の中での不安はやっぱり肥大化し続けた。
 死は怖くない気がするのに、責任を負うことは不安。死ねば本当に一人になるはずなのに、今こうやって一人でいることの方がなんだか怖かったりする。飛鳥の中を矛盾が巣くう。
 居場所を今から自分で作る、目に見えないものを作るのは簡単ではないことは明白で、それに対する自信もなくて。考えれば考えるほど、すべてを一掃出来る死という逃げ道がなんだか簡単な気もしてくる。要するに、楽な方を選びたかったんだ。
 もう寝よう。飛鳥がそう思ったのは12時前であった。昼頃に飲んだ甘酒以外何も口にしていなかったが、そんなに空腹でもなかった。今に一回戻って、ウォーターサーバーからコップ一杯の水を注いで飲んだ。サーバーが呼吸しているかのように水と空気を出し入れする音だけが、独りきりの部屋に響いた。ベッドに入って目を閉じると、また闇が訪れる。どこまで行けばこの恐怖から逃れられるのだろうか。答えはわからなかった。

 翼はパソコンのキーボードを打ちながら、自問自答していた。救えるのは一度だけ、二度目はない。それは自殺願望者本人に対してのある種のメッセージであるのと同時に、ウインガーに自身に対する警告でもあった。物理的に自殺を回避しただけでは何の意味も無い、また同じことが繰り返されるだけだ。そしてその時には、ウインガーは文字通り無力。つまり、根底にある理由を取り除いてあげなければ、救う意味がない。
 ウインガーになってから、結局はずっとこのことで悩まされる。他の理由でならまだしも、いつ同じ理由で再び自殺を図ろうとするか。いくら心配しても、その不安が消え去るケースなんてなかった。大丈夫だと信じさせられて、直後に裏切っられたことだって一度や二度ではない。いやそれは、本心を見抜いてやれなかった自分が未熟ということの証明以外の何物でもないのだということも、翼は理解していた。
 さて、飛鳥の場合はどうだろうか。その芽が摘み取り切れているとは到底思えなかった。18歳とはいっても、まだ飛鳥は未熟な子供である。ましてや、今は両親を亡くして、心はバランスを崩している。一言で言えば、不安定なのである。何がきっかけでどうなるかが全く予想できない。ウインガーとして共に歩む道を示してはみたものの、そうなるとは限らなかったし、そもそも再び自殺を図る可能性も捨てきれないと、翼は冷静に分析していた。でも、これ以上は何もできないことも分かっていた。最後は、本人が決断するしかないんだ。もちろん求められれば助けることはいくらでもできるが、これ以上一方的に何かをするのは飛鳥の為にならないし、本当の解決にはつながらないということも分かっている。あとは待つしかない。そう考えながらイングリッシュブレックファーストを飲んでいたが、薄暗い空からサイレンを感じる。昨日から兆候はあって、様子は見に行ってたのだが、事が起こるのは今日だろうな。これが飛鳥にとっての福音になるだろうか。翼には確たるものが、何もなかった。

 飛鳥が目覚めたのは朝9時過ぎであった。あの日以降、生活リズムはズタボロであったが、それに比べればまだましな起床時間だった。外を見ると、灰色の雲が空を覆っていた。雨は降っていないようではあったが、どこか不穏とでもいえる空気を肌で感じた。気分が沈むようであるというか、形容しがたい気持ち悪さがあった。
 飛鳥は、なんとなく昨日のことが気になって学校へ行こうと玄関を出る。ちょうどその時、巧斗が団地の階段を昇っていった。その違和感が、確信に変わった。巧斗の家はこの団地の下の階にあって、自分に会いに来る以外に上に登るのは考えられなかった。飛鳥も後を追うように一つ上のフロアへ登るが、もちろんそこに巧斗の姿はなかった。屋上へ出られる扉が半開になっていて、そこから薄く光の筋が漏れているのが見えた。
 「巧斗」
 「飛鳥」巧斗は呼びかけに答えて振り返ったけれど、その表情に驚きなかったように飛鳥には映った。
 「珍しいね、ここにいるなんて」同じ団地ということもあり、巧斗とはお互いの家で遊ぶことはもちろん、昔はこの屋上にもよく一緒に来た記憶が飛鳥にはあった。でもお互い成長するにしたがって、遊ぶっていう感じはだんだんと薄れていったし、会うのは学校が中心になっていた。それでも飛鳥は時折、一人でこの屋上に来ることはあったが、巧斗の姿を見ることは皆無であった。
 「飛鳥だって、どうしてここに?」
 「そーだな、なんでだろ?」巧斗の姿を見つけたから、というのも一つの理由であったけれど、それだけじゃない気がしていた。そもそも巧斗に会おうと思って家を出たという流れが存在したわけで、でもそれが何故かということを飛鳥が明確に言葉で説明できるわけではなかった。
 「それで、どーかしたの?」飛鳥は口火を切った。あまり自分には似合わない行為だと思いつつ、核心に迫ろうと行動した。
 「なんで、そんなこと聞くの?」質問に質問で返された。巧斗の言葉は怖いくらいに淡々としていた。
 「昨日、なんかいつもと違う気がして」巧斗が昨日言った最後の言葉も、決して普通ではないような気がした。今日はもう大丈夫、あれは明らかに何かを先延ばしにしただけの言い回しだった。少し沈黙があって、巧斗は観念したかのように大きくため息をつき、重い口を開けた。
 「もう、無理なんだ」そこから巧斗は訥々と話し始めた。受験に、失敗したということであった。巧斗とはクラスが違ったが、それでも頭の良さは学年に知れ渡るほどであった。部活も精力的にやって、まさに文武両道の鏡のような存在であった。もちろん将来を期待される分、親からのプレッシャーがあるという話も、以前に本人の口から聞いたこともあった。
 「マークシートの回答、半分以上ズレてるとか…アホだよな」巧斗は最後、あざ笑うかのようにそう言った。どう反応していいか困って、飛鳥もつい口を噤んでしまう。確かに大学入学共通テストで、しかも文系理系問わずどこの大学・学部でも重視される英語の点が半分ないということがどれほどのことか、AO入試の飛鳥にも分かった。
 「親は仕方ないって言ってはくれたけど、おじいちゃんに伝えた時の顔がもう・・・忘れられないんだ」巧斗のおじいちゃんは、医者であった。その影響もあって、巧斗は昔から医者になるべく医学部を目指していた。もちろん想像でしかないけど、簡単なハードルではなかったのだろう。巧斗の父親は普通の会社員でお母さんはパートだから、きっと家庭教師とかの費用面ではおじいちゃんの支援があったのだろう。その期待を裏切ってしいまった事に、巧斗は押しつぶされているのだろう。
 「もうさ、俺の人生終わったんだ」飛鳥にはもちろん、その言葉が意味をすること理解していた。でもそれを、ダメだ、ってすぐに言ってやることはできなかった。
 「だから飛鳥、何も見なかったことにして帰ってくれ。頼む。お前に迷惑はかけたくない」今まで、巧斗が飛鳥に何かを頼むことなんて一度もなかった。それ故に、本気度のようなものを感じた。でも、何の抵抗もせずに従うことも、できるわけがなかった。
 「無理だよ。だって、僕には帰る場所なんてないんだ」それは巧斗を説得したかったというより、自分の実情を打ち明けたかっただけかもしれない。反論と呼べるほどの抵抗力もない、弱々しい言い方であった。
 巧斗が口元だけ笑ったように見えた。昨日、飛鳥は巧斗に大丈夫かと質問されて気丈に答えていたが、その偽りにももしかしたら気づいていたのかもしれない。改めて、巧斗は優しい眼差しを飛鳥に向けた。もしかしたら巧斗は、この言葉を待っていたのかもしれない。
 「一緒に行くか。その方が俺も、なんだか心強い」親友ともいえる巧斗のその誘いに対して、断る理由を飛鳥は持ち合わせていなかった。飛鳥が正式に返答をするまでもなく、巧斗は確信を持ったかのように柵を超えた。その瞬間、飛鳥の迷いも一瞬に離散し、遅れて柵を超えた。
 足元の、その先を見る。一昨日と同じ景色がそこにあった。曇り空の影響だろうか、多少コントラストが薄いようにも感じた。ただ一つ、一昨日と明らかに違うことは、隣に巧斗がいることだ。一人じゃない、そのことが飛鳥の心を落ち着かせた。
 「飛鳥、今までありがとう」そう言って巧斗の左手は、飛鳥の右手を掴んだ。その言葉のせいか、手を繋いだからか、どちらかはわからなかったが飛鳥の胸が急に温かくなった。10年位前までは、こうやって手を繋いで遊んでいたという記憶が蘇ってくる。

 「ねー、あすか。大きくなったら何になりたい?」
 「えー、なんだろう」
 「オレは、おいしゃさんになって人をたすけたい」

 飛鳥の胸は、温かいを超えて熱くなっていた。その熱はまず、右目から溢れた。そして、左目からも。
 「やっぱダメだ、巧斗。お前には叶えなきゃいけない夢があるだろう」そう言って、巧斗の方に体を向けた。
 「怖くなったのか、飛鳥?」巧斗は顔だけ、飛鳥の方を向いた。その口調は、至って冷静だった。ある種の達観であったかもしれない。
 「そうじゃない、あの日のことを思い出したんだ。お前の夢を聞いた、あの日のことを。僕には…夢なんかなかった。今だって、特別これと言ってない。でも、お前にはずっと夢があったじゃないか。だから、やっぱダメだ」大した夢なんて持っていない自分は、どうでもいい。でも、巧斗はダメだ。飛鳥は単純に、ただそれだけの理由ではあったけど、思いを固めた。
 「わかった、飛鳥。一緒に来てくれないならその手、放してくれ」巧斗の決意も固いようで、飛鳥の方を見ずにそう言った。
 「嫌だ、絶対に離さない」飛鳥は更に、手に力を込めた。巧斗は一瞬だけ困ったような顔を向けたが、正面を向き直してこう言った。
 「あんな夢を持ってしまったからこそ、味わった絶望なんだ。希望なんかない、こんな世界とはサヨナラだ」巧斗は一歩踏み出す。巧斗の体重で飛鳥の右手が引き込まれて、バランスを崩しながら一緒に落下する。巧斗の決意を甘く見ていた飛鳥には驚きもあったが、もはやそれどころではなかった。夢なんかない自分はどうなってもいいから、巧斗だけは助かってほしい。助けたい、飛鳥の願いはその一つだった。
 「飛鳥、本気で助けたいなら自分を信じろ」上空から、そんな声がした気がした。聞き覚えのある、柔らかいけど芯のある声。でも、信じろという具体性に欠ける表現に飛鳥は困惑せざるを得なかった。
 「巧斗を助けたい、いや…助けなきゃいけないんだよー!」思いを口にした途端、目の前に純白の羽が舞うのが見えた。そして落下速度に、多少のブレーキがかかったのを感じた。
 「上出来だ」また、あの声がした。今度は、さっきよりはっきりと。そして、大きく立派な翼を携えた人物が、飛鳥の横を掠めていった。少し冷静になって、巧斗を抱きかかえた翼の姿を認識した。
 「いやー、ナイスタイミングで間に合ったー」翼はわざとらしくそう言った。その瞬間、安堵するとともに状況を把握する。自分自身に天地を超えるほどのことが起こったことを、受け止めざるを得なかった。

 翼は団地に隣接する公園へと、綺麗に滑空していった。飛鳥もそれに、ぎこちなく追従する。
 地面に足が付く。改めて、飛鳥は自分が本当に飛んでいたんだと自覚する。翼のものに比べるとまだサイズの小ぶりなそれを、自分の背中に見た。そしてそれは、何の痛みもなく、綺麗に折りたたまれるように体内に取り込まれた。
 「この子は、飛鳥が説得した方がいいだろう。任せてもいいかな?」そう提案してきた翼も、すっかり元の姿に戻っていた。説得…それがどういうものか、聞かなくても飛鳥にはわかった。飛鳥が翼に諭されたように、今度は飛鳥が巧斗を救う番だと自然に思えた。
 「うん」
 「部屋で待ってる。終わったらおいで」そう言いながら、翼はポケットに手を突っ込みながら何事もなかったように公園を立ち去っていった。

 翼によってベンチに横たえられた巧斗は、すぐに目を覚まして起き上がった。そして、飛鳥と巧斗の目が合う。
 「俺、生きてるのか?」
 「そう、ごめんね。助けさせてもらった」飛鳥はドキッとする。命を助けたはずなのに、ごめんと言って誤っている。救ってしまったことに、どこか罪悪感があったのかもしれないと気付く。この期に及んで、迷いのようなものが巣食う。
 「お前は、律儀にもあの言葉を現実にしたってことか」
 「急に、何のこと?」飛鳥はベンチの隣に座り、心当たりのない言葉に疑問を呈した。
 「なんだ、やっぱり覚えてないのか」巧斗はそう言って、少し笑った。飛び降りた後で、巧斗もあの日のことを思い出したらしい。夢と聞かれてすぐに答えられなかった飛鳥は、実は巧斗の夢を聞いた後でこう話したのだという。
 「じゃー、ボクはタクトをたすける人になるよ」
 「え?」
 「だっておいしゃさんはたくさんの人をたすけるけど、おいしゃさんをたすける人はいないでしょ?だから、ボクがタクトをたすけるよ」
 そう真顔で答えた飛鳥の無垢な表情が、巧斗の中で鮮やかに蘇ったらしい。飛鳥は、そんなことを言った記憶は全くなかったが、それを聞いて恥ずかしくなった。子供のころだとはいえ、なんと単純というか。
 「お前が夢を叶えたんなら、俺も飛鳥の努力を無駄にしちゃだめだよなあ」嫌々やらされるというニュアンスがないわけでもなかったが、満更でもないのかと飛鳥は受け取った。
 「死ぬ気になれば、きっとこれからなんだってできるよ。そして、同じように苦しんでる人を助けることだって、きっとできる」それは、飛鳥が自分自身に言い聞かせたかった言葉でもあった。人を助けるということを、こんな自分にできるのかは不安がまだ残ってたけど、多少は覚悟のようなものができた。
 「ありがとな、飛鳥」この言葉を糧にすることで、飛鳥は生きていける気がした。

  「おかえり」翼の部屋の前に着き、チャイムを押そうとしたたところで扉が開いた。
 「ただいま」おかえり、というお出迎えの言葉に多少の違和感があったものの、飛鳥は自然にそう返事をすることができた。
 部屋の中へ入ると、ソファーの横で翼は不敵な笑みを浮かべていた。飛鳥がその考えを読み取ろうとした矢先、翼はソファーを何か所か動かして展開するとそこにベッドが広がった。よく見ると、先日の物と色も違っていた。飛鳥は翼の考えが読めた気がして、頭を抱えた。
 「えっと…色々聞きたいことはあるんだけど、これ見よがしに開いたコレは?」翼のイキイキとした表情から、何を考えているか答えはわかりきっている気はしたけど、飛鳥は一応聞いてみた。
 「ソファーベッド、買ったの!」翼はニヤッとした顔で答えた。
 「いや、それは見ればわかる。そーいうことじゃなくってさ」飛鳥は出来レースに乗せられてることに気が付きつつも、問答を続けた。
 「今日からここが、飛鳥の居場所」居場所という言葉が、大きな波のように飛鳥の心を飲み込んだ。飛鳥にっとって、不意打ちのキラーワードであった。今日二度目であったが、目に熱いものを感じた。何か返事をしたかったのだが、言葉がうまく紡げなかった。
 「そんなに嬉しいか?」翼が、子供をからかうように聞いてきたので、それがなんだか癪に障る。
 「ここに住むなんて、そもそも言ったっけ?ってか、色々勝手すぎない?それに、いつの間にウインガーの申請してたわけ?」一度鼻を啜ってから、飛鳥は強がってそう言った。
 「勝手だなんて、失礼だなあ。せっかく用意したのに」翼はわかりやすく、少しいじけて見せた。
 「いや、ごめん。突然のことだから驚いたけど、嬉しいよ」いざこういう態度を取られてしまうと飛鳥は反応に困って、つい謝罪に転じてしまった。
 「ちなみに、申請は出会った日の夜に済ませてた」翼は再び悪びれた様子もなくそう言い加え、飛鳥は再び呆れてため息をついた。
 「謝ったの、撤回!やっぱ勝手じゃん。出会った日って、まだウインガーの説明すら聞いてなかったじゃん!その翌日の、本を渡された後ならまだしも…」
 「まあ、細かいことはいいじゃん。結果こうなったわけだし」完全に翼のペースに乗せられていることが、飛鳥はどこか腑に落ちなかった。
 「あーあ、なんだか騙された気分!信じるべき人を間違えたかなあ」半分、いや九割は冗談であった。飛鳥にとっては、細やかな反抗のつもりであった。
 「いや逆に、俺の目に狂いはなかったな!訓練無しで実践一発合格。そして飛び級で一気に二級だ」翼は満足げにそう言った。でも、入門書を読んでいた飛鳥は知っている。本来であれば、訓練無しだなんてルール違反であった。
 「二級って?」ただ級については、一通り読んだ飛鳥でもはっきり認識できていなかったので聞き返した。
 「ちゃんと巧斗君のサイレン、昨日も今日も察知できていたじゃないか。しっかり遠くから見届けてたよ」なんとなく引き寄せられていったあの感覚がサイレンなのか、と飛鳥は改めて自認した。
 「見届けてた、って。要するに、試してたんでしょ?」
 「もー、お口が悪いなあ飛鳥ちゃん。これから一緒に生活するっていうのに」いつの間にか背後をとらえられていた飛鳥は、翼にハグされる。飛鳥は驚いて変な声を出しながらバランスを崩し、二人一緒に新品のソファーベッドに倒れこんだ。
 二人は並んで、天井を見上げていた。もちろんそこ何があるわけじゃなかったけど、なんだか不思議と落ち着いた。飛鳥は自分の居場所を噛みしめていた。ここが、心を安らげられる場所。自分だけの、でも支えてくれる人がいる空間。
 「これからよろしくな、飛鳥」
 「仕方ないなあ、もう」飛鳥はリスみたいに口を膨らませた。居場所は自分で作るものだって翼に言われていたのに、結局はその張本人から与えられてしまった。多少の矛盾はあったけど、今はこれでよかったのかなという納得感はあった。
 「まったくもー、素直じゃないなあ」

 「飛鳥、顔が固いぞ」翼はスマホ越しに写る飛鳥を見てそう言った。少しだけ飛鳥の表情が解れたことを確認して、シャッターを切った。区民会館に掲出された入学式の看板横にたたずむ飛鳥は、まだまだ幼く見えた。法律上は大人とはいえ、実際はまだまだ子供である。飛鳥が近寄ってきてスマホの画面を覗く。本人としても、その表情に満足はいってないことが見受けられた。
 あの日から、一か月が経った。飛鳥は予定通り、今日という日を迎えて大学生になろうとしていた。ちなみに聞く話によると、飛鳥の親友である巧斗君も、来年に向けて再始動をする決意が固まったらしい。加えて、今回の件を機に、心療科医を目指したいという新たな目標まで決まったらしい。有体に言わせてもらえれば、災い転じと福と為す、である。
 「行ってくるね」飛鳥は少しだけ微笑んで、会場内へと駆けていった。飛鳥のほうも、引っ越しする中で荷物だけでなく、気持ちの整理が多少は進んだようである。もちろん、両親を失ったという傷が簡単に消えたり癒えるはずはない。それでも、日々は進んでいく中で、生きていく以上は前に進まないわけにはいかない。
 「助けるって言うと、どうしても一方的で傲慢なイメージが無いわけでもないから好きじゃないけど…寄り添う、だったら自分にもできるかもしれない」そう口にしていた飛鳥は、やっぱり優しい人間なんだと実感する。翼は、飛鳥の将来が楽しみで仕方がなかった。きっと、沢山の人に寄り添う中で多くの命を救える、そんな確信すらあった。

 「隣、いいですか?」飛鳥は新学期早々、入学式の会場で勇気を振り絞っていた。いや、それはただ単に気にしいな性格だという話かもしれない。
 「どうぞ、どうぞ」快い返答をしてくれた彼は、隣に座るもう一人と話をしていた。幼馴染で出身校が一緒、とかなのだろうか。それとももう、出会ってすぐに仲良くなったのだろうか。前者だとしたらなんだか羨ましいし、後者だとしたらコミュ力高いなあと感心するところである。
 「あ、同じ色だね」いざ座ろうとしたタイミングで、隣の彼が話しかけてきた。どうやら学部ごとに色分けされたリボンのことを言っているらしい。人懐っこい顔をした彼が、こちらに微笑みかけてきた。コミュ障の飛鳥はフリーズして、返答に言葉が詰まった。うん、でもなんでもとりあえず言葉にすればいいのに、声が出なかった。
 「陸、急に話しかけられて彼も困ってるよ」そのまた隣の彼が宥めるように助け舟を出してくれた。
 「俺、海原陸人!これからよろしくー」陸人と名乗った彼は席を立ち、そんなことお構いなしで手を握ってくる。飛鳥はさらに困惑する。
 「あ、飛鳥です。日下飛鳥。」隣で座って引き続き見守っている、幼馴染と思われる彼も、微笑みを返してくれた。
 飛鳥にとっての新たな日々が、いま始まろうとしていた。これからどんな出会いが待っているだろうか。想像もできない未来が訪れる気がして、怖さもあったけど、それ以上に楽しみもあった。きっと、いいことばかりじゃないだろう。どうにもならない現実が、壁として立ちはだかることもあるだろう。それでも、生きていこう。強くなくてもいい、弱くたっていい、こう思えるようになったのは全て翼のおかげだと改めて認識する。
 ありがとう。

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栴檀双葉(せんだんふたば) チップについてはカメラ用品の購入に充てさせていただき、noteの記事にすることで循環させていきたいと考えております。応援よろしくお願いいたします。