第1回 14号車の沈黙
noteオリジナルストーリー
全10話
目次
01 停止
新幹線車内で原因不明の発症者が続発し、緊急停止が決まる
02 線
名古屋駅で車内と車外、そして乗客同士に境界線が引かれていく
03 名乗り出た男
元衛生兵の鷹野が対応を担うが、彼の過去への疑念も生まれる
04 配給
水と食料が尽きはじめ、利己的な行動と公平への不満が表面化する
05 魔女狩り
感染源を巡る疑心が広がり、特定の乗客が標的にされていく
06 母の沈黙
結衣が息子の発症の兆候を隠すか明かすか、重い選択を迫られる
07 嘘の橋
政府の情報隠蔽が露見し、車内の信頼が音を立てて崩れていく
08 脱走
一人が車外への脱出を試み、車内の暴力性が初めて表面化する
09 限界点
救出の優先順位を巡り車内が完全に分裂し、本性が露わになる
10 夜明け
生き残る者、犠牲になる者が決まり、19時間の物語が結末を迎える
第1話 「停止」

のぞみ64号、東京発新大阪行き。午後6時12分発。
3列目のA席に座る宮内トキは、孫への土産物を膝の上で抱えながら、ぼんやりと車窓を眺めていた。74歳。一人で新幹線に乗るのは久しぶりだった。隣の若い男性会社員——桐谷正彦——はノートパソコンを開き、苛立たしげにキーボードを叩いている。
新横浜を過ぎた頃、トキは小さく咳をした。
最初は誰も気にしなかった。咳など、新幹線の中では珍しくもない。
だが、5分後。トキの咳は止まらなくなっていた。
「すみません……」彼女はハンカチを口に当てた。声がかすれている。額には、見るからに異常な量の汗が浮かんでいた。
「大丈夫ですか?」
声をかけたのは、4列目に座っていた看護師の柊美咲だった。仕事帰りで、スクラブの上にカーディガンを羽織っただけの姿。職業柄、彼女の目はすぐに異変を察知していた。
「すみません、ちょっと……目眩が」
トキの声は弱々しく、明らかに呼吸が乱れていた。美咲はすぐに脈を取り、額に手を当てる。
「熱がある。かなり高い」

そのとき、車両の反対側でも声が上がった。
「うわ、大丈夫ですか!?」
3号車後方の男性が、突然激しく咳き込みながら床に膝をついていた。誰も触れていない。誰とも会話していない。ただ、同じ車両の空気を吸っているだけの男が、トキと全く同じ症状を見せていた。
美咲の背筋に冷たいものが走った。
(これは、ただの風邪じゃない)
車掌の田中翔太——24歳、入社2年目——が駆けつけたのは、その直後だった。無線で緊急連絡を入れながら、彼の声は震えを隠せていなかった。
「3号車、急病人複数名……いえ、増えています、今、4人目が……」

ちょうどそのとき、4号車に乗っていた鷹野修が席を立った。元自衛隊衛生兵という経歴は、もう何年も使っていなかった。しかし、目の前で起きている異変は、彼の中の何かを呼び起こした。
「失礼します。元自衛隊で、医療の心得があります」
田中は迷わず頷いた。「お願いします!」
鷹野はトキの脇に膝をつき、瞳孔、呼吸数、皮膚の状態を手早く確認していく。美咲もすぐ横で補助に入った。二人の間に、初めて無言の連携が生まれた瞬間だった。
「潜伏期間が、短すぎる」
鷹野が呟いた言葉に、美咲の表情が変わった。
「どういう意味ですか?」
「最初の発症者を見てから、ここまで何分経った? 5分? 10分? それでもう4人目が同じ症状を見せている。これは……空気感染にしても、異常な速度だ」

新横浜から名古屋までの間、JR東海の運行管理システムには、すでに異常信号が届いていた。
東京・大手町の対策本部。
緒方健一は、モニターに映る「のぞみ64号・急病人発生」の文字を見つめながら、眉間に深い皺を作っていた。58歳、霞が関出身の危機管理官僚。彼の隣で、佐伯直人がノートPCの画面を凄まじい速度で操作している。
「症例数、現在8。発生から12分でこの数字です」佐伯の声には、抑えきれない動揺があった。「もし本当に未知の病原体だとすれば……基本再生算数がとんでもないことになる」
「言葉を選べ」緒方が低く言った。「まだ未知とは確定していない」
水原涼子が割って入った。34歳、現場対応の指揮官。彼女の目には、すでに苛立ちが見えていた。
「本部長。乗客の安全を最優先するなら、今すぐ最寄り駅で停車させ、医療チームを向かわせるべきです」
「停車はさせる」緒方は頷いた。「だが――」
彼の次の言葉に、水原の表情が固まった。
「車外に出すな。乗客は、車両内に留める」

「正気ですか」水原の声が尖った。「中には子供も妊婦もいます。原因不明の感染症の中に閉じ込めるんですか?」
「逆だ」緒方は冷静さを崩さなかった。「原因不明だからこそ、外に出せない。一人でも下車させて、それが市中に広がったら――この国がどうなるか、君にも分かるはずだ」
佐伯は何も言わず、ただ画面の感染曲線を見つめていた。彼の指が、わずかに震えていた。
その判断が下された数十秒後、のぞみ64号の車内放送が切り替わった。
「お客様にお知らせいたします。次の停車駅、名古屋到着後、車両の安全確認のため、しばらく下車をご遠慮いただきます」
車内が、一瞬で静まり返った。
そして、その静寂を破るように、桐谷正彦の声が響いた。
「ふざけるな! 俺は感染してない! 降ろせ!」

桐谷の怒声をきっかけに、車内の空気が一変した。
「俺たちまで閉じ込められるのか!?」
「子供がいるんです、お願いします!」
「誰が感染してるんだ、教えてくれ!」
8号車では、新田結衣が息子の蓮を強く抱きしめていた。8歳の蓮は、母の緊張が伝わったのか、何も言わずただ母の腕にしがみついていた。
「大丈夫だからね」結衣は囁いた。だが、その声は自分自身にも向けられていたのかもしれない。
13号車の隅では、杉浦仁がスマートフォンを構えていた。震える車内の様子を、無言で撮影し続けている。
(これは……世間に出さなきゃいけない)
彼の指が、配信ボタンの上で止まっていた。

名古屋駅まで残り10分。
田中翔太は震える手で無線を握りながら、車掌室の小窓から前方を見つめていた。次第に近づいてくる名古屋の灯り。だが、そこに見えるのは、出迎えの安心感ではなかった。
ホームには、すでに見たことのない光景が広がっていた。
防護服に身を包んだ十数人の人影。
警察車両。規制線。そして、ホームの照明を反射する、白い防護スーツの列。
田中の喉から、声にならない呟きが漏れた。
「……これ、もう普通の急病対応じゃない」
列車は速度を落としながら、ゆっくりと、まるで運命に引き寄せられるように、名古屋駅のホームへと滑り込んでいった。
车内に閉ざされた336人の乗客は、まだ知らない。
これから始まるのは、感染症との戦いだけではない。
人間同士の、もう一つの戦いだということを。

第1話、了。
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