カタログギフトと政治倫理:問うべきは「贈ったか」ではなく「判断が歪んだか」だ
「何かをもらったら、判断が歪むのではないか」 高市氏のカタログギフト騒動で見られたこの反応は、一見正論に見えて、実は恐ろしい「自己投影」を孕んでいる。私たちが問うべきは、小学生レベルの道徳論なのか、それともプロフェッショナルとしての結果責任なのか。医療現場の「接待」問題を引き合いに、この騒動の本質を解剖する。
Ⅰ.カタログギフトは、なぜここまで問題視されたのか
最近、高市早苗氏が私費(ポケットマネー)で贈ったとされるカタログギフトが話題になった。
公金ではない。業者からの提供でもない。あくまで個人としての贈答だという。
それでも、「不適切ではないか」「政治倫理に反するのではないか」という声が上がった。
正直に言えば、私はこの騒ぎそのものに強い違和感を覚えた。
Ⅱ.それを問題にするなら、何もできなくなる
もし「政治家が私費で何かを贈ること」すら疑義の対象になるのなら、話はかなりややこしくなる。
国会議員の報酬は、そもそも税金だ。
だとすれば、親戚の子どもの進学祝いはどうなるのか。
知人の結婚祝いは。
弔意としての香典は。
どこまでが許されて、どこからがアウトなのか。
ここに明確な線引きがないまま、空気と感情だけで裁こうとする社会は、最終的にあらゆる経済活動を監視対象にしてしまう。
それは倫理社会ではない。
「疑心暗鬼社会」だ。
Ⅲ.「金をもらったら操られる」という短絡
高市氏の件で多く見られた反応は、突き詰めるとこれだった。
「金銭や物品を受け取ったのだから、何かしら判断が歪むに違いない」
だが、この発想そのものが、プロフェッショナルという存在を前提にしていない。
Ⅳ.医者は「接待されたから薬を選ぶ」わけではない
医療の世界には、長年続く「接待問題」がある。
製薬会社からの食事、説明会、情報提供。
だが、少なくとも現場の医者は知っている。
接待されたから、その会社の薬を選ぶことなどあり得ない。
薬を選ぶ基準は明確だ。
効くか
安全か
患者にとって利益があるか
それ以外の要素が入り込む余地はない。
プロとは、そういうものだ。
Ⅴ.「もらったら動く」という発想は、誰の自己投影か
それでも世間は言う。
「何かもらったら、判断が歪むのではないか」と。
だが、この発想は裏返すと、こう告白しているに等しい。
自分は、何かをもらったら判断が歪む。
だから、他人もそうに違いない。
これは倫理観ではない。
素人の自己投影だ。
Ⅵ.問題は「もらったか」ではなく、「判断が歪んだか」
ここで、高市氏の件に戻る。
問うべきなのは、カタログギフトを贈ったかどうかではない。
その後の政治判断に不自然な点はあったのか
特定の利益誘導が確認できるのか
説明責任を果たせるのか
そこを見ずに、「もらった/もらっていない」だけで騒ぐのは、倫理ではない。
Ⅶ.それを乱暴に言えば「僻み」だ
言葉を選ばずに言えば、こうなる。
自分には裁量も責任もない。
だから、裁量を持つ人間が信用ならない。
それは倫理ではない。
僻(ひが)みだ。
倫理とは、権限と裁量を持つ者にこそ、合理的なルールと結果責任を課すことである。
Ⅷ.清貧ではなく、制度が信頼を生む(結び)
金を使うな。
贈るな。
関係を持つな。
そんな禁止令で、プロフェッショナルは育たない。
必要なのは、次の三点だ。
私費と公費の明確な線引き
判断プロセスの透明化
逸脱時の、例外なき処罰
プロを信用しない社会では、結局、誰も責任を取らなくなる。
医者も、政治家も、「何も決めないこと」が最も安全になるからだ。
信頼は、清貧からではなく、制度から生まれる。
それは倫理的な社会ではない。
停滞した社会である。
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