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最後の印鑑

199×年、〇月〇日午前11時30分、△市市役所に一組の老夫婦が転入届を提出するためにやってきた。
先月、夫が定年退職をし、かねてから、老後を送ろうと念願であったこの市に引っ越してきたのだ。この市の海岸や空気が気に入っていた。

市役所のデスクで、転入届を記入し窓口に提出した。

「よろしくお願いします」

すると窓口係が

「ここに印鑑を押してください」と。

「あ、しまった」
印鑑を出そうとカバンを探るも、妻のバッグを探ったが見つからない。家に忘れてきたようだ。

「すみません、今日は忘れてきたようです。ただ、ここに私が自筆でサインをしていますし、運転免許証もこの通り、本人であることは間違いのないことでしょう。わかりますよね」

「しかし、印鑑がないので本人とは認められません。規則ですから」

「いやだけど、本人証明として、顔写真の入った運転免許証という公的書類を提示して、あなたの目の前でサインをしていますよね。これでも、私は本人ではないと」

「印鑑を押した人が本人です。あ、シャチハタは認めません。規則ですから」

「だから、公的書類で本人証明をして、サインをしていますよね」

「印鑑を押してください。サインは偽造できますが、印鑑は偽造できませんから。それに規則ですから 」

「わかりました。そこまで言うなら、私は今、ここの目の前にある文房具屋で3文判を買ってきましょう。それを押せばいいですね。あなたは、自筆サインより、公的証明書よりも3文判を信じるということですね」

「印鑑を押していただくのが規則ですから。あ、あと10分で12時になります。午前の受付は12時までです。午後の受付は午後1時からとなります」

妻、「もういいから印鑑を買ってきましょう」
といって、いったんこの場は収まりました。
結局、午前の受付には間に合わず、午後の受付に3文判を押した書類を提出し、その日は終わった。

どうにも気持ちの収まりがつかないのは夫のほう。

「どうして、これほど確かな顔写真入りの公的身分証明書を提示して、自筆でサインをしているのに、市販の3文判のほうがそれよりも信頼できるのか」

「だいたい、シャチハタはダメって何だ?同じ赤い丸で文字を囲んだインク付きの道具ではないか」

「そもそもシャチハタと通常の印鑑はどこがどう違って、その違いは肉眼で判別できるのか?」

「制度が間違っているなら、制度を変えればいいのではないか」
もちろん、その考えは一瞬頭をよぎった。
しかし、夫は技術者であった。
社会を説得することには興味がない。
目の前にある『解けない問題』を解くことに、何より心が躍った。
制度への怒りよりも、そのシャチハタと印鑑の違いのほうに興味が出てきた。
そして夫は決意した。

「よし、俺が印鑑に見えるシャチハタを作ってやる。これは制度に対する反抗でもあるし、技術の追求でもある」

始めてしまうと、これが凝り性で現役時代は技術屋畑を渡り歩いてきた人間なもんだから、自分の書斎にこもって、昼夜を分かたず研究に打ち込む。
まずはシャチハタと印鑑の違いを調べる。

「ふむふむ、シャチハタは”浸透印”というのか。内蔵インクがゴム印に染み込んでいて、ポンと押せると。インクは主に「染料系」で、 紙に“染み込む”んだな。」

「ええと、一般の印鑑の場合は、 印鑑に朱肉をつけて押すと。 インクは「顔料系」で、 紙の表面に“乗る”タイプであると」

さて、印鑑の材質はどうしようか、インクも濃度、混合比など無限に組み合わせ、リアルを追及した。
ただの浸透印では納得できない。
印材は本柘植。
職人に依頼した伝統工芸の外観。
内部には特殊なインク保持機構。
押圧、温度、湿度によるインクの流量まで計算する。
やがて、夫が 部屋の外に出てくるのは、トイレ、入浴時、就寝するときだけになった。

「違う。これではまだ、ただ高級なシャチハタだ」

「印鑑に見えるだけでは足りない」

「本物の印鑑でありながら、シャチハタでなければならない。紙の微細な凹凸に、顔料系インクを『乗せる』のだ」 

研究は続いた。
三年。
五年。
十年。
その間、日本は変わった。
行政のデジタル化は進み、押印は電子署名へ移行した。
役所に提出する文書から印鑑欄は消えた。
研究に一途に打ち込んでいた夫はそのことを知らなかった。
そして、ついに完成の日を迎えた。
見た目は完全に本柘植の重厚な印鑑でありながら、朱肉なしで、紙の表面に完璧な「顔料の印影」を乗せる奇跡の機構。 
夫は晴れやかな顔で市役所へ向かった。

「ついにこの日が来た」

窓口の若い職員が微笑む。

「本日はどのようなご用件でしょうか?」

「なんだ、妙に愛想のいい窓口係だな。この間来た時には木で鼻を突くような対応だったのに。まぁ、愛想のいいのは悪いことではないな。」

「さて、家族の戸籍謄本が欲しいのですが、書類をください。委任状も頂きたい」

そして、書類を書き終わり、窓口で

「この書類、委任状には押印欄がないようですが、ミスプリですか?」

職員は首をかしげる。

「印、ですか?」

「そう、印鑑です。日本人の魂です」

「……は?」

その声を聞いて、奥から年配の職員がゆっくり出てくる。
彼は夫の顔を見る。
一瞬、目を細める。

「……あなただったのですか」

夫も気づく。

「君は……あの時の」
沈黙。
十年前、窓口で繰り広げられたあの不毛な戦い。
そして彼は言う。

「申し訳ありません。印鑑制度は五年前、完全に廃止されました」

彼はもう「規則ですから」とは言わない。
なぜなら、彼自身がその規則が消えていく過程を見てきたから。


夫は愕然とした。
 十年にわたる研究。
四千時間の孤独。
百二十本の試作品。 
制度に勝つための究極の兵器を作ったはずが、戦うべき戦場そのものが消滅していたのだ。
夫は天を仰ぎ、叫んだ。


俺に印鑑を押させろーーー!!


遠い未来、博物館の展示スペースには、一本の古ぼけた筒状の道具と、新しく書き換えられた解説パネルが並んでいた。



『印鑑帝国史 第三章 滅亡』
西暦20XX年、長きにわたり日本列島を支配した印鑑帝国は、一人の老人によって終焉を迎えた。
帝国の民は、紙に朱色の印影を刻むことで安心を得ていた。
しかし、反乱軍の兵器「シャチハタ」が、帝国の根幹である「朱肉を付ける」という儀式を無力化したのである。
後世の歴史家は、この出来事を「朱肉革命」と呼ぶ。

『印鑑(いんかん)』
20世紀から21世紀初頭の日本で使用された儀礼具。
所有者本人の意思を確認するための道具とされたが、同姓の者であれば文具店で容易に入手できるものも多かった。
なお、当時の人々は、顔写真付き身分証明書や自筆署名よりも、この赤い痕跡を高く評価する文化を持っていた。』 



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