吉本隆明 言語にとって美とはなにか 第Ⅳ章 表現転移論第Ⅲ部 現代表出史論1新感覚の意味
吉本隆明氏が論じる**「新感覚(新感覚派)」の真の意味と、大正末期から昭和初期にかけての日本近代文学における表現の革命**について解説します。
吉本氏は、横光利一に代表される「新感覚派」を単なる一過性の文学運動としてではなく、高度資本主義社会における**「自己意識の解体」に対する必然的な表現の到達点**として捉えています。
1. 時代背景:意識の均質化と存在の不確かさ
大正末期、資本制社会の拡大により個人の生活条件は「ローラーで押し慣らされたよう」に均質化されました。
存在の揺らぎ: 社会の構成が巨大化・複雑化する中で、個人は「自分が世界のどこに位置しているのか」という確信を失い、外界との関係が不安定になります。
表現の課題: この「あやふやになった自己意識」が、どのように現実と向き合い、言葉として定着させるかが、当時の文学が直面した最大の課題でした。
2. 「新感覚」の第一の形態:対象の等質化と交換可能性
横光利一の初期短編(『蝿』『頭ならびに腹』など)に見られる革新性は、現実世界の秩序を解体し、**「主客の転倒」**を行った点にあります。
対象の平準化: 現実では「石ころと人間」「猫と船」は全く別の意味を持ちますが、解体された意識の中では、これらは等しい価値を持つ「対象」として並列化されます。
主客の交換: 横光は「馬が御者を探す」「日の光が御者の背中に乗りかかる」「朝日が私の胸を目がけて殺到する」といった描写を用いました。これは、主体と客体(対象)の関係が**「交換可能な相対的なもの」**に過ぎないという認識の現れです。
3. 「新感覚」の第二の形態:内面の不確かさの拡大
もう一つの脱出路は、形のない**「心のうちの不確かな世界」**を精密に定着させることでした。
拡大鏡としての表現: 佐藤春夫の『都会の憂鬱』や中条百合子の『伸子』のように、鏡に反射する光を眺めるといった些細な日常の動きを、拡大鏡にかけるように細部まで描写します。
存在の確認: これは些細な事柄を尊重しているのではなく、拡散してしまいそうな自己意識を、あえて対象を制限し集中させることで**「統覚(統合)」**しようとする、切実な欲求の表出でした。
4. 横光利一による理論化
横光自身、評論『感覚活動』において、「新感覚」を単なる外部からの刺激への反応ではなく、**「主観的な客観」**からの触発であると述べています。
自然の外装の剥奪: それは自然の表面を剥ぎ取り、「物自体」に直接入り込む直感的な把握を意味していました。
表現の自由: 吉本氏は、横光の主張の本質を「表現は対象が現実世界で持っている序列や位相から完全に自由であって良い」という文体革命にあると見ています。
5. 「新感覚」の普遍性と文学史への批判
吉本氏は、いわゆる「新感覚派」という特定のグループを超えて、この時期の優れた文学にはすべて「新感覚」の刻印が押されていると論じています。
三派鼎立(ていりつ)説への疑義: 昭和文学史でよく語られる「プロレタリア文学」「モダニズム(新感覚派)」「既成リアリズム」の三つが対立していたという見方を、吉本氏は「便宜的な区分け」に過ぎないと批判します。
共通の質: 優れた作品であれば、中野重治や小林多喜二といったプロレタリア作家であっても、志賀直哉や谷崎潤一郎であっても、同じ時代の「新感覚(自己表出の飛躍)」という運命的な表現の波の中にあったと指摘します。
結論
吉本氏にとって「新感覚」とは、明治末期の「自然主義」が指示表出(現実の多様化)の極致であったのと対照的に、**「言語の自己表出意識の飛躍と励起」**が極まった状態を指します。
この表現の変革は、単なる技法の問題ではなく、**「社会の根底にある核の変化」**に対応したものであり、人間が近代という巨大なシステムの中で自己を維持しようとした、最後にして最高水準の精神的格闘であったと結論づけています。
