第5話 「年の瀬や・・・」年末年始といえば、忠臣蔵!
第5話目の今回も、本当の歴史、真の歴史の謎解きではなく、一般的な歴史のお話しとして赤穂浪士、つまり、「忠臣蔵」についてお話ししたいと思います。
宝井其角の発句「年の瀬や水の流れと人の身は」
大高源吾の返し「明日待たるるその宝船」
俳諧師である宝井其角と煤竹売りに変装していた大高源吾(赤穂浪士の一人)、二人には以前から交流があり、討入りの前日、二人は両国橋の上でばったり出会って、宝井其角が「ここで一句、年の瀬や水の流れと人の身は」と発句すると、大高源吾は「明日待たるるその宝船」と返した。
「忠臣蔵」の名場面の一つです。
今は12月と言えばクリスマスですが、江戸時代には12月といえば歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」を楽しむとか、とにかく年末年始といえば「忠臣蔵」といえるほど、「忠臣蔵」は日本の年末年始の風物詩の一つだったのです。
大河ドラマ「べらぼう」の時代より80年から90年前、「忠臣蔵」の題材となる元禄赤穂事件、つまり、赤穂浪士の討入りがありました。
この時に日本全国の人々は見事に主君浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士たちに拍手喝采し、「忠義の士」と賞賛しました。
そうした世論を受けて幕府は赤穂浪士たちの処遇に苦慮しました。
文治政治を強く掲げる将軍徳川綱吉自身も赤穂浪士たちの処遇について困り果て、綱吉の目の前で林大学頭と大給徂徠という儒学の専門家である二人に討論をさせましたが、その討論では、綱吉のブレーンであるはずの林大学頭のほうがむしろ赤穂浪士の助命を主張することになりました。
綱吉の赤穂浪士たちに対する最終的な「決裁」はよく知られていますが、実はこの元禄赤穂事件には大きな裏の真実があるのです。
元禄赤穂事件が起こった時代は大坂の陣から80年以上も経っていた時代です。
時の将軍綱吉は元々非常に優秀な人物で、それまでの武断政治からいよいよ本格的な文治政治への切り替えを標榜し、悪法とされた「生類憐れみの令」でさえも現代の観念では当たり前とも言える、時代を300年も先取りした凄い法律でした。
当時の日本は既に平和な社会が定着し、元禄バブルと呼ばれる商人繁栄の時代を迎えていて、武士が戦うことのない時代でした。
綱吉の極端で急進的とも言える文治政治への切り替えや多数の大名家の取り潰し、そして、元禄バブルという商人繁栄の世の中にあって、翻弄されていた武士たちも少なくなく、武士が武士らしさを忘れかけていた時代でした。
そんな時代に赤穂浪士たちは討入りをし、綱吉の治世に抗議することになったのです。
儒教の「忠孝」の道徳観を庶民にまで根付かせることは日本に秩序ある平和な社会を定着させるのに必要不可欠だったのですが、赤穂浪士たちはそんな秩序ある平和な社会を揺るがす大事件を起こしたのにもかかわらず、既に儒教の「忠孝」の道徳観が庶民にまで根付いたために、むしろ逆に庶民を含む日本全国の人々たちから大喝采を受けることになったのです。
義理人情を重んじる江戸の商人町人や武士たちはもちろんですが、幕閣の要職にある人々でさえも赤穂浪士たちを賞賛しました。

では、この元禄赤穂事件の顛末は期せずして起こったことなのでしょうか?
実は元禄赤穂事件も計画済みの出来事の一つだったのです。
その詳細はまたいつか本当の歴史、真の歴史でお伝えしたいと思います。
長谷川平蔵を火付盗賊改方頭に取り立てた老中である松平定信は非常に才気ある人物でしたが、その才気と真面目さ故に煙たがられもしました。
そして、綱吉も元々は非常に優秀な人物でしたし、特に江戸っ子たちは「将軍さんのお膝元」の住人として基本的に大の将軍びいきですが、綱吉は理想を断行しようとするあまり、世間では良い評判がなされませんでした。
これらのことは表面上の事実というだけのことであり、例えば今回のテーマである元禄赤穂事件や綱吉の評判でさえも、実は「ある目的」のために非常にうまくコントロールされていたですが、そうした本当の歴史、真の歴史は置いておいて、とにかく、これらのことから、やはり、立場が上であればあるほど、中庸であることが大切であると思われます。
ちなみに、赤穂浪士ゆかりの寺院である泉岳寺すぐそばのお店には「忠臣蔵トランプ」が売っていて、私は思わず買ってしまいました。
写真をいくつか掲載しますね。
皆さんも、もしよろしければ是非!



