中編小説「BBQ」創作大賞2026応募
あらすじ
「BBQが怖い」
理由はわからない。悪いことだとも思っていない。犯罪でもなければ、誰かに迷惑をかけるわけでもない。それでも何かうまくいくたびに、胸に重たい何かがのしかかってくる。気づけばその言葉が、日常のあらゆる場面に忍び込んでくる。美容室で、スーパーで、職場で、寝室で。結婚して、子供も生まれて、仕事もそれなりにうまくいっているというのに、どこにいても、BBQから逃げられない。
関西弁の内声でひたすら綴られる、笑えて少し切ない中編小説。主人公が何を恐れているのかは、最後まで読んでも、たぶん本人にもわからない。でも読み終えたとき、あなたの中で確実に「BBQ」という言葉の意味が変わっている。(約40000文字)
1
「高橋君、ちょっとええかな」
俺は高橋君の隣にすっと近寄ると、彼にそう声をかけて、ブースの裏に移動してもらった。
彼は、最初うれしそうな顔をしていたが、俺がそれを見て全然笑わないので、彼としてもこれは何かあるなと勘付いたのか、次第に真剣な顔つきになった。
俺は言った。
「なんか、ずっと数字見ててんけどさ」
「はい」
「あと今までの動きも見ててんけどさ」
「はい」
「なんか、ここのブース、君しか契約取れてへんな」
「え?」
高橋君が驚いたような顔をする。こちらの、まだ怒っているとも、褒めているとも取れない絶妙な言葉のライン設定に戸惑っているみたいだった。
俺は続けた。
「先に言うとさ、俺が君に期待してるのは、そういうことちゃうねんけど」
高橋君の顔が曇っている。
俺が何を言おうとしているのかわかっていないのか、それともわかってはいるが、何と切り返せばいいのか、今この瞬間に考えているのか。
しばらくして彼が唇を軽く噛みしめながら言った。
「すみません、長治さんのおっしゃってることは何となくわかるんですが」
何?
「まずは自分が結果を出さないと、みんなもついてきてくれないかなって考えて。それで結局自分でやってしまった、みたいな面はあります」
まあそれも一理あるんでしょう。
てか別に俺もそんな販売の正解があるのとか知らんよ? 知らんけど、でも君だけがこのまま結果を出し続けてもしゃーない。
「ほなもっと簡単に言うけどさ、今回ここに君を抜擢したんは俺やん? そしたら俺は君を使ってどういう結果が欲しいわけ? 君のこれまでの個人成績はな、ここに抜擢するために必要やってん。俺はそこからさ、さらに君の個人成績を伸ばしてあげたいわけ?」
高橋君が言う。
「それはちゃうと思います」
やんな。
「僕がここの売り場を任されているのは、チームとしての成績を挙げられるからだと思ってもらえているからです」
そうそう。
わかってるやん、高橋君。俺は別に君のプレーヤーとしての能力に惚れてるわけじゃないんです。君みたいな成績を出す人は、そんなん死ぬほど混んでるショッピングモールに置いておいたら、確率論で一定数は出てくるんです。
俺は言った。
「ほな、高橋君がホンマにやらなあかんことって何なん」
「みんなの数字を出す……」
それはそやけど。
「そのためにどうするんやって聞いてんねんけど」
「やっぱり、僕が先頭に立って……」
俺は高橋君の肩に手を乗せて、
「いや、ええねんで? それでな、みんながホンマについてきてくれたらええねんけど、残念ながらみんながみんな高橋君みたいに要領のええ子ばっかりちゃうと思うんよな。それに中にはな、高橋君がすごい売るから、自分はあかんねやって落ち込む子とかも出てくるかもしれへんやん」
「それは……」
「わかるよ? 気持ちはわかんねんけど、人材も無限じゃないから」
俺はそう言うと高橋君の目を見て、テーブルの上にあった水を口に含んだ。
高橋君が言う。
「ほなどうしたらいいんですか?」
「マネさせてみて」
電車の窓から、名前の知らない川の両サイドに桜の咲き誇っている様子が見えた。白くて輝いていて、とても春らしい感じがする。電車の中なので気温はほぼ感じないが、外に出るとそれなりの陽気が出迎えてくれるような気がする。
車内には、まだ冬用の上着を羽織っている人が何人かいるけれども。
個人の判断だから、それにケチをつけるのは無粋だろうが、いつまでも厚着なのは、春の訪れにケチをつける行為であるような気もする。
全然好きな仕事というわけではなかった。だから真剣に取り組んだ記憶もない。でも何となくここまで生き残ってみて、自分の性に合っていたのかな、と思う面もある。
ウォーターサーバーの営業である。
最初は大学生の頃のアルバイトだった。やる気がなくて、自分の話を聞いてくれる人などいないだろうと思っていたが、なぜか初日でポンポンと流れるように契約をとってしまった。
その日の全ブースでの売り上げ一位になった。
あとから振り返ると、たまに出くわすラッキーデイだったに違いないと思うのだけれども、何も知らないそのころの自分には「このバイト、またやりたいな」と思うには十分な結果だった。
それから大学の卒業が迫り、何社か内定も取ったのだが、今の会社にそのままバイトから正社員として登用してもらうことになった。そのころには、完全に自分の力量など把握していて、別にこの世界で絶対にがんばりたいから、とか、俺がこの世界を新しく塗り替えるんだ、とかそういう青い感じの野望はなく、ただ単純に知らない仕事をするよりは、慣れ親しんだ仕事の方がええかな、というなめた気持ちしかなかった。
それでも何とか辞めずに今まで続けてきたのは、この仕事を一度も好きだと思ったことがないからだと思う。
それゆえに、繰り返しになるが、マジで一度も真剣に考えたことがない。だからもっと適当なことを言わせてもらえば、明日すべてのウォーターサーバーが爆発するかもしれないと思って生きている。
明日、すべてのウォーターサーバーが爆発する?
俺は視界から消え去ろうとする桜を眺め続けた。さすがに、適当に言いすぎか……そもそも、すべてのウォーターサーバーが爆発するかもしれないなんて、これまで一度たりとも真剣に考えたことないじゃないか。
どうしたんやろ、俺。
「マネって、たとえばどうするんですか?」
真剣な目つきになる高橋君。
そんなに俺の話が聞きたいか。
「いや、だから、それはな」
俺はそう言うと、スタッフ全員に配布しているトークスクリプトの用紙を彼の目の前で破いて、
「こんなん長いから。マネさせるのは一個だけ。一個のトークだけでいいから。それは高橋君に任せるから。絶対に自分で、これやったらお客様相手に決めれるし、自分もそういえば使いまくってるなってやつあるやろ。それを一個だけ、ほかのスタッフの子たちにも教えてあげてよ」
「えー、そんなん、なんかあるかな」
あるって。
てか逆になかったら、お前どうやって契約取っててん。そのときは俺に連絡してこい。
「大丈夫、それは絶対にあるから。ここまで売ってきた自分のことを振り返れ。ほんでまず君が見なあかんのは、みんながそれを徹底できてるかどうか」
「はい」
「とにかくみんながマジで同じことできてるかどうか、鬼のようにチェックして。そのために、そもそもホンマにガチでみんながマネできるものになってるかどうかが重要」
「はい」
「いいか? マネさせて、ほんでみんなに結果出してもらうんやで。結果が出たら、その人も仕事が楽しくなってくるから」
あとのブースには適当に電話で連絡をして、俺は一人電車で帰った。社用車もほかの営業の人に渡して、ブラブラ休日の昼下がりの日差しの中を歩いてみる。
最近、結婚して子供も生まれた。
最近、じゃないな……もう子供も生まれて二年経つから、結構前のことと言えるかもしれない。
だがちょうど結婚したときくらいからだろうか。
何かがうまく行ったとき、あるいはうまく行きそうなときでも、ぐっと俺の胸に重たい何かがのしかかってくることがある。
俺はそれを感じたとき、あえて口でこう呟くようにしている。
――まあこんな俺でも、そのうちいつかはBBQに行くことになんねんけどな。
意味不明だろう。
しかし高橋君が俺の言うとおりにチームとしての成績を出してきたら、俺はまたBBQのセリフを言うことになるだろう。
何もかもうまく行くなんて、そんなん絶対にあり得へんねんから。
2
車の中で過ごすのが段々暑くなってきた。エンジンをかけて窓を開けようとするが、虫が入ってくるのが嫌だなと思うとそれはやめ、クーラーをつけた。
パチンコ屋の駐車場だ。
ここでずっとクーラーをつけたまま過ごすわけにはいかない。かといって店内に入ると音がうるさいし、どこかほかの喫茶店か、あるいはファストフード店なんかに入るのがいいのかもしれないが、とりあえずまだ移動する気は起きない。
今朝、ショックなことがあった。
といって、別に本気でショックかと言われると、そんなことはないのだけれども……朝、我が家ではテレビを見ながら支度をするのが通例になっている。
いつものように準備を終え、出発時刻までの残り数分。ダイニングテーブルのイスに座って、情報番組を見ているときだった。
その日の特集は、パン屋だった。
大人気のパン屋だったか、伝統のあるパン屋だったかは忘れてしまったが、とにかくパン屋にアイドルがレポーターとして訪問する、みたいな感じだった。
そのアイドルが割烹着みたいなのに着替えて、髪の毛も帽子の中に入れて、いざ厨房に入っていく。
そのとき彼は言った。
――わー、今まさにパンを作っている最中ですね。
妻は無言。
息子は一生懸命朝ご飯を食べている。俺はふっと笑ってから、妻に話しかけた。
「あのさ、当たり前やんな」
「何が?」
「パン屋の取材で、パン屋の厨房に入って行くんやろ? そんなん休憩中に行くわけないやん。一服しているところに、わー、今は一服中なんですね、お疲れ様です、みたいな感じで厨房に入っていくわけないやん」
すると妻はふふっと笑って、
「それはそうかも」
俺はさらに、
「あ、でも今なんか思ってんけど、もしかしてこの瞬間にこの番組見て笑ってんのって日本で俺だけ?」
「それもそうかも」
うわ、マジか。
俺は少し困惑しながらも、
「寂しいねんけど。笑ってこんなに寂しい感じになることってあるんかな」
彼女はそれには何も答えず、あいかわらず笑っていた。
俺も一応それからふっと笑って視線をまたテレビに戻したが、胸はそわそわしていた。この時間に忙しくしているすべての人たちに悪いことをしたような気になった。
BBQに行くことになるんだろうな、とはどういうことかというと、それはつまりそのままの意味だ。
このまま生きていれば、俺はいずれBBQに行くことになる。
それは誰かに誘われてか、それか自分で誰かを誘うのか。
さすがに一人で行くってことはないだろうけど。
でも確実に行く機会が訪れることは間違いない。小学校に上がり、中学生になり、高校に入って大学を卒業する。
人はその過程のどこかで、おおよそBBQに行く。
人によっては、成人してからとか、結婚してからとか、あるいは、逆にもっと子供のときにそれを経験することもあるだろう。
絶対にBBQに行かないという人は……いるかもしれないが、数は少ないはずだ。
なぜならBBQに行くことは、犯罪ではなく娯楽だからだ。
で、何が問題なのか。
俺は何が言いたいのか。きっと重要なのは、個人的にそれを悪いと思っているのかそうではないのか。
悪いことだと思っているからこそ、そんな投げやりな感じで「BBQに行くことになるだろう」なんて言うんじゃないかって?
それは……どうだろう……
自分でもよくわからない。
ただ一つだけ言えることは、俺はこのまま生きていたら、いずれ近いうちにBBQに行くことになるんだろうなってことだ。
今はそれしか言えない。
「長治さん? どこほっつき歩いてるんですか」
「歩いてないよ。車やし」
「ヘリクツ言わんといてください」
事務の女の子から電話がかかってくる。
だって事務所に帰っても何もすることないもん。まあ、あるけど。
「みんな長治さんに確認とか取りたいこといっぱいあるんですよ。長治さん、用事ないんやったら帰ってきてくださいよ」
何や、俺に直接確認を取りながら進めたい仕事って。
全部メールにしろよ。
「あ、それより古田さん」
俺は声のトーンを変えて言う。「パン買って帰ろか? なんか食べたいパンないの」
「え、パンですか」
テレビでやってたパン屋はないけど、でもなんだかパンが食べたい気分だ。どんなパンにしようかな。
ちなみにテレビでは、なんかものすごい量の明太子クリームがかかったパンだった。
「え、じゃあ明太子クリームパン?」
「ちょっと古田さん!」
俺は思わず声を張り上げる。「それもしかして今朝の情報番組のやつちゃうん。古田さんもあれ見てたんや」
すると彼女も言う。
「え、見てましたよ。あれめっちゃおいしそうでしたね、もうなんか明太子クリーム盛り盛りって感じで」
「あー、まあ、おいしそうやったけど」
「買ってきてくれるんですか?」
「いや、テレビでやってたやつはもちろん無理やけどな。でも、ほな明太子を使った何かしらのパンは買って帰ろか?」
この話の流れのまま、俺としてはあのアイドルの厨房突撃場面のことを彼女に話してみたかったが、途中で冷静に頭の中でどうだろうと思った。
意味通じるかな?
通じたとして、はい、それで? みたいな雰囲気にならへんかな。
俺のむなしい感じというか、寂しい感じって伝わるんかな?
そういうことを考えているうちに、古田さんに厨房突撃の件を話してみようという気はなくなった。そしてもっというと、誰に話すのも自粛すべきだ、と思うに至った。
こういう日常の中の些細な出来事を話す相手も、今の俺にはいないのだ。
古くからの友人。
趣味を通じて最近できた友人。妻、子供、親、兄弟。それから同僚、後輩、先輩。
みんないない。
いるかもしれないが、しかしいない。
――俺、このままいくと、BBQに行くことになると思うんすけど、でも、それってそれでいいんすかね。
こういうことも、もちろん誰にも話したことがない。
それで変に真剣にアドバイスをされるのも嫌だし、もちろん適当に「何やそれ」とあしらわれるのも嫌だ。
俺のいうBBQは、もしかしたらものすごく個人的で特殊な悩みなのかもしれない。
悩み……まあそうか、これは悩みか。
「みんなの分も買ってきてくださいよ?」
何が?
スマホの向こうで古田さんが言う。
「だから、私だけじゃなくて、みんなの分です」
「え、みんなって、今何人くらいいんの?」
「みんな出てますけど、でも帰ってくるから、数人分は買ってきてくださいよ、パン」
えー、そんなに買ってたら、ちょっとした出費やん。
「買うのやめよかな」
「そこは買ってくださいよ!」
何でなん、みんな自分で買えよ。
俺は気を取り直して、
「まあ、でも真面目な話、このあと商談とかあるし、事務所に戻るの夕方やから、ほら、そのころにはみんな、各々の晩御飯とか見えてきてるやろし」
「買うの嫌なだけでしょ」
「ちゃうし! それに、やっぱテレビで見た明太子のパンじゃないとあかんのちゃうかなとも思ってきたし」
「もうホンマそういうとこ」
電話が切れた。
真っ暗になったスマホを見ながら、俺は、この事務員の女の子のやり取りも、結局は長い人生で見たら、BBQに一歩近づく行為だったんじゃないかなと思った。
正直、告白すると、ここのところ、BBQのことを考えない日はないのだ。
3
家に帰って家族と会話をするのが怖い。
もう俺には妻も子供もいて、ということは、彼らと話してると、もはやいつなんどきでも、「もしあれやったら、今度の週末BBQに行かへん?」みたいなことになりかねない。
マジでそんなことになったらどうするのか。
俺は一目散に自分の部屋に逃げ込み、それからそのほとぼりが冷めるまでそこから出てこられなくなることだろう。
何を言っているのか、そんなことでBBQの誘いから逃れられるわけがない。
妻に思い切りドアを叩かれて、「はよ出て来い」と言われるだけである。
そしてそんな妻を不思議そうに見る息子。
どうしてうちのパパはBBQの誘いを頑なに拒むのか。受け入れないのか。僕はBBQに行きたいのに。BBQに行って、河原の感じとか肉がいい感じに焼けるところとかを経験したいのに。
それなのにうちのパパは!
月に一度ほど、近所の美容室に髪を切りに行っている。そこでずっとお世話になっているわけではないが、ここ二、三年くらいは通い続けているだろうか。
いつも髪を切ってくれているのは、その店のオーナーの竹中さんという人だ。俺より少し年下の、二十代後半の男性。
東京で美容師をしたあと、田舎に帰ってきて自分の店を持ったらしい。
油断していたわけではなかった。
しかしそのときは急にやってきたのだ。
「そういえば僕、このあいだ知り合いとBBQに行ってきましてね」
「ほう」
ほうだってさ。ほうって何なのか。心臓に稲妻が刺さったかと思った。内心、俺は彼のそのセリフにそれくらい驚いていた。
どうするべきかと高速で考えた。
ダメだ、思いつかない。
「あの、最近きれいになった公園のある、広い河原でBBQしてきたんすよね」
「あー、あの公園ね」
どこの公園のことなのか。ここら辺は田舎だから、BBQをしようと思えばどこだってできるような気がするが、まあ知らんが、そういうBBQをするのにおあつらえ向きの公園があるんでしょう。
あの公園ね、とか言っちゃったし。
「あ、長治さんもご存じなんですか? そこの公園」
知らん知らん。
知らんけど言ってみただけや。話を俺に振るな。
俺はあえて言った。
「あれですよね、その公園、なんか俺の友達もよく家族で行くとか行かへんとか言ってたかもしれへんような、言ってなかったかもしれへんような」
「あー、まあ、家族連れは多かったっすね。てか今の時期やと桜がもうマジでバーっとすごくて」
「ほな多分そこですね」
そもそもそんな友達おらんし。怖いねんけど。もう今日のカット怖いわ!
竹中さんが続ける。
「それでね、まあ、久しぶりにBBQ行ってきたんですけど、結構良かったですよって話です。なんか、家族でするBBQもいいなって」
そういえば彼にも子供がいて、何だったらその子供のために田舎に帰ってくることを決意したんだったっけ。
めっちゃ子煩悩なパパやん。
俺は言った。
「まあそうですよね。昔、学生のときとかにやってたBBQとは違って、今やるBBQって完全に子供のためっていうか、家族のため、みたいな面ありますもんね。自分が楽しむよりも、ちゃんとみんなケガなく安全に楽しめてるかな、とか」
「あ、やっぱそうっすよね」
竹中さんが俺の話に乗っかってくる。ごめん、俺の話ははりぼてにもほどがあんねんけど。
しかしそんな俺の心の声は彼には届かず、彼は話し続ける。
「でも俺思ったんすよね。あー、なんかこのために俺は東京を離れてこっちに帰ってきたんやなって。別に向こうでの生活が嫌やったわけやないんですけどね、でも、やっぱ子供の笑顔とか、妻の笑顔とか見てると、これで良かったんやろなって」
「思います?」
俺は鏡を見て言った。
竹中さんは言い切った。「思いますね」
嘘やろ。
BBQするために東京から田舎に帰ってきたん?
マジで?
頭おかしいんか、こいつ。
俺は鏡の中の竹中さんの顔を見ながら、彼の死後、彼が地獄の閻魔様とワンオンワンで話し合っている場面を想像した。
「え、ほんで君、三十歳を目前にして、東京から田舎に戻る決断をしてるけど、これは何でなん」
「それは、子供をどこで育てるかってことを妻と話し合ったときに、やっぱり都会じゃなくて田舎の、自分たちが生まれ育ったような環境がいいんじゃないかって結論になって。それで田舎に帰る決断をしました」
「オートバックスとかいっぱいあるしね」
「え?」
「いや、何でもない――で、田舎に帰ってみてどうやったん」
「やっぱ良かったっすね。緑とかいっぱいあるし、家も広いし。それにちょうど僕ら世代の人たちも、田舎に帰ってきてるパターンが多くて。周りの建物とかスーパーとかも、古いものが取り壊されて、新しくなっていくタイミングでもあったんですよね。だから田舎と言えども、出かけるところはたくさんあってラッキーでした」
「二郎系のラーメンとかはないけど、丸源とかはあるもんね」
「え?」
「何でもないよ。ほかには何かいいところが?」
「そうですね、それからあとは、やっぱり家族の時間がたくさん取れるようになったことですかね。家族と遊ぶとしても、遊び場がすぐそこにある感じっていうか」
「遊び場?」
「そうです。たとえばBBQなんかも――」
「あれ、ってことはでも、長治さんもBBQとかよくするタイプっすか?」
目を開けて再び鏡を確認する。
竹中さんが不思議そうに俺の顔を見つめている。いけない、長らく妄想の世界に浸ってしまっていたようだ。
てかなんて?
俺にBBQとかよくするのかどうかって?
「まあ、控え目に言ってもこの辺の覇者ちゃうかな」
「覇者っすか」
覇者って何やねん! やばっ! ちょっと寝ぼけている感じで言ってしまったし。自分自身でも適当すぎて、もうどうやって取り返していったらいいか皆目わからんし。
竹中さんが言う。
「覇者ってつまり、BBQの覇者ってことっすか」
「まあ、文脈上そうなるよね」
どうすんねん、俺。
竹中さんは目を輝かせながら、
「え、そしたらなんかやっぱ普通のBBQとは違うんすか。俺らはまあ普通なんで焼くとしても肉とかなんですけど、長治さんとかはどんなものを焼いてるんすか」
なんやねん、その丁寧なパスは。
無理!
やめて!
「まあ、肉とかはブロンズクラスよね」
「ブロンズ……」
ブロンズって銅のことね。ソシャゲで覚えた言葉か!
竹中さんが続ける。
「そしたら、長治さんみたいに覇者クラスになると何を焼くんすか」
「せんべえ」
もう爆発しろ。俺がみんなに売っているウォーターサーバーじゃないけど、もうこの店にあるもの全部爆発して、ついでにこの町内にあるものすべても爆発しろ。
誰がBBQでわざわざせんべえ焼くねん。
てか焼かれる前のせんべえとか、冷静に考えたら俺見たことないぞ!
「あの……そのBBQってたとえば誰と行くんですか?」
竹中さんが真顔で手を止めて「まさか家族で行って、みんなで最後にせんべえ焼くとかそういう感じなんすか?」
俺は彼の言葉になんかまた適当に首をひねりながら、
「まあ、確かに家族で行くBBQではないかな」
「じゃあ誰と行くんすか?」
こいつ振ってき過ぎやろ。SNSに書き込むぞ。ここの店主は隙あらば客に話題を振ってくるので、コミュニケーション能力に自信のない人は気を付けましょう。逆にそのスキルを伸ばしたい人には、うってつけかもしれません、って。
一つの意見に偏らない俺の見事なバランス感覚!
「えーっと、ライバルかな」
「え? ライバルとBBQですか?」
もう今日帰る。
このままの話の流れで、今度お互いの家族を連れてBBQしましょうよ、みたいな感じになるのが嫌やったから、ガチで適当に答えてみたけど、ちょっと適当に答えすぎて、変な奴扱いされてるんちゃうかな。
これで確かにBBQには誘われなくなったかもしれへんけど、俺としても、もうこの店を今後利用するかどうか考えるレベルやわ。
だって絶対あだ名せんべえやん。
あー、もうホンマBBQいらんわ。
「そしたら、ありがとうございました」
竹中さんが言う。
俺もあわてて、
「あ、ありがとうございました」
いつものように、カット後、竹中さんは店のドアまで見送りに来てくれたが、俺はそんな彼の顔を一度もまともに見ることができず、そそくさとその場をあとにした。
外はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだった。むっと春の生暖かい風が頬に当たった。
桜も、これで終わりだろう。
4
「またここか……」
休日。
俺は家族を乗せた車を商業施設の駐車場に止めてそう呟きかけた。だが実際には呟かなかった。
呟いたところでどうにもならないから?
惜しい、正解は、もし本当にそんなことを呟いてしまって、かつそれが後部座席の妻に聞かれていたら、
「え、何? それってどういうこと?」
と興味を持たれてしまうからだ。
つまり「またここか」と呟いてしまった意味や背景を彼女に説明しなければならなくなる。
それは決して楽しい作業ではないだろう。俺の心が明るくなるような作業ではないし、また妻や子供の心も明るくするような作業でもない。
たどり着いたのは、家から二十分ほど離れたところにある、巨大スーパーだった。ここには本当に何でもそろっている。
園芸品から食材、日用品、衣料品、あるいはちょっとした家電や家具なんかもそろえられている。ホームセンターというくくりではないらしいが、店の大きさは、正直一般的なそれの数倍はあるんじゃないかと思われる。
この建物は数年前にできたのだ。
前は何もないところだった。空き地ですらなかったはずだ。だがいつの間にか土地が整備されていて、気が付くとこのスーパーが出来上がっていた。
車を降りて店の入り口まで家族と移動し、俺は、カートを手に取ったかと思ったらそれをすぐに妻にパスした。
妻はそのカートに子供を乗せながら、カゴも取って、と俺に言ってくる。
俺はすばやく空のカゴをカートに乗せて、彼女に言った。
「ほんじゃ俺、またちょっとええ感じの袋麺がないか先見てくるから」
俺は彼女たちの元をあとにする。
俺が、
「またここか」
と呟いた理由は、このスーパーがあまりにもBBQとの親和性が高すぎるからだ。こんなスーパーに来てしまったら、普段からどんなにBBQ欲のない人でも、「あー、また近いうちにBBQしたいな」と思わざるを得なくなる。
そういうBBQ用の肉やら野菜やら調理器具なんかが、本当に信じられないくらいに大量に店内に並んでいるからである。
もし!
そんなところを家族でカートを押しながらブラブラしてみなさい。
もはやこの俺ですら、「よし、そしたら今週末はBBQにするか」みたいなことを妻に宣言しかねない。
実際にはきっとそんなこと言わないんだろうけど。
それにしてもだからといって、家族から離れて店内を一人で見回る理由が、
「ちょっとええ感じの袋麺がないかどうか見てくる」
というのはどうなのだろうか。
何やそれは、と自分でも思う。俺は袋麺大好き人間なのか。しっかりと毎日手作りの料理を食べているにも関わらず、それにプラスしてどうしても袋麺を食べないと、どこか体に支障をきたしてしまうような特殊なボディを持っている個体なのか。
妻もよく、
「うん、わかった」
みたいな顔で俺のことを見送るよね。せっかくの休日、家族でスーパーに来ているにもかかわらず、すぐに自分一人だけそそくさと最新の袋麺をチェックしに行く夫を、彼女は自分の周りの人間になんと説明しているのか。
「男の人って袋麺にしか興味ないよね。なんでみんなあんなに袋麺が好きなのかしら」
こんな感じなのか!
バカにされてるやんけ。でもだからといって、やはり家族でこのスーパーの店内をうろつくわけにはいかない。いつBBQというワードとエンカウントするかわからないのだから。
先日、前に会社を辞めた先輩とばったり会った。
名古屋に出張しているときだった。
場所は商業施設のトイレ前。
こんなところで何してるんですか、と言うと、ちょっと妻にプレゼント買いに来たんや、と言っていた。
いやー、不倫相手ちゃうん。
それでまあ時間も時間だったし、立ち話もあれだと思ったので、一緒に飲みに行くことになった。
その人は俺がアルバイトのときから一緒に働いていた人で、当時は、いってみれば俺のいい兄貴分みたいな人だったのだが、途中で名古屋に転勤になり、それきり疎遠になり、気が付けば退職していた、みたいな感じの人だった。
特別濃いつながりのある人ではないが、ばったりと会って、ほんじゃまた、みたいにすっと別れられる人でもなかった。
話題は仕事のことになり、今何してるんすか、と率直に尋ねると、給湯器の営業やな、と答えが返ってきた。
あんまり変わらん、似たような仕事じゃないですか、と思っていると、彼は俺に言った。
「お前はどうなん、あの会社であいかわらずなん」
俺は別に本当のことを言う義理はないなと思ったので、適当に愛想笑いしながら、まあぼちぼちですね、みたいなことを言った。
会社への不満はないのだ。
一緒に働いている人たちへの不満もない。仕事の進め方も……まあ、こういうことを言い出すと、結局話の筋は前と同じで、別に本気じゃないから、好きだと思ったことは一度もないから、どんな方針にも体を動かせるし、それなりにがんばれます、みたいなことしか言えない気がする。
田畑さんという人だ。
彼は言った。
「あの会社もなー、先代のときはおもろかってんけど、今の息子の代になってからな、なんかいずらくなってな」
「そうなんですか?」
そういえば田畑さんが退職したときと、会社のトップが変わった頃はリンクしているかもしれない。俺は別に、誰が社長でも変わらんけど。
「お前、ずっとあの会社にいるん?」
「いや……」
どうだろう。特に考えたことはない。
田畑さんが言う。
「お前さ、なんか自分でやりたいとかないん? 営業やったらさ、いろいろほかにも声かかるやろ。何か一つ自分でやってやろとかさ、そういうのないん?」
ないっす、ね。
俺は言う。
「え、そしたら田畑さんは今のその給湯器の営業、自分でやってはるんすか」
「一応な」
へー。
「もちろん俺一人でやってるわけやないけどな。でも仲間集めて、それで結局いろいろあってくっついたり離れたりしながら、でも何とかやってるで」
「社長っすか?」
「いや、俺は取締役」
田畑さんはそう言うと、テーブルの上にあったビールのジョッキを、なぜか右手で少しだけ横に移動させた。どうなんやろ。
まあ確かにいちサラリーマンが会社の取締役になってるとかすごいかもしれんけど、この話もホンマか嘘かよくわからんしな。
それに結局今も働いてることには変わりないんかな。とすると、何やってても一緒のような気がしないでもないし。
俺としても、そりゃ今でも現場に立って一つ一つ丁寧にやれって言われたら嫌かもしれへんけど、うーん、でも別にそれも嫌じゃないかもしれへんけど、でもマジでどうなんやろ。
俺が何も考えてなさすぎなだけなんかな?
確かに今の仕事もいつまで続くかわからんし、すぐほかの何かに置き換えられるかもわからんし、かつ自分だって、どこまで行けるかもわからんけど。
でも。
「うわ、お前結婚して子供いてるやん」
SNSを田畑さんと共有した直後だった。俺がそこに乗せてる写真を見て、彼が驚愕し始めた。
「お前……おっきなったなあ。初めて会ったころなんて、お前こんなヒヨコみたいで、いつもほっぺた真っ赤やったのに。それがいつの間にこんな嫁さんももらって子供まで」
「言ってませんでしたっけ?」
「知らんよ。でもまあみんなそんなもんか」
ですです。
「へー、ほんで嫁さんとはどこで知り会うたん? 神戸のモザイクの、二階の女子トイレの前?」
「急に限定的過ぎません?」
久しぶりに会った人間同士で、話はまさかお互いの本音へはたどり着かない。時間を一緒に過ごせただけでも、その日はそれなりに楽しかった。
袋麺のコーナーで腰をかがめて品物を物色していると、太い二の腕をタンクトップで見せつけまくっている父親と、それにくっついて歩いている小学生くらいの男の子のコンビが現れた。
休日と言っても、それは俺にとっての休日であって、世間的にはただの平日、この日に限って言えば水曜日に違いない。
何の仕事してる人なんかな、と思いながらも、まあ関係ないしなと物色を続けていると、ふいにその親子の会話が聞こえてきた。
まずは父親の声だ。
「ええか、ジョニー。BBQの締めはな、袋麺や。ここにある袋麺で一番BBQに合いそうなやつを選んで、それを今週末のBBQに持って行くんや」
ジョニーって。え、それ息子の名前? それともあだ名?
「ダディー」
やめろや。男の子が父親の目を見て呟く。
「僕はもう決めてんねん。それは豚骨醤油やねん。この世に、豚骨醤油以上においしい袋麺なんて存在せえへんねん」
なんて力強いお言葉。
明らかに人生経験は足りてなさそうだけど、意外と一周回って真実味のある言葉なのかもしれない。
「よし、じゃあ久しぶりにチキンラーメンにするか」
「うんっ」
どういう会話なん? 他人の家族の会話やから別になんでもええけど、もし俺が息子の立場やとして、自分の父親がこんな整合性の欠片もない会話を俺に仕掛けてきたら、さすがの俺もブチ切れるで。
二の腕と小学生の親子が袋麺の売り場から立ち去っていくのを、俺は後ろから眺めることしかできなかった。
スマホに田畑さんからのメッセージが入っていた。
まさか……と思うと、俺はしばらく彼からのメッセージを開けなかった。
5
社用車の中でスマホをいじっていると、窓がコンコンと鳴った。
「あ、飯田さん」
急いで窓を下げる。彼はこの会社の役員だ。久しぶりだが何の用だろうか。普段、ほとんど顔を見ない人でもある。
「ちょっと時間あるか?」
「ありますけど」
そう言って車から降りようとすると、彼はそれを手で静止して、隣の助手席に乗り込んできた。
場所は会社が借りている駐車場だ。
こんなところで何用?
「久しぶりやな」
飯田さんがそう言って俺に缶コーヒーを渡してくる。関西限定のめちゃくちゃ甘いやつ。俺はそれを受け取ると、すぐにタブを外した。
「お前最近どやねん。元気か?」
俺は答えた。
「元気ですよ。てか飯田さんもお元気ですか? 最近何してるんですか」
「別に何もしてへんよ。デスクで枝毛切りまくってる」
乙女かよ。
てかそんな枝毛を気にするほど髪の毛長くないっすやん。
「子供はどうや?」
子供?
「あー、元気ですね。なんかずっとぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋ってますね」
「かわいいやろ」
まあ、それなりに。
すると、飯田さんがマジでルームミラーで髪の分け目を確認するという小技を利かせてから、
「最近、社内で話でてんねんけどなあ」
何すか。
「お前な、転勤とか大丈夫なん?」
転勤……なんで? どこに? これまで通り大阪と名古屋のあいだくらいだったらどこでもいいけれども、でも急に九州とか北海道とかだったら、そんな話は聞いていない。
でもうちの会社も、そこまで販売網があるわけじゃないし。
俺はシートに座り直して、
「え、それは俺が転勤になるってことですか? もちろん転勤は大丈夫なんですけど、ぶっちゃけどこに?」
「東京やな」
考えたことないけど、東京ってどういうこと? 東京に支店ないでしょ。
黙っていると、飯田さんは軽くため息をついてから、
「まだ決定事項じゃないねんけどさ、先に話しといたらなあかんなあと思ってさ。この話の続き聞く?」
何その思わせぶりな感じ。聞かへん選択肢あるんですか。
「はい、ぜひ聞かせてください」
「よっしゃ、そしたらさ」
飯田さんが自らの太ももを手で叩き、再びルームミラーに目くばせをしたかと思ったら、「この話の続きを吹き込んだカセットテープを、今度お前んち宛てに送るからさ、それを何とか奥さんにバレへんようにポストから取り出してラジカセとかで聞いてくれよ」
「今すぐここで話の続きをしてください。何のために助手席に乗り込んできたんですか」
まったく、このハゲボケ過ぎやろ。ほっといたらすぐこんな感じになる。こっちとしては転勤かかってんねんぞ。
まあBBQちゃうからどうでもええけど。
名古屋でばったり会った田畑さんの話は、これとは真逆だった。
あのあとの電話で彼は、
「そういえばさ、お前、家族できたって言ってたやんか」
「はい」
「家とか考えてないの? マイホームとか。いやさ、そういうのって、早めに決めとかへんかったら、いざ欲しいと思ったときにはちょっと手遅れやった、みたいなことになりかねへんからさ」
「そうなんですか?」
「そうやで。まあガチで買おうと思ったら、そんなんはいつでもできるかもしれへんけどさ、でも手に入れたときに、そこで過ごす時間が長いのと短いのやったら、そら長い方がいいやろ? そしたら、もう今の段階で一度考えるのも、悪くないんちゃうかなと思って」
確かに言われてみれば、買っていいかどうかはわからないが、それを一度検討してみるくらいはした方がいいような気がしてきた。
何と返事すべきか迷っていると、田畑さんは続けてきた。
「俺もマイホームをさ、実はついこのあいだ買ったとこやねん。だからもしかしたらいろいろアドバイス乗れるんちゃうかなと思って。ぶっちゃけいい設計会社とか業者とかも紹介できるんちゃうかなって」
「そうなんですね」
「奥さんとそんな話になることないん?」
奥さんとは……最近あまりしゃべっていないかもしれない。いや、しゃべっていることはしゃべっているのだが、もはや何についてしゃべったのか思い出せない。
ちなみに妻からマイホームのことについて言われたことはない。
今は賃貸で暮らしていて、一応そこはファミリータイプの物件だから、まだ手狭だとか、古いとか、そういう不満を持ったことがないのだろう。
本心はもちろんわからないが。
俺は言った。
「どうなんですかねえ。でも絶対マイホームはいらない、みたいな話は、彼女からはきいたことないですけどね」
「そしたら欲しいんちゃうかな」
え、そうですか?
「逆に考えてみろ。世の中の主婦で、マイホームを欲しがってない人なんていると思うか? そんなん、高校生やのに、部活帰りのファミチキを欲しがらへん奴なみにおらへん」
なんすかその例え、知らんし。
「まあ一回話してみいや。別にマイホームじゃなくてもな、マンション買うとかそんなんでもええやん。話すことが大切やから。お前ももう立派な一家の大黒柱やねんから」
一家の大黒柱……
「ほんじゃ、また何かあったら」
電話は切れた。
これが田畑さんが本当に俺に電話を掛けてまで伝えたかったことなのかどうかはわからなかったが、俺にはそれもどうでもいいことだと思った。
BBQの誘いじゃなかったから。
家に帰り、カバンをダイニングテーブルのイスの上に置いて、ネクタイをほどきながら、俺は、今日こそ妻に何かを話さなければならないなと思っていた。
しかし何を?
どのようにして?
てかなんで俺が話さなあかんの?
今、妻とは話せば話すほどBBQというワードが出やすい状態になっているのだ。子供だって離乳食が終わり、元気にそこらじゅうを走り回るようになり、来るべきBBQに向けての成長を続けていると言っても過言ではない。
マイホームの話か、それとも転勤しなければいけなくなるかもしれない、の話か。
「今日さ、公園で遊んでたらさ――」
妻が順調に話し始める。
目の前のテーブルには夕食がたっぷりと並んでいる。サラダ、みそ汁、だし巻き卵、メインのハンバーグ、そしていつも輝きまくっているごはん。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。普段から何も考えていないから、何か起こりそうなときに頭の処理が追い付かなくなる。
俺としては、マイホームよりもやはり仕事の話をしたいような気がしていたが、もしかしたら彼女にとっては、マイホームの話をちらつかせておいてからの、転勤込みの仕事の話の方が、そのあとの選択をより正しいものにできる確率が高まるかもしれない。
転勤は別にどうしても嫌なら断ってもいいんだよ、と。
ダメだ。
そんなことじゃ、ほとんどBBQに行こうと告白しているも一緒じゃないか!
「それでさ、そのお母さんが急にさ――」
――子供のことはかわいいか?
――それはまあそれなりに。
そういえば飯田さんとの車での話のとき、心の底から「かわいいですね」と言い切れへんかったなあ。
あと子供ができてから、すっかり妻の本心もわからなくなってしまった。まるで別の人と結婚してしまったようだ。
「ねえ、聞いてる?」
妻からの確認が入る。
俺は髪の毛の分け目にそっと手をやってから、
「聞いてるよ。由紀の話は、実は俺、いつもスマホで録音して、仕事中とか寝る前とかにも一人で繰り返しきいてる」
「それはキモすぎるんですけど」
結局、俺はその日、何も言わないままお風呂に入って寝てしまった。
飯田さんは言っていた。
「東京っていうのはな、つまり会社として新事業を立ち上げるってことや。長治、俺はお前がやる気あるんやったら、ほかの奴にも、あいつやったらいけますって言うからな」
どうせ東京でうまくいってもBBQ。
このまま田舎でくすぶっていてもBBQ。
こうなったら宇宙開発に全振りして、ロケットに乗って月の裏側まで逃げるか。
いや待て。
そこでかわいいうさぎさんたちも、餅つきの手を休めてBBQしてたらどうすんねん。
この世に生まれて、BBQから逃れられる奴なんておるんか?
6
会社での会議を終えて一人で資料を整理しているとき、なぜ俺が新事業のメンバーに選ばれそうになっているのかをふと考えてしまった。
普段から俺は、自分で考えてもわからないことは考えないようにしている。
それが徹底できているかどうかはわからないが、少なくともそう意識できるときは意識するようにしている。
無駄なストレスを抱え込まないためだ。
先日の、飯田さんからの急に降って湧いたような話は、あとから思い返してみてもリアリティがなかった。もしかしたら全部嘘かもしれないと思ったが、しかし考えてみて、わざわざ俺に会いに来てまでそんな嘘を言う必要がないこと、ウォーターサーバーの数字も上がっていないこと、そして、二代目の社長も自分の手柄を欲しがっているであろうことなどを考えると、すべてが嘘だとは思えなかった。
正直自分が東京に行くとか、新事業の内容がどんなものになるのかとか、そういうことには一切興味がなかったが、それでもそのせいで今している仕事が――つまりウォーターサーバーの仕事までが、何らかの責任を取らされるような形でなくなってしまうのは、辛いことだと思った。
もしクビになったら、明日から何をすればいいのか。
新事業の方に誘ってもらったとしても、それが新事業である限り、俺がそれを今までのように順調にこなせる保証などどこにもない。
だって俺、大学を卒業してからこの仕事しかしたことがないんだから。
営業だけど、何かの資格を持っているわけじゃないんだから。
――え、やっぱりウォーターサーバーの販売なくなるんちゃうん。
そう思うと、会議の資料の整理なんてどうでもいいように思えてきた。こんなことをするくらいだったら、一度リラックスする意味を込めて、メジャーリーグの速報で大谷君が今日もホームランを打っていないかどうかを確認した方がマシだろう。
その日、事務の古田さんと会社の自販機のところで缶コーヒーを飲んでいるときに、この悩みへの見解が一段深まった。
「もー、うちの社長最悪ですよね。別に新事業を立ち上げるのはいいけど、だからってウォーターサーバーの部門までなくさなくてもいいじゃないですか」
「でも逆に今だからこそなんじゃないかって。数字がギリギリ出ている今だからこそ、買い手が付くから高く売れるですって」
「だからって売るのは論外です。そんなことされたら、なんだか私たちすごくむなしいじゃないですか。別にウォーターサーバーがすごく好きだからがんばってきたわけじゃないけど、でもこんなに簡単に切り離されたら、結局私たちは何してたんかなって。社長のお金を増やしてただけじゃないですか」
「それって全サラリーマンに言えるよね。私たちってただお金持ちのお金を増やすための駒だよね。でも、古田さんもさ、新しい事業をするから東京においでよって言われたら行くでしょ?」
「行かないですよ! 人をバカにするのもいい加減にしてくださいって言います。東京って家賃高いって聞くから、家賃保証をもっと手厚くしてくれたら行ってもいいかな」
「なんだ、行くんじゃん! じゃあ結局古田さんもお金持ちの奴隷だね」
「奴隷って言い方なんですか! それはさすがに良くないですよ」
以上の会話はもちろん妄想である。
本物の古田さんとは、特に当たり障りもなく、ずっと今見ているドラマの話をしていたのだが、たとえばもし社内に新事業の噂が広まって、それと同時にウォーターサーバーの販売から撤退する、みたいな噂も広がることになったら――きっとみんな混乱することだろう。社内での話題はきっとそのことでも持ちきりになるはずだ。
そんな混沌とした中では、さすがに俺も……
「ところで長治さんもよくドラマ見てますね。おうちに帰ってそんなドラマ見る時間ってあるんですか?」
あるよ。
普通にご飯食べてからとかでも見てるし。
「てか休みの日とか何してるんですか? なんか長治さんが家族サービスしてるところとか想像できないんですけど」
「え、そう?」
それは君の想像力が足りてないだけやろ。フリーザにも家族はいるんやから。
「でもこの仕事って土日が勤務のときもありますもんね。実際家族との時間を取るのって大変じゃないですか?」
「そうかな? 俺は別に……」
「意外とマメだったりね。休みで天気がいい日には、家族みんなでBBQとか」
ホラーや。
きっと平和だからBBQの話題が出るんだな。しかし逆に妄想が現実になって、社内の話題がマジで新事業のことばっかりになってしまったら、俺はそこでBBQのことなんてちっとも考えられなくなってしまうかもしれない。
じゃあ俺はこれからもBBQのことを考え続けたいから、ウォーターサーバーを売り続けるのか。
そんなバカな。でも理屈はそうだと言っているじゃないか。平和だからBBQのことでなやむんだろ? だったら、平和じゃなくなれば、俺もいつかはBBQのことを考えなくなるってわけだ。尻に火が付けば、もうそのことは考えなくてよくなるんだ。
だがそのとき、俺の人生はどうなっている? 切羽詰まっているんじゃないか。選択に追われているんじゃないか? 待ってくれ。俺は普段から、いったい何のためにBBQのことを考えているんだ。
夜。
寝付けずに、一人リビングでソファに座ってテレビを眺める。ドラマを見る気にはなれなくて、なんとなくザッピングしていると、ドキュメンタリーが始まった。釣りが趣味の人の話だった。
興味があったわけではなかったのだが、ほかに見るものもなかったのでじっと眺めていた。
頭の中で変換された。
「私は、BBQの誘いを断りました」
画面では、五十代前半の男が、くたびれながら仕事帰りの道を歩いて帰っているのだが、俺にはそれが、職場でのBBQから家族のBBQの誘いも頑なに断り続けてきた、孤独な男の帰り道に見えてきた。
つまり、この世のBBQに反旗を翻した男の話だ。
男はインタビュアーに尋ねられている。
――どうしてBBQを断るようになったんですか?
「それは、それには理由はありません。でも断ってみると、逆にみんなどうして断らないのかなって。断らないと、一生自分の時間を過ごすことなんてできないのに」
――初めからですか? それとも途中から?
「断ったのがですか? そりゃ……途中からですよ。初めは、私もBBQに抵抗感はなかったんです。むしろ、BBQって好きでしたね。なんか、毎回知らない女の子と仲良くなれそうな気がしますしね」
――でも断ってしまった?
「離婚協議をしているときでした。どうしても息子と一緒に暮らすことができないんだとわかると、だんだんもう生きている意味も見出せなくなってしまって。だからあれは、その年の花見を兼ねた会社のBBQだったと思うんですよね。誘われたんですけど、断りました。先ほども言ったように、明確な理由はなかったんです。絶対に行きたくない理由は。ただそのときは、何となくそういう気分にはなれませんって」
――すると次の日から?
「まずロッカーに落書きですよね。あとデスクにおもちゃのゴキブリとかも入れられて。極めつけが、私の乳首の位置をみんなが指さしてくるようになったんです」
――乳首の位置?
「はい、乳首の位置です。男ってほら、ワイシャツを着るじゃないですか? そのときに、まあ私は下にもTシャツを着ていたんですがね、たまに乳首の透けている人もいるとかいないとか。それで、私とすれ違う人たちがみんな、いったん私の乳首を指さすようになったんです。ここでしょう、あなたの乳首はここじゃない? ってね」
――今日の晩御飯のメニューは何ですか。
「ピーマンと、たまねぎと、それからナスを切ったものと、あとはそこに肉を入れて炒めたやつですかね」
――くしくもBBQでよく見かける素材たちですね。
「そうですね」
朝がやってきた。その日は休みだったのだが、俺は妻や息子たちが起きてくるのを、そのままリビングで待ち構えていた。
「うわ、休みやのに起きてたん? 早起きやな」
俺はそれには答えずに、コップに牛乳をついで、それをテーブルに置いた。妻が朝一で牛乳をコップ一杯飲む習慣のあることを知っていたからだ。
「ありがとう。てか何? なんかあんの?」
「由紀、あのさ……」
時間がひっくり返っていくような感覚がした。胸の奥から取り出した言葉が喉のところで膨れていくのを、自分だけが逆再生のビデオで見ている。
「俺……BBQするわ」
「は?」
これまで誰にも自分がBBQのことを考え続けているだなんて告白したことはない。だから当然妻にも、今このタイミングで俺が、BBQに行くわ、と言ったところで、それがどうしたと反応されるに違いない。
妻は特に何も言わずに俺の顔を見ていた。
しかし、俺は前言撤回しなかった。って、冗談に決まってるやん、とは言わなかった。行くしかないと思った。
BBQの答えは、BBQの中にしかない。
7
まるで夢の中を生きている心地だった。目に映るすべての現実に薄い白っぽい膜がかかっているみたいで、街を歩いていると、変に息苦しさみたいなものも感じる。
健康診断の結果は特に何もなかったんやけどな。
そんなことを一人でふと思うと、原因はやはりBBQだろうと思った。妻にはあの朝、確実に「BBQするわ」と宣言した。
だが妻の反応は芳しくなかった。
「え、ホンマに? うれしい!」
とか、
「そんな無理せんでええよ。無理してBBQ行って張り切って川に飛び込んで骨折とかされても困るし」
みたいな反応はなかった。
あ、そうなん、とは言っていなかったが、あ、そうなん、と言っているような感じでうなずかれ、
「いつ行くん?」
だの、
「どこ行くん?」
だの聞かれた。俺はまったくその類の質問には答えられなかったので、
「それはまだ企画中やねん」
みたいなことを言って難を逃れたが、しかし妻としては、まあどこに行くのかは最悪まだ直前になっても変更がきくとしても、いつ行くのかは、早めにその予定がないとこっちも無理、みたいな感じだったので、俺はその場で「いつ行くのか」はしっかりと明確にしなければならなくなった。
「ほんじゃ……今週末……いや、来週の土曜日にしよか」
「来週の土曜日ね、了解」
何となく直前でビビって期限を今週末から来週末にチェンジする。
そして、企画する、と言ってしまったが、もちろんそれまでに何をすべきなのか、どんなことを考えればいいのかなんて全然わからない。BBQのことは今までなるべくさけて生きてきたのだ。急にその主催者になれと言われても、なれるわけがない。
でもそれに立候補したのは俺だった。
紛れもない俺……俺は本当に、そんなことを言ってしまったのだろうか。
「長治さんってなんか話すこと変わってますよね」
「え?」
おおよその商談が終わり、そろそろ支度をして客先の会議室から帰ろうかという頃だった。先方の同世代の担当者が雑談を持ち掛けてきた。
俺は言った。
「変わって……ますか? そうですかね?」
「あ、言われないですか」
彼も俺と同じように結婚して子供がいる立場なのだろうか。そうだと言われてまったく不思議ではない外見をしている。黒色の短髪で縁の黒くて太い眼鏡をかけているが、笑うと目がなくなって、とてもやさしそうな雰囲気が出ている。
変わっている?
俺が?
「言われたことはないですね。あるかもしれないですけど、いや、多分あんまりないと思いますけど」
「でも長治さんみたいなことを言う人はあんまりいませんよ」
俺みたいなこと?
たとえば?
「だって商品のデメリットしか言ってないですよ? あげくの果てにはウォーターサーバー買うくらいやったら、コンビニで細々と水を買った方がいい、みたいなこと言ってましたからね。コンビニで細々と水買うの、めっちゃしんどいなって思いました」
言ったっけ? そんなこと。
俺は唇をかみながら、
「え、私そんなこと言いました? でも多分言ったんでしょうね。なんかそれは常々私が思っていることでもありますからね」
優メガネは続けて、
「あと従業員の福利厚生というか、働く環境を整える意味でも、ウォーターサーバーを導入するのもいいでしょ、みたいなことを私が言ったら、長治さん、そんなんするくらいやったら無料の自販機を導入するとか、ぶっちゃけ商品券が欲しいですけどね、商品券! マジで毎月お小遣いとして会社が商品券くれたら、ウォーターサーバーなんかなくても全然いいっすよ、みたいなこと言い出すし」
言い過ぎやな。
「それってウォーターサーバーを販売する会社の人間としてどうなんですか」
俺は首をかしげながら、
「まあ荒れてますよね」
「ですよね」
優メガネがそう言って笑ったことをいいことに、俺もそれに便乗して笑いながら、
「なんかプライベートで嫌なことでもあったんじゃないですか。毎朝電車で見かけるお気に入りの女の子を、街でたまたま見かけたと思ったら、私服がプロレスラーのコスチュームだったとか」
「そんなことあります?」
「ないですね。あれ、変なんですかね、私って。そんなこと言われたの初めてなんですけど」
俺はそう言って彼から視線を外した。自分でももう何を言っているのかわからない。すべてはBBQのせいだ!
会議室をあとにする。玄関でおじぎをして出て行こうとすると、優メガネは言った。
「でも変なことを言う人は信用できますよ。少なくとも嘘じゃないですから。変ですけど、それはその人の中でホントのことなんですよね」
俺は何と言ったらいいのかわからなかったので、もう一度彼にお辞儀をしてその場を去った。
車に乗ってエンジンをかけて最初の信号機で赤。
俺は、もしかしたら彼みたいな人にBBQの話題を振ればよかったのかもしれないと思った。そしたら年の近いパパ同士で彼からも、
「いいとこ知ってますよー」
とか、
「こんなものがあると意外と便利ですよ」
みたいなお得な情報が聞けたかもしれない。何や、この期に及んで私服がプロレスラーのコスチュームって。街中でその服装の人を見て、すぐに「すごい私服やな」とピンとくる奴はこの世におらんやろ。
あれ、どうしたんこの子、試合会場から逃げてきたんかな。
これやろ。
まあ、ホントのこともわからないからね。
嘘もホントもホントかどうかわからない。でもその人が変なことを言っている。それだけはほかの人もその瞬間にわかる。
だからその点において、変な人は信用できるんだろう。
知らんけど。
「え、長治さん何か買うんですか」
事務所に帰ってパソコンを操作していると、後ろを通りかかった古田さんが声をかけてくる。
俺は急いでウェブのページを切り替えて、
「何が? 俺今なんかアマゾンで欲しいもの見てる感じやった?」
「なんか……BBQグリルとか見てた気がしますけど?」
「そんなまさか!」
その声は自分で思ったよりも少しだけ大きく出てしまった。
恥ずかしいな、どうしよ、と思いながらも、じっと黙り込む古田さんに対して引っ込みがつかなくなって、
「なんか親戚が……今度BBQするとかせえへんとかで」
「へえ……ご親戚の方が、BBQ」
「いや、なんか新居を構えるから、そこで何かいい新居祝いないかなと思って。それでそういえばでかい庭があるって言ってたから、そこにBBQグリルでもどうかなって。そしたら俺も親戚として、その子の家に遊びに行って気軽にいつでもBBQできるやん?」
すると古田さん、
「あー、それは確かにいいかもですね」
いいんや。
「BBQグリルをプレゼントしてしまえば、BBQしよってこっちからも言いやすいですし、何より自分では買えないBBQグリルを、人の庭で保管・管理してもらえるって最高の運用方法ですね」
「いや、そんなゲスい考えがあるわけじゃないねんけど」
「じゃあ自分で使う用に買うんですか?」
ドキッとする。
なぜ自分が彼女のセリフにドキッとしなければならないんだろう。俺はそう思うと、古田さんを無視して、急にネットで明日の天気予報なんかを検索し始めたが無理だった。
古田さんが何かに勘付いた様子で、ゆっくりとこちらの顔色を伺いながら話しかけてくる。
「長治さん?」
「何?」
「長治さんってそんなBBQとか好きな人でしたっけ?」
ここら辺の覇者だと名乗らせてもらったことは過去にありますけど?
黙っていると、彼女は続ける。
「絶対にそんな好きじゃないですよね。まあ、まったく行かないとか、まさかそんなわけはないと思うんですけど、でも自分から企画するような人じゃないですよね?」
「古田さん?」
俺は彼女の発言を制すように、「人は見かけによらないんだよ。BBQ好きじゃなさそうな人が、実はBBQが大好きで、そして優しそうなメガネが、案外意地悪いで自分勝手な奴だってことは往々にしてあるんだよ」
「誰のこと言ってるんですか」
「それは秘密」
あー、もうなんか面倒くさい。
こんな気持ちになるなら、あの日の朝にもう一度タイムスリップして、妻に牛乳を注ぐところからやり直したろかな。
そうや、そのまま注ぎすぎてコップからこぼしたろ。
あかん、そんなことしたら、妻にめちゃくちゃ怒られるやろな。
8
てかあかん。
とりあえずこのままじゃ絶対にあかん。勝てへん。俺がやるといったBBQの企画に俺自身が全然勝てへん。
俺は一人、湯船につかって天井を見上げる。その日、なぜかはわからないが、気分転換と称して、平日にもかかわらず、俺は一人で近くのスーパー銭湯まで来てしまっていた。
どうせなら家族も連れて来いよ、という話だが、あいにく妻と息子はもうお風呂に入っていたので、一応誘ったのだが断られた。
それで、
「ほんじゃまあ、思いついたし行ってくるわ」
みたいな感じで出てきた。あいかわらず夢心地は続いていて、もうそろそろこれが現実でないならば、覚めてほしいところだった。これ以上の浮遊感は気持ち悪いだけである。
俺はため息をつくと、本当にこうやってあかんあかんと毎日時間を過ごしているだけでは、さっさとBBQ当日がやってきてしまうだけで、結局、何の準備や心構えも出来ないであろうことを予感したので、無理やりにでも何かアクションを起こすべきだと思った。
アクションとしては次の候補がある。
①まずネットで「BBQ 初心者」みたいな感じで調べてみる。
②持ち物リストを作ってみる。
③スケジュール表を作ってみる。
④メンバー表を作ってみる。
だがどれも実践しようとは思えないのである。なぜか。そんなことをしてしまったら、何だか本当に自分がBBQを楽しみにしている人間であるかのように感じられてしまいそうだからである。
いや、それでいいんじゃないのか。
そうなるために、今回俺はいきなり妻に向かって、
「BBQするわ」
と言ったんじゃないのか。
言いましたけど……でも……もしかしてまだどこかに前言撤回できるチャンスもあるかもしれないじゃないですか。
スーパー銭湯のお湯につかっていると、やけに日焼けしたボディをお持ちの中年男性が何人か目についた。
全然わからないが、きっと日中、空の下で働いているお仕事の方なのだろう。体つきが大きいわけではないが、引き締まっていて、よく使いこまれている老練な筋肉、という印象を受ける。彼らの身にまとっているいかつい雰囲気がそうさせるのかもしれない。
「ああ、きっとああいう人たちにBBQのことをきいたら、一発でいろいろ情報がもらえるんだろうな」
さすがに勇気はない、と思った。
そこで俺は彼らの背中を見ながらも、たとえば世の中にそんな専門学校があればな、と思った。
「はい、では今日はね、みなさんにとって記念すべき『銭湯でBBQ経験豊富なおじさんたちにBBQの神髄を尋ねるときの第一声を研ぎ澄ませる専門学校』の授業一発目なんですけれどもね、まず私がここの講師としてみなさんに言いたいのはね、みなさんの親御さんたちはいったい何を考えているのかってことですね。マジでみなさんの親御さんたちは何を考えていらっしゃるんでしょう。だって銭湯でBBQのことをおじさんたちに尋ねる機会なんて、そんなのその人の生涯で一回あるかないかですよ? そのシーンのためだけに今まで貯めてきた大切なお金を使うなんて、マジでお金をドブに捨てるような行為ですよ」
やば。
なんか脳内で始まった。
「はい、じゃあまあ御託を並べていても仕方がないので、みなさんにはさっそく高い金額でご購入いただいたテキストの表紙をめくっていただきたいと思います。はい、では一番前に座っているいがぐり頭のお前。最初のページを声に出して読んでみてください」
講師に当てられた学生がテキストを読み始める。
「えー、このテキストは、銭湯でBBQに詳しそうなおじさんを見つけたとき、何と言えば彼らから有益な情報を引き出せるのかを長年研究してきた、この専門学校の創設者である私、河川敷寝床丸が――」
ないない。
そんな専門学校はさすがにないから。てか専門学校の妄想をするなら、
「BBQ専門学校」
とか、百歩譲って、
「BBQの断り方専門学校」
みたいな広げ方にとどめとけよ。改めてなんや、
「銭湯でBBQ経験豊富なおじさんたちにBBQの神髄を尋ねるときの第一声を研ぎ澄ませる専門学校」
って。あらゆる専門学校が建てられたあとかよ。
なんか胸がそわそわするわ。
だがスーパー銭湯でリフレッシュした効果はあったかもしれない。
翌日、俺の中での注目株の、販売スタッフの高橋君と仕事が一緒になったとき、俺はものすごくなんかスムーズな感じで、自分でも気が付かないうちに、本当にあっさりと彼に、
「俺、来週末、家族とBBQ行くねん」
と言っていたからである。
俺は自分でも驚いたが、それ以上に驚いていたのは高橋君だった。
彼は完ぺきに目を丸くして、
「え、今なんておっしゃったんですか?」
みたいなことを言った。
俺は、何か彼にとってまずいことでも言ったのかと少し焦ったが、しかし別に普通のことを言っているはずだと気を取り直すと、
「いや、だから来週末、家族とBBQに」
「え! 長治さんが?」
やっぱり驚いている。
変なのか?
俺が家族と週末にBBQに行くのって、そんなにやばいことなのか?
俺は言った。
「ちょっと待ってや。なんでそんなに驚くん?」
「いやだって長治さんがまさかそんなことを言うとは思ってなかったので」
ええやんけ別に。
俺だってBBQすることくらいあるやろ。
「でも、長治さんってBBQ得意なんですか? ちなみに僕はたまに友達たちと行ったりしますけど、あれほど何ていうか、人間を試される場はないですよ」
え、そうなん?
「だって考えてみてくださいよ。BBQってね、実は何をしてもいい場なんですよ。もしかしたら長治さんの中では、BBQなんて肉とか野菜を適当に鉄板で焼いてたら成立する、野外バージョンの焼肉やろ、みたいなことを思っているかも知れませんがね、とんでもない、BBQこそね、人生のチャンピオンたちが己の人生を他人に開示する、人生公開プレゼンテーションの場なんですよ」
饒舌になるな、このこわっぱが。
なんて?
「ちなみに長治さん、BBQの経験は?」
ここは嘘をついても仕方がないと思ったので、正直に言う。
「覚えている限りではゼロやな。学生時代も、それから社会人になってからも、今までBBQの経験はゼロや」
「インフィニティ・ゼロか」
しばくぞ勝手に変な単語作んなこのセンター分け。
お前もうそっからきれいにハゲろ。
高橋君が言う。
「わかりましたよ。そしたら、どうしますか? 何から始めたいですか?」
「何から始めたいって?」
「もう歯がゆいなあ」
高橋君が少し笑い、あきれたような顔をして、「長治さんも素直じゃないんだから。僕から何を吸収したいんですか。このBBQの申し子と言われている僕から、一体今日は何を学びたいと思っているんですか」
共感して欲しかっただけやし。
長治さんも家族サービス大変っすねって、いつもの感じで言って欲しかっただけやし。
「仕方ないっすねー、じゃあ、ちょっとこの場でBBQの練習しときますか」
え?
すると高橋君は真面目な顔で腕組みをして、
「肉を焼く場面と、材料をカットする場面、どっちからやりますか?」
見たことない。
人がホンマに話の流れでそれの練習を架空でするところ。
9
昼休み。
公園のベンチに座り、コンビニで買ったサンドイッチを食べていると、こんな考えが頭に浮かんできた。
「そういえば俺、BBQには家族を誘ったけど、本当にそれで良かったんだろうか。俺の初陣やぞ。家族でもいいかもしれないが、もっと会社の同僚たちとか、これまでお世話になった先輩後輩、あとは家族と行くにしても、おじいちゃんおばあちゃんたちとか、妻の兄弟夫婦とか、そういう人たちも誘わなくても良かったのだろうか」
適当な公園に車を止めて、そこにあるベンチでランチを食べるのが好きだった。
平日はほとんど人がおらず、誰とも会わないこともしばしば。
天気のいい日には、ありきたりだが日差しが気持ちよく、それによって体がクリーンになっていく感覚もあった。
たまに知らないおじいさんとかおばあさんが公園を散歩していることもあるが、彼らとは適度に距離を取っていればほとんど話しかけられないし、万が一逃げるのに遅れて「今日は天気がいいですね」みたいなことを話しかけられても、「そうですね」と言って、すぐに視線をスマホに落とせばそれ以上話しかけられることはない。
外が苦手というわけではないのだ。
大迫力の緑を見ると落ち着くし、草と一緒に風にそよがれるのも問題ない。とすると、人と接するのが苦手なのだろうか。
だとしたら俺が今のウォーターサーバーの営業をしているのは奇跡だろう。もしかしたら、仕事で人と常に接しているから、プライベートの時間では「もうこれ以上は接したくない」と拒絶反応が出てしまうのかもしれない。
もっと妻と話すべきだと思った。
誰を誘うにせよ、多分彼女とは一緒にBBQに行くことになると思うのだ。
たとえば同僚たちとでも、恋人とかパートナーとか子供とかも連れて来てよ、みたいな誘い方になるだろうし、それは先輩や後輩たちも同じ。
それがお互いの兄弟や甥っ子姪っ子となったら、もっと妻と一緒にBBQに参加する確率が高くなる。
あれから妻とはBBQの話はしなかった。俺のあのときの告白を冗談だと思っているのだろうか。
しかし俺は真剣だったし、今も真剣なつもりでいる。確かに撤回したいな、みたいな気持ちはないことはないが、それでも今日までそれを実現しないのは、俺がBBQに行くと本気で決めているからだ。
スケジュールを渡したあとは、彼女からこちらに対するBBQの質問はない。たとえばどこへ行くのかとか、行くメンバーは本当に私とあなたと息子だけなのか、とか。
俺が今何となく心地の悪い感じを覚えているのは、妻とよく話し合っていないからかもしれなかった。
彼女と、どこへ行こうか、当日は何時に出発する、持ち物はどうする、レンタルとかどないや、前日どこでどれだけの材料を買い込むんや、など。
そういうことを話していれば、俺だって今頃は、もっとBBQに向かって明るい気持ちになって、もう無駄に外でランチを食べよう、みたいな気持ちにはなっていなかったかもしれない。サンドイッチはうまい。
事務所に帰ってパソコン業務をしていると、事務の古田さんが話しかけてきた。
「長治さん」
「何?」
「ちょっと……ちょっと来てください」
何だろうと思って席から立ち上がると、誰もいない会議室に連れ込まれた。仕事で誰かが何かをやらかしたのかと思って警戒したが、彼女と目を合わせると、彼女が笑ったので、その線はないなとすぐに思った。
「長治さん、今週末って暇ですか?」
「今週末?」
今週末は……俺の初陣だが?
古田さんが続ける。
「実は、私、今週末に学生時代の友達たちとBBQをすることになりましてね。というのも、このあいだ長治さんパソコンでBBQグリル見てたじゃないですか? それを見てたら、何となく自分もBBQしたいなって思って。それで学生時代の友達を誘ったんですよ」
行動力すごいな。
よっぽど学生時代が楽しいタイプやったんかな。
「そしたら友達たちもね、暖かくなってきたし行きたいって言い出してね。それでみんな久しぶりに集まろうってなったんです」
「ええやん」
「でね、普通に集まるのもつまらんから、各々誰かを誘おうって話になって」
で、俺?
「長治さんと家族さんもどうかなって思いまして」
怖っ。
今まで誘われたことなかったのに、急に古田さんにBBQ誘われてんけど。しかも追加で誰か誘うべきなのかと考えていた矢先のできごとかよ。さらにそのきっかけ俺のネットショッピングやし。まあ、そのネットショッピングは見てただけで何も買ってないが。
てか人選俺で合ってる?
「ごめん、古田さん」
「えー、ダメですか?」
「ダメっていうかね」
俺は、でもこればっかりは仕方ないがないやろ、と開き直る感じで「俺も今週末BBQやねん」
「やっぱり」
古田さんがそう言って肩を落とす。唇も尖らせてほっぺたも膨らませる。すごいなこいつ。
「いや、ホンマごめんな」
俺はそう言うと、顔の前で手を合わせて、そしてなぜか饒舌になって、「息子がさ、どうしてもBBQなるものをしてみたいって言い出してさ。なんかどっかで覚えてきたらしいねん、BBQって言葉を。それでやりたいやりたいってごねてごねて。妻とも相談して、今週末にすることになったんよ」
「そしたらそしたら!」
古田さんがその場で手足をバタバタさせながら、「みんなで私のBBQに行きましょうよ。ぜひご家族で参加してください。BBQなんて人が多い方が楽しいに決まってるんですから、どうせならみんなでしましょうよ。知らない顔でも、BBQを一緒にすればみな友達、みたいな言葉あるじゃないですか。ないですけど」
ないんかい。
でもやばいな。さすがに第三者の他人との初陣はハードル高すぎて俺がハゲる。
俺は姿勢を正して、
「もちろんそれは俺もこの数秒のうちに考えたよ」
「頭の回転はやっ。さすが歴代営業最高成績」
「でもな、今回ばかりはホンマあかんねん。というのも、俺もう息子に約束してもうてん。息子であるお前には、BBQにおけるパパの技をちょっとずつ教えてやろう、みたいにね」
「パパの技って?」
そう言って古田さんが首をかしげる。
知らんよ。
そんなん俺も知らんし。何やBBQにおけるパパの技って。
「あのさ、古田さん、君には言ってなかったけどさ……俺、実はBBQの世界では俺の名前を知らん奴はおらんくらいに有名な奴でさ」
「そうなんですか?」
そうだったらいいのに。
「別名みたいなのもあってさ」
「別名ですか?」
「そう、古田さんもBBQをやったことがあるなら一度はきいたことないかな、スパイダー長治って」
「聞いたことないですけど?」
ですよね。
だってそんな奴実在しないからね。
やがて古田さんが目を細めて言った。
「もういいですよ。息子さんのために最初のBBQはぜひ家族だけでってことなんでしょ? まあそう言われると、それは私もそうかなって思いますし。じゃあ私とも約束してくださいよ。今回は譲りますから、息子さんがBBQに慣れたころには、みんなで行きましょ」
「それはもちろんそうしよう」
BBQのクソが。
何でそんなにみんなBBQがしたいねん。何がいいねん。スパイダー長治って誰やねん。適当な名前を付けるにしても、もうちょっといい感じの候補あったやろ。
ウイングスパン長治とか。
アンブレラ長治とか。
ちなめよ!
せっかくBBQの文脈があんのに、それにちなんだ別名を自分につけろよ、どうせつけるんやったら。
ウイングスパン長治はあれか……手足が長いから、テーブルのどこに置いた調理器具でもさっと手元に引き寄せることができてすごい、みたいなところからついた別名って体でいけるか。となると、スパイダー長治も理由は一緒でいけるな。
アンブレラ長治?
10
妻が録画したドラマに夢中になっている横で、俺はバリボリとポテトチップスを食べ続ける。
ご飯は食べたのだが、別腹というやつだろうか。
食後のお菓子は、昔から食べ始めると止まらないのだ。
先に言っておくと、俺はドラマに全然興味がない。
そりゃ見ていれば、それなりにおもしろいとは思うし、感動するシーンや、どうなるんだろうとハラハラするシーンもあるのだが、でも別に「途中ですが、これでこのドラマは諸事情により打ち切りになります」みたいな感じになっても、「あ、そうなんですね」とすっと引き下がることだろう。
かたや妻は真剣だ。
彼女が好んで見るドラマのジャンルは、ミステリやサスペンスで、考えてみるに俺はこれがそもそものドラマに興味のない理由なのかもしれない。
俺はミステリやサスペンスのおもしろさがいまいちよくわかっていないのだ。
だがその理由を真剣に考えたことはない。
何となくぼんやりと、
「やっぱありえへんからかなあ」
と思う。
たとえば何かしらの作品を見たとき、もしこれが自分の身の回りに起こったらどうしようと考えるのは普通の人で、俺はそういうことは思わない。
何を思うかというと、ホンマにそうなんか、これなのである。そうすると、人を殺す理由が作品の途中でシステム的に止まってしまうミステリやサスペンスの類は、俺の性格と合わないことになる。
事件に動機以上の答えが必要ないからである。
逆に二時間真剣に見続けても、特に何も起こらない映画などは、若いころは大好きだった。自分の考える余白がありすぎて、何度も何度も繰り返し見たくらいだ。そして見るたびに新しいことを考えられて気分は最高だった。
妻がドラマのCMを飛ばした。
俺もポテトチップスをあらかた食べ終え、袋をゴミ箱に捨てるためにいったんソファから立ち上がった。
妻から空っぽになったマグカップを差し出された。ゴミ箱に行くついでに、これも流しに置いてきて、の合図だ。
俺はそれを受け取ってリビングを歩く。
完全に妻の趣味に寄せてドラマを見ている。
ほぼ毎日見ている。
これがまるで、夫婦円満の秘訣でもあるかのように。
BBQへ行く約束が決まってからも、俺はあいかわらず家庭内での家族との会話を避けていた。
もちろんはっきりと避けていたわけではないが、逃げ出せる場面では必ず逃げ出し、逆に無駄に踏み入らなくていい場面では、絶対に踏み入らなかった。
BBQのことを口に出す前よりも、それは徹底されていたかもしれない。
職場では、ある程度BBQのことについて話すのは、機会があったからかもしれないが、慣れてきていたのに、家庭ではむしろそれに対して以前よりも警戒心が高まっている。
実際にBBQに一緒に行くのは家族であり、だからこそ、その家族にはどんな嘘も通用しないと心得ていたからだろうか?
しかし時は刻一刻と進んでいく。
BBQの当日までにしなければならないことは、まだまだたくさんあるような気がしているのだが、それに関して頭を働かせようとすると、すぐに回路がショートして体に疲れがどっと襲いかかってくる。
つまり何も考えられなくなってしまう。
結果として、毎日毎日妻とドラマを見てしまう普段通りの生活。いっそのことドラマの中にBBQのシーンが出て来て、それをきっかけに雪崩のようにどんどんと週末のBBQに向けて重要なことが決まって行ったらいいのに。
そうはならないんだな。
ドラマの中の犯人が、正体を隠したまま第二の殺人を犯す。
「あ、そういえばさ」
妻がそう言ってマグカップから口を離す。
いや、マグカップから口を離したから、そのセリフが言えたのか。
「週末のBBQどうするん? ホンマに行くんやったら、買い物とかせなあかんと思うし、買い物するにしても、いつ行くのとか決めなあかんし」
俺は自分の体がつま先から固まっていくのがわかった。
まるでそういうスイッチを妻に押されてしまったみたいだった。最終的には目も動かなくなるし、開いた口もふさがらないまま。
買い物……そうよな。
BBQに行くんだから、その前に買い物に行かないといけない。そこでBBQに必要なものを買って、それを車に積んだり冷蔵庫で冷やしておいたりしないといけない。
でも待てよ、BBQに必要なものってそもそも何なんだ。
すると妻はあきれた感じで、
「ちょっと待って。もしかして何も考えてないん?」
「考えてるよ」
とっさにそう言ったがどうだろう。考えているか考えていないかでいったら考えているとは思うのだが、それは決して具体的な事柄ではなく、もっと漠然と「はー、マジでBBQ行くとか言っちゃってんけどどうしよ」レベルのものに過ぎない。
ゆえに彼女視点では、
「考えていない」
に該当するかもしれない。
どうしよ。
「わかった。ほんじゃどこ行くん? さすがにあれから時間経ってんねんで、週末のBBQにどこ行くかくらいは決めたやろ?」
逆にそこが決まればすべて決まるんですけど、と言い返したい。
言い返したいが、うまく言葉が口から出てこない。
言葉って、何か燃料いりましたっけ?
車にはガソリン、植物には水と太陽光、みたいな感じで、言葉には〇〇みたいなもの。
「は? ホンマに何も決めてないわけ?」
妻の口調が強くなる。
「違うよ。だから決めてるって」
「じゃあどこ行くんよ」
「とりあえず西の方」
リビングがシンとなった。会話の途中で「こらあかん」と思ったのか、妻がドラマの再生を止めていたので、それも余計にシンとなる原因になった。
西の方ってな……と自分でも情けなくて笑いそうになっていると、妻が真剣な表情のまま言った。
「ドラクエかよ」
そうやな。
今回の件に関しては完全に俺が悪かったな。だって俺から誘ってんもんな。BBQ行くわって俺が言ったんやもん。別に子供にせがまれたからとか、由紀側の家族から誘われたから、とかちゃうもんな。
俺が、しかも別にそんなこと一言も言われてへんのに、急に自発的に、
「行くわ」
って言ったんやもんな。
それなのに期日が迫っているにも関わらず、
「西の方」
これはないわな。
そりゃ、「ドラクエかよ」も炸裂するわな。調べろよ、って話でな。もしここが陸の孤島と呼ばれておかしくない辺鄙な場所やったら、まだ調べてないのも百歩譲ってわかるかもしれへんけど、意外と今住んでるところって自然に恵まれてるところやもんな。車でどこにでも行ける交通の便のいいところやもんな。
ますます「西の方」はないわな。
ホンマ申し訳ないな。もう西の方って言う度に胸がきゅんとなるわ。痛むってことな。何かにときめいてるわけちゃうからな。
はあ……でもマジでどうしよ。
こうなったら、あらゆる恥を忍んで、前言撤回――そのとき、スマホが、ピコんっ、と鳴る。
そしてそこから立て続けにピコんピコんピコん。
俺がスマホに手を伸ばすと、
「ここらへんやと、だいたい今送った三つのどこかになると思う」
妻からのメッセージだった。
画面を開くと、BBQ開催の候補地が何点か画像や地図付きで送られてきている。
俺は信じられなくて何も言えないでいると、妻が言った。
「どうせ決めてないんやろうなとは思ってた。あのとき行くって言ったけど、完全に目が泳いでたもん」
そうなんや。
「だからもしかしたら行かへんのかもな、と思いつつも、でも行くって言ったからには、私もそれなりに準備しとこうと思って」
由紀。
「ほんで、買い物やけどな。やっぱり場所はいつものところがいいと思う。近くの万代とかも考えてんけどな、万代には万代の良さがあり、巨大スーパーには巨大スーパーの良さがあると思う」
「うん」
「でも今回土曜日やろ? あんたもう土曜日まで休みないんちゃう?」
「あ、そやな」
言われてみたらないかもしれへん。当日までに買い物いつ行くねんって話か!
「明日くらいに仕事終わったらみんなで行ってみる? 疲れてんねやったら昼間私らだけで行くけど、うちBBQ用品とかも全然ないから、一回はあんたも見といた方がええんちゃう?」
目の前にいるの、ホンマに由紀か?
それから俺と妻の話は、ほぼ彼女主導で進められ、BBQに関する重要な項目は嵐のように埋まっていった。
俺は吸った息の吐く場所にずっと困っていた。
もう逃げられない。
逃げる気はなかったけれども、ここまで事態が差し迫ってなお活路がない。これすなわち、行くも戻るも地獄への道のりなり。
11
BBQを執り行う環境は、俺が思っているよりもはるかに整っていた。妻との話の流れから、さっそくネットで近くのBBQ場のさらに詳しい場所を検索をしたり、あとはBBQ場を利用する上での注意点などを細かく検索していたのだが、それらはもはや、BBQの準備をするとはなんぞや、のレベルに達していた。
まずどこもかしこも予約制。で、利用料がだいたい三千円くらいかかるのだが、これは一グループに対する金額だから、たとえば大人四人で利用すると、一人あたりの料金はとてもリーズナブルであることがわかる。
加えて、準備するものが食材と炭だけときた。
マジか。
正直トングとか紙皿とか割りばしとか、もっといえばコンロとか鉄板みたいなものももしかしたら初っ端から必要なんじゃないかと思っていたのだが、どうやらそういうことではないらしい。
てか何だったら、食材も何もかもコース料金に含まれているので、手ぶらでいらっしゃいませ、みたいなことまでやっているBBQ場すらある。
世の中そんなにBBQをやりたい奴らで溢れているのか。
俺は一緒にスマホを見ていた妻に言った。
「え、ほんじゃもうここ予約したらよくない?」
「そうする?」
妻と視線が合い、簡単に場所が決まった。こうなると、食材の買い出しのハードルもものすごく下がる。適当に食べたい物を買って、あとは炭を買えば完了。
家で焼き肉をするときとなんら変わらないコストと手間である。
俺は何だか自分の気持ちが軽くなるのを感じた。数分前までは地獄というワードも頭の中にちらついていたのだが、これでは本当にただの外でする焼き肉だろう。
しかし今回の結論はこれなのであるから、これ以上は何も言えない。今まで自分が苦しんできたBBQの幻想とは何だったのかと思う気すら起こらず、俺は妻に、
「ほんじゃ風呂入ってくるわ」
とだけ言ってリビングをあとにした。
テレビではドラマが終わって、夜のニュース番組が映っていた。
風呂から上がってきた俺は、開口一番妻にこう言った。
「やっぱりさっきのBBQ場はやめよう」
「え?」
妻が驚いていた様子で俺の顔を見てくる。俺も驚いている。数分前まで、今のBBQってこんなに手軽に利用することができるんやー、と感心していたはずなのに、シャワーを浴びて意見が変わっているのだから。
俺は言った。
「あんな、考えてんけど、やっぱりこんなんBBQちゃう。少なくとも俺が思ってたBBQちゃう。俺が思ってたBBQは、もっとハードで汗水たらす感じやねん」
「何なん、それ」
妻は俺のこの発言にあきれている様子だったが、しかし俺は信じていた。
きっと彼女も、こんな安上がりなBBQは自分たちの初BBQにふさわしくないと思ってくれているはず。自分たちの今後のBBQキャリアみたいなものを考えてみたとき、その始まりはその後の伝説を予感させるほどの何かであって欲しいと。こんなBBQのおいしいとこだけ味わえたらええやんの精神でBBQの何を味わえるのかと。
俺は続けて、
「もう全部買おう」
「全部って何?」
「だから全部や。食材や炭だけじゃなくて。コンロとか鉄板とかテーブルとかイスとか紙コップとか紙皿とかも! あとトングも着火剤も」
「めっちゃ高くつくやん」
「だってそれがBBQやろ!」
俺たちはもう一度BBQの出来るところを調べ直し、やはり今は広いスペースがあるからといって勝手にBBQはやってはいけないこと、BBQの機能がある公園でも、どこも予約は必須であること、しかし各機材のレンタルをしなければ、自分たちの荷物でも持ち込み可能な場所があることを確認すると、先ほどの予約はキャンセルし、新しく見つけた場所には、サイトではなく明日の昼間、直接電話でお願いすることにした。
妻は言った。
「いいねんな? これで」
俺はごくりと息を飲みつつも、
「もちろんいいよ。BBQをするなら、やっぱり自分たちでちゃんとやりたいから」
「ふーん」
自分でもどうしてシャワーを浴びて気持ちが変わったのかわからない。
ただ一つだけ言えることは、中途半端なBBQをして、意味なく終わり、そのあともまたBBQに苦しめられる、この構図だけは避けたかった。
しっかりと、あれはBBQだったと振り返られるものをしたい。
その夜、ベッドで妻が話しかけてきた。
「なんかあったん?」
「何が?」
「なんでそんな急にBBQに目覚めてるん?」
実は俺の中学時代からの親友がBBQの鬼と呼ばれていて……いや、俺にそんな過去はない。
なぜかはわからない。
しいて言えば、もうこれ以上BBQのことは考えたくないからだろう。
黙っていると、妻が続ける。
「まさかリョウ君がこんなにBBQに行きたがる日が来るとは思わへんかったわ。絶対になんかあったやろ。だって逆に何もないのに、こんなにBBQに行きたがるの気持ち悪いもん」
「何もないって」
俺はそう言ってから、「でも、由紀もそういうときない? 全然行きたくないと思っていた場所とか、やりたくないと思っていたこととかでも、急に『あ、今やったらなんかいけそう』ってなること」
「ないなー」
妻がそう言って仰向けになる。
「あ、でも」
妻が言う。「つけ麺おいしかったな。リョウ君と付き合ってるとき、私、つけ麺の意味あんまりわかってなかったけど、初めてつけ麺の店に連れて行ってもらって、それでそこから今でも袋麺とか買うもん」
「そうなんや。うん、それはなんかちょっと、俺の言ってることとは違うかも知れへんけど」
会話が止まる。
このままこの時間があと一分でも続けば、そのまま二人とも眠りに落ちることだろう。まどろみ始めたところで、しかし妻はまた言った。
「うれしい」
何が?
「みんなでBBQ行けるのめっちゃうれしい」
胸がざわつき始めた。
俺は今自分が何をしようとしているのか本当に理解しているのだろうか。きっと理解していないと思う。理解していたら、そもそもBBQなんかに行くことにこんなにも悩みなど持たなかっただろう。
俺は自分のやっていることがわからないから、BBQに行くのに困惑するんだ。そしてわからないからこそ、今回あえてBBQに行く。
いわば敵陣の真っ只中に切り込んでいくわけだ。
しかし俺は隣の妻にうれしいと言われ、自分の心がぐらついたのがわかった。
家族のために行くんか。
家族をよろこばせるために、俺は今週末の土曜日にBBQを開催するんか。
何も言わないでいると、妻はさらにこんな話を続けた。
「金曜日、あのおっきいスーパーで何買う? いつもBBQ用のええ感じのお肉のプレートがあるなとは思っててんなー。どうする? それ買う? あ、それか、シーフードを買うって選択肢も出てきたよ?」
俺は目をつむって、妻の話に調子を合わせた。
楽しそうな妻を間近で感じていると、自分が何か彼女にとっていいことをしている気がしてきた。
これは幻か本当か。
もうすぐ夢の時間がやってくるということだけは、確かだった。
12
土砂降りの雨だった。
万が一のことを考えて、雨だったが、車でBBQ場まで来たがダメだった。駐車場には、ほかに車は一台も止まっておらず、緑の森の辛気臭い感じがあたり一面に漂っていた。
昨日までは良かったのに。
昨日までは、なんか妻と話していた通りに巨大なスーパーへ買い出しに出かけて、すべてトップクラスのものではないが、機材や食材なんかも買いそろえて、今日という日にBBQをする気満々だった。
妻にうれしいと言われてから、俺は素直にその言葉を受け取っていた。別に生活をしていく上では、いつものように通勤していたし、仕事も普段通りにこなす。ただBBQのことを考えるとき、それは明るくポジティブなものになっていたと思う。
たとえば、どんなコンロを買おうかな、とか。
どんなお肉と野菜を買おうかな、とか。
普通にBBQをする人と同じことを考えていたはずだ。それは俺にとって初めての経験だったが、案外悪いものではなく、もし週末のBBQが成功すれば、今後もたまに出かけることがあるかもしれない、と予感したほどだ。
また変化にはこういう点も挙げられる。
BBQのことを話すと、妻はちゃんと耳を傾けてくれるし、彼女からも、こんなBBQにしたい、BBQだけじゃなく現地ではこんなこともしたい、みたいな話も出てくる。家族で一緒に何かをしている感じがすごかった。
しかし天気のことはすっかり忘れていた。
いや、正確には、何となく自分たちなら大丈夫だろうという変な自信があった。普段からBBQをしている人たちに対してなら雨も降るだろうけど、今回の自分たちみたいに、家族での初めてのBBQの日には、神様も遠慮して我々のことを見守ってくれるはずだ。
なので前日に天気予報のアプリを開いて当日の天気を確認したときも、まあ実際に現地に行けばどうにかなるやろ、の精神が家族全体を包み込んでいた。ところがふたを開けてみると土砂降り。雨。完ぺきな雨。近年、こんなにフロントガラスに勢いよく襲い掛かってくる雨粒なんてみたことないで、と言わざるを得なくなるような感じの、マジで何を考えているのかちっともわからないサイコパス的な雨。
全然白線の見えない駐車場に無理やり車を止め、俺は呆然と窓の外で降り続ける雨に目をやった。
妻が言った。
「やっぱ全然あかんやん。誰もおらんやん」
「今日サッカーワールドカップの初戦なんちゃう」
無言。
雨音がきつすぎる。カーステレオのラジオも何を言っているのか全然わからない。
「え、ほんでどうするん。とりあえず来るには来たけど、こっからなんか案あるん」
車内ですごろくとかあるやろ、と思ったが、そんなものない。それどころか、もしそれがあったところで、それをするわけがない。
俺はスマホのアプリをもう一度確認しながら、
「でもな、二時間後にはこの雨も上がるって書いてあんねん。もうこれを信じるしかない」
「信じるしかないって、こんな雨降っててそんな予報信じられるわけないやん。絶対に二時間後なんかに上がるわけない。実は今年初上陸の台風でしたって言われた方がマシ」
それはなー、と思ったが、思っただけで言葉は出てこない。
冷静に考えると、予報通りに雨になっているのだから、予報通りに雨が上がることも信じられるはずだ。だが人間はそう簡単にはいかない。そのうち妻はふくれっ面のままシートに体を沈め始めた。
子供は幸いなことに眠りについていて、俺はまた徐々に一人で「お前は今日一体何をしに来たのか」と自問自答する感じになった。
いつの間にか眠りについていたようだ。ふと目を開けると、奇跡的に雨が上がっていた。急いで時間を確認する。この駐車場に到着してからきっかり二時間経っていた。まだお昼の十二時を少し回ったくらいの時刻だ。
「やった、いける」
そう思って車のドアを開け、外に出ようとしたときだった。
「おい」
誰かが俺のことを助手席から呼び止める声がした。
「あの、誰ですか?」
俺は恐る恐るその男に声をかけた。
するとそいつは間髪入れずにこう答えてくる。
「アンブレラ長治や」
アンブレラ長治?
俺はすばやく頭の中をスキャンしたが、彼はその答えが出るよりも早く言った。
「てかそんなんどうでもええねん。こうやって俺がお前の目の前に現れてやってんねんから、まずやるべきことがあるやろ」
「やるべきことですか?」
何だろうと思って慎ましく彼がさらに発言するのを待っていると、しかし彼はシートにふんぞり返って、なんか足をダッシュボードに乗せ始めた。
「とりあえずお茶とかないん?」
お茶を出せという。
俺は静かに運転席に座り直し、目をつむった。何やこれ、さっさと終わらせよ。
アンブレラが言う。
「お前な、お茶があるのかないのか聞いてんねやんけ。すっと答えられへんのかい」
「ファンタグレープやったらありますけど」
「俺炭酸苦手やねん」
「じゃあないです」
なんやこいつマジで。俺の心の分身みたいな感じなんはわかったけど、なんでお茶出せとか言ってくんねん。もっと「ホンマにこのままBBQに行くんか?」みたいな大事な問いかけをしてこいよ。あと俺ファンタグレープ大好きやけど?
「まあお茶がないのはええわ。俺だって別にここにお茶のみに来たわけちゃうし」
「ほんじゃ何しに来たんですか」
「パンチパーマ」
ふざけてるやんこいつ。真面目に俺の心の分身やる気ある? こんなにBBQに対して抵抗感のあった俺が、今まさに雨が上がったことによろこんでんねんで? もっとちゃんと聞きたいこととかあるやろ。
しかしそのあともアンブレラは何も言わない。
刻々と時間は過ぎていき、ついに窓の外には虹が見え始めた。きれいやなーとか思っていると、彼は言った。
「なあ、このままやと暇やしなんか喋ってや」
お前が喋れよ! 何のために突然現れたんじゃ。
いらついて無視していると、彼は続けて、
「わかったよ、そしたら、全国のラウンドワンの建物にあるでっかいボウリングのピンあるやん? あれが、実は小型の宇宙船やったらどうするって話聞く?」
聞くわけないやろ。
帰れ。
俺はもう限界だと思ったので、ため息をついた後、しっかりと助手席のアンブレラの目を見て言った。
「あんな、お前が俺の分身やっていうのはわかった。それはもう百歩譲って認めるから。でもだとしたらな、ちゃんとしろ。ちゃんと俺に重要なことを言え。これまでの俺とBBQの関係の確信に迫るようなことを、はっきりと言葉にして俺に伝えてみろよ。それがお前の役割やろ。そのためにお前は存在してんちゃうんかい」
「みっともなかったな」
アンブレラが急に語り始めた。「そやな、なんか恥ずかしなってきたわ。お前が言うように、俺がお前の分身やったとしたら、俺は、きっとお前に何か重要なメッセージを託しに来たんやろな。そうじゃないと意味わからんもんな。さっきお茶出せとかいってごめんな」
わかってくれたらいいよ。
「ほんじゃ言うわ――最近なんかさ、給与明細見てたらさ、異様に社会保険の引かれる額多くなってない? あれ何なん。どういう仕組みなん? 昔からあんな感じやったっけ? なんか最近な、俺、給与明細見るたびに怖なってきてんけどどう? やっぱり普段から、政治とかもっと見なあかんのかな?」
消えろ。
もうマジで二度と出てくんな。
「怒んなって、マイブラザー。じゃあこれでホンマに最後にするよ。俺はもうお前の元から消える。今まで楽しかったわ。俺が言うのもなんやけど、お前ええセンスしてたで」
そんなん言わんでええから。
「俺はな、また別の奴のとこ行くわ。普通のことやで。正直こんなん確率やねん。人がいっぱいいれば、やっぱりそれだけセンスのずれた奴もいるから。だから俺はまたそういう奴のとこに行って、そいつの心に傘をさしてくるわ」
「ごめんな、期待に応えられんくて」
「全然いいって。謝んなや。ホンマによくあることやから。ほら、言うてる間に奥さんと子供が目を覚まし始めたぞ。じゃあな――BBQ楽しめよ」
アンブレラはそう言うと、跡形もなく消え去った。
マイブラザーは……センスあるか?
それから俺たち家族は誰もいないBBQ場で初めてのBBQをした。思うがままに肉や野菜を食べ、煙にまみれ、コップの中のファンタもこぼし、白ご飯も炊いて食べて、食後にはアイスクリームも食べた。
一人でフラフラと妻と子供の元を離れ、川が近くにあったので、そこに近づいてその流れを眺めていると、息子が手に何かを持って近寄ってきた。
後ろには妻もいたので、
「何これ?」
と息子の持っていたものを確認しようとすると、彼女は笑って答えようとしない。
やがて息子が俺の元までやってきて言った。
「パパこれ」
何や?
「これ、俺がここで集めたええ感じの草たち」
「へー、草か」
そう言って息子が差し出してくれた草たちを手に取って見ていると、続けて彼が言った。
「これでな、家に帰って大根おろし作る」
無理やな―。
これで大根おろし作れたら、金色の折り紙で金塊作れるわ。
そろそろ帰ろか。
了
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