私の人生の歩み『逃れられない宿命の娘の心情に寄り添う真(まこと)の私出現か⁉️
重症心身障がいの次女は、
医療併設の施設へ入所しました。
その、負担金を、
私の手で、その生活を❗と
働き(アルバイト)に出ます。
しかし、半年を過ぎた時、
突如襲ってきた、左脚の痛みと
痺れ(坐骨神経痛)により、
鍼灸院の先生の助言もあり、
辞め(止め)ます。
強制終了させられました。
その後、鍼灸院の先生から、針を施してもらい、お灸のツボも下ろしてもらい、
夫である彼から、毎晩お灸をすえて
もらうのでした。
1ヶ月ほどその生活を続けていると、痛みや痺れも軽くなってきていました。が、
鍼灸院の先生の、『腰』の重要性
の話が耳に残ったままでした。
軽く考えては、いけない!
私は、そう言い聞かせて、
下ろしてもらった腰のお灸のツボ
以外で、自分でできる、膝下の
ツボへ、お灸をし続けました。
負担金が気になるも、
次女の在宅生活の時の給付された、
特別児童扶養手当てを貯めていたのがありそれでしのいでいましたが、
もう、底を突きそうでした。
その頃になると、
もう、清掃の仕事を辞めて、
半年は経っていました。
お盆前ぐらいでしたか、
夫である彼は、早くから、
ネットで仕事先を探してくれていて、いつも情報を得ていました。
私の身体の状態が整ったのを見計らい、話してくれました。
清掃の仕事は、
往復1時間自転車でかかるところでしたから、
今度は、近いところで、
資格も何もない私ができる、
そして、、4時間ぐらい、
という、条件を探していたのですが、
あったぞーと、私をパソコンの前に呼びました。
どこ~?と私です。
エエッ~!
近い~~!でした。
いつも通る銀行へいく道の少し、
住宅地を入ったところでした。
どうろ沿いに面してないのと、
この場所に住んで17.8ねん、なるのに、外に出ないので気がつかなかったのか、
そこは、あるものを加工するところでした。
加工と言っても、手技で機械を
使って製品に仕上げるところでした。
アルバイトに来ている人は、若い人から、中年の人、長く働く人には、
経験豊富な70代ぐらいの人も
いました。
機械の前に立ち2時間、作業をし、
10分から、15分の休憩をし、
後の2時間作業をしました。
ここは、高卒のみの条件で、
スタッフ募集をずうっとされていたので、直ぐに決まりました。
まず、手技がちょっとした要領がありそれの感を掴むのと、その機械の
操作を理解することが製品の良し悪しに関わるので、最初は、製品にならない物もあり、練習のような日もありましたが、
1か月ぐらい過ぎて、やっとコツを
つかめ、そして、家も、近いし、
少し、心に余裕のようなものも感じてきていました。
ここで、話しは、
次女の面会へと移らせてください。
この加工の仕事は、
月曜日から、土曜日まで、
休みは、水曜日と、日曜日でした。
次女への面会へは、
日曜日に夫である彼と出かけていました。
次女が施設へ入所して1年過ぎていました。
施設の担当看護師や、保育士さんは、
面会に二人で行くと必ず、
なになに(次女名前)さんに、
お父さん、お母さんが面会にくること伝えると、それまでとは、違う
表情になるのだと、聞いていました。
それを聞いただけで嬉しかったです。
次女なりに、また、成長して、
寂しさも、それなりにありながらも、そして、てんかん発作がありながらも、私と、夫である彼を
待ってくれている、そうできていることが。
普通の気持ちのやり取りができていることの嬉しさが、
本当に本当に嬉しかったです。
そんな面会の日でした。
入所して1年迎えて、2ヶ月位の時に、
次女の白いTシャツの胸の辺りに
シミのようなのが付いていたのを
みつけたのです。
私は、看護師さんに、
何なのでしょうと、尋ねました。
看護師さんは、
多分、思春期にたまに見かける、
乳房の発達の過程にでる、液(汁)
じゃないかと、お風呂入れを
する時に職員と話している、と
応えてくれました。
私は、胸騒ぎがしました。
それは、実母が乳がんで手術を
していたからでした。
母は、元々糖尿病があり、
家の近くの内科にかかっていましたが、母自身で乳房の塊をみつけ、
気になり、その内科の先生に相談するも、時々糖尿病の人でそのかんじあるから、大丈夫と思う、と言われたらしいのですが、その先生に、
気になるから、と言って、
大きな病院に紹介状を書いてもらい、行ったところ、
ステージ0期でしたが、
やはり、悪性は悪性だとの判断で
部分切除と、放射線をうけたのでした。
乳がんは、直系の娘や、3親等の、
女系まで関わってくると聞いていたからでした。
母が乳がんに罹患したとき、
私も、検査にいかなければ!
と思いました。
もしかしたら、次女のような、
障がいを持つ子が居なかったら、
検査も、まだ、いいか、
まだ、触診も何も感じないし、と
思っていて、先延ばしにしていたのではないかと思います、が、
いくら、施設入所しているとは言っても、もしも、私の身に何かあれば
次女はどういう気持ちになるだろうかと、そんな気持ちにさせないためにも、何でもよいから、
検査に行こう!と、私は、私に
発破をかけたのでした。
近くの産婦人科に行き、相談し、
乳腺外科へ行きました。
そこは、清掃の仕事のマンションの
直ぐ近くで、その仕事をおえ、
帰る途中に検査をしてもらって
いたのでした。
話しは、次女に戻りますが、
私と、夫である彼から、の
心配する声を受けた、
施設内の担当の小児科の先生が、
検査を受けにいきましょう!と、
地元の、市内中心部の乳腺外科に
検査に私も一緒に付き添いとして
言ったのでした。
その乳腺外科の院長先生は、
当時アメリカでの留学を終え、
帰国し、乳腺外科専門病院を
オープンしたばかりでした。
世間では、有名芸能人が、
乳がんに罹患したニュースが
出たりしていて、
乳がんそのものに、スポットが当たりだしたころでした。
次女はリクライニング付きの
特注の車椅子を全て倒し、
院長先生から、触診されます、
そのあと、エコーをしました。
マンモグラフィは、挟む乳房もなく、骨と皮ですが、胸の膨らみが
少しある感じでしたので、
適用はなかったようでした。
院長先生は、乳がんの、形から、
見分けられる知識を習得されていました。
結果は、やはり、成長の過程のものだろうとのことでした。
私は、何故かまた、付き添いで
院長室に入って、次女の診察を
終えたあと、
私のことを話したのです。
何故かわかりません、
2、3か月前まで、検査にいき、
良性のせんいせんし(うろ覚えです)
はあるものの、様子をみて、検査にくるように、と言われていたのです。
そのことを院長に話すと、
院長は、お母さん、診ましょう!と
言って、バタバタ、予約もないのに、私を診てくれると言ってくれたのです。
とりあえず、予約の人の診療を
終えて、となり、
娘には、施設職員の人と、帰ってもらい、
私は、もう、午後もかなり過ぎて
いたけれど、この流れは、何なのだろうか!と思いながら、
エコーやマンモグラフィや、
触診を受け、検査結果が出る、
1週間後を待つため、家にもどりました。
1週間後、
娘の決定結果と、私の結果を
聞きにいきました。
院長が、
お母さん!
娘さんは、この前話した通り、大丈夫ですよ!
でもね!お母さん!
貴方は、がんだったよ!
そして、、院長は、こう言いました。
娘さんが、引っ張って来たね!と、
お母さんを連れて来たんだと!
院長のいうことに納得しながらも、
娘を心配していたけれど、
自分が、がんだったなんて、と❗
院長は説明しました。
いつものところの、良性のものは、
そのままで、他に
この2、3か月のあいだにできていた
のです❗
だって、2.3か月前は、なかったもの❗❗
私は、次女が入所して、
無理をしていたのは、わかっていたのですが、
こんな、期間の短さに驚きました。
検査をしていても、
いや、していたから、変化がわかったのです。
忘れていましたが、
針生研もしたと思いますが、
院長は、エコーをした時点の形で、
ほぼ、わかったと言っていました。
また、また、何ということでしょうか❗
運命が、また、くるっと、
動いたように感じました。
家から直ぐ近くのアルバイト先も、
辞めることになりました。
これから、慣れて、と思っていましたが、神さまは、また、別の道へと私を送り込みました。
がん宣告を受けたのは、
50歳と1ヶ月目でした。
私は、、次女が入所を果たしていて、しかも、次女本人ではなく、
私でよかったと思いました。
後から後から、
怖さが襲ってきましたが、
がん宣告をうけて、後の行方は、わからないけれど、
これで、次女とおなじ、
命を意識する、立場になったのでは
ないかと、
辛さ自身は、次女には到底叶わないけれど、
命については、近続けたのでは
ないか!とその時思ったのでした。
今回はここまでとします。
次回は、手術やその時の家族のようす、抗がん剤治療のことなど
記したいと思います。
重い空気になり、すみません!
今回も読んで下さって
ありがとうございました。
