甘くて怖くて怖い
夜の十二時。静まり返ったベッドタウンの住宅街に、重い足音がぽつり、ぽつりと響いていた。
「……はぁ……」
二十五歳の会社員、〇〇は、街灯の灯りに照らされた自分の影を見つめながら、本日何度目になるか分からない溜息をついた。
手に持ったスマートフォンは、まるで目覚まし時計のように一定の周期でバイブレーションを響かせている。画面に表示されているのは、愛する妻の名前。
『真佑(27)』
『着信(14件)』
『未読メッセージ(32件)』
画面を見るだけで、胃のあたりがキリキリと痛む。
〇〇は根が真面目で愛想が良く、会社でも「頼めば嫌な顔一つせず引き受けてくれる良い奴」として重宝されていた。それが仇となり、今夜は急な残業と、それに続く部署の飲み会に捕まってしまったのだ。
「断れれば……もっとうまく断れれば、こんなことには……」
しかし、断れなかったものは仕方がない。
問題は、家に待っている妻——真佑の存在だった。

〇〇より二歳年上の真佑は、普段は最高の妻だ。主婦として完璧に家事をこなし、いつも笑顔で〇〇を温かく迎えてくれる。〇〇を膝枕で子供のように甘やかしたかと思えば、次の瞬間には猫のように「〇〇~、撫でて~」と甘えてくる。周りから見れば呆れられるほどの、自他共に認めるバカップルだ。
だが——彼女には、もう一つの顔があった。
『今どこ?』
『誰といるの?』
『女の人、いるよね?』
『私のこと、もうどうでもよくなったの?』
『返事して。ねえ、返事してよ』
メッセージの文面が、スクロールするたびに暗度を増していく。
〇〇は意を決して、通話ボタンをスワイプし、耳に当てた。
「……あ、もしもし、真佑? ごめん、今駅から歩いてて——」
『……遅い』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、普段の甘く溶けるような声ではなかった。
氷点下まで冷え切った、地獄の底から響くような低く平坦な声。
「ご、ごめん! 課長が急に『今日はお前の疲労回復も兼ねて飲みに行くぞ』って言い出して……断りづらくてさ……」
『……女は?』
「え?」
『その飲み会に、女はいたの? って聞いてるの』
「あ、いや……派遣の弓木さんと、経理の賀喜さんが……でも、席は全然離れてたし、俺は端っこで課長のお酌をしてただけで——」
『ふぅん……』
電話越しに、チッと小さく舌打ちをする音が聞こえた。〇〇の背筋に、ゾクッと冷たいものが走る。
『弓木さんと、賀喜さんね。〇〇、前に『弓木さんは仕事が早い』って言ってたよね。そういう風に見てたんだ? 飲み会でも、その弓木さんのことチラチラ見てたの?』
「見てない! 誓って見てないよ真佑! 俺が好きなのは真佑だけだし、視界に真佑以外の女性を入れる余裕なんてないよ!」
『口では何とでも言えるよね。……早く帰ってきて。今すぐに。三分遅れるごとに、〇〇の大切なフィギュア、一つずつ壊すから』
「えっ、ちょっと真佑!? それは勘弁してっ——あ、切れちゃった……!」
ツートン、ツートンと寂しい電子音が響く。
〇〇は顔を青ざめさせ、「ひぃぃっ!」と悲鳴を上げると、ビジネスシューズの底を鳴らして夜の住宅街を全力疾走した。
ハァ、ハァと荒い息を吐きながら、〇〇は自宅マンションの三階へ駆け上がった。
鍵を取り出す手が、恐怖でガタガタと震える。
(大丈夫……フィギュアは無事なはず……いや、それより真佑の機嫌をどうやって直すかだ……!)
鍵穴に鍵を差し込み、静かに回す。カチャリと軽い音がして、ドアをゆっくりと開けた。
玄関は真っ暗だった。普段なら、〇〇が帰ってくるとパッと電気をつけて「おかえりなさぁい、〇〇〜!」と飛びついてくる真佑の姿がない。
重苦しい静寂が、家全体を支配している。
「……た、ただいまー……真佑……?」
靴を脱ぎ、恐る恐る廊下を進む。リビングのドアの隙間から、薄っすらと明かりが漏れていた。
〇〇は生唾を飲み込み、ドアノブに手をかけた。ゆっくりと開ける。
部屋の中央、ソファーの上に、真佑が深く腰掛けていた。
部屋の明かりは落とされ、間接照明だけが彼女の綺麗な顔立ちを不気味に浮かび上がらせている。長い髪を前に垂らし、膝を抱えてじっと床を見つめている姿は、まるでホラー映画のワンシーンのようだ。
「……真佑……? 帰ったよ……?」
真佑が、ゆっくりと顔を上げた。
いつもは愛らしく細められる瞳が、今は光を失い、冷たく〇〇を射抜いている。

「……おかえり、〇〇」
「あ、うん……遅くなって本当にごめんね。これ、お詫びと言っちゃなんだけど、駅前のケーキ屋さんで真佑の好きなイチゴのショートケーキ買ってきたから——」
「いらない」
バッサリと切り捨てられた。
〇〇はケーキの箱を持ったまま固まる。
真佑はソファーから立ち上がると、無音で〇〇の元へと歩み寄ってきた。二歳年上の彼女は、身長160センチ程と女性の中では高めで、こうして迫られるとかなりの圧迫感がある。
「〇〇。上着、脱いで」
「え? あ、うん……」
指示されるがままにスーツの上着を脱ぐと、真佑はそれをひったくるように奪い取り、鼻を近づけて深々と息を吸い込んだ。
「ん……クンクン……」
(うわぁぁぁ、匂いチェックが始まった……!)
〇〇は心の中で悲鳴を上げる。
真佑の鋭い目つきが、〇〇の襟元、肩、そして袖口へと移動していく。
「タバコの匂い……お酒の匂い……それと……」
真佑の動きが止まった。顔を上げ、〇〇の目をじっと見つめる。その瞳の奥に、暗い嫉妬の炎が揺らめいていた。
「これ……甘い香水の匂いがする」
「えっ!? な、なに言ってるの真佑!? 俺、香水なんてつけてないよ!」
「私がつけてる香水じゃない。もっと安い、バニラみたいな甘い匂い。……ねえ、〇〇。さっきの飲み会で、女隣に座ったでしょ」
「座ってない! 本当に座ってないって! たぶん、満員電車で近くにいた人の匂いが移ったんだよ!」
「嘘つき」
真佑の声が、低く低く沈んでいく。
「私という妻がありながら……他の女の匂いをつけて帰ってくるなんて……〇〇は、私をバカにしてるの? 私のこと、もう愛してないの? そうなんだよね……私なんて、ただの重い年上の女だもんね……」
「ち、違う! 違うんだ真佑! 誤解だ!」
真佑の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
メンヘラモードの真佑は、怒りの後に必ず強烈な自己否定と悲壮感に襲われる。こうなると、事態はさらに複雑化するのだ。

「うぅ……っ……どうせ私は、若くて可愛い派遣の弓木さんみたいになれないよ……! 〇〇は若い子の方がいいんだ……私なんて……私なんてぇ……!」
真佑はその場に崩れ落ち、膝に顔をうずめて泣き出してしまった。
その瞬間——〇〇の中で、「恐怖」を上回る「愛おしさ」が爆発した。
〇〇はビビリで、真佑のメンヘラモードにいつも怯えている。
しかし同時に、〇〇は真佑のことが狂おしいほど大好きなのだ。自分にそこまで執着し、自分以外の存在に激しく嫉妬し、泣いてしまうほど自分を求めてくれる真佑が、愛しくてたまらないのだ。
「真佑……っ!」
〇〇は床にひざまずき、泣きじゃくる真佑の細い身体を、後ろから強く、強く抱きしめた。
「ひゃっ……!? な、なに……! 放してよ、浮気者……!」
「浮気なんてしてない! 俺が見てるのは真佑だけだ! 弓木さんなんて、名前と顔が一致してるかも怪しいくらい興味ないよ! 俺の世界には、真佑しかいないんだ!」
「う、嘘……だって匂いが……」
「匂いなんて、今すぐお風呂で洗い流してくる! だから、そんな哀しいこと言わないでくれよ! 真佑が一番可愛い! 世界で一番綺麗だし、世界で一番愛してる! 年上とか若いとか関係ない、俺は真佑じゃなきゃダメなんだ!!」
〇〇は真佑の首筋に顔をうずめ、必死の思いで言葉を紡いだ。〇〇の情熱的な言葉は、真佑の心にダイレクトに突き刺さる。
真佑の身体から、徐々に力が抜けていくのが分かった。
「……ほんとう……?」
「本当だよ! 嘘だったら、俺のフィギュア全部捨ててくれて構わない!」
「……フィギュアは捨てないよ。〇〇の大切なものだもん……」
真佑はゆっくりと振り向き、涙で濡れた顔を〇〇に向けた。その瞳には、すでに先ほどまでの冷たい殺気はなく、いつもの甘えたような光が戻っていた。
「……本当に、私だけ……?」
「当たり前だろ! ほら、ケーキも買って来たんだ。真佑と一緒に食べたくて、急いで帰ってきたんだよ(三分遅れたけど)」
「〇〇……っ!」
真佑はぽろぽろと涙を流しながら、〇〇の首にぎゅーっと抱きついてきた。
むにゅ、と彼女の柔らかい身体が〇〇に押し当てられる。
「ごめんなさい……ごめんなさい〇〇……! 私、また変なこと言って……っ! 〇〇が帰ってこないから、不安で、寂しくて……頭がおかしくなりそうだったのぉ……!」
「いいんだよ、真佑。不安にさせてごめんね。俺がもっとはっきり飲み会を断れれば良かったんだ」
「ううん、〇〇は悪くないの……断れない優しい〇〇も大好きなの……でも、でもね、やっぱり寂しかったのぉぉん……!」
さっきまでの「地獄の狂戦士」はどこへやら、完全に「甘えん坊の赤ちゃん猫」と化した真佑。〇〇はそんな彼女の背中をポンポンと優しく叩き、髪を撫でてやった。
恐怖の限界突破からの、甘々の極致。
このジェットコースターのような感情の振れ幅こそが、二人の日常であり、絆の証だった。
「……ん」
お風呂でさっぱりと汗と香水の匂い(?)を洗い流した〇〇がリビングに戻ると、そこにはパジャマ姿の真佑が待っていた。
さっきまでの重苦しい空気はどこへ行ったのやら、部屋の明かりは暖色系に切り替えられ、テーブルの上には〇〇が買ってきたショートケーキとお茶が用意されている。
「〇〇、お風呂上がったぁ?」
真佑はソファーに座り、自分の膝をポンポンと叩いた。

「ほら、おいで? お説教の続き……じゃなくて、甘えん坊タイム」
「はい……喜んで」
〇〇は吸い寄せられるように真佑の元へ歩み寄り、彼女の膝の上に頭を乗せた。膝枕だ。
真佑の太ももの柔らかい感触と、洗いたてのシャンプーのいい香りが〇〇の鼻腔を満たす。
「ふふ、〇〇、いい子いい子。今日も一日、お仕事頑張ったねぇ」
真佑は〇〇の頭を優しく撫で、耳元で甘い声を囁く。
さっきまで「フィギュアを壊す」と言っていた人物と同一人物とは思えないほどの包容力だ。これだから、〇〇は彼女から離れられない。
「真佑……膝枕、気持ちいい……」
「本当? 良かったぁ。……でもね、〇〇」
真佑の手が、ピタリと止まった。
「……え?」
「遅く帰ってきたお仕置きは、ちゃんと受けてもらうからね?」
真佑はいたずらっぽく、けれどどこか妖しく微笑むと、〇〇の頬を両手で挟み込んだ。
「今日ね、〇〇が帰ってくるまで、私ずーっと一人で寂しかったの。だから……朝まで、私から離れるの禁止」
「あ、朝まで……!?」
「そう。トイレに行く時も、お水飲む時も、ずーっと私とくっついてること。あと、私の「好き」って言葉に、全部「俺もだよ、大好き」って返事すること。できなきゃ……明日の朝ごはん、激辛パウダー入りにするからね」
「それ、ただの恐怖政治じゃ……」
「なにか言ったぁ?」
真佑がぬっと顔を近づけてくる。綺麗なお顔が至近距離に迫り、〇〇の心臓がドクドクと跳ね上がる。

「い、いいえ! 喜んでお受けします!」
「ふふ、よろしい」
真佑は満足そうに微笑むと、〇〇の額にチュッと熱いキスをした。
それから、目元、鼻の頭、そして唇へと、何度も何度もキスを降らせていく。
「〇〇、大好き。世界で一番愛してるよ」
「っ……俺も、俺も真佑を世界で一番愛してるよ」
「ふふ、本当にかわいいなぁ、私の〇〇は。……ねえ、もう一回言って?」
「真佑、大好きだよ」
「ん~! 私も~!」
真佑は〇〇の顔を胸元に抱きかかえ、ぐいぐいと押し付けた。〇〇は「息が……!」と苦しみつつも、彼女の温もりに包まれて、心から安心していた。
夜が明け、眩しい朝の光がリビングに差し込む。
「ん……ふぁ……」
〇〇が目を覚ますと、予想通り、真佑が抱き枕のように自分に固く抱きついて眠っていた。〇〇の腕の中にすっぽりと収まり、すやすやと可愛い寝息を立てている。
昨日あんなに恐ろしい顔をして自分を詰めてきた女性とは、到底思えない。
(……はぁ、本当に手がかかる奥さんだ)
〇〇は呆れつつも、真佑の乱れた前髪を優しく払ってやった。
真佑の嫉妬深さは、異常だ。重すぎるし、時々本気で怖い。
けれど、それはすべて「〇〇を失うのが怖い」という、彼女の不器用な愛の裏返しなのだと、〇〇は知っている。
そして自分もまた、そんな重すぎる愛を「怖い」と言いながらも求め、彼女なしでは生きていけない体になっている。
まさに、似たもの夫婦。バカップルで、重くて、けれど誰よりもお互いを必要としている二人。
「……真佑、朝だよ。起きて」
〇〇が耳元で優しく囁くと、真佑はまぶたをうっすらと開けた。
「……ん……〇〇……あさ……?」
「うん、朝だよ。今日も仕事行かなきゃ」
その言葉を聞いた瞬間、真佑の眉間に、ピクッと小さなシワが寄った。
「……仕事? 今日も遅くなるの? またあの弓木さんと話すの……?」
早くもメンヘラの兆候が見え始める真佑に、〇〇は苦笑いしながら、彼女の額に優しくキスをした。
「今日は定時で絶対帰ってくるよ。残業も飲み会も、断る。真佑のために、ダッシュで帰ってくるから」
「……本当? 嘘ついたら、お昼休みに会社まで押しかけるからね?」
「本当だよ。だから、美味しい夜ご飯作って待ってて」
真佑は一瞬ぽかんとした後、フッと花が咲くような笑みを浮かべた。
「うん! 任せて! 〇〇の好きなハンバーグ作って待ってるね!」
真佑は〇〇の首に腕を回し、モーニングキスを交わした。
今日もきっと、会社で「断れない病」を発動して困るかもしれない。
今日もきっと、夜には真佑の嫉妬に怯えるかもしれない。
けれど、この愛おしくて恐ろしい妻がいる限り、〇〇の人生は退屈することなんて絶対にないのだ。
「いってらっしゃい、私の〇〇!」
「いってきます、俺の可愛い真佑!」
朝日の中で笑い合う二人の姿は、どこからどう見ても、救いようのない最高のバカップルだった。
