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「生徒を叱ったら、親から抗議が来た。」夜の職員室で、教師が本当に伝えたかったこと。

前回の記事『「事務作業が上手くなりたくて教師になったわけじゃない」』には、たくさんの温かい「スキ」をいただき、本当にありがとうございました。皆様からの共感の言葉が、日々の教壇に立つ私の大きな支えになっています。

前回の「働き方改革」とも深く繋がることですが、今の学校現場には、事務作業の多さとはまた別の、とても深い「もどかしさ」が潜んでいます。それは、「生徒のためを思って、本当に伝えたいことほど、伝えづらい世の中になってきた」ということです。

今日は、ある生徒指導の現場で起きた出来事を通し、現代の教育が直面している「言葉の届きにくさ」と、それを乗り越えるためのヒントについて、少しじっくりと綴ってみたいと思います。

ある夕暮れの相談と、厳しく叱った理由

それは、放課後の静まり返った教室でのことでした。
ある生徒が、声を震わせながら私の元へ相談にやってきました。聞けば、スマートフォンのSNS上で、クラスの友人から自分の欠点を面白おかしくあげつらわれ、深く傷ついているとのこと。画面を見せてもらうと、そこには悪意のある言葉が並んでいました。

生徒の傷ついた心を守ることはもちろんですが、それと同時に、私は「加害側」になってしまった生徒の未来のことも思いました。

翌日、私はその生徒を呼び出し、面談を行いました。
いつもは冗談を言い合うような関係ですが、この時ばかりは、あえて引き締まった表情で、厳しく諭しました。
「他人の痛みを想像せず、ネットに誹謗中傷を書き込むようなことは、絶対にやってはいけない。今は学校の中でのトラブルかもしれないけれど、社会に出てから同じことをすれば、人生を揺るがすような大きな過ちになりかねないんだよ」

生徒のためを思えば、ここは絶対に有耶無耶にしてはいけない、ちゃんと叱ってあげなければいけない――。教師としての強い使命感からの指導でした。生徒も、私の真っ直ぐな視線を受け止め、自分のしたことの重大さに気づいたのか、静かに涙を流して反省しているように見えました。

指導は無事に終わった。そう胸を撫でおろしたのも束の間、本当の「試練」は夜になってから訪れました。

「納得してもらうまで」が、今の生徒指導という現実

学校の電話が鳴りました。相手はその生徒の保護者です。
受話器から聞こえてきたのは、反省や感謝の言葉ではなく、激しい抗議のトーンでした。

「先生、うちの子の指導のことで納得がいきません。うちの子だって、普段から周りの子に同じような酷いことをされているんです。なのに、どうしてうちの子だけがそんな風に強く叱られなきゃいけないんですか?」

一般の方がこの話を聞いたら、「そんな理不尽なことがあるのか」と驚かれるかもしれません。悪いことをした我が子が叱られたのに、なぜ学校に対してこのような言葉を投げかけるのか、と。
しかし、残念ながら、今の学校現場において、これは決して珍しいことではありません。むしろ「日常茶飯事」と言ってもいいくらいの、当たり前の出来事になってしまっています。

いつからか私たち教員は、生徒への直接の指導が終わった後、その保護者に電話や面談で「いかに納得をしてもらうか」に、莫大なエネルギーを注ぐようになりました。保護者の気持ちに寄り添い、理解を得られるまでがセットで「生徒指導」なのだと、どこか心の中で割り切らなければやっていられないのが、現代の教育現場のリアルなのです。

少し昔を振り返ってみると、ここまで分かり合えないことは多くありませんでした。

我が子が学校で叱られたと知れば、「先生、うちの子がご迷惑をおかけしてすみません。よく言ってやってください」と、学校と家庭が同じ方向を向いて子どもを育てる空気が、確かにあったように記憶しています。
教員も保護者も、「子どもを良い方向に成長させてあげたい」という根底の願いは全く一緒のはずです。なのに、なぜこれほどまでにすれ違い、分かり合えずに頭を抱えることが多くなってしまったのでしょうか。

子どもの生き方に、自分を重ね合わせる大人たち

その背景には、急速に進む「少子化」の影響が少なからずあるのではないか、と感じています。
子どもが少なくなった現代、親が一人ひとりの我が子に注ぐ愛情と関心は、昔に比べて格段に大きくなりました。それは素晴らしいことである反面、時に「過剰な寄り添い」へと姿を変えてしまうことがあります。

我が子の生き方や学校での評価に、親自身が過度に同調してしまう。その結果、「子どもが学校で叱られること」を、まるで「自分のこれまでの子育てや人格を全否定された」かのように錯覚し、過剰に防衛反応を示してしまうのではないでしょうか。

「うちの子だけが悪いわけじゃない」という言葉の裏には、我が子を守りたいという本能だけでなく、「自分が責められているような苦しさ」が隠されているのかもしれません。
そんな風に、お互いが「防衛」の姿勢で向き合っていれば、どれだけ言葉を尽くしても、本当に伝えたい大切な思いは相手に届かなくなってしまいます。

アドラー心理学が教えてくれる、感情の「裏側」

どうすれば、この分厚い壁を壊し、もう一度「子どものため」に手を取り合えるのか。
「思いを伝える」ということの難しさと大切さを噛み締める日々の中で、私は心理学者アルフレッド・アドラーの残した、ある言葉を思い出します。
アドラー心理学では、人間の「怒り」には【一次感情】と【二次感情】という段階があるとされています。

一次感情(本音): 「心配」「悲しみ」「寂しさ」「こうあってほしいという願い」
二次感情(表現): 一次感情が引き金となって溢れ出す「怒り」「イライラ」

学校の現場に当てはめてみましょう。
生徒が良くない習慣を身につけていたり、友達を傷つけたりした時、私たちが最初に抱くのは「このままではこの子が将来困るのではないか」「もっと素敵な大人になってほしい」という『心配』や『願い』です。これが「一次感情」です。

しかし、そのピュアな心配が、目の前の生徒の態度や状況によってフィルターがかかり、「どうしてこの子は何度も言っているのに改めないんだ!」という『怒り』(二次感情)として表に出てしまうのです。

これは、抗議をしてくる保護者の方も同じかもしれません。
「うちの子だけが叱られるなんて納得いかない!」という『怒り』(二次感情)の奥底には、実は「我が子が学校で孤立したらどうしよう」「私の子育て、間違っていたのかな」という、深い『不安』や『悲しみ』(一次感情)が眠っているのです。

届けるべきは、言葉の奥にある「一次感情」

もし、私たちが子どもや親御さんに向き合うとき、表面的な「怒り」や「正論」という二次感情をぶつけ合うのをやめて、その奥にある「一次感情(心配や願い)」を真っ直ぐに伝えることができたら、学校現場はどう変わるでしょうか。

保護者の方からの抗議の電話を受けたとき、私もかつては「いかに論理的に学校の正当性を説明するか」ばかりを考えていた時期がありました。しかし、今は違います。

「お母さん、私は〇〇君を責めたいわけではないんです。ただ、ネットの向こうには傷ついているお友達がいて、そして何より、〇〇君自身が将来、SNSのトラブルで取り返しのつかない失敗をしてほしくないと、本当に心配したからこそ、あそこで強く止めなければいけないと思ったんです」

そうやって、自分の胸の奥にある「一次感情」を丁寧に言葉にして差し出すと、受話器の向こうの尖っていた空気が、フッと柔らかくなる瞬間があります。
「……先生、すみません。私も感情的になってしまいました。あの子の将来を思って、そこまで真剣に叱ってくださったんですね」
そんな風に、お互いの「一次感情」がカチッと噛み合ったとき、学校と家庭は対立関係ではなく、再び子どもを真ん中に置いた「共同チーム」に戻ることができるのだと信じています。

言葉が届きづらい、生きづらい世の中だと言われています。

SNSの文字だけでは、感情の裏側までは見えません。だからこそ、リアルな関わりの中で、私たちはもっと自分の「温かい本音(一次感情)」を差し出す勇気を持たなければいけないのだと思います。
衝突を恐れず、でも、届ける言葉には精一杯の「願い」を込めて。

子どもたちと、そして親御さんと、同じ未来を向いて歩んでいけるように――。
明日の朝もまた、私は教室の窓を開け、子どもたちを温かい「一次感情」で迎え入れたいと思います。

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