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ドビュッシーの周辺 6 ステファヌ・マラルメと火曜会(マルディ)

パリのサン・ラザール駅の西側に並走するローマ街87番地にあった詩人マラルメのアパルトマンで火曜日の夜9時ごろから真夜中まで開かれていた集まりには、詩人や文学者だけではなく画家やジャーナリストなど幅ひろい人々が名を連ねていた***。しかも彼らの多くが、それぞれの分野で先進的な考えを持っており、後のパリの(ひいては世界の)文化的変化発展に大きな役割を果たしたことを考えると、マラルメの火曜会は、文化的ビッグバンの中核のような存在であったと言えるかもしれない。


ドビュッシーもこの火曜会に参加することになるのだが、マラルメの芸術に対する考え方や火曜会を通じての交友関係が彼の音楽創作に及ぼした影響は大きい。

当時の文学界、とくに詩壇の最前衛であった象徴派詩人たちの総帥と目される人物であったステファヌ・マラルメは、1842年3月18日、パリに生まれた。ドビュッシーより20歳年長である。登記管理局の官吏を父にもつ中流家庭に育ったマラルメの幼少期は不自由のない生活だったが、5歳で母を、15歳で妹を亡くすという辛い体験をする。

父の転勤でパリを離れたマラルメは寄宿学校では目立たない、自分の内的世界で沈思黙考するような生徒だった。21歳のとき南フランスの田舎町トゥールノンの高等中学校の英語教師として仕事を開始するが、その評判は芳しくはなかった。教室で自習の指示を与えたあとは、自分の世界に没入してしまうのが常だった。マラルメは既に詩作を開始していたのだ。

また、その後、ブザンソンやアヴィニョンの高等中学校などを転勤して、1871年に、生まれ故郷でもあり詩作活動にも有利な待望のパリへ戻った。
幸いにも仕事として、サン・ラザール駅の南に位置するコンドルセ高等中学校(当時、フォンターズ高等中学校)の英語教師の職を得た。
住居はサン・ラザール駅の北側で職場とは駅を挟んで反対側のモスコー街29番地であったが、徒歩で通える距離だった。
マラルメにとってなにより嬉しかったことは、ブザンソン時代より知己となっていた画家のエドゥワール・マネのアトリエが途中(サン・ペレルスブール街4番地)にあったことである。
生活のための単調な仕事に倦むマラルメにとって、仕事帰りに寄るマネのアトリエは、洒脱で気品のある画家の人柄ともてなしでこの上なく心地よい場所であった。マネはマラルメより10歳年長であった。

このようにして深まった二人の間で、創作活動の面でも緊密な協力関係ができあがっていく。すでに1865年に詩作していた『牧神の午後』をマネの挿画入りの豪華詩集の形で1875年に出版した。その年、1875年3月15日、マラルメはパリの終の棲家となるローマ街87番のアパルトマンへ移り住んだ。ここが火曜会(マルディ)の舞台になるのである。

マラルメの交友関係は多岐にわたったが、1877年頃から面会日は火曜日になった。しかし、1879年10月8日、息子のアナトール(8歳)を病で失って
後、しばらくは落胆のあまりマラルメは何もできない状態になった。火曜会も一時途絶えることになる。

それから1年ほどして友人の詩人バンヴィルの仲介で翻訳の仕事を得たマラルメは徐々に精神的危機を脱する。そして再び火曜会が開かれるようになる。
1883年頃から、本格化した火曜会にはさまざまな人々が集まるようになる。夕食が済んだマラルメのアパルトマンの広くはない居間兼食堂の中央の古いテーブルは、より多くの座席を確保するため半円形に畳まれ、その上に花束と沢山の煙草が入った陶器の壺が載せてあった。日本チリメンの覆いをかけて和らげられた燭台の明かりの中で、十数人で身動きもできないほど一杯になることもあった。暖炉の傍に立ったまま様々なことについて語るマラルメの話に、集まった者たちは巻き煙草を燻らせながら聴き入った。夫人のマリーと娘のジュヌヴィエーブが温かい甘いラム酒を振舞ってくれた。マラルメの背中の壁には、マネが描いてくれた『マラルメの肖像』(1876年)が掛かっていた(これは、現在、オルセー美術館に収蔵されている)。

ステファヌ・マラルメの肖像(エドゥアール・マネ作)

1890年2月、ドビュッシーの《ボードレールの五つの詩》が彼の7歳年長の作曲家ショーソン邸で初演された。この時の聴衆の一人、詩人でマラルメの火曜会の常連でもあったアンドレ=フェルディナン・エロルドは、ドビュッシーと親しくなる。そして、その《ボードレールの五つの詩》の感動をエロルドは、マラルメに伝えていた。同年の秋、推量だが11月25日、マラルメは、エロルドにドビュッシーが『牧神の午後』に音楽を付けてくれるだろうか、と相談した。
マラルメは芸術劇場の主宰者ポール・フォールから舞台用の詩劇の依頼を受けていたのをよい機会に、『牧神の午後』を舞台で朗読する計画を持っていた。その際に音楽を付随させたいと思ったのだ。エロルドは、早速、その次の火曜日にドビュッシーを連れて行った。恐らく1890年12月2日のことであろう。これが、ドビュッシーがマラルメの火曜会に参加することになった最初の時となった。
ドビュッシーは、かつて音楽院の後輩で友人のポール・デュカスにマラルメの『牧神の午後』を贈ったことがあったが、それから3年たって、当の詩人のサロンに招かれたのである。マラルメの息子アナトールの死によって中断した火曜会が再開されて10年が経っていた。この後、ドビュッシーは、この火曜会に参加する唯一の音楽家となる。

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マラルメと共に当時、象徴詩の流れを牽引していた詩人ポール・ヴェルレーヌは、1896年1月8日パリのデカルト街39番の安宿において、娼婦である愛人の許で肺炎のため急逝した。享年51歳であった。
かつて、ドビュッシーが10歳のとき、パリ音楽院を受験のためにピアノの手解きをうけたモーテ夫人の家庭で起こっていた愛憎劇。モーテ夫人の家庭は、マチルドの娘婿であった詩人ヴェルレーヌ(27歳)とベルギーからやってきた天才詩人アルチュール・ランボー(17歳)に引っ掻きまわされる。
ヴェルレーヌは、この後、ランボーとの出奔を皮切りに破滅的人生を送る。

18歳年長の詩人ヴェルレーヌとドビュッシーは直接の接点はなかったが、ドビュッシーは、この最前衛の象徴派詩人ヴェルレーヌの詩に魅せられ、数多くの歌曲(メロディ)を作曲している。まだ誰もヴェルレーヌの詩をテクストとして作曲するものはいなかった時期にドビュッシーは自らの感性でこの詩人の作品を取り上げた。ドビュッシーが生涯に作曲した六十数曲の歌曲の実に三分の一はこのヴェルレーヌの詩に基づくものである。

因みに、ドビュッシーは、ランボーの詩には作曲していない。ヴェルレーヌの死の5年前に37歳で早世していたランボーを讃える記念行事(1901年)への参加と作曲を依頼されたドビュッシーは、ランボーの詩を愛しすぎているがゆえに自分の音楽で無駄な装飾を施そうとは思ったこともありません、と慇懃に断っている。敬愛するピアノの恩師モーテ夫人の家庭を破壊した「若き悪魔」ランボーに対してドビュッシーにはわだかまりがあったのだろうか。

ヴェルレーヌの死から2年後、1898年、火曜会(マルディ)の主であったステファヌ・マラルメも急逝する。このときマラルメはパリ郊外のヴァルヴァンの別荘に妻マリーおよび娘ジュヌヴィエーヴと滞在していた。
死の前日、1898年9月8日の午後、マラルメは、長編詩『エロディアードの結婚』の最終稿の手入れをしていた。
この時、数日前から罹患していた喉頭炎(喉頭蓋炎か)による急性の呼吸困難発作に見舞われた。危うく絶命するところを突然、呼吸が回復した。しかし、マラルメは、死を覚悟した遺書を家族にしたためていた。
翌日、1898年9月9日朝11時25分、ふたたび急性の呼吸困難(窒息)に襲われ、家族と主治医の前で急死した。大詩人のあっけない死であった。
後にポール・ヴァレリーは、マラルメの娘ジュヌヴィエーブからその時の様子を聞いて、病状の急変の可能性に注意を払い、気管切開の救急処置が整っていたら、マラルメは助かっていただろう、と嘆いている。
確かに、もしマラルメがヴァルヴァンの別荘ではなく、パリのローマ街の自宅にいて、前日の発作のあと、パリの病院に入院し診断がついていたら、まったく異なった結末だったかもしれない。この詩人の存在の大きさを考えるとき、ヴァレリーでなくとも残念におもわれる。
ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》の初演から4年が経とうとしていた。マラルメの訃報を受けたポール・ヴァレリーは、翌日、ピエール・ルイスにドビュッシーにも伝えてほしいと書いた。9月11日にヴァルヴァンで執り行なわれた葬儀に、旅行中だったドビュッシーは参列することができなかった。ドビュッシーは、翌日の日付で、マラルメ夫人マリー宛にお悔やみの手紙を書いている。

象徴派詩人の中心であったマラルメとヴェルレーヌの相次ぐ死は、象徴主義隆盛の時代の明らかな終焉の象徴でもあった。ただ、これは象徴主義の消滅を意味するものではなかった。この時代に確立した象徴主義思潮は現代まで奥深い流れとして影響を及ぼしつづけている。丁度、現代音楽界におけるドビュッシー音楽のように。


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***マラルメの火曜会(マルディ)は、1884-1885年頃に形作られ、彼が急逝する1898年まで続いた。火曜会は、ヴィリエ・ド・リラダンやアンリ・ド・レニエなど文学者とくに詩人たちを中心とした集まりだったが、ホイッスラーやゴーギャン、ルドンなどの画家たちも招待されている。また、デュジャルダンやデユレなどの評論家もいる。ドビュッシーは唯一の音楽家だったが、その友人たちには、詩人ピエール・ルイス、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリーがいた。
マラルメの火曜会については、次の柏倉康夫氏の著書および翻訳書に詳細が記されている。
・柏倉康夫・著『マラルメの火曜会 世紀末パリの芸術家たち』丸善ブック 
 ス、1994年.
・ゴードン・ミラン・著(柏倉康夫・訳)『マラルメの火曜会 神話と現  
 実』行路社、2012年.





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