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ドビュッシー 《雅やかな宴・第1集》     Fêtes galantes 1er recueil

1882~1903年にヴェルレーヌの詩に作曲された。
《雅やかな宴》が第1集として出版される経緯はやや複雑である。構成曲が手掛けられて出版までに約20年を要する。つまり最初から一つのトリプティック(三幅対)として形づくられる意図はなかった歌曲集である。では何故、20年の時を経て《雅やかな宴》となったのだろうか。
 
そもそもドビュッシーがトリプティックとして曲づくりを構想するようになったのは1894年以降と考えられる。1894年8月28日付のアンリ・ルロール宛の手紙の中で、ヴァイオリンとオーケストラのための《夜想曲》の作曲を始めたことを述べており、更にその約1か月後にヴァイオリニストのユジェーヌ・イザイへの書簡の中でそれが三つの楽章よりなることを具体的に告げている。また初めてのトリプティックのピアノ曲《ピアノのために》も同じ年に作曲を開始されている。管弦楽曲の《夜想曲》が初演されたのが1900年、《ピアノのために》が完成し出版されたのは1901年である。
従って、ドビュッシーがトリプティックを意識したのは《夜想曲》以降としても間違いはないだろう。そしてこのことは、1905年8月7日のジャック・デュラン宛の手紙の中ではっきり表明されることになる。

〈……告白しますが、私はもう「ばらばらの楽曲」があまり好きではないのです。それは、暫定的な様子を帯びるという欠陥を持ち、孤児のように、どこの隅っこにも入り込んでしまいます……〉(フランソワ・ルシュール・編 / 笠羽映子・訳 『ドビュッシー書簡集』、音楽之友社、1999年)。

つまり、《雅やかな宴》第1集が1900年以降に出版されることになった時、それまで単一の曲として作曲された既存の歌曲がトリプティックの形をとることになったのである。

ドビュッシーの歌曲の時代といってもよい若い初期の頃は、ドビュッシーは歌曲を一曲ずつ単発で作曲していた。ヴァニエ歌曲集も後でまとめてヴァニエ夫人に捧げたもので、最初から意図されたものではなかった。しかし、この3曲の少なくとも第1稿は1882年に書かれており、同じムードのなかにあった。この1882年は、ドビュッシーにおけるヴェルレーヌの始まりの年として銘記されるべきである。
 
第1曲〈ひそやかに〉En sourdine
マラルメもヴェルレーヌも詩の本質を音楽だと考えていた。ヴェルレーヌは、その『詩法』の中で「先ず音楽を第一に」と宣言している。
このように常に音楽を意識していたヴェルレーヌであるから、このタイトルには注意が必要かもしれない。En sourdineは、〈ひそやかに〉あるいは〈声をひそめて〉と訳されているが、実は、音楽用語の「弱音器で」あるいは「弱音器を付けて」の気分ではないか。
静謐な空気の中、気分も晴れやかではないのだが暗くはない。青春の胸の疼きのようなものだろうか。この気持ちをどこに発散させたらよいのだろうか。静かな曲だが内部に潜む官能と情熱のポテンシャルは高い。ただ、それを決して露わにはしない。常に「弱音器を付けて」、コーティングして──。

因みに、オーケストラ曲《海》のスコアに目を通してみるとsourdineの指定が多いこと。練習の時に、金管楽器奏者が勢い込んで高らかに楽器を鳴らそうと思ったときにこの指定を見つけて、「また弱音器かよ」とじだんだ踏んだエピソードを思い出す。
 
第2曲〈操り人形〉Fantoches
第1稿は1882年1月8日に作曲されているが、《雅やかな宴》第1集として形作られるまでに改稿されている。
この曲はドビュッシーのユーモラスな一面がみられる。《マンドリン》や《雅やかな宴・第2集》の〈半獣神〉、《子供の領分》の〈ゴリウォグのケークウォーク〉などがそれだ。またこれは、ヴェルレーヌのシニカルなユーモアに通じるものかもしれない。
ドビュッシーは、歌い手を乗せて煽るようなピアノ伴奏が得意だったに違いない。聴く方も心地よく乗せられ煽られる。
どちらかと言うと沈思黙考するような第1曲と第3曲の間で気分を変えるのに十分な役割も果たしている。
 
第3曲〈月の光〉Clair de lune
ヴェルレーヌの詩の中でもドビュッシーが最も関心を示した詩の一つが〈月の光〉である。
なんとなくメランコリックな気分に支配され表層は静寂を保ってはいるが、第1曲と同様に秘めたる胸の疼きは大変なものだ。
すこし東洋的な響きで静かに曲は始まるが、抑制された中にも次第に扇情的なうねりが加わってくる。非常に切ない高音部の響きを経て曲はやはり静かに終わる。
この曲はとくに陰影に富む傑作である。ドビュッシーはこの詩に触発されてピアノ曲《ベルガマスク組曲》も作曲している。

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