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荒井先生(短編小説・古賀コン8裕人賞次点)

一 
 僕は塾の冴えない講師だ。

 無名の大学にある経済学部をでて、正社員として働いて半年たつ。中学と高校、それと大学受験生を教える塾だった。
 自分から冴えない講師というのもなんだかな、と思う。だが、実際そうなんだから仕方ない。
 大学だって三月に滑りこみで入れたし。こんな自分が人に授業を教えていいのか、分かりやすい授業ができているのか。いつも自信なく口を動かしている。国語・英語に算数などなど。

 最近は中学二年の英語が苦痛だった。アメリカ人とのハーフである、李穏(りおん)という男子生徒が入ってきたからだ。

「先生の発音、変だよー」といわれるたび胸が痛む。完全に舐められていて、教室内では私語が飛びかう。一度などは「先生って何大学卒なの? 親が聞いてこいって」と言われたことさえあった。


 そんな自分には憧れの先生がいた。

 英語の荒井進先生だ。

 塾のアルバイトをする者は大体、現役の大学生である。稀に高校の非常勤講師だったり、弁護士試験の浪人生もいるが。うちの塾では早稲田や立教大学生などが多い。そんななか、荒井先生は東京大学の法学部生だった。
 たいがいの高学歴講師は生徒の分からない点を理解できず、教え下手なもの。だが、彼は違っていた。

 何度か教室の最後列で、彼の授業を見学したことがある。
 生徒からの質問は、理路整然と即答。てきぱきと授業を進める。言葉も分かりやすく伝わる。中学一年生と高校三年生では、口調と言葉を丁寧に変えているのだ。とても分かりやすい。

 剛毅朴訥なので雑談や冗談は不得手だろう。
 だが、ルックスが良い。モデルのようなぱっちりとした瞳に、すらりとした高身長。長髪を授業開始時に束ねる。背筋の伸びた姿は凛々しい武士のよう。
 女生徒は魅了されたように、彼の眉を見つめる。男子が無駄口をたたこうものならば、「黙れ。このボケが」と睨みつけていた。

 それに、彼の人生へのスタイル。──これがまた僕の理想だ。
 塾長のしたでアルバイトのシフトを組む僕にはできないが、『同僚と群れない』のだ。授業が終われば、すぐに帰宅する。

 先日などは慶応の女子講師が「皆でご飯食べて帰りましょう」と誘ったのだが、すぐさま断っていた。去りゆく彼の背中に「あんなにつれないと、逆に燃えてくるわあ」といい、彼女は体をくねらす。
 その身の程知らずぶりに、僕は『相手にされてないだけだ、このボケが』と心のなかでつぶやく。

 ベストは塾長の「荒井先生の歓迎会をやりましょう!」に、「いや、いいです」と間髪入れずに断ったことだろう。塾長にこき使われている僕としては、痛快な出来事だった。

 もともと塾講師なんて生徒に囲まれる異質な存在だが、彼はまさに孤高の天才講師だったのだ。


 ある日、個別授業室に塾長から呼びだされた。

 二人一組で横並びになるデスクに、僕と塾長が腰かける。
「誰にも喋っちゃいけないよ。荒井先生だが……」
 僕は憧れの講師の名前がでてきて、どきりとした。唾を飲みこむ。
「彼はしばらく休ませます。高三の小泉和葉っているじゃない。あの子と深夜にファミレスにいたらしくてね。親から苦情の電話がきた」

 小泉は荒井先生の個別授業を受けていた女生徒だ。「あの子は飲みこみがいい。このままいけば必ず良い結果になります」と荒井先生が目を輝かせていた。 
 受験間近の小泉から相談されたのか。単にデートだったのか、それは分からない。だが、いずれにしろ生徒と外で会ってはいけないという塾の誓約は破っている。
 NGだ。

「本人が親に言ったわけじゃないんだ。たまたま友人がファミレスにいたらしくて。SNSっていうの? 拡散されて人づてに親が知ることになったわけ。さっき荒井先生にも電話してきたけど、涙声で了承したよ」
 あのクールな武士のような荒井先生が……。僕の崇拝していた偶像が、ガラガラガラと大音響で崩れていく。

「だから、彼の英語の授業を少しの間、受け持ってね」
 塾長の声も、ぼんやりとしか耳にはいってこなかった。

 席に戻り予習をしていると、あっという間に授業時間が来た。

 教室の扉を開けるやいなや、李穏の太い声と取りまきの笑い声が飛んでくる。
 授業をはじめても、李穏は時おりの雑談をやめない。問題を解かせる時間も、さらりと回答を記入して独り語りをはじめた。時折、周りの生徒が噴きだす。僕は漫然と、動きつづけるハーフ美少年の唇を見つめる。

 おそらく荒井先生は復帰しないだろう。

 僕はあの孤高の天才講師には追いつけずに終わる。せめて同等の実力を持ちたかったが、今後いくら頑張っても、それ以下。いや未満だろう。

 だけど荒井先生だって、黒髪の和風美人である小泉と過ちをおかした。弱点がある普通の人間だったのだ。僕は、僕なりの授業科目と教授方法でやっていくしかない。 

 延々と開閉する李穏の口……ぼっ、と僕の脳の導火線に火がついた音がする。

 教卓を降りた僕は、李穏に向かっていった。彼の机を両手でたたき──今までの人生で一番の大声をあげる。
「てめえ! いい加減に黙れ! 俺の英語の発音がなんだっていうんだよ。今は文法を教えてるんだ。やる気なかったら家に帰れっ。邪魔すんな!」

 その後の教室内は静かで、生徒は穏やかに授業を聞いていた。
 ひょっとしたら彼らは僕に、問題児を黙らせてくれと思っていたのかもしれない。分かりやすい授業というものを初めてできた気がする。

 とはいえ、僕の体は初めて人を怒鳴ったショックで、しばらく小さく震えていたけれども。

《 了 》

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