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[第七食] 稲庭素麺、百年沈黙の謎

稲庭うどんは、素麺のように細い。製法は素麺と
同じだが太いのでうどんになっいる。稲庭うどん
をもう少し細く延ばした稲庭素麺もある。

稲庭うどんと稲庭素麺の違いは、太さの違いだけ
で同じ手延べ麺。稲庭の場合、素麺を延ばすとき
うどんと同じ製法で油は使わない。
江戸時代にはJIS規格はないので、このうどんは
以前は素麺として取り引きされていた。

稲庭うどんは平らで薄く艶がある

日本三大うどん『讃岐と稲庭』は、ワン、ツーの
定位置だが三番目のうどんは媒体により異なり、
水沢、五島、氷見、きしめんになることもある。
稲庭が揺るぎない三大うどんになったのは、
『歴史があり、独自製法をもち、全国的知名度』
によるとされている。

全国的知名度に関しては、稲庭の専門店は秋田県
の一部に限られ県内でも30店ほど。他県にはほと
んどなく、これで全国的といえるかな?
一方、讃岐うどん専門店は全国で千店を超える。

私は稲庭うどんは大好きで、佐藤養助浅草店には
よくいくが、讃岐に続く二番手を人気、店舗数で
選ぶなら、柔らかな福岡のうどんや愛知きしめん
の方が上だとおもうし、歴史で言うなら水沢や
五島うどんを選ぶべきのようにおもう。

うどん東西横綱に讃岐と稲庭を置かねばならない
何か隠された歴史的な事情でもあるのだろうか?

さあ、探索開始だ!

稲庭うどんの創始者、稲庭吉左エ門の経歴は公に
調べることができる。
将軍家茶道指南役である片桐石州が、秋田藩主に
京で手延べうどんの美味しさを説いた。

1666年、石州は秋田藩二代目藩主佐竹義隆の招き
により秋田湯沢村にうどん製法を伝える。実際に
湯沢に入り指南したのは石州の知人稲庭吉左エ門
で、その名をとり稲庭うどんとされている。
後に湯沢村のうどん(以降は素麺と書く)は1752年
秋田藩の献上麺となり、稲庭の名は世に広まる。

(左)秋田県湯沢村にある稲庭うどん創業の佐藤養助本店
(右)本店は田んぼ道の向こうにある。
稲庭吉左エ門の末裔から秘伝の製法を二代目佐藤養助が
授かったのは幕末。現在は八代目佐藤養助の看板を出す

素麺産地として稲庭には比較的近い氷見の素麺は
1751年に加賀藩献上麺となっている。
稲庭素麺の一年前だ。
稲庭素麺を湯沢で作り始めて百年近くの年月が過
ぎた後、氷見が献上麺になった一年後、稲庭は
慌てるように『百年の沈黙』を破り秋田藩献上麺
として世に出ている。

湯沢で稲庭吉左エ門が素麺を創り始めてから献上
麺としてデビューするまでの百年間の歴史が空白
なのである。
いったい百年近くもの間、湯沢では何をしていた
のだろう? 

今回の訪問地

稲庭素麺が湯沢村で鳴りを潜めていた百年を探っ
ていると、
ちょっと首をかしげたくなるような大物二人が、
稲庭素麺を創業した村に浮かび上がってきた。

稲庭素麺は秋田(久保田)藩主二代目が湯沢に引き
込んだ。秋田初代藩主佐竹義宣は豊臣政権六大将
の一人、常陸国領主、水戸城主であった。

義宣は関ヶ原の戦いへの不戦の罪で家康により
秋田に左遷される。石高54万から20万への減封。
佐竹への石高減額が正式決定されたのは、二代目
稲庭素麺を誘致した佐竹義隆の時代である。

佐竹家の常陸太田城、水戸城を横取りしたのは、
徳川御三家の徳川光圀(水戸黄門)だった。

(左)秋田藩二代目藩主の佐竹義隆
(右)讃岐国四代目領主の生駒高俊

もう一人、家康により秋田湯沢村の隣村に封じ込
まれた大物がいた。讃岐国四代目領主生駒高俊。

1587年生駒家は豊臣秀吉から四国讃岐の土地を与
えられ、これが讃岐国の始まりとなる。
生駒家四代目領主の高俊の代にお家騒動が起こり
徳川幕府は高俊の責任を追及し領地を没収。
生駒高俊は出羽国由利郡矢島村(湯沢村の隣村)に
8千石の矢島藩として減転封となっている。
その場所、石高を考えると、流罪に近い。

生駒高俊は家臣200名と共に当時3歳の長男高清
を矢島村に帯同している。讃岐国にかなり未練が
あったようで矢島(やしま)という地名は、高松の
の屋島を懐かしんでつけられたようだ。
矢島城は台形をした山の上に築かれており、遠目
には高松の屋島そのものだ。

そして、生駒家が讃岐を離れた後は徳川光圀の兄
が高松藩初代藩主、二代目には光圀の長男が藩主
として高松城に入っている。

稲庭素麺創業の地、湯沢村に関わる二人の大物は
両者とも徳川光圀に、根城を乗っ取られていた。

光圀は数々の功績の裏で食には並々ならぬ関心を
もった人物で、肉食が忌避されていた時代に牛、
豚、羊肉を常食したり、日本初の中国ラーメンを
中国の明から招聘した儒学者の朱舜水に作らせた
りしている。

特にうどんはめっぽう気に入り、隠居してからは
家臣たちに自分で打ったうどんをふるまった記録
が残るようだ。
今、隠居先の常陸太田には黄門様うどんを出して
いるうどん屋もある。

水戸黄門と呼ばれた光圀が晩年過ごし
うどんを打っていた常陸太田の西山御殿

光圀がうどん好きになった背景記録は残されてい
ないが親戚筋の館林初代藩主、後の五代将軍綱吉
からうどん情報を得ていたのでは?
と推測している。

綱吉の館林藩水沢には日本最古のうどん屋が今も
残り営業を続けている。
(関ケ原の戦い以前に開業した田丸屋と清水屋)
綱吉の領地館林は古くからの小麦生産地であり、
うどん名産地でもあった。
このうどんは東日本には珍しいエッジのある讃岐
と同じ切り麺で、手延べではない。

光圀が水戸黄門と呼ばれるようになってから打っ
たうどんの形は不明だが、手延べではなく手打ち
の切り麺なので水沢、館林から伝わった角のある
うどんだったに違いない。

(左)創業1582年の水沢の田丸屋のうどん
(右)江戸時代から続く館林うどん
どちらも讃岐うどんの原型のようなカドをもつ
綺麗な中太うどん

讃岐うどんは江戸時代に入ってからのうどんなの
で年代的には、水沢の方が古い。光圀は隠居後に
館林藩から得た情報でうどんを打ち、それを息子
の高松藩に伝えたのが、讃岐うどんの始まりでは
と私は考えている。
三者が麺作りで動いた年代を整理してみる。

①秋田藩二代目藩主佐竹義隆が湯沢で稲庭素麺を
仕掛けたのが1666年。その後86年の沈黙の後、
1752年に稲庭素麺は秋田藩献上麺となる。

②湯沢の隣村矢島で苦汁をなめていた讃岐生駒家
は1658年矢島での流罪がとけ、入村当時3歳だっ
た高清は、この翌年から旗本としての江戸城勤め
が始まり矢島と江戸を行き来している。
高清が稲庭素麺に関わった史実はないが矢島藩の
隣、湯沢村の手延べ素麺を知らないはずはない。

③光圀が常陸太田で隠居生活に入り、うどん打ち
に拍車がかかるのは1690年頃から。このとき光圀
の長男は高松藩二代目藩主として高松にいる。

以上の歴史をみると、
稲庭素麺創業から空白の86年の間、
特に1670年~光圀没年1701年の30年間に、
稲庭素麺と讃岐うどんの仕掛け人と思われる人物
が何やら裏で動き回っている。

そして、光圀の死後、
常陸太田の北に接する『三春藩』で突如として
輪島素麺と並び称された絶品素麺が出現するのだ

日本一の三春しだれ桜

当時この田舎の城下町には、23軒のそうめん家の
記録が残り『三春素麺』は三輪、輪島、揖保と肩
を並べ、幕府への献上品として扱われていた。
明治維新後は三春藩の解体により三春素麺は姿を
消し、幻の素麺となってしまう。

三春素麺は稲庭素麺が伝わったのではないかと
地元では言われているが、稲庭吉左エ門は製法を
末裔だけに伝授する門外不出の麺と遺言を残し世
を去ったため、東北のどこにも稲庭素麺の製法は
伝わっていないとされている。
三春素麺の稲庭との関係は、不明のままだ。

海岸沿いでも大河のほとりでもない山間の三春で
絶品の素麺が生まれた。こんな地に素麺産地が現
れるのは、歴史的にも三春だけだ。
誰かが何かの目的をもち製麺熟練者を送り込まな
いと幕府に献上できるような素麺は作れない。

三春の歴史を調べていると湯沢、矢島と関係した
人物が浮かび上がってきた。
佐竹義宣が常陸国から秋田藩に減封された時、
秋田の領主であった秋田実季は、玉つきで人事で
常陸国宍戸藩初代藩主となり、二代目の藩主秋田
俊季は、宍戸藩から三春藩に転封していたのだ。
秋田家は三春藩藩主として、幕末まで続く。

佐竹家と秋田家の関係は悪くはなかったようだ。
湯沢は秋田家のかつての領土の一部だし、三春の
歴史書によると三春には多くの秋田人が移り住ん
でいる。
佐竹家からの依頼で三春藩は、稲庭うどんの製法
を三春に持ち込んだのではないだろうか。

また三春は、高清の生駒家の故郷四国とも接点が
あることもわかった。
讃岐の隣り伊予から加藤嘉明が会津藩藩主となり
嘉明の次男明利が秋田実季の前の三春藩藩主であ
った。三春には生駒家と繋がりのある四国出身者
も移り住んでいた。

当時の三春藩と常陸藩の位置関係
領地空白地帯を隔てて隣り合わせ

こうしてみてみると三春に突然現れた素麺産地は
稲庭素麺の仕掛け人である秋田藩主佐竹義隆と隣
村で稲庭素麺を間近でみていた矢島藩主生駒高清
の二人が、何らかの目的で光圀の住む常陸太田の
北隣りに位置する三春に素麺産地を興したように
見えてしまうのだ。

佐竹家と生駒家は、光圀に根城を乗っ取られてい
るわけで光圀に恨みをもつ仲間。隠居して讃岐に
うどんを伝授したとおもわれる水戸光圀の背後で
二人は何かを画策していたに違いない。

三春の製麺会社が復刻させた三春素麺
稲庭うどんのように細く平らで透明感がある

三春素麺が栄華を誇るのは、光圀死後の1700年を
過ぎた頃からで当時出版された和漢三才図会には
『奥州三春より出づるは白く美なり』
と名高いそうめんの一つとして詠われている。

和漢三才図会(1712年)

稲庭素麺が湯沢に持ち込まれ秋田藩献上麺になる
までの空白の86年間には、こんな隠された動きが
あり、稲庭素麺は湯沢から三春に身を潜めていた
のではないかと推測してみた。

1691年から隠居生活を始めた光圀は、三春素麺の
賑わいはもちろん知っていたはずである。
食通の光圀のこと、三春素麺をいち早く口にして
いたであろう。
そして三春素麺は、1700年を過ぎてから江戸幕府
への献上品となる。

既に銘品として扱われていた三輪、輪島、揖保の
素麺と肩を並べての幕府献上品である。これらの
名産地には200から400家の素麺家があったよう
だが、三春には23家しかなく、素麺作りの歴史も
浅い。権力者の推薦がなければ幕府献上品とはな
らなかったはずだ。
それは徳川御三家水戸藩の推薦しかありえない。

佐竹義隆と生駒高清が憎む水戸黄門の住む背後の
三春で素麺を興した目的は推測のしようがないが
稲庭素麺の技法を知る立場にあった佐竹、生駒家
が関わった可能性は十分にある。
皮肉なことに敵対していた水戸光圀が、三春素麺
を幕府に推薦し献上麺となった。そして佐竹家と
生駒家の仕掛けた三春素麺が、光圀の讃岐うどん
を越えてしまった。

現在、徳川家の讃岐うどんと佐竹・生駒家の稲庭
うどんは日本の東西に君臨し、うどん界において
いまだに戦いが続いているようだ。

次回は、中国のそうめんを追いかけます


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