うどんを広めた黒幕を探せ
あらすじ
手延べ麺の産地を訪ねるメン旅を続けていた。
行く先々の土地に、何故か、カモの名が付いた
土地、神社(鴨、賀茂、加茂)が現れる。
麺と鴨の関係をネット、書籍、論文検索で調べる
ものの誰も何も述べていない。麺の里とカモ地の
関係は、中四国から近畿、中部、そして関東地方
までの全地域でみられる奇妙な現象で、なぜ誰も
動かないのか、とても不思議だ。
この謎を解明するため全国の麺どころを訪ね、
カモ神社を創建した古代鴨族が手延べ麺を広めた
黒幕であることを突き止めるが、証拠は不十分。
古代鴨族は、天皇、朝廷との関係も深く、踏み込
んではならない領域なのかもしれない。
そんなとき、仕事で上海に渡ることとなった。
中国に入り、チベット・青海高原から世界最古の
麺化石が出土したことを知った。紀元前2千年の
麺は、庶民の食べ物ではなく、神に捧げた祭祀麺
であった。
日本カモ地の麺はカモ神社の祭祀麺であったこと
の類似性から、中国の祭祀麺が日本に伝播した
ルートを中国全土で追いかける。
最後は中国最北の黒竜江に行きつき、驚くものを
目にした。
黒竜江省は漢民族から文明不毛の地とされてきた
が、近年の考古学調査により高度な文明があった
ことが判り始めている。
野蛮族とされていたイーロー族が、弥生時代後期
から古墳時代にかけ、当時の先端技術をもち、
麺を使う祭祀を行っていたことがわかり、鴨族と
イーローのパズルピースがぴったりとはまる。
その後イーロー族は百済に渡り、大和に渡来した
ことを、麺の特徴という独自の視点から解き明か
していくヌードルミステリーノンフィクション。
第一食;
岡山から、四国路へ
今、鴨を追いかけている。
いや、鴨に追われている。
鴨の霊に取り憑かれたわけでも、
鴨の養殖場を営んでいるわけでもない。
私は麺の歴史を解き明かす、ヌードルハンター。
だが、今回は、摩訶不思議なうどんの歴史迷路に
放り込まれたようなのである。
海外仕事30年、麺大国の中国から帰国していた。
久しぶりの日本、故郷岡山に戻り大好きなうどん
を食べ歩くメン旅に出かけた。
岡山うどんの産地『鴨方』。明治時代以前から
の手延べ麺。しなやかなメンだがコシがある。
棒で引き延ばす素麺と同じ製麺方法だ。
一方、瀬戸内海を渡った讃岐のうどんはコシの
強い切り麺で、
「岡山の女うどん、讃岐の男うどん」
といわれている。

鴨方から讃岐うどんのメッカ坂出に足を向ける。
グルメサイトうどん店人気ランキングを独占する
[がもう]。農家を改造した店には多くの客が押し
寄せ、店外にも客があふれ出ていた。
屋外の長椅子に座ってうどんをすすり中には立ち
食いしている人も。これが [がもう]だ、大繁盛。
ネギ、天カス、汁はフリーで、180円。喉越し、
イリコ出汁は抜群で、日本一のコスパを実現した
食であることは間違いない。
運よく屋内に席がとれる。私の横で近くの会社員
らしき女性がうどんをすすっている。仁王座りで
背筋を伸ばし、いっきにうどんを喉に通した。
少し遅れて同僚らしき作業服姿のガタイのいい男
が合流。彼の丼には山盛りのうどん、三玉か。
天ぷらも何も注文せず、出汁もかけていない。
味の素をたっぷりと振りかけ、卓上醤油をぶっか
け混ぜ合わせる。これをいっきに平らげた。
女は物足りなかったのか、男のうどんを少し奪い
ズルズルを続けた。この間、2分。
「おおぉ、これが讃岐のうどん道かぁぁ、
スゲエのぅ、男うどんじゃの~」
最寄りJR『鴨川駅』までの帰り道、農道角地に
ひっそりとたたずむ神社。
鳥居をみると『鴨神社』とあった。

坂出を出て、吉野川に沿って走る徳島線に乗車。
阿波半田駅で下車し、“半田そうめん”の天日干し
を農家で見学させてもらう。
半田そうめんは素麺JIS規格直径1.3mmを超えて
しまった冷や麦ほどの太さがあり、半田素麺の
ファンは多い。
吉野川は日本最大の断層中央構造線が作り上げた
河川で東西200km、川幅最長は2kmにもなる。
吉野川の雄大な景観を前にすると、ここは日本で
はなく中国の高地にいる錯覚におちいった。
大河を見下ろす農家の庭に、天女の羽衣のような
天日干し素麺がたなびく。
徳島線阿波半田駅の手前で、
『阿波加茂駅』、『三加茂駅』を目にしていた。

徳島名物には “たらいうどん”もある。
桶に入れた釜揚げうどん。地元川魚“じんぞく”で
出汁をとる。江戸時代から継承されたうどんだ。
山中で働く木こりが、仕事納めに食べていたと
伝えられる。
たらいうどんの土成町は昭和30年まで御所村と
いった。阿波国に配流された後鳥羽天皇第一皇子
土御門上皇がここで晩年を過ごし崩御している。
この時代背景と、うどん起源の関係は不明だが、
なぜ山中の仕事納めに、製麺が面倒なうどんを食
べねばならないのか? 握り飯で十分ではないか。
このとき古代朝廷と麺には何か深い繋がりがある
かもしれないとおもった。
たらいうどん発祥地である宮川内谷川に入るため
徳島線の『鴨島駅』で下車していた。

旧御所村を後にした夜、高松のホテルで考え込ん
でしまう。歴史ある麺の産地を訪れる私に、
『カモ(鴨、加茂、賀茂)』が、まとわりつく。
いや、うどん・そうめんの名産地を訪ねる私が、
カモ名の地に吸い込まれていくのだ。
岡山の鴨方、坂出の鴨川、半田の加茂、そして
たらいうどんの鴨島。
なぜか、行く先々に、カモの地が現れてくる。
第二食;
兵庫揖保から奈良三輪へ

夕刻、高松から姫路に入った。駅前の小料理屋の
暖簾をくぐる。生姜のきいた姫路おでんと名物
焼き穴子を肴に地酒。店の主人には先ほど初孫が
できたようで、上機嫌だ。
「明日、揖保乃糸の里、たつの市に行く」
と話すと奥さんの実家は揖保の素麺家だという。
「山崎町って知ってる? 京都の山崎やないで。
実家にデカい扇風機おいとるわ。
黒帯素麺は、三輪や島原も食べたけどなぁ、
揖保の黒帯にゃ、かなわんなぁ」
地図でみると揖保そうめんの里東觜崎より揖保川
の上流に宍栗市山崎はあった。
製麺家は揖保川沿いに鈴なりになっているようだ。
揖保乃糸は、どこのスーパーでも手に入る。
同じ名称、同じロゴの商品しか置いていない。
他の素麺産地は製麺所により名称、包装デザイン
が異なるものがあるが、揖保素麺には揖保乃糸
しかないのである。

揖保乃糸は製麺所各社各農家が独自に出荷、販売
をするのではなく、全て素麺協同組合に納入され
品質は組合によって管理される。
小料理屋の奥さんの実家も勝手に作り勝手に売る
のではなく、組合の製麺基準で麺作りをして組合
に納入していることになる。
揖保の歴史は室町時代に遡るが、この生産管理
方式は明治5年から組織化されている。産業革命
と同時期に、自動車や家電と同じような体制で
素麺作りをしている。
これでは、他の個人製麺所が勝てるわけがない。
揖保川沿いには、430を超える製麺家があり、
小豆島の6倍。手延べではダントツの日本一だ。

最強の製麺家集団たつの市の地図を眺めていると
またもや、カモが顔をのぞかせた。
素麺を生み出す揖保川河口近くに『賀茂神社』が
素麺の守り神のように鎮座している。坂出でみた
鴨神社と同系列で平安時代建立の神社であった。
地図をスクロールして、このあと向かう日本最古
“三輪素麺”の里、奈良県桜井市に目を移す。
そして、隣の御所市を眺めていたその時、
目を疑った。ナントいうことだ、
町名に『鴨神』、
近くには『高鴨神社』と記されていた。

三輪素麺は日本の手延べ麺の最高峰である。
揖保、小豆島や半田も、全て三輪から伝わった
そうめんである。
麺本家の土地には、カモの最高神が宿っていた。
ネットで鴨とうどん・素麺産地の関係を調べるが
ヒットするのは“鴨南蛮うどん”といったグルメの
情報ばかり。この関係をテーマにした書籍、古本
を探すが見つからない。
国会図書館の論文検索も試みた。しかしメン産地
とカモ地名に関する研究は、皆無なのである。
「どうして誰も、このわかりやすい謎に近づこう
としないのか? 踏み込んではいけない古代麺の
世界があるとでもいうのか?
私はその迷宮に入り込んでしまったのか?」
鳥肌が立ち、背筋が凍り付いた。
第三食;
北陸三県にもカモはいるの?
歴史ある麺産地にカモ名が付く謎が解けないまま
東へメン旅を続けていた。北陸にも古い麺どころ
は多い。
松尾芭蕉が絶賛した“小松うどん”、
京都伝来の“金沢うどん”、
富山の“大門そうめん”はマイナーだけど、
“氷見うどん”は少しメジャーかな。
どれも江戸時代の歴史あるうどん、そうめんだ。

1泊2日北陸メン旅。朝昼晩と北陸の名物うどんを
食べる計画だ。羽田から朝8時半に小松空港着。
機内を出て、空港内の小松うどん屋[中佐中店]に
急ぐが、閉店の看板。
入口横の勝手口が開いていた。
中を覗いてみると、店長がカウンターで一人朝飯
を食べている。開店時間を聞いた。
「10時からよ。あんた一人?
つくってあげるがや、入りまっし」
なんとハイレベルな顧客対応。店長とカウンター
に並び朝うどんにありつけた。
羽田空港の食堂ではありえない。マニュアルには
ない顧客対応。地方のサービス精神はバツグンだ。
小松うどんの出汁は、うるめ・むろあじ・さば
を用い、昆布をふんだんに使う。故郷瀬戸内の
イリコ出汁とはまた違う旨味。
メンは、手打ちの中細切り麺。
白山の水で仕込むのも特徴のようだ。
小松市内には、約70軒のうどん屋があり、全国的
には知名度は低いが、隠れたうどんが名物の土地
である。
金沢に入り、1897年創業老舗[加登長総本店]へ。
“たぬきうどん” を注文したが、京都のたぬきと
まったく同じだった。

油揚げとネギだけ加ええた京風あんかけうどん。
東京の天カスだけのタヌキと違い京風だ。麺は
関西の老舗で使う角のない丸くコシの弱い細麺。
金沢料理は京料理が伝わったものというから、
うどんも京から小松を通り越して、入ってきた
ようだ。
金沢でも地図を眺めていた。ここでも、やっぱり
顔を出してくるのだ、カモが。
小松に隣接する加賀市加茂町。金沢にはカモ地名
はないが市内に加茂神社がある。鴨、賀茂神社と
同じ系列の神社だ。
金沢市と接する河北郡、かほく市にも、加茂神社
と賀茂神社がある。石川県には他地域にはカモ名
の地、神社はなく、金沢、小松周辺だけにカモは
いる。
実は石川県には、あと一か所カモ地がある。
震災で被害を受けた能登町の鴨川地区。今の輪島
周辺には歴史ある麺どころは無いとおもっていた
が、カモ地には古い麺の里があるという仮説で
調べると、輪島市鳳至町は戦国時代から江戸末期
まで、素麺の名産地であることがわかった。
全盛期には70軒を超える素麺家があり、幕末に
輪島素麺は消滅している。
戦国時代の“輪島素麺”は人気筆頭株だったようで
信長は御所への献上品に輪島素麺を使っていた。
信長が三輪ではなく輪島の素麺を選ぶのだから、
この麺は他にはない艶とコシがあり、喉越しは
バツグンだったに違いない。
石川県には、これらの地区以外に、カモ地、カモ
神社はない。パーフェクトにカモ地には古くから
メン業が興っていたのだ。

この両地区 は京都府舞鶴市に隣接する地域で 古くは京都管轄地
富山に移動し、氷見うどん(氷見市)、大門素麺の
産地(砺波市)を訪ねる。カモ地は氷見市、砺波市
の市内にはないが、氷見、大門が取り囲む高岡、
射水、小矢部市にカモの地が集中している。
(高岡市2か所:鴨島地区、加茂地区、射水市2か所
加茂地区と加茂神社、小矢部市1か所:鴨島地区)
富山県でその他のカモ地は魚津市に1か所だけ。
カモと名の付く土地のほとんどが、氷見うどんと
大門そうめんが取り囲むエリアにある。
福井の話もしておこう。福井県には、うどん・
素麺の古い産地が今はない。カモ地は県内に
1か所で福井市加茂町のみ。
「福井には名物麺はないなぁ」
とおもっていたが、ここでも輪島と同じように
今は消滅したかつての製麺地区がみつかった。
福井市南部に隣接する越前市丸岡町。
ここは鎌倉時代、永平寺で食する素麵の製麺所
が集まっていた地区であった。

京都には、鎌倉時代に神社仏閣が管理する大規模
な製麺所があった。京都建仁寺は素麺の製麺所と
しても名が知られ、山城国綴喜郡には朝廷の農園
があり、そこには製麺所もあったという (今の
京都府井手町、宇治田原町あたり)。また八坂神社
で食された素麺は丹波から送られている。
越前市丸岡町もこのような場所だったわけだ。
そして福井市加茂町は、越前市丸岡町の北30キロ
に位置しており、両地区の距離は近い。
北陸三県のカモ地、カモ神社は多くはないが、
カモ地名のほぼ全てに、かつては製麺所が存在し
てしていた。岡山から四国、近畿と同じような
現象が、北陸三県でも起きている。
しかし、カモ地にメン業が興る謎を解明する
糸口が、まだ見つからない。
第四食
愛知のうどんは難解、さてカモはどうする?
中部地方太平洋側には、西日本のような手延べの
うどん・そうめん名産地はない。愛知県といえば
“きしめん”と“味噌煮込みうどん”だ。
果たして、こんな手間のかかるうどんまで、
カモは追いかけてくるのだろうか?

味噌煮込みうどんは一宮が発祥の地。
グルメサイトで一宮市の味噌煮込みうどんを検索
してみると人口38万人の市内にうどん屋は約70軒
この半数が味噌煮込みであった。
八丁味噌発祥の岡崎市の味噌煮込みうどん屋比率
は、全うどん屋の一割程度。一宮市民の味噌好き
は突出している。
愛知県めんるい組合公式サイトによると、
《家庭料理であった味噌煮込みうどんをお店で売
るようになったのは明治初期。一宮の織物工場で
働く女工たちの昼食の給食がなくなり、女工が近
くの食堂で昼食をとるようになったことによる》
とある。
当時の工女給金/日は5銭から7銭。味噌煮込みは
1銭ほどで、今でいうと2千円はするだろう。
昔も今も味噌煮込みうどんは安くない。
一宮の織物工場は全国的にも珍しい自宅通勤型。
現代のOLと同じく何かハッピーなことがあれば
「味噌煮込みの豪華ランチに、行こみゃあ!」
とウキウキ、同僚と外食に出かける姿がうかん
できた。
こんな時代背景からは、味噌煮込みうどんに鴨が
入り込む隙間は、まったくないとおもうのだが、
地図検索をすると、
「あぁ~、ここにもカモが、いる、いる」
市内には加茂町があり、加茂神社が市中に
ドカンと。おまけに一宮加茂神社の歴史は古い。
平安時代中期に編纂された延喜式の神社リストに
記載された平安時代中期以前͡の古社である。
江戸末期~明治初期発祥の味噌煮込みうどんを
古代建立の加茂神社がコントロールし、そして
味噌煮込みうどんを創作したとでもいうのか。

愛知県のもうひとつの名物麺、きしめん。
発祥の地は名古屋ではなく東部の三河地方。
名古屋きしめんと言わず地元では“三河きしめん”
というようだ。
「三河にもカモ地は、きっと、あるよなぁ~」
とおもいながら検索すると、ここにもでるでる
出てくるカモの地が。
徳川家康の祖、松平家が氏子だった豊橋賀茂神社
を取り囲むように、あるわ、あるわ三河地方に
カモの地が。 [豊橋市鴨田、新城市作手鴨ケ谷、
岡崎市鴨田、長久手市鴨田、豊田市駕鴨]
愛知県では、県西端の味噌煮込みうどんの一宮市
と東部きしめんの三河の東西両地区に分かれ、
カモの神社がどっしりと腰を下ろしていた。
愛知メン旅でも、カモ地とメン名産地の関係には
深い繋がりがあることがわかった。
これはただ事ではない。関東甲信に急ごう。
第五食
奇怪なうどんだらけの関東甲信へ
うどんの形は、関西・中部より、かなりヘンだ。
関東には各地各様のうどんが分散している。
それもメンのカタチは奇怪なものが多い。
「こんなところにも、カモが隠れているのか?」
説明すると紛らわしいので、地図に特色メン地域
とカモ地、カモ神社をプロットしてみた。

県下の近年創作のご当地うどんは外し、
江戸時代からの“加須うどん”のみをプロットした。
*“武蔵野うどん”と富士吉田市の“吉田うどん”は
明治以降の 新しいうどんのため地図に記載していない。
山梨の“ほうとう”、埼玉西部・東京多摩には硬い
“武蔵野うどん”、群馬の“おっきりこみ”、
どれも関東甲信のうどんは独創的だ。
群馬や栃木には“ひもかわうどん”や“耳うどん”の
奇怪な形状をしたうどん、長野には辛味大根に
つけて食す“おしぼりうどん”、中条の“おぶっこ”
もある。長野は信州蕎麦だけ食べているのでは
ない。
さて地図をみてみよう。説明は不要だとおもう。
三大うどんの一角を五島うどん、氷見うどんと
争う“水沢うどん”。この地を除いて、名物うどん
とカモの土地は、見事に重なっているのだ。
特筆すべきは、関東甲信には変化球のうどんが
多いが、どこの産地にもカモ神社がある。
“山梨ほうとう”発祥地と言われる山梨県笛吹市。
ほうとう店数は甲府市より多い。笛吹には加茂町
があり、賀茂神社がある。
桐生の“ひもかわうどん”、館林の“館林うどん”
佐野の“耳うどん”の3市は隣接するが、それぞれ
ドンピシャで3か所ともに賀茂神社がある。
(館林賀茂神社は市中から10数kmの太田にある)
”耳”や”ひもかわ”は相当ヘンな形で、なぜこんな
所にまでカモは顔を出すのか、
これはもうカモさんに頭を下げるしかない。

埼玉の加須うどん、長野の郷土うどんも江戸時代
から続く伝統的なうどんで、カモが横でしっかり
とサポートしている。
上州(群馬)おっきりこみは発祥地不明のため記載
していない。
興味深いのは宇都宮。市内から距離15~30キロ
の那須鳥山、矢板、塩谷、桜川にはカモ神社が
あり、宇都宮をとり囲んでいる。
宇都宮には特色麺はないが、
《市政研究センター調査報告》によると、
《うどん、蕎麦、中華麺、即席麺の個人消費量は
全て全国10位以内で、総合的な個人の麺消費量は
宇都宮は日本最強の麺食いエリア》とある。
うどん店数を調べると、北関東全市の中で宇都宮
が最も多い。うどん県群馬の各市より多いのだ。
また宇都宮餃子は有名だ。中国では、餃子も麺に
分類するので餃子を麺類に含めてみると、宇都宮
は全国一の麺好きの町ということになる。
地図で房総半島の安房国(南房総、館山、鴨川)
にもカモ名の土地、賀茂神社があるが、南房総
にはうどん・素麺産地は、今も昔もない。
しかし、千葉県安房郡富崎村の歴史・文化を紹介
する《安房文化遺産フォーラム》によると
《この地域は8月1日新盆に線香をあげにきてくれ
た人に、素麺をお返しする慣習がある》という。
素麺産地でもないこの一帯にも、カモがいると、
やっぱり、ソウメンが出てくるのだ!!
これと同様の慣習は、高知、土佐にもある。
第一食で四国をメン旅したが、高知県には名物
うどん、素麺はなく、旅をパスしていた。しかし
高知市には鴨部という地区名が3か所、四万十市
には鴨川が2か所とカモ地が多い。そして、高知
でも南房総とおなじような食文化が見つかった。

土佐ではハレの日に出される素麺の皿鉢がある。
《うちの郷土料理》によると、
《日常食ではなく冠婚葬祭や出生の祝い、節句
などハレの行事や客をもてなす際に提供される》
と説明されている。
勤務先に土佐出身者がいたので聞いてみた。
「そうやねぇ~
結婚式で、確かにソウメン食べたがやぁ」
と言っていた。
高知県には素麺産地はないが、カモ地の土佐では
素麺はハレの日の食事とされているようだ。
中部から関東甲信のメン旅を終え私は確信した。
カモ地とメン産地の一致は偶然なんかではない。
何か隠された、いや学者も研究対象にしたくない
麺の隠された歴史が、間違いなく存在する!!
第六食
カモ地名・神社は全国に多いの、少ないの?
鴨、加茂、賀茂がつく地域が、日本にいったい
どのくらいあるのか?
全国カモ地と麺産地の相関性をみるために、カモ
のつく地名がとれくらいあるかを調べてみた。
《地名辞典オンライン》で検索してみる。
千葉県鴨川市のように市名に鴨が付くケース、
岡山県浅口市鴨方町のように町名、村名に付く
愛知県豊明市三崎町高鴨のように町名の下の地区
に付くケースの3つがある。
全国市区町村名の数は3241、その下の地区名まで
含めると、全国には33万を超える地名がある。
この地名の中で『鴨』の付く土地は地名辞典DB
からは、165か所がヒットした。
正確には町名、その下の地区名に分けてみること
が必要だが、ここではカモ地名の稀少性を確認
する事が目的なので、簡略化して合算してみる。
全国の鴨がつく地名数に加茂、賀茂も加えると、
196地名ある。33万の全国地名の中、カモ地名は
ちょっとしたメン旅で、たびたび出会うような
場所ではないのである。
京都府や岡山県の人にはカモ地名は珍しくないが
全国的にはとても稀な土地なのだ。

次にカモ神社(鴨、加茂、賀茂)は全国に何社ある
のだろう。
《NAVITIME神社DB》にある約2万件の神社から
カモ神社を検索すると、その数は111社。
その割合は0.56%で、地名同様にとても少ない。
カモ神社もまた、私のメン旅で次々に出てくる
ような神社ではない。
そして全国の江戸時代以前の歴史ある名物うどん
そうめんの産地をリストアップしてみた。
私の選択だが、大きくは外していないだろう。
全国に30数か所ある。そこにカモ地名・神社の
有無を色付けしてみたものが下表になる。

カモが付く稀少地域の半分に、うどん・そうめん
の産地が被っていることがわかる。
カモ地にはカモ神社があり、カモ神社がある所に
メン産地は興っている。
東北、九州を除くと、驚くことに、
「歴史あるメン産地には、ほぼカモ神社がある」
カモ神社が、メンを創り出す何か特別な理由が
必ずあるはずだ。それは、いったい何なのだ。
この謎解きをするため奈良の鴨神町『高鴨神社』
を調べることにした。この神社は、全国カモ神社
(鴨、賀茂、加茂神社)の元本宮であることが
判った。《高鴨神社の公式サイト》では御由緒を
次のように紹介している。
《この地は大和名門の豪族である鴨一族の発祥地
で本社はその鴨族が守護神として祀った社の一つ
大和の名社である大神神社や大和大国魂神社と
並び従二位の御神階にあった本社の御祭神もとも
に従一位に叙せられた古社》
『鴨族』という新たなキーワードが出てきた!!
《弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野
の西南端御所市に移り葛城川の岸辺に鴨都波神社
をまつって水稲生活をはじめた。東持田に移った
一派も葛木御歳神社を中心に同じく水稲耕作に入
る。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を
中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった
がともに鴨一族の神社。中でも京都の賀茂大社は
有名だが、本社はそれら賀茂社の総社にあたる》
京都上賀茂神社、下鴨神社も鴨族の神社だった!!
《鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族
の神を祀った。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にする
ものが安芸・ 播磨・美濃・三河・佐渡の国にみら
れ、郷村名にいたっては数十におよぶ。》
以上が、高鴨神社サイトの要点だが、
全国カモ名の土地は金剛山麓の鴨族が全国に散り
住み着いた土地の名称だというのだ。
そして鴨族は、地方の移住先で、カモ神社(鴨、
加茂、賀茂神社)を創建した。
鴨族と素麺・うどんの関係は不明だが、鴨族が
全国に移住したことはわかった。その移住先で
麺産地が出現している。
それにしても時代が遡り過ぎる。弥生中期の年代
が出てきた。考古学の世界ではないか。
到底メンとの関係などあろうはずがない。
高鴨神社HP鈴鹿宮司インタビュー記事を続ける
《鴨族は天体観測や薬学の知識が深く、製鉄技術
農耕技術、交通手段である馬術にも長けていた。
天孫降臨の神、ニニギノミコトに馬術を教えたの
は鴨之大御神とも伝わります。修験道開祖の役行
者も鴨族で、陀羅尼助の薬はその役行者が生んだ
もの。天体観測や陰陽道にも通じ安倍晴明の師匠
で陰陽道を極めた賀茂忠行も鴨族でした。古代
日本の発展に鴨族は色々な形で貢献しています》
古代の鴨族は、当時の先端技術を操つる集団で、
安倍晴明の師匠や方丈記の鴨長明も鴨族だった。
我々に馴染みの深いものとしては、Jリーグの
ロゴに使われているヤタガラスがある。

この鳥は鴨族の化身で、ヤタガラス(八咫烏)が
神武天皇を熊野から大和に導き、大和王朝は興っ
たと古事記に記されているようだ。
ヤタガラスや鴨長明で、鴨族が身近な存在には
なった。鴨族と麺作りの関係は依然として不明だ
が、ひとつの謎解明への糸口がみつかった。
第七食
カモの元締め高鴨神社へ、謎は解けたか?
高鴨神社鈴鹿宮司を訪ねるため、奈良御所市に向
かっている。アポはとっていない。聞きたい件を
事前に話すと会ってもらえないと思ったからだ。
「高鴨神社で、古代に、そうめん、うどんとか、
メンをつくられていませんでしたでしょうか?
そのぉ~、記録とか古い製麺道具とか、メンに
関係ある何かが、、、残されているとか・・・」
かなり怪しい質問になる。こんな失礼な話を高鴨
神社宮司鈴鹿家の八十五代目に電話口でお聞きし
ようもんなら、「ガチャ」と電話を切られるオチ
になるだけだ。

鈴鹿家の祖先は天児屋根命。岩戸隠れの際、岩戸
の前で祝詞を唱え神様で、天智天皇の右大臣中臣
金連も先祖にあたる。そんな方に、恐れ多くも、
うどんミステリーの疑問をぶつけるには、
飛び込み訪問、突撃インタビューしかない。
私一人では不信がられるとおもい妻を同伴した。
彼女は医療専門学校の先生をしているので常識人
に見える。
私は30年の海外生活で、どうも、立ち振る舞いが
怪しい。宮司の不信感を消すため妻に横について
もらい、もしお会いできない場合に備えて今回の
ミステリー概要と、知りたいことを書いた手紙を
持参した。

日本最古の神社の一つ、全国鴨社の元本宮である
高鴨神社。神社の神域は鉱脈の上にあり、大量の
気が出ているという。今はパワースポットとして
ここを訪れる観光客は多い。
高鴨神社鳥居。凛とした空気が張りつめている。
受付の巫女さんを目指して進む。挨拶がわりに
水晶のブレスレットを購入し、尋ねた。
「宮司にお会いできますか、いやぁ、お約束は
していないのですが、、、お伺いしたいことが
ございまして」
すると、巫女さんは拍子抜けするほど軽やかに
「ちょうど今日はいらっしゃいますから、
おうかがいしてみますね。ちょっと、
お待ちくださぁ~い」
出雲大社、大神神社と肩を並べる神社界のトップ
に、そんなに簡単に面会できるのだろうか。
鈴鹿宮司は庭の掃除中だったようで、手にホウキ
をもたれて、ひょっこりと私の前に現れた。
「どんな御用ですか?」
宮司は気さくな方で、庭先で20分ほど立ち話をさ
せていただいた。世界文明が興った土地の特徴と
御所市の共通点などのお話を伺い、
私からはカモ地、カモ神社のある地域に麺産地が
興る謎をお伝えし、核心の質問に入る。
「古代から中世にかけて、高鴨神社の年中行事で
麺をつくり祝うような儀式はありませんでしたか
その~、地方では、地域の収穫祭で、鴨神社が麺
をつくり、地域農民とともに神を崇めるような」
「ないねぇ」
「元宮に伝わる製麺道具とか、麺の古文書とかも」
「ないねぇ」
無礼を顧みず最後に、鴨族が渡来人だった可能性
についてもお聞きしてみた。
「麺は中国から伝わりました。古代テクノラート
集団であった鴨族は渡来人で、最先端技術と麺作
りをも、この地に持ち込んだという言い伝えは
ないのでしょうか?」
「ないねぇ。
鴨族は縄文時代後期には、この地にいたとされて
います。まあ、長い時間の中で日本には朝鮮半島
や南方からも様々な民族は流れ込んだのですから
この周りに生粋の先住民の日本人は少なく、
どの族も渡来人といえば、渡来人でしょうけど」
謎は謎のまま、高鴨神社を後にした。

第八食
麺を全国に広めた黒幕は、鴨族?
東京に戻り、鴨族の歴史、古代朝廷の食に関する
書籍や資料をあさる。古代鴨族と天皇は極めて
近かしかったようで、奈良から平安時代にかけて
多くの鴨族が朝廷に仕えていた。
鴨族が朝廷で天皇家の食事を司った史実は探し出
せないが、その可能性もなくはないので平安時代
の朝廷の食事について調べてみる。

平安時代律令施行細則を編纂した延喜式には朝廷
の食べ物の詳細な記載がある。延喜式は食の歴史
を語る際にもよく引用され、
石毛直道先生(元国立民族博物館館長)の著作に
よると、麺の前身ではないかとされる “索餅”に
関して、その材料、製麺法、道具類の記述もあり
索餅は小麦の麺であるとしている。
平安時代中期の朝廷では、麺が食されていたのだ
天皇家は、麺がお好きだったようなのである。
また、天皇交代儀式である大嘗祭の平安時代運営
マニュアルが高鴨神社から発見され、
鳥越憲三郎先生(大阪教育大学名誉教授)がそれを
書籍化している。
ここには平安時代大嘗祭を締めくくる宴の献立が
記載されており、天皇交代儀式に『索餅』即ち、
麺の元祖が配膳されている。
内膳八種の献立;
『酢・塩・酒・醤・餛飩(蒸し餅)・餅・肉桂
・索餅(麺の元祖)』

風俗博物館2006年 下半期展示「七夕」 索餅の膳
鴨族、朝廷、麺の関連を考えると、鈴鹿宮司には
否定されたものの、次のような推測ができるので
はないだろうか。以下は、私の空想である。
奈良から平安時代、全国に移住した鴨族の中には
朝廷に仕えた人も多かった。鴨族は朝廷で食され
祭祀にも使われた麺の製法を知っていたはずだ。
麺は天皇、貴族の間で食され、天皇交代の儀式の
献立にものる神聖な食であった。
地方農村部に移住した鴨族が創建した神社では、
その神事、地元民との祭事において、朝廷を真似
て麺作りがなされ、振る舞われた。
カモ神社のある土地では、麺が収穫前、収穫後の
祭りなど“ハレの日”に食されている。
第一食で訪れた徳島県旧御所村のケースだ。また
岡山県鴨方町においても、鴨方町郷土資料館保管
の郷土史記録によると、祭りの日には神社が麺を
つくり、村民にふるまっていたようだ。
江戸後期まで小麦粉をつくる石臼の普及がなかっ
た農村では、日常食としての麺食もなかった。
江戸や大阪の市中では、江戸時代に入ると庶民の
ファーストフードとして、うどん、蕎麦が賑わう
が、農村の麺食はハレの日の特別食としてのみ
江戸晩期まで続いている。

麺を知る土地は、一時期、祝い事での麺食の慣習
が途絶えたとしても、麺を知らない土地よりも、
再び麺作りを始める受容度は高いとおもうのだ。
粒食の米と違い小麦を製粉する麺は手間がいる。
麺を聞いたことも食べたこともない土地で、製麺
手順を教えてもらったからといって、稲から小麦
に作付けを変え、麺作り集団が次々と現れるとは
到底おもえない。
麺と関わりのあった鴨族移住の地には、後に素麺
やうどんの産地になり易い環境が残されていた、
という空想だ。
それにしても、
朝廷に儀式で使う麺を持ち込んだのは誰なのだ?
鴨族が御所で麺を創作し朝廷に持ち込んだのか?
中国、朝鮮半島からの渡来人が朝廷に麺を伝え、
それを鴨族が全国に広めたのか?
麺を神聖な食として扱った鴨族とは、いったい
どこから来た民族なのか?
謎は、まだまだ解けないままだ。
東京の自宅にいた私に、一通のメールが入った。
「中国上海での仕事がありますが、受けますか?
長期になりますが」
ひとつ返事で、上海に渡ることにした。
この謎を抱えたまま。
第九食
中国メン旅、頭をのぞかせた鴨の親分
上海に生活拠点を移した。
中国には1995年から2009年まで、15年間滞在。
その後、中国を離れ13年ぶりに戻った大陸は、
あまりにも変貌し、私はまったくの浦島太郎だ。

古い家屋が軒を連ねていた地方都市、県域の田舎
にもタワマンが市中を取り囲み、電気自動車が
行きかう。
財布は消え、子供から老人までみんなキャッシュ
レス。スマホでの支払いは町の商店だけでなく、
屋外市場や小さな雑貨屋の婆さんへの支払いでも
現金は使わない。
道端に座りお金を乞う人までも、首からぶら下げ
たQRコードをスマホで読み込み、投げ銭だ。
中国でメン旅を再開した。
日本でうどんを広めたのは、鴨族ではないか?
古代鴨族は中国からの渡来者ではなかったのか?
高鴨神社鈴鹿宮司には否定されたものの、
日本鴨族の祖を探すのが、私の中国での使命、
いや、会社の仕事は第一なので、休日に
鴨を追うことが私のミッションになった。

中国も日本同様、麺に関する学術的資料がない。
文献が少なく大学が研究対象にしないことがその
理由だ。でも、とんでもない数の麺はある。
地方のマイナー特色麺まで含めると、1万種を超
える麺があるといわれ、私の健康寿命では到底
食べつくせない。中国大陸は、やっぱり広い。
仕事で地方に出て食事をする機会も多かった。
取引先の方々は、私の麺好きを知っていたので、
地元の有名な麺館に案内してくれた。
山西省太原市。麺の故郷といわれるエリア。
日本のガチ中華で〆のメニューにのる“刀削麺”や
両手を使い引きのばす“拉麺(ラーメン)”は、
山西省の特色麺だ。

写真は太原の通称麺博物館と呼ばれる料理店の
“長寿麵”。食事をとりながら、麺作りの演技を
観賞出来る。
メン生地を1本が2本、2本が4本、4本が8本と
折り返して伸ばしていくと、14回後には1.6万本
の束ができることになる。
1mの棒状にしたメン生地が1.6万m、16kmの
長さになるわけだ。これは長寿がイメージできる
店長によると14回が世界記録で、写真の職人は
13回まで折り返せるそうだ。麺の細さは、髪の毛
サイズになる。
私はこの技術を習得したいと常々おもっていた
ので、どのくらい修行が必要かと聞いたところ、
「10年だ。8回の折り返しだったら麺の専門校に
行けば、2週間くらいで伸ばせる」
長寿麵の技の習得は、断念した。
中国でもメン旅を続けながら鴨族を探していた。
中国古代民族、少数民族に鴨族はいない。
鴨姓をもつ歴史上の人物がいないかAI検索するが
歴代皇帝の周辺人物、貴族の名に鴨を探せない。
鴨姓をもつ人は極めて少ないのだ。
鳥としての鴨は古代文物にたびたび出てくる神の
化身だが、人名としては縁起が悪いようで、鴨姓
を変えた人が多いという。
今では鴨は、稀少姓のひとつになっている。
中国では男性同性愛者のことを鴨子というが、
男を切り取った宦官の中に、もしかすると鴨さん
がいるかもと考えた。
日本で朝廷に仕えた鴨族、中国皇帝の世話役と
いえば、宦官。
紀元前の漢朝から続くの宦官に、鴨さんがいない
か片っ端から調べてみたが、
あぁ~無駄骨だった。
日本と同じ手法で、地名で鴨のつく市町村名を
AI検索してみるが、この広い中国で、たったの
3か所しかない。その場所は歴史や食文化とは
無縁の山中であった。
最初から、どん詰まり・・・
鈴鹿宮司が高鴨神社公式サイトで述べていた鴨族
の特徴から、何かカモ探しの糸口をみつけること
はできないものか。
① 鴨族の特徴; 天体観測、薬学の知識が深く
製鉄技術、農耕技術、馬術、操船技術に優れる
② 私の推測; 日本古代朝廷で食された麺は、
鴨族が指南した可能性がある。
古代中国で、麺を使う祭祀はなかったのか。
鴨ルート探しの糸口が、なかなか見つからず悶々
としていたところ、一枚の写真が飛び込んできた
「ウン?、、、古代ヌードルの化石!? それも、
チベット高原と連なる青海省の青蔵高原で!!」

この麺化石の発見はヌードル起源に一石を投じた
はずだ。中国麺の起源は中原で麺はシルクロード
を西に伝わり中央アジアを経て、イタリアに伝播
したという。
一方イタリアでは、シチリア島でスパゲッティは
生まれ、地中海を東に進み、中東を経由して、
中国に伝わったと主張している。
この両者に割って入ったのが青蔵高原の麺化石。
青海省民和県の喇(ら)家遺跡から、4千年前の麺の
化石がが出土した。
中国、イタリア両国からは、
「またぁ、困った所から出てきてしまった・・」
と溜息が聞こえてきそうだ。
この発掘は中国科学院の調査で科学雑誌ネイチャ
にも掲載された論文(2005年)である。古代麺は、
フェイクではない。

青蔵高原は、中原と地中海東端の中間地域。
中国麺の文献での初出は、東漢初期(紀元25年~)。
山西、河南省あたりが麺の故郷で、起源前後から
シルクロードを西に向けて伝播したとしていた
ものが、突然、4千年前の麺化石が現れた。
位置関係からすると従来説の中原から西への伝播
の真逆になり、西から東に伝わり、中原に入って
くることになってしまう。
中国麺業界関係者はこの20年、麺の歴史には口を
閉じてしまった。
この論文をみて、私は一人で、ガッツポーズ!!
この麺は一般食ではなく、論文では祭祀で使われ
た可能性について言及していたのだ。
いても立ってもいられなく、喇家遺跡を目指した。

青海省はチベットと異なり、外国人も入境許可書
がなくとも気軽に旅ができる。
上海から青海省都西寧までは、3時間のフライト
西寧から民和県までは高速鉄道で1時間、駅から
喇家遺跡までは車で1時間という距離だ。
中国の県は日本の郡に相当する。東京を早朝に
出て、青海県民和郡川口町に昼前に着いた
という時間感だろうか。
チベット青海高原民和県、海抜2千m。岩がむき
出した赤色高原、そこを民族衣装をまとう人たち
が行きかう。
と書きたかったが、私を出迎えたのは、
タワマンが連なり、街の道は整備され、上海と
同じような服に身を包む人たちだった。
拍子抜け。

高速鉄道民和駅を降り、喇家遺跡までの1時間は
タクシーをひろうことにした。
車に乗り込むと、運転手は遺跡まで行くのは又と
ないチャンスとみたようで、
「旦那、小学生の息子が、今日は休みなもんで、
そのぉ、一度、遺跡をみせておきたいと・・・
これから家によって、子供をひろって・・・
いいっすっよねえ、旦那」
という流れで、運転手の家に寄り、小学生の息子
が合流。私たち3人は、麺化石遺跡ピクニックへ
お出かけとなったのだった。
第十食
チベット・青海高原の遺跡で、なんと・・
中国政府は都市発展を推進するため、二つの巨大
な建造物を全土の町に建設した。
ひとつは鉄道駅舎。高速鉄道駅だけでなく、速度
が遅い動車が停まる田舎駅でさえ日本の地方空港
より立派な駅舎に建てかえられている。

もうひとつは博物館。1~2級の大都市ではなく、
3~5級県域市にも大箱の博物館を新設している。
地元で出土した歴史的品々を時代ごとに区分し、
石器時代から戦国時代のおびただしい出土品、
唐・宋の文物、明・清の煌びやかな器、抗日戦争
の英雄たちの記録、最後に出口前で習近平思想を
学んで、終了だ。
この構成、順路はどこも同じで、博物館は、歴史
好きの大人の居場所ではなく、子供から大人まで
郷土愛、国家愛の思想教育機関となっている。
館内を出ると、「中国万歳!、郷土万歳!!」
となるのである。

喇家遺跡博物館も、こんな具合で現れた。
当時の青蔵高原は遊牧民の古羌族が緩やかに仕切
っていた。国ではない。古羌族の土地の一角から
広大な住居区とともに祭壇が出てきたのだ。
その上に現代アートを展示するような巨大な館が
建っている。
発掘現場を含めた施設のため電動カートで移動。
地元少数民族の土族ガイド嬢の案内がつき、麺の
化石の興奮ともあわせ、テンションは満開だ!

ここに来る前、麺化石の論文を読み返していた。
論文の最後には、討論として、興味深い解説が
述べられていた。
化石の原料分析により麺にはアワ、キビのイネ科
の米が使われていた。麺というよりビーフンだ。
論文では同じ材料を使い、押し出しの製麺法で麺
を再現して解説している。
出来上がったメンが河南省浚県の名物ビーフンに
似ていると、科学界トップ機関の科学院の先生が
科学と関係ないメンの話を大真面目に語っている
のだ。この一文には吹き出してしまった。
さすが、麺大国!

祭祀で使われた麺は『押し出し麺』だったのだ。
この麺は後のカモ探しに大きく役立っていくが、
ここでは古代の祭祀で押し出し麺を神に捧げてい
たと述べるに止めておく。
日本では押し出し麺が一般的ではないので、少し
解説しておこう。
押し出して製麺するヌードルはスパゲッティだけ
でなく、中国南方の主食ビーフン、北方で人気の
ホーロー麺(饸饹)、モンゴルやチベットの蕎麦麺
(高地では小麦が育たず蕎麦を食べる。日本蕎麦
は包丁を使う切り麺だが、中国の蕎麦は押し出し
道具を使う)、そして日本人が大好きな朝鮮冷麺
も、これらは全て押し出し機を使う押し出し分類
の麺になる。
中国、欧州のどこにいっても、メンといえば、
押し出し麺なのだ。
そして古代麺化石もまた、押し出すメンだった。

鍋の底に小穴を空け、メン生地を熱湯に流し込めば 出来上がり、
古代麺もこんな方法だったのか。

大地震のあとの土石流で 一瞬にして町が埋まった。
喇家遺跡の出土品を陳列した館内。祭祀に用いた
麺の関連出土品がないかと、目を凝らす。
そのとき、妙なものに釘付けになった。
麺化石とほぼ同時代BC2200~BC1600に出土した
『象牙のナイフとフォーク』が展示され解説には
斉家文化の時代とある。
「おぉ~象牙の古代ナイフ!?これはありえるかも
でも、フォ、フォ・・フォーク!? 」

ナイフとフォークの発祥地をスマホで調べると、
11世紀イタリアと出てきた。スパゲッティの歴史
は古代ローマまで遡るが、中世以前にフォークは
なく、スパゲッティは手でつかんで食べていた
ようだ。
でも、目の前にあるものは、紀元前2000年。
カモ探しにこんな遠方まで来たというのに、あぁ
フォークで食べていたかもしれない押し出し麺に
出くわしてしまった。スパゲッティではないか。
祭祀で使った麺の伝播ルートが、これでは東の
日本に向けてではなく、逆方向の地中海イタリア
に向かってしまう。
「面倒なものを見てしまった・・」
横では息子にオラが故郷を熱く語っている運転手
のオヤジ。館内業務について間がないのか私の
質問に笑顔でしか答えない土族のガイド嬢。
そして、古代フォークの突然の出現で、頭が混乱
している私。
我々を喇家遺跡は、4千年の包容力で、
強く抱きしめた。
第十一食
街角の麺屋で、世界最古のラーメンを
古代麺遺跡を見学した後、祭祀で用いた麺の伝播
ルートを探るため東の陝西省岐山県を目指した。
出土品でフォークを見たからといって、イタリア
に向けて、押し出し麺を追いかけるわけにはいか
ないのである。

青海省はBC2000年当時、羌(ジャン)族が支配した
土地だった。中国最初の統一王朝周(BC11世紀)は
民和から東南へ直線距離で約500キロに位置する
岐山県で興る。長安(今の西安)に近い。
500キロとはいえ中国でこの距離は遠くはなく、
古羌族と周朝の関係も、また近かった。
周朝開祖から歴代周朝皇帝の正妻の多くは、
古羌族から迎え入れている。

四川省北部に羌族の村は多く、観光地としてアクセス できる。
写真は中国新職信工より引用
周朝開祖文王は、前王朝の殷が人を生贄としてい
た祭祀を改め、動物や食物を生贄とした。
全国統一を果たした二代目武王から、麺を祭祀で
神饌として使っていたことは、中国の書で調べが
ついている。
すなわち、青蔵高原で古羌族が祭祀で使用した麺
は、周王朝に引き継がれたのではないか。
古羌族は遊牧民族で母系社会なので母方の発言力
は強い。
「あんた、かあさんのいうこと聞いて、儀式は、
メンでやんなさい!」
という強制伝承である。
この分野は未研究で、麺を追いかける私が推測を
するしかないが、周朝では古羌族の儀式を取り込
んだ可能性は十分にある。
周朝時代に祭祀で使われた麺は、驚くことに現在
も“陝西麺館”と看板を出すふつうの麺屋で食べる
ことができる。中国のどこにでもあり、
“岐山臊子麺(サオズ) ”という。
周の時代から名称、トッピングが変わることなく
3千年を経た今も残っている麺なんて、世界中の
どこを探してもないだろう。エジプト古代文明で
も聞いたことがない。臊子麺だけだ。エジプトは
麺を食べないが。

この麺の特徴は神に麺を捧げた後、皇帝や貴族は
神力が入った麺を分け合うため、分配しやすく
トッピングの肉はミンチにし、野菜も小さく
カットする。スープは酸っぱく辛い味付けで、
今も人気のラーメンだ。
天皇交代の儀式『大嘗祭』で麺が配膳されたよう
に古代中国のメンもまた、ギョウザやチャーハン
の類とは違い、別格の神聖な食べ物だったのだ。
臊子麺を使う儀式は、岐山県の農村に形を変え、
今も慣習として残る。
特別な日である年越し、結婚、葬式、毎月(農歴)
の1日、15日に、岐山県周辺の農村では臊子麺の
円卓を囲む。
麺は小椀に分けられ、すぐにいただくのではなく
スープを地面(神の地)に撒き、祈りを捧げてから
食す奇習。すなわち、周朝時代の祭祀と同じ麺食
スタイルを今でも継承しているのだ。

食前、財神にスープを捧げている 。 この後、部屋に戻り、 食事会は始まる。
この慣習は、西安のような大都市では既に消えて
いるが、西安での取引先との宴会に参加した時、
料理の最初に小椀の臊子麺が出された。
他の地域でラーメンが食事の最初に出てくること
はまずない。岐山に残る儀式と同じだ。
「足元の絨毯に、スープをまくのですか?」
と冗談で聞くと、もちろん絨毯が敷かれた宴会場
でそんなことはしないが、
「西安の食文化のこと、よく知っているねぇ」
と取引先との交流がスムースになったので、麺の
知識も時には仕事の役に立つ。
青蔵高原の古代麺が周朝の臊子麺に移り、年代は
周代(BC1000年~BC256年)にまで上がった。
鴨族が奈良で活躍を始めた弥生中期から古墳時代
(BC200年~AC600年頃)には近づいてはきたが、
岐山と奈良では、両地区の距離は、数千キロもの
隔たりがある。
遣唐使もまだ始まっていないこの時代、奈良大和
の使者が周王朝を訪れ、祭祀で使う臊子麺を持ち
帰った、こんなことは100%ありえない。
祭祀に用いた臊子麺が形を変え、場所を東に移し
ながら、奈良まで渡ったルートが解明できないか
と、岐山を訪れ臊子麺を食べながら考えていた。

よく似ていて、周朝には親近感がわく
第十二食
周王朝の領地に現れる押し出し麺
周王朝は、全土を71か国に分け統治する政策を
とった。重要な国には周朝開祖の文王、武王に
近い親族を約40か国に配置している。
後の歴史小説にもよく登場する魏、呉、秦、斉、
宋、晋、隋などの国名がこの時に生まれている。
古代麺を再現するために、科学院が押し出し機で
の製麺実験をしたことは述べた。
周朝が祭祀で使った臊子(サオズ)麺のメンの形状
は、押し出しメンだったかどうかは不明。でも、
紀元前数百年に今のラーメンの元祖となる小麦の
切り麺は、このとき未だ登場していない。
周朝の祭祀では、古羌族が祭祀で使った押し出し
の麺だった可能性が高いとおもうのだ。

両方とも今の麺屋で使われている
ふと、ひらめいた。
「周朝皇帝の親族が配置された国々では、
周朝の麺を使う祭祀を伝承していたのでは?
それも、押し出し麺を使って。
その麺は今も地元の人気麺ではないだろうか」
これは突飛な考えではなく、日本での鴨のケース
とおんなじだ。
鴨族の地方移住先で麺の名産地が生まれたように
周朝親族直轄地で押し出し麺を使う祭祀が行われ
たのであれば、
「今もこの地域では、押し出し麺をよく食べる」
という仮説たてた。
中国はどこも麺好きで、全土津々浦々にご当地麺
があるため、麺産地の有無では分析できない。
かつて周朝親族直轄地であった現在の都市が、
他都市に比べて、押し出し麺をよく食べるか否か
を調べてみることにした。
押し出し麺が残る地を進んでいけば、
鴨族の日本渡来ルートがわかるかもしれない。
周朝皇帝の親族を当てた土地は、国といっても
小さく、今の行政市区域ほどの国土がほとんど
である。さて、分析を始める。
驚くべき結果があぶり出された。図を見てみよう。

*現在の都市別押し出し麺店数を4段階に指数化
*白地は、周朝親族以外の長が治めた土地
南方には押し出し麺店がないので、省いている。
図の人口10万人当たりの麺店舗数指数について
説明する。この分析の核になる。
人口100万の市に20店の押し出し麺店があれば
指数2.0になる。指数が高いほど、この麺をよく
食べる人が多いとみればよい。
これを赤丸から黒丸に色分けして示した。
各都市の麺の種類別店数は、簡単にネット検索が
できる。中国検索サイト百度に、
例えば<北京饸饹面地址>と入力すれば、北京市
の押し出し麺店舗数は一発で出てくる。
(押し出し麺は中国で饸饹面)
これは誰でもできるので、私がいい加減な数字を
提示しているとすぐにバレる。また、周朝親族の
国も百度検索すれば、誰にでも即、検索できる。
結果をみると親族が治めた国(オレンジ色に国名
記載)には、押し出し麺店が多い都市がほとんど
で、親族以外の他国や関係ない今の都市は黒丸で
押し出し麺店はとても少ない。
親族の国では、今でも押し出し麺がよく食べられ
ているという相関関係は、かなり強く出た。
あぁ~、社内プレゼンのようになってきた、
気にせず、話を先にすすめる。
河南省には親族の国が多く、押し出し麺店も多い
が、注目すべきは、河南両隣の山東省、山西省。
とても興味深い結果だ。このエリアは、
親族統治の国では、押し出し麺店が多いが、
親族統治ではない地域では、この麺店は少ない。
この差が明確に出ていることがわかるとおもう。
これは、歴史的な大発見かもしれない。
いや、たかだかラーメンの話なので、たいそうな
話ではないが、それでも
「この現象は、周朝の祭祀麺の影響か、否か」
鴨地名と麺の関係と同じように証明はできないが
周朝親族の国では、神がかったように、時が経た
今も、押し出し麺が人気なのである。
周朝時代の麺儀式が、いまだに農村で伝承されて
いる事例をみたが、これらの土地では麺食の慣習
が、昔から今も続いているとしかおもえない。

押し出しビーフンはよく食べる
ここでは南方地域を分析していないが、中国南方
には、押し出し麺店は極めて少ない。
南方に位置する上海市は人口2400万の大都市で、
麺屋は星の数ほどあるが、押し出し麺の店は、
たった2店舗しかない。
それが中原地域の周朝親族の地になると、人口は
少ないが、数十店舗から多い市域には、100店を
超える押し出し麺店がある。
周朝親族と押し出し麺の関係を思いついたのは、
上海市にはこの麺店がないのに、隣の蘇州市には
90店を超える押し出し麺店があったことによる。
人口は上海の半分なのに。
中国を南北に切り分ける揚子江の南で、蘇州の人
だけが、押し出し麺を好きなのは不思議だ。
何故か?
この謎解きを考えていた時に、気付いたのだ。

現在の蘇州は、周朝開始時には南方唯一の重要な
拠点『呉』として、文王の伯父太伯が初代の領主
となっている。文王と同部落出身の領主格が治め
た土地では、きっと麺の祭祀を執り行っていたに
違いない。
そこで使った押し出し麺が、二千数百年を経た今
もよく食べられている。
このように考えないと他に理由が見当たらない。
これを他地域にも応用して分析してみたわけだ。
これらの地域では、何故、今も押し出し麺が好き
なのか? この謎を追いかけて、周朝親族直轄の町
に向け、メン旅の再スタートをきることにした。
第十三食
中国のヘソあたりを探せ

押し出し麺を全国一食べる町を目指した。
河南省平頂山市郏(Jia)県。中原のド真ん中。
河南省GDP/一人は、中国大陸31省中25位、
平頂山市GDP/一人は河南省17市中10位、
郏県は平頂山市直轄県、日本の郡に相当する町、
経済的にもふつうの中国を代表するド真ん中、
グレートチャイナのエリアである。

*押し出し麺は、中国語で"饸饹"といい、発音は
ホーロー。以後、押し出し麺はホーローと記す
河南省は山西省とともに麺の故郷といわれる。
前食のホーロー麺分析で、店数/(人口10万人)指数
が2.0以上を多い都市とし赤丸で示した。
今回の訪問地、平頂山市の指数はこれが26もあり
ケタ違い。
人口51万の田舎町に132のホーロー麺屋がある。
日本でいうと人口5万程度の町の商業区に、百を
超えるホーロー麺屋がある規模だから、これは
尋常ではない。
平頂山は開祖文王の第四子を赴任させた最重要国
のひとつ『応国』のエリアに位置していた。
さっそく、押し出すホーロー麺を食べに行こう。
郏(Jia)県の中心地区で最も賑わう店を選んだ。
大箱店で客席は、200席以上ある。
写真とともに麺を紹介しよう。

(中) 注文を受けて小麦の生地を機械で押し出し、熱湯へ
(右) 汚染された大河にみえるのはスープ鍋、 手前はトッピングの牛肉の山

麺を熱湯に落としてから、2分間くらいで仕上がる
(右) 箸を入れると下から丸いツルっとした麺が現れた
*有名店で牛肉入りでも300円。 ふつうの店だと200円程度で、地方はまだまだ安い
郏県には1200年前唐代のホーロー麺記録が残る。
県政府公式サイトの紹介では、時代がもっと古く
なり、次の説明がある。
《ホーローは、漢代から、蕎麦のホーロー麺と
して食される》
ここから、ふたつの情報が得られた。
ひとつは時系列。周朝が紀元前221年完全消滅し
短命政権秦王朝(始皇帝)を経て、漢朝は始まる。
漢朝の麺は、周朝と時代的には近い。
周朝の後半、東周の時代(前770年~前256年)は
春秋戦国時代。覇権を争う諸国が形式的に周朝を
生かしていた。
周の後、漢でもホーローを食べていたようだ。
皇帝食のような説明はないので、漢の時代から
ホーロー麺は、徐々に一般食へと変わっていく。
ふつためは材料。蕎麦の麺が出てきたことだ。
周から漢初期には、製粉された小麦の麺は未だ
なく、ヒエ、アワ、キビ、そして蕎麦などの雑穀
でメンは作られていた。
古代化石麺の材料もアワとキビであった。
河南省平頂上あたりでは、
「蕎麦のホーロー麺が食べられていたのだ!!」
県政府サイトには、もうひとつの情報があった。
《この麺は清代康熙帝(1661年~)以前は
“饸饹(ホーロー)”ではなく、
同じ発音の言葉、“河漏”を当てていた》
日本には古代から先の大戦前まで、押し出す麺が
伝播した記録はないが、河漏が蕎麦を意味する
言葉として、江戸時代に残されていた。
柳亭種彦(1783~1842)の随筆“用捨箱にそばみせ”
として河漏麺を蕎麦と記載されていることを
長野県高遠にある蕎麦博物館を訪れたとき、
井上直人先生(信州大学名誉教授)に教えていただ
いた。蕎麦博士といわれる井上先生によると、
蕎麦を河漏と記載するのはこの文献が唯一で、
それが実際に押し出した蕎麦であったどうか、
また、それを食した地域も定かではないようだ。

それでも古代中国で押し出し麺を意味する河漏が
江戸時代とはいえ、日本にもあったということは
驚きだ。
漢朝郏県の河漏と江戸時代の河漏では時代が違い
すぎる。この関係性を追いかけるのは不可能だろ
うが、中国の麺を意味する言葉ホーローが、日本
には蕎麦として伝わっていたことは、鴨探しの
ヒントになるかもしれない。
平頂山から少し足をのばし、食べたい麺があった
“古代の水引き麺”
興味のない人には全く面白くない麺ではあるが、
麺の歴史を追いかける人に、
「水引き」と声掛けすると必ず振り向くはずだ。
石毛直道先生(元国立民族博物館館長)の著作に
「水引麺は、中国最古の麺の可能性が高い。
(BC170~BC100の歳時記に記載がある)」
と述べられている麺である。
古代日本の朝廷で食された麵も、水引の可能性が
あり、石毛先生は、水引き麺を再現し、麺作りの
手順も著書で紹介している。
この水引麺と、名称も同じ、製麺方法も同じ麺を
安陽市内の麺屋で食べることができる。おそらく
この情報は、日本では誰も知らないとおもう。
鴨ルートで追いかけているホーローとはタイプの
違うメンだが、新たなヒントが得られないか。
平頂山から安陽まで、高速鉄道で2時間のメン旅
を続けることにした。

現在は遺跡の開発が終わり、観光客が押し寄せている
安陽は、殷の最後の都として人気の観光地だ。
周は殷を倒し最初に中国を統一した王朝。安陽は
鴨ルート探索としても無関係な土地ではない。
殷の遺跡からは、象形文字が刻まれた亀の甲羅が
が山のように出土し、ここは甲骨文字研究の最前
線基地となった。殷の遺跡も観光用に整備され、
古代史ファンには何日滞在しても飽きない町だ。
駅を出て水引麺を食せる「永超捋麺館」に急ぐ。
水引麺は300年前に”捋麺”と名称を変えたが、
この麺を今に復活させたのが、永超捋麺屋の
大将だ。

店に入るとメニューには、非物質文化遺産を冠に
数種の水引麺が並んでいる。
「コレコレ、コレだぁ」
と胃袋は反応。注文を終えた後、店長に尋ねた。
「厨房で、麺を、水の中でのばしているところ、
写真に撮りたいのですが、OKですか?」
店長は不愛想な顔で、
「エッ、ここで? 手延べはしません。
工場から届くので」
「コ、コウジョウ?」
半生の水引麺の入った袋を渡された。

中を見ると、水の中で、指を使いのばしたような
痕跡はある。水引麺の特徴であるメンの幅は韮の
葉よりより少し幅広、メンの縁はフリル状には
なっている。
工場には麺屋機密で入れてもらえないし、
ここまで来て、あぁ、なんということか。
こんな幕引きにしたくない水引き麺。

水引麺からは、鴨探しの新たな情報は得られず、
少し気落ちし、夕闇迫る殷墟の街を一人、
さすらっていた。
郏県ホーローが、昔は蕎麦だったのであれば、
「つぎは、蕎麦を食べる北の方にでも
行ってみるかなぁ」
気を取り直し、今週の日曜夜もまた、上海に戻る
フライトに飛び乗った。
第十四食
カモがモンゴル草原の地に導く
私は古代日本の鴨族が、どこから祭祀麺を携えて
渡来したかを追いかけている。その麺はホーロー
麺(押し出し麺)ではなかったかと推測している。
ホーローをよく食べる中原地域の旅を続けている
が、鴨族の足跡は、未だ探し出せていない。
目を中原から離し、周朝が国を配置しなかった地
を調べると、内モンゴル一帯にも、ホーロー屋が
とても多いことがわかった。
このあたりには、周朝親族の国はない。
そんな土地にホーロー麺屋が多いということは、
この麺が伝播しているということだ。

秋の大型連休、内モンゴルに向かった。
草原の季節は終わり、緑のはずの草原は、泥色の
波打つ海原に変わっていた。
分布図でホーローが多い地区をみると、岐山を出
た麺は北にも伝播し、モンゴル草原を西から東に
向けて進んでいるようにみえる。
この流れの中で、内モンゴル東部赤峰市北部一帯
の巴林左旗地区だけが、ホーロー麺がない広大な
空白地帯になっていた。
町もあるのに、なぜなのだ?
この麺の伝播を止めているものは何かを知ること
で、鴨族探しの新たなヒントも得られるかもしれ
ない。巴林左旗を目指すことにした。
蒙古草原はチンギス・ハーンが台頭する以前は、
遊牧民の契丹族(キタイ)が今のモンゴルから、東
は中央アジアまでの広大な草原を支配していた。
そしてキタイ帝国は947年、遼と国号を変え、
中国史に登場する。
遼は、遊牧民と中国式定住民を併せ持つ二元的な
国を発展させる。英語の中国旧名はCathay、香港
の航空会社にも使われるキャセイは古くはキタイ
と発音したようで、当時の諸外国では中国とは宋
でなく、北方を統治するキタイと考えていた。

キタイ(→遼)の首都が、ホーロー麺の空白地帯の
巴林左旗にある。ここにはキタイ時代から遼国に
いたる歴代皇帝が眠る王家の谷があり、遊牧民の
天孫降臨伝説のある聖地と言われている場所だ。
未発見のチンギスの墓もこの近くにあると説く
学者もいるようで、遊牧民族のファンでなくとも
心躍る場所なのだ。
内モンゴル赤峰空港に降り立つ。
空港周辺には軍事施設があり、空港に近づくと
飛行機の窓は一斉にシャットダウンされていた。
真っ暗闇での着陸態勢、ドスンと着地。
赤峰から巴林左旗までは、約5時間のバス旅。
内モンゴルには、まだ高速鉄道は少ない。
巴林左旗の中心地区林東に入った。
林東は遼の都があった場所。
観光地だとおもっていたが、
「中心広場に、、、だ、だれもいない」

漢民族の中国人は草原は大好きだが、
かつて漢族を蹴散らした遊牧民の歴史には、
全く興味がないようだ。
開発途中の王家の谷を見物に行く前に、まずは
麺屋を探すことにした。
が、なかなか見つからない。ホーロー麺どころか
普通の麺屋さえ探せない。
どうやら遊牧民は麺を好まないようだ。馬で草原
を疾走する草原の民が、麺打ちや、素麺流しを
楽しむ、そんなわけがない。素手で骨付き羊肉に
かぶりつく、これが遊牧民のイメージだ。
キタイ人も草原の民。
麺はどうも避けたようなのだ。

歩き続けていると、路地裏に麺屋の看板が見えた
「押し出し麺は、ありますか?」
店を仕切るオバちゃんはメニューを指さすだけで
無言。ホーロー屋だから当たり前のことを聞くな
という構えだ。
「それでアンタ、何たべんの。 アンタ広東人?」
簡単な中国語がうまく通じない。モンゴル人の
発音はこちらも聞き取りにくく、メンの歴史故事
のような会話まで、たどり着きそうもない。
「羊肉ホーロー麺、お願いします」
出された麺は、羊肉ミンチ入りラーメンではなく
“ホーロー蕎麦”だった。

前章で、平頂山郏县では古い時代にホーロー蕎麦
を食べていたことを述べたが、
ここにきて、蕎麦が現れた。
蕎麦の原産地は、チベットと雲南省の境界線。
現在は内モンゴルが、中国蕎麦の最大の生産地と
なっている。。
内モンゴルではホーロー麺は小麦ではなく蕎麦を
使うことが多い。中国蕎麦は日本蕎麦の切り麺で
はない。蕎麦は手延べだと、すぐに切れてのばせ
ないので、押し出し麺の道具を使う。
内モンゴルで麺屋が多い地域は中国文化と接し、
食文化にも中国の影響を受けた内モンゴルの南部
であった。
キタイ人お膝元のこのあたりでは、麺は食べない
ようだ。この状況は、蒙古国、中央アジア諸国に
おいても同様であることもわかった。
そもそも箸を使わなかった草原の民が、熱々の麺
を手で食べるはずはない。火傷するではないか。
ここは、麺料理がない遊牧民族の土地であり、
ホーロー分布図では広い空白地帯になっていた。
分布図を目で追うと、ホーローは内モンゴルの南
と漢民族が住む北方エリアを東に進みながら、
東北地方の吉林省、黒竜江省に入っていくように
見える。
そこには、
鴨族の足跡があるような、確かな予感がしていた。
第十五食
ロシア国境近く、驚きの遺跡、顔を出す!

東北地方に入り、追いかけていたホーロー麺が、
なんと、消えて、なくなってしまった・・・
周朝が祭祀で使ったホーロー麺が東に伝わり、
日本に渡ったのでは?
と考え、内モンゴル道を東に動いていた。
それが内モンゴルの隣、遼寧、吉林、黒竜江で
ホーロー麺が、突然、消えてしまう。
内モンゴル南端を伝っていた麺は、いったい何処
に行ってしまったというのだ・・・
またもや大きな壁にぶつかった。
中国の鴨地名を再び検索する。はやり中国には、
3か所しかない。
全て山中で食文化と関わる所はないとおっていた
が、黒竜江省最北部、ロシアとの国境に近い
『双鴨山』、ここは山中ではなく、町であった。
そして双鴨山で、驚きの遺跡が発見されていた。

中国史では黒竜江には文明はないとされていた。
それが近年、双鴨山市小南山遺跡から中国文明
の源流となるような出土品が、掘り出された!!
中国最古、9千年前の玉器が見つかったのだ。

記事によると、各地の貴族墳墓から出土する玉器
と同形で、最古とされていたものより更に一千年
時代を早めるという。
石器、陶器ではない。中国人の魂ともいえる玉器。
今後の研究が待たれるが、黒竜江には文明がない
どころか、中国文明の支柱である玉を生み出した
文明先進地だった可能性が高くなっているのだ!!
更に、双鴨山市からは、挹娄(イーロー)族の遺跡
も発見された。古い漢民族の文献では北の野蛮人
とされていた挹娄国(BC200年~AC226年)。
彼らの住居跡が発掘された。
その遺跡では、天体を観察し、祭祀を行う天文台
の跡が見つかり、住居区エリアの配置は、
北斗七星の形にデザインされていた。
鴨族の特技「天体観測」が、頭をよぎった。

今の黒竜江省周辺に存在した挹娄国は三国志魏書
に小文記載が残る。その一部抜粋を記述する。
《人には勇気あり、君主はいないが部落ごとに
領主をもつ。山林の大穴に住み、豚の油を体に
塗り激寒の冬をしのぐ。
弓の名手で人の目を射る。隣国は弓を恐れて
征伐できない。船の扱いが上手い》
ここでは、鴨族の特技「操船」が出てきた。
漢民族に辺境の野蛮人として扱われていた挹娄。
しかし、この民族の遺跡からは土器、石器に加え
天文観測台、漢民族も作れない精工な矢じり、
そして稀少な赤い玉などが出土している。

周が殷を倒した紀元前一千年から紀元前二百年
に挹娄国が現れるまで、そこには粛慎という国
があった。粛慎の地は、後に挹娄が支配する。
両民族は同族で、紀元前二百年、粛慎国は
挹娄国と名を改める。
粛慎国に、周朝との深い関係が見つかった。
《史記・·五帝本記》によると、粛慎国は周王朝
に朝貢していた記載がある。
粛慎(後の挹娄)の鋭利な矢じり、赤い玉を周朝は
求めた。粛慎は周の都にたびたび朝貢外交で訪れ
ていたのだ。

中原西端の周王朝と中国東端の粛慎、後の挹娄が
とうとう、つながった。
双鴨山の挹娄遺跡からは、祭祀で使った麺化石は
出ていないが、たびたび周朝を訪れた粛慎、後の
挹娄は、儀式でメンを使う周の祭祀のことを、
よく知っていたのではないだろうか。
粛慎後の挹娄は、精密武器や玉の加工だけでなく
祭祀や農作業を天文観測により執り行っている。
高鴨神社鈴鹿宮司が述べた鴨族の特徴は
『天体観測、薬学の知識、製鉄技術、農耕技術、
馬術、そして操船にも長ける』
挹娄族の得意技として出てきたものは、
『天体観測、弓、矢じりの武器製造、操船術』
挹娄は半農半牧の民族なので、
『農耕技術、馬術』
にも長けていたに違いない。
そして何よりも挹娄族定住地の中心、北斗七星形
に配置された村がある場所が、中国地名としては
稀少な鴨の字が入る『双鴨山市』にあるのだ。
さあ、本丸に近づいてきた。
北斗七星形に配置された黒竜江省双鴨山の村に
出かけることにしよう!!
第十六食
黒竜江イーロー遺跡、鴨族の足跡を探し出せ!
黒竜江省都ハルピンから双鴨山までは、高速鉄道
で3時間。まず双鴨山市の隣佳木斯市に向かう。
佳木斯までの2時間半、車窓から見えるのは、
なだらかにうねる丘陵に広がる畑と森だけだ。
路線の近くに農村はなく、車も農夫も動きのある
ものは何にも目に入らない。
視界の届く先まで延々とトウモロコシ畑が続く。

黒竜江省人口は少なく、新中国以前から移民政策
がとられた。戦前の日本から満州への移民もそう
であるが、戦後は人口の多い山東省、河北省から
東北の地へ中国人民の多くが移住している。
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綾さんは、黒竜江省生まれ。今は大連在住だが、
祖父は山東省の人だ。
山東省、河北省周辺には大男が多い。三国志、蜀
の英雄劉備、張飛、趙雲も2メートル近い大男で
山東、河北の出身だ。東北人は山東省周りからの
移民により、大柄な人が多い。
佳木斯から挹娄(イーロー)遺跡へは綾さんの親戚
に車の手配をお願いしていた。佳木斯駅に着き、
山東出身の大柄な運転手に行先を告げると
「挹娄の遺跡? すらねぇべ。スマホ地図にも
挹娄遺跡なんて、出てこんだべ」
地元の人もこの遺跡のことを知らなかった。
佳木斯や双鴨山に観光地はなく、旅行者はめった
にここを訪れない。
遺跡は掘り起こされて、ほったらかしなのか?
だいたいの位置はわかっていたので、
車を走らせた。

目的地近くには、到着。
でも、周辺は、延々と広がる畑だけ。
小麦の収穫が終わり、今は、トウモロコシを作付
けしている。遺跡への道標はない。
畑が続く先に、ポツンと、小さな森が見えた。
「あれかなぁ」

周辺には誰もいない。場所も聞けない。
車が入れる限界の農道を、森に向けて近づける。
あとは遺跡とおもわれる森まで、あぜ道を歩く。
遺跡らしきものが、あった。
ただ頑丈な鉄柵が発掘途中の遺跡を囲み、
中には入れない。

発掘の痕跡は遠目にも見える。何かを掘り出して
いたのは確かだ。長い間ほったらかしているよう
で、草がぼうぼう。
天体観測していた祭壇は、新聞記事にもあるので
確かではあるが、その後の発掘が止まっている。
出土してはいけないものでも出たのだろか。
或いは、大したものは出ないと、発掘団は早々に
引き上げてしまったのか。

トウモロコシの麺は、500gが1.99元(40円)で安い
挹娄遺跡では収穫がなく、出土品が展示されて
いるはずの双鴨山の市博物館に車を回した。
ハルピンの省博物館には、挹娄の出土品展示は
なかったので、ここにはあるはずだ。
小さな博物館のため、ネット検索では展示情報が
とれない。行ってみるしかない。
博物館に入ろうとすると、止められた。
外国人は入館禁止という。今までどんな小さな町
の博物館でも入ることができた。
入館拒否は初めてだ。
「遠い日本から来たんですけど、そこをなんとか
なりませんかねぇ。わたし高齢者ですし」
「ダメ」
横の運転手と相談。
彼から中国人身分証明書を貸してもらい、
「今日は、私は、こんな、中国人ということで」
「ダメ」
「・・・運転手の彼は入れますよね。彼が携帯で
私とビデオチャット、問題ないですよね」
「当館、写真撮影は、いっさい、ダメです!!」
中国は最上格の博物館でも写真撮影ができる。
最低級市の博物館で、なぜ外国人入館はダメで、
撮影もダメなんて、怪しすぎるのだ。
見せてはいけないものがあるのか、こうなると
益々見たくはなるが、退散するしかなかった。
後日、厳寒の冬。再び双鴨山博物館を訪れた。
今度は事前に、外国人が入館に必要な書類を
博物館に申請し、許可を得ている。
このあたりの冬は、零下40度まで下がることも
ある。それを体感したく、2月に再訪した。

冬は寒いので 住民は街中の住居で 過ごす。
村には誰もいなかった。
私が訪れる所、 いつも人がいない。今は恵まれた生活だ。
それが異常気象で暖冬。私が訪れたときは日中で
零下15度しかない。
運転手は暖かいといい、トレーナー1枚だった。
挹娄族は豚脂肪を体に塗り、毛皮1枚で冬をしの
いだというから、この人も挹娄の血をひいている
のだろうか。私は冬山に登るほど着込んでいる。
博物館にはうまく入り込めた。写真撮影は禁止だ
と念押しされたが、双鴨山小南国遺跡から出土し
た最古の玉器が数点展示され、挹娄の出土品も
並んでいた。
麺作りに関係する道具類はないかと目を凝らした
が、見つけることはできなかった。
麺関連の出土品探し、厳寒体験はかなわなかった
が博物館を出て、すがすがしい気分になった。
旅には困難はつきものだ。
そして旅は結果ではなく、
プロセスを楽しむものだ。
さて、明日は、吉林省に向けて動くとしよう。
第十七食
吉林省、押し出し麺があふれてた!
中国東北地方には、押し出す麺ホーローがないと
おもっていた。ネット地図で《ホーロー(饸饹)》
の店が、探せないからである。
内モンゴルから東に伝播していくホーロー麺屋の
看板は、吉林省に入ると、確かに消えてしまうが
町に入り、よくよくみると、
押し出す麺が、あふれていたのだ!!
それは、ホーローではなく、”朝鮮冷麺”だった。
朝鮮冷麺は、蕎麦粉に、小麦粉と芋のデンプンを
つなぎとして加えて、嚙み切れないほどの弾力を
出した麺。そうなのだ!
押し出す道具でつくる麺なのだ。
内モンゴル南部に多い蕎麦をベースに小麦や他の
穀物を混ぜ合わせたホーロー麺と同じだ。
朝鮮族は年明け4日目に長寿を願い冷麺を食べる
特に押し出し麺を愛する民族であった。

写真の背景は北朝鮮。 川幅200メートル の凍った川を歩けば、
北朝鮮側に入れる。渡らないけど。
朝鮮族は北朝鮮、朝鮮半島だけの民族ではなく、
東北三省に230万人が居住している。
彼らは家庭では朝鮮語を話し、中国語で仕事を
するバイリンガルだ。
朝鮮族の麺といえば、朝鮮冷麺。日本人の大好き
な韓国冷麺も北朝鮮発祥の麺で、中国でも吉林省
黒竜江省一帯に住む先住の民族は、唐の時代から
押し出し冷麺を食べていたようだ。

ホーロー麺は朝鮮冷麺と名を変え、朝鮮族により
東北地方に広く伝わっていた。佳木斯や挹娄遺跡
の双鴨山にも朝鮮族は多く、町のあちこちに冷麺
すなわちホーロー麺屋がある。
麺は冷たいが冬も温麺にせず、暖かい部屋で冷麺
をすする。日本人が冬でもザル蕎麦をズルズル、
これとおんなじだ。吉林、黒竜江では、零下20度
の真冬でも、街中の麺屋で冷麺にありつける。
東北地方で、挹娄族の麺を使う祭祀を探したが、
見つけることはできなかった。
ただ、祭祀で使われたと考えている押し出し麺は
中国の東端、東北三省まで伝播していた。
日本古代の鴨族は、中国古代の挹娄族(イーロー)
ではないかという空想でメン旅を続けている。
麺タイプのアプローチからも、まだ、この火は、
消えていない。
非常に興味深い朝鮮冷麺発祥伝説として、東北の
朝鮮族に語り継がれている逸話を紹介する。
《玉皇大帝には7人の仙女(娘)がいた。仙女は
天上の生活がイヤになり長白山天池に降りたつ。
正月初4日、仙女が沐浴していると大鳥が天から
おりてきて、仙女の服をくわえ飛びたった。
このとき現れた秀士が、大鳥に矢を放ったところ
鳥は服を落として逃げ去った。
仙女たちは、お礼に冷麺を秀士にふるまう。
それはとても美味しく、秀士は麺の作り方を学び
彼の子供、孫たちにも冷麺を伝えた。》
これが、なぜ興味深いかというと、この伝説は
粛慎族→挹娄族の後裔である清王朝を興した
満族(満州族)の発祥伝説とそっくりなのである。
挹娄の血をひく満族の発祥伝説もまた、
《長白山を舞台にし、三人の仙女の天孫降臨、
沐浴をていたときに現れた鵲(鳥のカササギ)から
男児を授かり、それが満族の祖先粛慎族である》
と伝えているのだ。

この二つの伝説により粛慎、挹娄時代の東北地方
において、麺は神聖なものであったことが解る。
麺を神に捧げるような文献は残されていないが、
朝鮮族にとっての麺は、単なる腹を満たす小麦の
塊ではなく、歳事に食された崇高な食であった。
あと残す謎解きは、ひとつ。
挹娄族が鴨族だったとすると、なぜ挹娄は黒竜江
北の最果てから海を渡り、日本に移住する必要が
あったのか。
何かの大きな外因がないと、
この民族移動は起きるはずはない。
最終食
鴨の来た道、祭祀麺も来た道

紀元220年、挹娄は、隣国扶余との戦いに敗れ
扶余にのみ込まれる。
紀元285年、扶余から内部分裂した高句麗が、
本家扶余に挙兵。扶余は消滅。
扶余の貴族、知識人は、朝鮮半島に逃亡する。

《三国史記》では、高句麗始祖と扶余王族の娘
の間に生まれた子が、百済を建国したとある。
《隋書》によれば、扶余王尉仇台が高句麗に滅
ぼされ、百家たちと共に海をわたり、百済とな
ったとある。
扶余から百済のあった今の韓国への陸路は、
高句麗の領地を通らねばならず、逃亡する扶余
は黄海沿岸から船を出した。
百済に渡った扶余の百家たちには、扶余に併合
された挹娄の知識人も同行していたはずだ。
扶余は内陸国で、海上操船に優れた兵士はいな
い。挹娄が特技とした操船術は、この航海の
支えになったとおもわれる。
六世紀初頭、百済最後の都は、扶余。
中国、韓国双方に扶余という地名は今も残るが
扶余族は周辺族と同化し既に後裔の姿はない。
百済からは、多くの百済人が大和に移住した。
この歴史をテーマとする書籍は多い。
「東北ユーラシア系騎馬民族が南朝鮮を支配、
その後、日本に渡り四世紀後半から5世紀の
大和の在来王朝を支配した」
この学説は東洋史学の権威、江上波夫先生が唱
えた当時、天皇家の血縁に関わる問題ため学界
から猛反対が出た話として有名だ。
一介のヌードルハンターの解説は省く。
私は鴨族のルーツ、鴨族が祭祀麺を日本に持ち
込んだルートを、麺を介して探している。
高鴨神社鈴鹿宮司の述べた鴨族の特技
《天体観測や薬学の知識が深く、製鉄技術、
農耕技術、交通手段の馬術、操船にも長けて
いた》
この中の製鉄技術だけが、鴨族の前身と考える
挹娄族がどこで習得したのかが解けなかった。
挹娄族が製鉄技術に長けていれば、
鴨族と挹娄族が同一であった説得性は高まる。
扶余が挹娄を併合した後、高句麗に敗れ、百済
へ移住していたことで、この謎解きができた。

当時の扶余は、中国北部・東北の国々の中では
最高レベルの製鉄技術を有していた。鉄の鎧で
身を包む軍団として中国史に名を残している。
扶余に同行し百済に渡った挹娄にも、製鉄技術
が伝わっていたとしても何ら不思議ではない。
また、弥生時代の薬学・医学は、中国の漢方薬
中医が世界の最先端医学であった。
この説明は必要ないだろう。
「鴨族と挹娄族の特技を示すパズルピースが、
ここで、ピタッと、ハマった。」
旅の終わりに、鴨族の聖地、奈良金剛山地の
『二上山』を訪ねた。
奈良盆地のどこからでも眺めることができる
雄岳と雌岳。ふたこぶの山を仰ぎみる金剛山地
の麓に渡来した挹娄族はそこを定住地とした。

黒竜江『双鴨山』なだらかな丘陵が続く大地に
こちらも、二つの山が突き出している。
「双鴨山は、二上山と、よく似ている」
この山麓で古代文明を育んだ挹娄族は、
周辺民族の歴史に翻弄されながらも、しぶとく
双鴨山から朝鮮半島、玄界灘を渡り、そして
金剛山の麓で、鴨族と名を改め、生き延びた。

故郷と同じ山景をもつ二上山近郊を安住の地と
したことは、後世に『挹娄の存在』を伝える
隠されたシグナルだったのかもしれない。
鴨族が日本に伝えた麺の儀式は、天地(神)と
交信する媒体で、庶民に麺を広める意図など
なかったかもしれないが、結果として日本各地
のカモ地にうどん・そうめんの産地が興り、
今に残る。
これもまた、挹娄が後世に『双鴨山の存在』を
伝えるための
隠されたメッセージだったのであろうか。

おわり
