北杜夫が好きだった理由に、ようやく気づいた。
子どもの頃、父が読んでいた『ドクトルマンボウ航海記』が、ちゃぶ台の上に置いてあった。
中学一年だったと思う。
何気なく読み始めたら、とにかく面白かった。
読み終えた私は、本気で考えた。
医者になるか。
北杜夫みたいな作家になるか。
ところが、「船医」という仕事を知った瞬間に夢は終わる。
船に乗るの?
私は船酔いする。
……無理。
ずいぶん現実的な理由で、医者の夢はあっさり消えた。
でも、作家になるほうは残った。
文章を書くのは好きだった。
高校では、同級生が作っていた同人誌に原稿を投稿したこともある。
演奏家や指導者をしながら、ペンネームで作家活動をするのも面白そうだと、本気で思っていた。
ところが今度は、音楽が忙しくなった。
そのまま、書くことは立ち消えになった。
そう思っていた。
最近、ある校長先生の投稿を読んでいて、ふと北杜夫のことを思い出した。
なぜ、あんなに惹かれたのだろう。
医者だったからでもない。
作家だったからでもない。
考えているうちに、ようやく気づいた。
私は、人間を面白がる視点に惹かれていたのだ。
人を動かそうとするのではなく、
少し離れた場所から、人というものを見つめる視点。
笑いながら、人間って面白いなあと眺める視点。
それが好きだった。
音楽療法を始めてから二十五年。
私はずっと、音楽療法をしてきた。
そう思っていた。
でも振り返ると、私が向き合い続けてきたのは、音楽そのものではなかった。
楽器ケースに飛び込んだ二歳の女の子。
「人間で分かる人いるの?」
と目を丸くした男の子。
学校へ戻るためではない約束を交わした彼。
音楽が鳴るたびに見ていたのは、
その人が、どんな表情を見せるのか。
何に心を動かされるのか。
どういうときに、自分で動き出すのか。
そんな、人間の姿だった。
あの頃、なりたかった作家とは違う。
でも、人間を書きたいと思っていた気持ちは、どこにも消えていなかった。
そう考えると、不思議だ。
私は音楽療法をしてきたつもりだった。
でも、本当に見続けてきたのは、人間だったのかもしれない。
遠回りだと思っていた二十五年は、人間を知るための時間だったのかもしれない。
