試作版『アンの生涯』1
第一部 赤毛のアン
第1章 マシュウとマリラの驚き
プリンス・エドワード島の六月は、朝の光にやわらかく包まれていた。
赤土の道は夜露を含み、踏みしめるたびにしっとりとした感触を返す。道端には野花が揺れ、遠くの牧草地では牛がゆっくりと草を食んでいる。島全体が、夏の入り口で静かに息をしているようだった。
マシュウ・カスバートは、いつもより早くグリーン・ゲイブルズを出発した。
馬車の手綱を握る指先には、わずかな緊張がこもっている。
彼は生来無口で、人と向き合うことを好まない。ましてや、孤児院から子どもを迎えるという役目は、彼の穏やかな日常を少なからず乱していた。
迎えるはずだったのは、男の子である。
マシュウと妹のマリラは、長く話し合った末にその結論に至った。
年老いつつある農場を維持するためには、働き手が必要だったのだ。
それは感傷ではなく、生活の現実から導かれた決断だった。
駅に着くと、人影はまばらだった。
マシュウは帽子の縁を押さえ、辺りを見回す。
やがて、ベンチの端に腰かけている一人の子どもに目を留めた。
その子は、女の子だった。
細く小柄な身体。
そばかすの散った顔。
そして何より、燃えるように鮮やかな赤毛。
少女は立ち上がり、少し震える声で言った。
「マシュウ・カスバートさん……ですか?」
マシュウは言葉を失った。
これは手違いだ。
そう言うべきだった。
だが、少女の瞳には、長い待ち時間の不安と、ほんのわずかな希望が宿っていた。
彼は、うなずいてしまった。
「わたし、アン・シャーリーです」
少女はほっと息をつき、小さく微笑んだ。
「迎えに来てくださったんですね。
本当に来てくださって、よかった」
その安堵を前に、訂正の言葉は喉に留まったままだった。
馬車が動き出すと、アンはすぐに身を乗り出した。
景色を一つも見逃すまいとするように、目は忙しく左右を行き来する。
「まあ……なんてきれいなんでしょう」
白樺の並木が、二人の前に長く続いていた。
白い幹が光を受け、葉が風に揺れている。
「この道、まるでお話の中みたい」
アンはしばらく見つめ、それから言った。
「名前をつけてもいいですか?」
突然の申し出に、マシュウは戸惑いながらもうなずいた。
「『歓喜の白路』はどうでしょう。
だって、白い木々が、喜んで迎えてくれているみたいなんですもの」
そう言って、彼女は深く息を吸い込んだ。
「孤児院のまわりには、こんな道はありませんでした。
想像でしか、美しい場所を作れなかったんです」
マシュウは静かに耳を傾けていた。
少女は話し続ける。
まるで、言葉を止めれば不安が押し寄せてくるかのように。
やがて馬車は、小さな湖のそばを通った。
水面は空を映し、陽光を受けてきらきらと輝いている。
アンは息をのんだ。
「まあ……!」
しばらく言葉を失い、それから静かに言った。
「『輝く湖水』。
きっと、そう呼ばれるためにここにあるんですね」
湖は風に揺れ、光の破片を散らしている。
「もし悲しいことがあっても、あの湖を思い出せば、少しは平気になれそう」
その声には、切実な響きがあった。
しばらくして、アンは声を落とした。
「赤毛は、あまり好かれませんよね」
突然の告白に、マシュウは視線を前に向けたまま、わずかに首をかしげた。
「みんな、きれいじゃないって言うんです。
だから……空想では、そうでないといいなって思っています」
その言葉は、決して大げさではなかった。
ただ、静かな願いだった。
マシュウの胸の奥に、何か温かなものが芽生えた。
この少女は、景色に名前を与えながら、自分の居場所を探しているのだ。
馬車はゆるやかな坂を上る。
木立の向こうに、緑の切妻屋根がかすかに見え始めた。
アンはそれに気づかない。
まだ、歓喜の白路を振り返っている。
マシュウは小さく息をついた。
手違いかもしれない。
だが、この少女を送り返す光景を想像すると、胸のどこかが重くなる。
馬車は静かに進む。
午後の光はやわらぎ、島の空気は穏やかに澄んでいる。
赤毛の少女は、まだ知らない。
この道の先に待つ出来事を。
そしてマシュウもまた、知らなかった。
この日の出会いが、自分たちの静かな暮らしをどれほど変えていくのかを。
馬車は、グリーン・ゲイブルズへと近づいていった。
