見出し画像

そばと忍者

 蕎麦食推進クラブ「さざれ石」が立ち上がってから、縁あって毎月初めに蕎麦の記事を書かせていただいています。ずいぶん好き勝手に蕎麦について書いてきましたが、よく考えると蕎麦切りの発祥について、ちゃんと書いたことがありませんでした。

    そこで今月と来月は、少し早いですが『蕎麦食推進クラブさざれ石~勝手に1周年記念』として11月は「そば切りと忍者」、12月はその続編「なぜ そば湯を飲むようになったのか?」をお届けします。


蕎麦切り誕生

 ご存知の通り、蕎麦は蕎麦切りとして食べるようになる前は、蕎麦がきや粒食で食べられていました。そして、いつ、どこで蕎麦切りが誕生したのかは諸説あります。従来は十七世紀以降に甲州・信州、木曾、江戸のいずれかで誕生した説が優勢でした。

甲州誕生説

 甲州誕生説は、国学者の天野信景(尾張藩士)が江戸中期に刊行した随筆集・「塩尻」の巻之十三宝永(1704~11)のなかに、「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山(棲雲寺という臨済宗の山号)へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたことせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりしと信濃人のかたりし」と書いてあることを根拠としています。

信州誕生説

 信州説は、宝永3年(1706)に刊行された俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中に、「そば切りといふはもと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とあることを根拠としています。

木曾誕生説

    天正二年(1574)二月十日に木曽の定勝寺で仏殿等の修理が行われました。その作業記録「番匠作事日記」中に、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」という記述があります。「金永」とはそば切りを振舞った人物の名です。

京都誕生説

   そばが登場する最古の文献は上の「番匠作事日記」と言われてきました。しかし、それは『そば切り』という記述に限った話で、『蕎麦』・『ソバ』なら京都での文献が最古になります。

   『蕎麦』・『ソバ』が『そば切り』を指す場合があると指摘したのは石毛直道博士(国立民族学博物館名誉教授)です。その根拠は文献に『そば一いかき』という記述があったからです。

『いかき』とは関東で言う『ざる』のことです。最近は聞かなくなりましたが、戦前までは京阪で使っていた言葉です。

    蕎麦の実の単位は『袋』や貫、匁、斤などを使うのが一般的です。では茹でた蕎麦切りの単位は何かということです。現在は『一人前』、あるいは盛りそばを『一枚』と言います。これは蕎麦を盛り付けた『ざる(いかき)』が一枚の意味です。このことから、昔から茹でた蕎麦切りの単位は『いかき』だったのではないかと、石毛博士は考えられました。

江戸誕生説

 近年では、蕎麦切りは江戸で誕生したとする説も支持を集めています。筆者も以前はそう考えていました。

   「徳川の初期には、今日の蕎麦はなかったが、寛文年間(1661-72)に初めて二八蕎麦というのが出来た。それは饂飩の製法に倣って蕎麦粉二分と小麦粉八分の割合で打ったものだから二八蕎麦という名称が出来た」。これは福澤諭吉の弟子で帝国議会衆議院議員や三井銀行理事を務めた波多野 承五郎が昭和5年(1929)に刊行した「食味の真髄を探る」という著書の一文です。 

 また、多田食味研究所 所長の多田 鉄之助は昭和52年(1977)刊行の「食通ものしり読本」の中で「江戸の初期に、ソバを粉にして水を加えて、こねて作ったソバ切りの発明は、そばの真価を高めました」と書いています。

 さらに、一番最近の説としては、昭和41年(1966)に国文学者の鈴木棠三氏が、江戸時代初期の「慈性日記」に次のように記載されていると発表しました。

「常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて候へ共、人多く候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也」

    これを現代語訳すると…

    薬樹院(の僧)、東光院(の僧)といっしょに常明寺に行った。そこで、『江戸の町にも風呂屋ができたらしいので行ってみよう』と言うので、三人で行ってみたが、混んでいたので常明寺に戻って蕎麦切りをごちそうになった

  という内容です。

寛永寺

慈性

    慈性日記は、天台宗の尊勝院(京都市東山区)の僧侶で、多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)の社僧でもある「慈性」が、1614年、21歳の時に、江戸城で行われた天台論議(天海大僧正が家康に講義する)を見るために江戸へ行き、そこで見聞きしたことを書いた日記です。

 尚、薬樹院とは現在の滋賀県大津市坂本の薬樹院(天台宗)で、日記中の友人は薬樹院の久運と言う僧侶です。東光院(天台宗)は現在の東京都台東区西浅草の寺院で、友人は東光院僧侶の詮長です。

文化の伝播

 そば切りの文献を調べているうちに、慈性日記と同年代にそば切りに関する文献が多いことに気づきました。

    それらを並べてながめると、1574年から1624年までの50年間に、甲州、信濃、木曾、江戸、大坂、尾張、大和、京と、まあまあ広い範囲で、一気にそば切りが表舞台に現れたことが分ります。

    SNSなど無かった時代ですから、1574年に誕生したそば切りが50年間で一気に広がったとは思えません。おそらくそば切りは遅くとも1400年代末(室町時代)には誕生していたのではないかと推測します。

延暦寺

天台宗

 それにしても、慈性日記の慈性は、どうも気になる人物です。というのも、慈性という僧侶は京都の名門日野家の一族で、江戸滞在中に、天海大僧正や幕府大老の酒井忠世、家康の側近である本田正信、藤堂高虎、毛利秀元(毛利輝元の養子)など、錚々たる面々と会談しています。

    その他にも、慈性日記には
▶法性寺(愛知県・岡崎市)
▶千妙寺( 茨城県・筑西市)
▶薬樹院(滋賀県・大津市)
▶月山寺(茨城県・桜川市)
▶真光寺(群馬県・渋川市)
▶安養寺(不明)
▶惣宗寺(栃木県・佐野市)
▶知足院(奈良県・奈良市)
▶観音院(鳥取県・鳥取市)
▶多賀大社(滋賀県・犬上郡)
▶浅草観音(東京都・台東区)
▶宗光寺(栃木県・真岡市)
▶仙波・喜多院(埼玉県・川越市)
▶東光院(千葉県・印西市)
▶神田社(東京都・千代田区)
   と、たくさんの寺院とそれぞれの僧侶が登場します。これらの寺院・僧侶たちは全て天台宗の寺院・僧侶で、表向きは天台論議を見るために江戸に来たことになっていますが、本当の目的は天海に会うことだったのではないかと思います。

木造天海僧正坐像(品川区、養玉院)

天海大僧正

 ご存知だとは思いますが、天海大僧正は天台宗の僧侶で、会津や比叡山で仏教を学び、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたりブレーンとして仕え、比叡山延暦寺の復興や日光東照宮、上野寛永寺の建立などに尽力した僧侶です。

    ところが、天海の前半生はまったくの謎です。そもそも素性から謎だらけです。ただ、安土桃山時代の公家「小槻孝亮」の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年(1632年)4月17日(旧暦では6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行ったと記されています。また当時、天海は97歳(数え年)であったとも書かれています。これが事実なら、天海は天文5年(1536年)に生まれ、1644年に107歳(数え年108歳)で亡くなったことになります。偶然かも知れませんが、そば切りが表舞台に登場した50年間は、天海の晩年にそっくり当てはまります。

    どうやら、この「天海」がキーパーソンのようです。もう少しその周辺を掘ってみましょう。


延暦寺

延暦寺

 天海は比叡山延暦寺の南光坊に住んで修行したので、「南光坊天海」とも呼ばれていました。その延暦寺は、平安時代初期に、最澄が開いた天台宗の本山寺院です。

    最澄が生きていた頃(766年~822年)は、蕎麦はまだ日本で広く栽培されていませんでしたが、その最澄が中国から蕎麦の種を持ち帰ったという説があります。裏付けはありませんが。

   しかし、延暦寺で行われる100日間の「五穀絶ち」では、米・麦・粟・豆・稗と塩・果物・海藻類が禁じられており、蕎麦は修行僧の貴重な栄養源でした。ということは、延暦寺では常時蕎麦が必要だったということです。その蕎麦は、現在の京都府北部で栽培されていたことは間違いありません。

寺方そば

    延暦寺に限らず、ある種の寺院では修行僧の食事として、精進料理の材料として、また、飢饉の時の振る舞いとして、蕎麦は重宝されてきました。それは事実ですが、各寺院が独自にそば切りの技術を開発したわけではありません。各地の寺方そばの草分けは寛永寺と深大寺(調布市、天台宗)なのです。

京都御所

延暦寺と朝廷

     元々、延暦寺は平安京の鬼門を守護する役割を担っていたので、開山以来 朝廷の厚い庇護を受けてきました。「延暦寺」という寺号も朝廷から与えられたものです。

    その朝廷では、中国との繋がりで早くから小麦粉の手延べ麺が食べられていました。鎌倉時代には切り麺が登場し、後に現在のうどんに繋がります。つまり、麺を包丁で切るという手法は、そば切りよりも前に『切り麦』として確立されていたのです。

天海とそば切り

ここから先は

1,541字 / 6画像

¥ 300

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?