大都会の渓谷
こんばんわ。愛川あかりです!
写真の場所、素敵ですよね?
等々力渓谷って言うところなんです!
等々力渓谷は、世田谷区の用賀のあたりから始まって多摩川に注ぐ谷沢川の浸食によって出来た東京23区内唯一の渓谷なんです。
環状八号線の第三京浜入口近くの、いつも渋滞している場所のすぐ下を流れていて、世田谷区の玉川公園管理事務所さんが管理してくれている、とっても素敵な公園なんです!
さっそくご報告しますね♡
そもそも、最寄駅からしてグッと来ます。

写真が等々力渓谷の最寄り駅、東急大井町線の等々力駅です。
トンネル状になっているところの左側が切符売り場で、右側が改札口です。
この写真には写ってませんが、改札口を入って数段の階段を登ると、電車に乗り降りするホームになっています。
手前の踏切は二子玉川駅方面に向かう線路で、反対側にも全く同じ踏切があって、そっちは大井町駅に向かう線路になっています。
だから改札口を出ても、踏切が開かないと駅から出られないんです!
あんまり見ない駅の作りですよね?
だけどなんだか懐かしい・・・
路面電車の駅に屋根を付けて、安全策やら切符売り場やら、必要なものをあれこれ付けたら、こんな感じになりませんかね?
そんなふうに思ったら、なんだかとってもほっこりして来て、大好きな駅になってしまいました♡

そして、藁ぶき屋根と白い土蔵・・・
改札口のすぐ近く、ホントの駅前にこんな建物が残っているんです!
ほかの区なら、さっさと壊してパチンコ屋にでもしてるところです。
だけど世田谷区は違うんですよね♡
こういうところが、今日の世田谷ブランドを造り上げた原動力なんだと思います。
世田谷区には、目黒区もそうなんですが、昔の庄屋さんの家がそっくり残っていたりします。
自然に残るはずはなく、ちゃんと残そうとしているんです。
こういう姿勢が落ち着いた街並みを造り上げ、地域の価値を高めているんです。
残念ながらほかの区では、大きな家はみんな切り売りされてしまって、マッチ箱みたいな建売住宅になってしまいました・・・
あ、話がそれてしまいましたね。
等々力渓谷は、駅前からほんの数十メートル、スーパーの角を曲がったところから始まります!



看板脇の急な階段を降りて行くと、そこはもう別世界です!
うっそうとした木々が空を覆い、ひんやりとした空気が流れています。
上の写真なんて、なんとかサウルスが歩いて来そうですよね?
土手は10メートル以上の高さがあって、ところどころに清水が湧き出し、谷沢川に流れ込んでいます。
川沿いには遊歩道が整備され、ずっと歩いていくことが出来るんです!
実はこの等々力渓谷、令和5年の7月に倒木が発見され、公園利用者の安全を確保するため、川沿いの園路区域を含めた公園の大部分の利用が禁止されていたんです。
世田谷区は、公園の樹林地再生の取組として倒木の恐れがある危険樹木の伐採や枯れ枝の除去に加え、石材や木材などの自然素材を用いた斜面保護作業を実施して、湧き水の流れを石積みや杭打ちで再生させるなど、専門家の知見を得ながら、渓谷樹林地の健全化に取り組んでくれました。
その甲斐あって、令和8年3月24日に等々力渓谷公園の利用が再び可能になったんです!
ありがとうございます!
すっごく大変な作業だったと思います。
だってこの斜面ですよ?
斜面というより、これは崖です。
その崖で、木を切ったり、斜面保護の作業をしたり、湧き水の流れを整えたり、すごく大変だったと思います。
おかげでこうして川沿いの小道を再び歩くことが出来るようになりました。
これから迎える新緑の季節、ぜひまた来たいと思っています!



で、上にかかる緑色の立派な橋は、環状八号線です。
第三京浜や東名高速道路がつながる大動脈なんですが、下から見てると不思議な気持ちになって来ます。
この渓谷は環状八号線が出来るずっと前から人々に知られていて、7世紀ころに作られたと思われる横穴式の墳墓も発見されています。
墳墓の前には火を焚いた跡があるそうです。
きっとお供え物をして火を焚いて、私たちがするお墓参りと同じようなことをしていたのではないでしょうか?
多摩川流域には、5~6世紀の古墳時代に作られた「オレが王様だー!」っていう巨大な前方後円墳や円墳がたくさん残っています。
だけどここのは違うみたいで・・・
お祀りされているのも豪族ではなく有力農民らしいんです。
この界隈の村を治めた、村長さんとか庄屋さんとか、そういう人たちだったのかも知れませんね?
7世紀は聖徳太子の活躍に始まり、遣隋使や遣唐使が盛んに送られ、大化の改新が起こって、我が国が倭から日本にバージョンアップした世紀です。
最盛期を迎えた唐では三蔵法師が天竺を目指して長安の都を出発し、アラビア半島ではメッカに生まれたムハンマドが神の啓示を受けてイスラム教を開きました。
激動の世紀だったんですね。
そのころ等々力界隈に暮らしていた人たちは、どんな毎日を送っていたのでしょうか?
きっと多摩川の両岸には広大な田んぼが広がっていたと思います。
水利をめぐって上流の村や下流の村と交渉を重ねる村長さんは、村人たちの期待を一身に集めるリーダーだったんじゃないでしょうか?
そして環状八号線に続く緩やかなのぼり斜面には、田んぼを見下ろす集落が広がっていて、村人たちは毎日田んぼで農作業に精を出し、時々、木の実や山菜を求めて等々力渓谷に入って行ったんだと思います。
今で言う里山みたいな使われ方をしていたんでしょうね。
渓谷の崖には歴代の村長さんのお墓があって、そこを通る村人たちは、ささやかなお供え物をして手を合わせていたんではないでしょうか?
だから等々力渓谷は、みんなの大切な共有財産として、村人たちの手によって管理され、誰もが安全に利用できる場所として整備されていたんだと思います。
あれ?
今と全く変わりませんよね♡
7世紀にも等々力渓谷を守る人たちがいて、千年以上を隔てた21世紀の現在にも、同じ渓谷を守る人たちがいる・・・
いつの時代も、ここは大切な場所なんだって、みんながみんな、わかっていたからなんですよね?
きっとこれからずっと先まで、この渓谷を守る人がいなくなることはないんだと思います!
最後までお読みいただきありがとうございました。
昔の人が守ったものを、時を超えて守り続ける。
とっても素敵なことだと思いました♡
