小さな声でも
⚠️これは私の個人的な経験からの気づきのお話です。
「今、なんて言った?」
シーンとした病棟内に怒りを含んだ声が響いた。
「何度でも言います。笑えない、って言ったんですよ。」
私の心の中に消えない“熱”を残した、忘れられない出来事だった。
何年も前の話。
事の発端は‥‥
その日はとても忙しい日だった。患者さんの急変が立て続けに起こった。
モニター持ってきて!ルート確保して!先生、家族に連絡した?早く早く‥。走って!
後輩の1人は、子どもの頃、ポリオにかかっていた。その後遺症で走るときにぎこちない動きになる。
いつも準備がすごく丁寧な子なので、今思えば走らないで済む状況を常に考え仕事していたのかもしれない。
急変対応が落ち着いた頃、副師長が笑いながらその子の走り方の真似をした。
周りは‥‥仕方なく笑っているように私には見えた。顔は笑っているのに、目だけが虚ろだった。
乾いた笑い声が、誰のものか分からないまま病棟に響く。
「いや、それ笑えないですよ。」と私は副師長に言った。
副師長は続けた。
「皆、笑ってんじゃん。単なる冗談でしょ。何で本気で怒ってんの?」
「あなたが副師長という立場だから皆、仕方なく笑ってるんですよ。こんなん笑える訳ないじゃないですか。」
正義感とか立派なものではないし、医療従事者だから優しくなければ、とかそんな考えは私にはない。
ただ「努力しても変えられないこと」に対して揶揄したり笑いをとることが許せなかった。
それは、人の家族環境や生まれつきを笑いものにするのと同じくらい卑劣なことだと思った。
もし私が「お前は父親に可愛がられた経験がないから、甘える事の知らない可愛げのない可哀想な女」とからかわれたら‥どうしようもない気持ちになる。
その日以降、私の周りから少しずつ物が消え始めた。
最初はボールペンだった。
仕事の慌ただしさの中で落としたのかもしれない、とそのときは思った。
次に消えたのはメモ帳。
私物BOXに入れたはずなのに、どこを探しても見当たらない。
印鑑、USB。
偶然にしてはできすぎている。
それでも「自分の不注意だ」と思い込みたかった。
——だって、誰かにいじめられていると認めるのが、何より怖かったから。
けれど、ある日とうとう白衣やスニーカーが消えた。
物が消えるたびに、私のことをちらちらと見ては、顔を見合わせてニヤリと笑う。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
――これはもう、偶然なんかじゃない
更衣室で仲良しのNちゃんと一緒になった。
「姫っち、大丈夫?」
「大丈夫だよ。いじめてくるやつなんてどうせブスばっかだし‥‥」
全部言い終わらないうちに、ギューっと抱きしめられた。
どうやら私は、泣いていたらしい。
その後、病棟が異動になったことで唐突にいじめは終わった。
いじめる人はどこにでもいて、ターゲットは移り変わる。
けれど恐ろしかったのは、その取り巻きたちだった。
まるで何事もなかったかのように、笑顔で普通に接してくる。
廊下ですれ違ったとき、彼女らは何事もなかったかのように、私ににこやかに『お疲れ様です』と声をかけてくる。その笑顔には、ボールペンやメモ帳、白衣が消えていったあの日の冷たい視線など、微塵も感じられない。
彼女らの脳内では、あの残酷な時間はすでに『消去』されていたのだ。
私はそのとき初めて知った。
副師長よりも、その周りで空気を作っていた取り巻きの方がこわいのだと。
物を隠し、盗り、無責任に笑う
――あの残酷な時間を、一瞬でなかったことにする冷たさ。
村上春樹の「レキシントンの幽霊」の中に「沈黙」という話がある。
大沢さんという人が高校時代にいじめを受けていた話だ。
僕が本当に怖いと思うのは青木(いじめの主犯)のような人間の言いぶんを無批判に受け入れてそのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんてことに思い当たりもしないような連中です。本当に怖いのはそういう連中です。
大沢さんの言葉は昔の小説の中に閉じ込められたままではない。
「あいつらは自分では何も考えず、何も生み出さないくせに」
あの頃の取り巻きと同じ顔を、いま私はSNSの画面の中に見ている気がする。
口当たりのいい誰かの言葉を何も考えずに受け入れ、群れて糾弾する。
そして何も責任を取らない。
誰かを叩くことだけが、彼らの存在証明なのだろうか。
いじめの取り巻きも、炎上の取り巻きも、本質は同じだ。
沈黙のなかで頷き、何かを壊すことだけに加担する。
この作品は、とても昔の作品だが、ネットいじめが騒がれる今の時代にこそ、私たちの心に問いかけている。
その顔は、あなたにはどう見えますか?
私は今もときどき、あの笑顔を思い出す。
誰かが沈黙するたびに、またひとつ 悲しみが積み重なっていく。
私の声は小さいけれど、無いよりはきっといい。
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