【小説】Lv.1 天使の貴婦人VS俺 〜伝説の看護師との理想論バトル〜
※本作は、現在の医療現場における「理想と現実の乖離」をテーマにした作品です。
夜勤の匂いってわかるか?
アルコールと汗と、乾かない涙の匂いだ。
「進歩し続けろ」——その言葉が、
いつしか現場を締め上げる呪文になった。
理想という旗の下で、
俺は今日も、朽ちていく。
それでも、どこかで誰かが、
この朽ちた理想の灯を受け継ごうとしている。
その名を——--ナイチンゲールという。
夜勤明け、ぼろ雑巾みたいな顔で病棟から出た俺の前に、突然あの人が現れた。
ランプを片手に持ち、どこか気品をまとった声でこう言う。
「あなたが行っているのは本当に看護ですか?あなた方は進歩し続けない限り、後退していることになるのです。目的を高く掲げなさい。」
──いや、待ってくれナイチンゲールさん。
俺いま、後退どころかベッドに倒れ込みたいんだよ。
目的はただ一つ、家に帰って布団にダイブすること。それ以外は今日は無理。
進歩って……まず俺、冷蔵庫の中のヨーグルトすら消費期限切らしてるんだけど?
進歩どころか、俺の生活環境はアンタが戦った19世紀の病棟以下だ。冷蔵庫のヨーグルトは『雑菌の楽園』だし、換気なんて死んでる。
まず俺の『生活の不潔』を何とかするのが先だろうが!
クタクタで足早にその場を去る俺。
アンタはしつこくついてきて更に言う。
「看護は、病人を自然に従わせる科学であり芸術です。」
……わかってるよ。わかってるけどな、現場はそんなに甘くないんだよ。
輸液ポンプが足りない。人員は3人削られた。月夜勤10回でヘロヘロだ。
これで彼女ができたら、俺の体力はナイチンゲールの言う『進歩』よりすごいんだが。
「看護師は病人の希望を支える使命を持っています。」
アンタ、まだ言うのか。
もう呪いのCDループみてぇになってんぞ。
目の前の患者は「ぎゃー!変な男が来たぁー!看護婦さーん、助けて!!」って叫ぶ。
それでも笑顔で希望を見せれるか?
なぁ、ナイチンゲール。
アンタがいたらどうするんだよ?
アンタの時代は看護師=女で男性看護師のことは想定していなかったんだろ?
看護師は俺だっつうの。
……なあ、アンタの言う理想って、何なんだよ?
ナイチンゲールは少し悲しそうな顔で言う。
「感情は言葉にすると無駄になる。それを実行することに尽くすべきです。」
──いや、そうだけど!
でもナイチンゲールさん、「もう無理です」って声に出さなかったら、上は本当に気づかないんだよ。
黙って働き続けたら、俺ら実行する前に倒れるんだわ。
今度は毅然とした声で言う。
「恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないことでしょう!」
──恐れ? 怖いに決まってんだろ。
医療訴訟も、モンスター家族も、感染症だって。
恐れを抱いた心で、それでも針を刺すのが現場の看護師だよ。
ナイチンゲールに付きまとわれながら家に着き、シャワーを浴びて缶ビールを開ける。
若い頃は秒で寝れたのに、今は寝つけない。
「まったく、アンタ、シャワーのお湯の温度まで『効果的な洗浄』に合致するかどうか、データ記録してそうだよな‥。」
「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者を助ける者であります。」
──あーもう、それは正解。
でもな、ナイチンゲールさん。
苦悩する“患者さん”だけじゃなくて、苦悩する“看護師”も助けてくれよ。
彼女の言葉は理想論だ。現場にいたら通じないことだって山ほどある。
でも、それでも。
この人の言葉にカッとなって突っ込んでいる自分がいるのは、
「看護は理想を捨てたらただの労働になってしまう」
と、心のどこかで知っているからだ。
クタクタの夜勤明け、ナイチンゲールに説教されるなんてごめんだ。
だけど──やっぱり、理想を語る声がなかったら、俺はもうとっくに辞めていたかもしれない。
ナイチンゲールが静かに言う。
「看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要があります。」
──はいはい、尊厳ってことね。
でもな、アンタの言う尊厳を守って転倒させたら、俺たちは法廷で責められるんだよ。
『なんで縛らなかった』 と裁判で責められ、病院側が負けるのが今の世の中だ。理想と現実、どっちに転んでも俺たちがサンドバッグだろ!
しかも 俺なんか男性看護師ってだけで、『手を出し過ぎるな』『なんで止めなかった』 の両方でハンデ背負ってるんだ。アンタの理想の前に、まずこの不公平な世間の偏見を変えてくれよ。
ー一なあ、ナイチンゲールさん。アンタの理想って、結局、看護師が自分を顧みず、光を灯し続けることなんだろ?
俺は知ってる。その光がなかったら、この現場は本当に真っ暗闇になるって。
ナイチンゲールは黙って俺を見ている。
その目に少し救われるけど‥だからこそ、俺はアンタの理想に声を上げる。
──理想を掲げるのは大事だよ。
だけどさ、現場で命を預かる看護師を、誰も守ってくれないんだ。
ナイチンゲールは黙っているが、そのランプの光は、決して消えていない。
「進歩し続けろ」?
チクショウ‥‥俺はもう十分進んでるよ。
この「理想を捨てたらただの労働になる」という恐怖こそが、俺のランプなんだ。
全く説教ばかりしやがって。
でもな、アンタの数ある言葉の中で1番ここ(現場)を言い当てているのはこれだろ?
「看護師の記録は、病人のためだけでなく、看護師自身のためにもなる。」
俺のこの叫びもいつか誰かのための記録になるなら‥まあ悪かねぇか。
そして、この記録こそが、俺がナイチンゲールから受け継いだ最初の武器だ。
ナイチンゲール編で手に入れた武器
Lv.1 記録:血も涙もない科学。
(完)
⚠️ナイチンゲールの名言を集めたものですが、この対話は完全にフィクションです。ナイチンゲールさんが夜勤明けに出てきたり、毒舌を吐いたりすることはありません。たぶん。
フローレンス・ナイチンゲール
1820年〜1910年
言わずと知れた世界一有名な看護師。「近代看護の母」と呼ばれている。彼女は看護学校を設立して専門的な看護教育を確立し、統計学を医療に導入して病院や公衆衛生の改善を主導した。著書『看護覚え書』は看護のあり方を定義し、看護教育の古典となっている。
『看護覚え書』は、俺たち看護師の「原点」だ。
ナイチンゲールが残した多くの偉業の中でも、俺たちが今やってるケアの仕組みに、最も直接的に影響を与え続けている本。それが『看護覚え書(かんごおぼえがき)』だ。
この本がヤバいのは、単なる理論書じゃないことだ。
1859年。看護が「身分の低い人間の雑用」と見下されていた時代に、名家の令嬢だった彼女は「看護は科学であり芸術だ」と宣言し、専門職としての地位を一気に引き上げた。
高尚な哲学は説かなかった。「清潔さ」「換気」「正しい食事」――誰もが実践できるシンプルかつ科学的な環境改善こそが、当時の病棟の不潔さと死の連鎖を断ち切った。
『看護覚え書』は、看護を社会変革の武器にし、「どうすれば患者が生き残れるか」を誰にでもわかる言葉で教えてくれた、史上初の看護テキストだったってわけだ。
そして‥ナイチンゲールの言う『記録』は、単なるメモじゃねぇ。『統計』で、無駄に死んだ兵士の数を数え上げ、国の予算を変えるための武器にした。ナイチンゲールの言う『進歩』は、感情論じゃねぇ、血も涙もない科学だ。
彼女が統計で何万人もの命を救ったように、『シンドラーのリスト』のシンドラーは、一枚のリスト(記録)で、人間を「数字」から「命」へと引き戻した。
第二次世界大戦下のポーランド、ナチス占領下のクラクフが舞台。ドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、金儲けのためにユダヤ人が所有していた工場を買収する。
当初は安価な労働力としてユダヤ人を雇い入れていたがナチスによるユダヤ人への残虐な迫害を目の当たりにするにつれ、シンドラーの心境は変化していく。
シンドラーは全財産とコネ、賄賂を使い、1,100人以上のユダヤ人を「自分の工場の労働者」という名目でリストアップし、彼らの命を救う。それが「シンドラーのリスト」。
そのリストは、命の証明書であり、記録の力が“人を生かす”ことを証明した、世界で最も重たい紙の束だ。
リスト(記録)は、命の重さを可視化する最終兵器なんだ。
記録は、武器だ。
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