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頬に残る熱とともに

「――あんた嫌い。あっち行って」

白く静かな病室を、その声が裂いた。
その響きは細い針のように、胸の奥に冷たい影を落とす。
消毒液の匂いの中に、その声だけが生々しく響いた。白い壁が、その言葉を何度も反響させるようだった。
患者からきつい言葉を投げられることは時々ある。
それでも、やっぱり胸のどこかが疼いた。

てんかん発作を繰り返して入院してきた女の子。
決まったかかりつけ医はなく、発作がひどくなれば近くの病院へ。少し落ち着けば薬をやめてしまう。
いつも漂うように流れ着く、受診難民のような子だった。

ふっと姿を消すこともある。
気配の掴みにくい子。
「あんた、嫌い」
「そっか、ごめんね」
私はそれ以上言葉を重ねず、彼女の隣に腰を下ろした。

しゃべらず、焦らず、ただ同じ空気を吸いながら。
てんかんの重積発作を繰り返していたから、目を離すわけにはいかなかった。
転倒で頭を打たないように。舌を噛まないように。
彼女の小さな身体を、祈るように見守るしかなかった。

――発作が起きませんように。

どれほどの時間が過ぎただろう。
やがて彼女は、ためらうように私の二の腕にそっと触れてきた。
「一緒にクレヨンしんちゃん観よう」

その声に胸がほどけていく。

看護は、何かを“する”ことだけではない。
“待つ”こともまた、信じることになるのだと気づかされた。

それを思い出すのは、昔観たバチスタシリーズの映画だ。
田口先生――竹内結子さん演じる精神科医は、何も語らない女の子のそばに、ただ静かに座っていた。
声をかけず、手を伸ばさず、ただ一緒にそこにいる。
その姿を見た瞬間、私は心を撃たれた。
それは、ただ優しく包み込むような「包摂的」な態度とも少し違う気がした。
そこには、相手と自分のあいだの境界が静かにほどけていくような、もっと根源的な“共に在る”という気配があった。

寄り添うとは、こういうことか。
そしてそれが1番難しい。


若い日の私は違った。
発作を繰り返す患者さんに、知識と理屈を盾に語りかけてしまった。

「ねえ、てんかんの治療ってね、同じ病院で診てもらいながら薬を調整していくべきものなんだよ。」

「――うるさい!」

その一言とともに、彼女の手が私の頬を打った。
乾いた音。頬に広がる熱。
夜になっても、その熱は消えなかった。

立ち尽くす私の前で、彼女は瞳を伏せ、心の扉に静かに鍵をかけてしまった。

あの頃の私は、EBM――医学的根拠こそが全てだと信じていた。
「正しい説明こそが看護」
そう思い込み、常に絶対誰にも何も突っ込まれないように理論武装していたのだ。


救うつもりで差し伸べた手が、彼女の心を閉ざす鍵になってしまった――。
その悔恨は長く私を縛った。

だからこそ今は思う。
「待つ」ということは、決して“何もしない”ことではない。
ただ信じて、ただそばにいる。
それもまた、看護のひとつだ。

一冊の本を思い出す。
ハンセン病療養所で診療を続けた精神科医が、静かな言葉で綴った本。
精神科医、神谷美恵子さんの記録だ。
ページをめくるたび、静かな言葉が胸の奥にしみこんでいくようだった。
患者の呼び声に耳を澄ませ、答えを急がず、ただそばにいる――


この本の中にある一文が、今も私の胸に残っている。

「私たちにできることは、何か呼び声が聞こえたときに、それにすぐ応じることができるように、耳をすましながら、用意することである。」

寄り添うとは、答えを押し付けることではない。
ただ耳を澄まし、心をそばに置くこと。
私はそれを信じる。
いまも、病室の静けさの中で。




この本に綴られているのは、ハンセン病という過酷な病と向き合い、生きる意味を見失いかけていた患者さんたちが、それでもなお、言葉を紡いでいった記録である。

彼らが詠んだ短歌や詩は、絶望の淵から生まれたにもかかわらず、どこまでも美しく、医療者たちの心を温め、生きる力を与えていたという。

患者から「生きている意味がわからない」と問われた神谷美恵子さんは、答えを急がず、ただ黙って耳を傾け、彼らが自ら言葉を見つけ出すのを、静かに待っていた。

この本は、医療者だけのものではない、と私は思う。(実際に私は御丹珍さんからこの本を紹介してもらった。)

自分の存在意義を問い、孤独を感じたことがあるすべての人へ。

「待つこと」とは、誰かの声に耳を澄まし、答えを押し付けず、ただそばにいること。

それは、誰かの小さな声を受け止め、その存在を信じることなのだと、この本は教えてくれている。



読書の幅広さに関しては自負しておりましたが、noteには、それを上回る方々がたくさんいます。


いろいろありますが、この場所はやはり楽しいと思います。

というわけで、お久しぶりです。
また、どうぞよろしくお願いします。


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